久しぶりに田園都市線に乗る。横浜にいる先輩に呼び出されたのだ。
といっても、横浜に行くのなら、私は東海道線か、その他の電車、とにかく田園都市線以外の電車に乗るべきだったと、今更になって後悔していた。
そう、たとえ今月のお小遣いを片道で使い果たすことになったとしても、田園都市線に乗るくらいだったらタクシーにでも乗った方がまだマシだった。
というか、そもそも先輩からの頼みなんてきっぱりと断っておけばよかったのだ。
その辺が私の「周囲に流されやすい」という弱い部分で、この憂鬱な電車に乗りながらそんな風に自分の欠点探しみたいなことをしていると、
隣にはそれを慰めてくれる人なんて誰もいないのに、いつか彼に言われたみたいに私の目は「ウサギ」みたいに真っ赤になってしまいそうだった。
そんな私の沈んだ気持ちを助長するかのような哀しい歌がイヤホンから流れ込んできて、
頭の中に湧きあがる「あぁ、私、ダメだ」なんていうどこかの少女マンガに出てくる主人公みたいな台詞をなかったことにするために、
私はそれからの長い時間を音楽なしで、窓の外の流れる景色をぼうっと眺めながら過ごさなくてはいけなくなってしまった。

「そういえば、そろそろクリスマスかぁ・・・」


 ***


<ねぇ、今日、夏期講習サボろうよ>

絵里から来たメールを寝ぼけ眼で読みながら、私は汗だくのシャツを脱ぎ捨ててベッドの淵に腰かけた。

<いいよ。さゆみも今日は学校サボりたい気分(笑)>

本当なら「時既に遅し」的なモーニングコールも兼ねて電話したい気分だったけれど、
家の中で女の子から電話がかかってきたら彼としてもちょっと困ったことになるだろうと思って、散々迷った挙句、
携帯の画面をメール作成の画面に切り替えたわけだけれど、彼からの返信を待っている間のそのふわふわとした空白の時間がこの暑さと相まって無性に煩わしく、「やっぱり電話にしておけば良かった」と溜息を吐き出した。
下着も脱ぎ捨てて、上半身裸で冷房が効き始めるのを待っていると、ものの数分で彼から返信のメールが来た。

<やったー!東公園で待ってる!>

メールの文面からでも伝わって来る彼の純粋無垢な幼さに、思わずクスッと笑ってしまう。
きっと日曜日に早起きする少年のような感じで早めに公園に来ているんだろうなぁ、と思うとさっそく効き始めてきた冷房には大変申し訳ない気持ちになるが、
私は汗に濡れたシャツをもう一度着ると、着替えを持ってシャワーを浴びに1階へと降りて行った。
さっさと制服へと着替えを済ませ(たとえ、学校をサボるとしても親がまだ家にいる手前、制服を着なくてはならなかったのだ。こんな暑い日には本当にやってられない事だけれど)、
朝ご飯のパンを半分残して、家を飛び出した。真夏の陽射し、肌を突き刺すような陽射し、コンクリートを溶かすような陽射し、
そんな比喩を全部足し合わせてみたところで、到底及びはしないほどの灼熱が家を飛び出したさゆみに降り注ぐ。
その暑さに、もはや電柱ですらグニャグニャに曲がってしまいそうだった。
額に滲む汗をタオルでふき取りながら、学校とは反対方向に東公園に向かって歩く。
ひとつ角を曲がり、東公園が見えてきた辺りでその深緑の景色の中に、彼の姿が見えた。
木漏れ日に目を細めながら、ベンチに座ることもせず、出発の時を今か今かと待ちわびているような感じだった。
その無邪気な仕草のひとつひとつに私も思わず駆け出してしまう。

「おはよう、絵里」
「あ、おはよう。ねぇ、海に行こう」
「なに?w海?ってか、出会って急すぎない?w」
「急なことなんて何もないよ。こんな暑い日はさ、やっぱり海だよ、海」

彼は楽しそうな笑顔を私に向けながら、私の左腕を握った。こんなに暑い日ですら、心地良いと思ってしまう温かさ。私も彼の両手に私の手を重ねる。

「あ、僕が買ってあげた腕時計」

私の左手首になんちゃらの赤い糸みたいに結ばれた銀色の腕時計を見て、彼は嬉しそうな顔を見せた。
彼が私の誕生日に買ってくれたもので、ピンク色の細工が所々に施してある。
高校につけていくには少しあからさま過ぎたから、普段は付けるのを控えていたのだけれど、今日は高校にはいかない。
娘の貞操が気になっているであろう両親も、この私の左腕にまかれた銀の腕時計には気が付かなかったようだ。
「似合ってるでしょ」と上目づかいをして見せ、「へへw」と笑う彼の両手を握り、優しげな彼の肩に顎を乗せて、
「絵里の誕生日にはさゆみが、腕時計買ってあげるからね」と耳元で囁いた。
「ありがと」と短く答える彼の声を掻き消すような蝉の鳴き声が、「幸せな朝」という場面紹介に「真夏日の」という形容詞を添える。
私は両親に見つからないように辺りをキョロキョロと見回しながらも、彼の腕に腕時計のように捲きついて駅へと向う。
ベタベタしながら冗談めかして「明日になるまで離さない」なんて台詞を言ったけれど、実は半分本気で言っていた。
改札でさえ手を繋いだまま、私たちは中央林間行の電車へと乗り込んだ。

「ねぇ、どこの海に行くの?」
「江の島」
「江の島かぁ。さゆみ行ったことない」
「僕もだよ」
「じゃぁさ、先に水族館行こうよ。江の水」
「うん、たしかに。一日中海にいるのも暑いしね」
「一日中海にいるつもりだったの?」
「うん、さゆの水着姿なら一か月だって見てられるよw」

水着なんて持って来てないよ、と私は答えたけれど、絵里が望むのならその辺のお店でちょっと際どいくらいの水着を買ってもいいかな、と思っていた。
肩から下げた鞄を開けてペットボトルを取り出すと、それを彼に渡してあげる。
ほんの少し顔を赤らめて間接キスを躊躇うような無垢な彼の仕草に胸をときめかせながら、
さっき彼が言った「さゆの水着姿なら一か月だって見てられるよ」という台詞もきっと大人ぶって言ったんだろうな、と思うとなおのこと胸がときめいてしまう。
付き合い始めて1か月近くが経つのに、キスさえしていないなんて、まるで大正時代の人間みたいだな、とくすぐったい笑みがこぼれてしまう。


 ***


忘れたはずの想い出が、タイムカプセルみたいに今になって浮かび上がって来て、私の気分をさらに沈み込ませる。
電車の揺れや走行音さえもが感傷的に私に語りかけて来て、窓に映る独りきりの私をいっそう惨めに飾り付けてくれる。
涙の代わりにまた深い溜息を零して、目に映る男女のカップルがクリスマスの予定を確認し合う話し声に、
哀しいやらムカつくやら、なんだかよくわからない、自分でもどうしようもない感情がお腹の底辺りで渦巻いていた。
寂しい。そういう風に言い切ってしまえば、私の心も少しは晴れるのだろうか。
変な意地など張らずに、彼にまたメールを送ればいいのだろうか。優しい彼のことだ。きっと受け入れてくれるだろう。
彼の笑顔が忘れられないなら、いつまでだって瞼の裏にその写真を貼り付けておけばいいじゃないか。
私の瞼の裏なんだから、他の誰かに見られるようなこともないだろうし。
それにたとえ私の瞼の裏の写真を見られてしまって、女々しいと思われたとしても、私は女なんだ、女々しくたっていいじゃないか。
でも、ほんの少しだけ怖いのだ。私という鎖からやっと解放された彼をもう一度、繋ぎ止めるのは。
彼を縛り付けるようなことはしたくない。そう、だからこそ、私は彼のことで感傷に浸る訳にはいかない。
優しい彼が今の私を見て、助けに来てくれるなんてことは、たとえ望んでしまったとしても、それを現実にするわけにはいかないのだ。
ただ私に許されていることは、懐かしい彼の笑顔を瞼の裏に貼り付けて、たった独りきりの寒い夜に、彼と交わした永遠の約束に涙を流すことくらいなのだ。

そんな風にまるで悲劇のヒロイン気取りの台詞を頭の中で唱えていると、電車は中央林間駅に到着した。
ここから小田急江ノ島線に乗り換えて、湘南台まで行く。
駅で切符を買う時に見上げた路線図に書いてあった懐かしい駅名に、あの日の彼の屈託のない笑顔が重なった。


 ***


水族館で昼食を食べた後、私たちは日照りの中、江の島を歩いて回ることにした。
陽射しは相変わらず酷いし、とにかく坂だらけで、私たちはカップルであることも忘れて、まるでジャングルで秘密任務に就いている兵士のように体中から汗を流していた。

「さゆぅ・・・暑いよ・・・」
「ちょっと、あそこの木陰で休もっか」

階段の途中に設けられたベンチに一旦腰を降ろし、息を整える。持ってきたペットボトルには、もう水一滴すら残っていなかった。
あまりにも汗が酷くて、もう何もかも投げ出して、デートなんてちゃっちゃとやめて冷房の効いた愛すべき我が家に戻りたくなっていたけれど、
これで300回目の彼の「暑い〜」という呻き声が聞こえた時、古めかしい民家と廃墟のような民家の間に小さな売店らしき民家があるのを見つけた。
「アイス」と書かれた看板もある。

「ねぇ、あそこでアイス売ってるみたいだよ」
「えっ?ほんと?」

さっきまでの満身創痍の兵士みたいな目つきはどこへやら、点火された爆弾のように目を輝かせながら、スキップ交じりで売店の方へ駆けて行った。
「さゆぅ、早くー」と手を振る彼に、自分の中の母性みたいなものを感じてしまっている自分が何だか恥ずかしくて、それでいて嬉しかった。
私を必要としてくれているような、彼の無邪気さがいつまでも心に響いた。


江の島から眺めた水平線の雄大さがまだ絵里の笑い声と重なってるうちに、私たちはまたあの長い橋を渡っている。
水色の空を切り裂いていくカモメの羽ばたきを見上げ、ふと振り返ると江の島が真夏の光を受けてキラキラと光っていた。
暑い以外の想い出は何もなかったんじゃないかな、とか考えていた自分が馬鹿らしくなるくらいに、
こうしてまだ思い出を作りあげ切っていないうちから、あの場所、あの空気が懐かしくなり始めている。
そのくせ口から出る言葉は「アイス美味しかったね」とか、「海広かったね」とか、「坂凄かったね」とか、「暑かったね」とか、幼稚園児並みの感想だ。
それでも、お互い幸せな一時を過ごせたという事実はきちんと両の手で掴んでいる実感があった。

「ねぇ、さゆ」と絵里が話しかけてくる。
「なーに?」と笑って答えた。

「あのさ、もしだったら、水着・・・買ってあげるけど」
「ほんと?」
「うん。せっかくすぐそこに海があるんだし、水着があったら泳げるでしょ?」
「ありがと。でも、さゆみの水着だし、さゆみが自分で買うよ」
「いいよ。僕が買ってあげるよ」
「ううん。せっかくだけど、さゆみに買わせて。絵里も知ってると思うけど、実はさゆみって結構お嬢様なんだからwそれより、絵里は水着持って来てるの?」

私の質問を聞いて、彼はにっこりと笑うと、シャツの裾を捲って短パンと腰骨の隙間に指を入れると、その隙間から黒っぽい布の端をチラつかせて、「穿いてきちゃったw」と言った。

「用意が良いなぁw」
「そんなことより、ほんとに自分で水着買うの?僕、お金いっぱい持ってきたけど」
「いいの、それは全然。それに絵里からはお金じゃなくて別のものを貰いたいの」
「なに?別のものって」

茶色い髪をかき上げて、彼が私の目を覗く。ふっと、私は自分の唇を差し出してしまいそうになる。
けれど、そんな自分に気が付くと、風の気持ち良い方に顔を向け直してから、とびっきりの笑顔を作ると「それくらい自分で考えてよねw」と言った。
ちょっとだけ彼の顔が強張るのを見て、なんだか私の方まで恥ずかしくなってくる。

「んーと、あ、そうそう。すぐ、その辺にサーフショップがあるみたいだから、そこに水着売ってるかもしれないよ」

話題を変えるように彼が私に横顔を向けながら言った。
少し赤く染まった頬を見て、私も知らず知らずのうちに胸が締め付けられる。
火照った顔を海の風で冷まそう私も彼から顔を逸らすと、視界の隅で彼から貰った腕時計が夏の陽射しにキラリと輝いた。


 ***


電車から降りて、駅前のマックへと向かった。先輩の新垣さんとの待ち合わせ時間まではまだ少し余裕があったけれど、ひとりで色々と歩き回るのには今日の風は冷たすぎた。
1階のカウンターでさっさとナゲットを買って、2階の出来るだけ騒々しくない席を選んで座った。
それでもやっぱり店内は煩くて、どこかの男子高校生が馬鹿騒ぎをしていたりしたけれど、おかげで変なことも考えずに済んだ。
哀しさよりはイライラの方がマシだな、なんて考えているうちに階段の下から新垣さんが上がって来るのが見えた。

「やほー、久しぶり」
「お久しぶりです。先、ナゲット食べちゃってました」
「あ、いいよ。全然。それより、あれ持って来てくれた?」

私はドラムのスティックが入った紙袋を机の上に出して、先輩にそれを渡した。

「悪かったね、わざわざ持って来てもらちゃって。新しいの買っても良かったんだけど、皆、今お金なくて・・・wそれに久しぶりにさゆにも会いたかったからさ」
「いえ、もともと先輩のだったし、さゆみも久しぶりに先輩に会えてよかったです」

新垣先輩は私が数か月前まで所属していた軽音部の先輩で、彼と出会ったのもこの軽音部だったのだけれど、女子部員の少ない部活で、先輩はほとんど唯一と言って良いくらいの気の許せる相手だった。
電車の中では、あまりの憂鬱さから「先輩の頼みなんて断れば良かった」みたいなことを考えていたけれど、
久しぶりに感じる先輩の大人びた包容力みたいなのが、今の私にはやけに心地よく感じられ、やっぱり来て良かったと思った。

私がスティックを渡すと綺麗な笑顔で「本当にありがとう」と言われ、なんだかこっちまでお礼を言いそうな気分になってしまう。
それからしばらくの間、先輩の大学の話を聞いたり、私の大学受験の話をしたり、
まぁ、所謂近況報告みたいなことを一通りやり合っていたけれど、その間中、私は彼のことをいつ聞かれるのだろうか、と気が気ではなかった。
そして、「どうせなら早く聞いてよ」と投げやりな思いが湧き上がってきた辺りで、ついにその時が来た。

「そういえば、絵里くんとはうまくいってる?」

先輩には悪気が無いんだ。それに私と彼が別れてしまったことは事実なんだし、どうしようもないことなんだ。
そういう風に考えたところで、やっぱり私の心は深く抉られてしまったし、
顔色にそれが出てしまい、言葉にするまでもなく、新垣先輩には私と彼の間に何が起こったのか、だいたいのことがわかってしまったようだった。

「そっか・・・まぁ、でもさゆみんなら、またすぐに素敵な子が見つかるよ。
 こういうことって、どうしようもないことがあるし、気持を切り替えよう、とは言わないけど、
 あんまり思いつめすぎてもなんにもならないしさ。ちょっと臭いかもしれないけど、別れた男の為に涙流してもしかたないじゃん?
 次の恋のためにさ、とっておきなよ、その涙はさ・・・って、さすがに臭すぎるかw」

ほんのちょっぴり湿ってはいたけれど、それでも冷えた指先を温めることくらいはできそうな笑い声が2人の間に響いた。
私の中で彼への想いが整理できたわけではなかったけれど、単純に先輩の優しさが嬉しかった。
持つべきものは気の利く先輩、といったところだろうか、とそんな冗談が言えるくらいには私の気持ちも晴れていた。

「ねぇ、これからカラオケ行こうよ」
「カラオケですか?さゆみ、音痴なの知ってますよねw」
「いいよ、音痴でも。ホルモンとか歌っちゃいなよw」
「無理です、無理ですw」
「あははwそういえばさ、クリスマスの日、もしかして暇だったりする?」
「えっと、そうですね・・・暇になりました・・・」
「・・・そうだったね(苦笑)でさ、私の大学のサークルでクリスマスパーティ的なのやるんだけど、良かったらおいでよw」
「え?いいんですか?」
「うん。まだ、1年目のサークルでみんな未成年なんだけどねwだから、お酒は出せないけど、さゆみんが持って来てくれたスティックで、私の友達がすごいドラム見せてくれるしwきっと、楽しいよ」

私は先輩の誘いを快く受け入れ、それから結局カラオケに行くことになった。
彼と別れてからは、軽音部の友達にも会いづらくなったし、こうしてカラオケなんかに行ってはしゃぐのも久しぶりのことだった。
ほんの何時間だったけれど、心休まる一時だった。


先輩と別れ、すっかり暗くなった街を背景に、私は電車に乗り込む。
帰りの電車の揺れは心地よく、気が付けば、疲れていたのか、ぐっすりと眠りこんでしまっていた。
乗り換えのアナウンスで目を覚まし、ウトウトしながら電車を降りるとプラットホームには冬の冷たい空気が張り付いていて、ぼやけた私の意識をすっきりとさせてくれた。
あれ、私なんで電車なんかに乗ってたんだっけ?てか、今何時だろ?どんな夢を見ていたかも思い出せずに、私は眼を擦りながら左腕に捲かれた銀色の腕時計を見下ろした。
細身の秒針がチクタクと身体を震わせている。寝ぼけていて何も考えられないのに、やけに胸の辺りが隙間だらけで、不意に哀しくなった。


 ***


夕暮れの海を眺め、潮の音を聞きながら、私は彼の右腕に抱きついていた。
夜の気配が江の島の向う側から忍び寄って来ていて、夏の雲が紫色に光っていた。
私は肘についた砂を払い落とすと、彼に向かって小さく囁いた。

「今日は学校サボって正解だったな」
「でしょ?今日の朝の占いでラッキースポットが海だったんだw」
「何、ラッキースポットって?w」
「今日行くと幸せになれますよ、って場所」
「じゃぁ、今日は幸せだった?」
「うん、ちょー幸せwさゆは?」
「さゆみも幸せだったの。やっぱり朝の占いは見るべきだなぁ・・・w」

心の底から幸せな一時。けれど、迫り寄る紫色の空に私はどうしようもない焦りみたいなものを感じていた。
銀の腕時計もその針は止まることなく、一秒、また一秒と、幸せな時間を推し進めている。
時間が止まって欲しい、なんて真剣に考えてしまうのは初めての経験だった。
そのとき、空の方でゴロゴロという不穏な低い音が鳴り響いた。
彼が「雨、降るかな」と小さく言葉にした瞬間、ぽつんと私の鼻先に一粒の雨が降り落ちてきた。
それからあっという間に夕焼けのオレンジが掻き消され、テレビのノイズみたいな雨音と、低い雷鳴、そして湖の底みたいな灰色が辺りを包みこむ。

「絵里、帰ろう」

私が先に立ち上がって、彼の腕を引っ張る。が、彼は立ち上がったものの、その場から動こうとしない。

「どうしたの?風邪引いちゃうよ?」
「さゆ・・・今日は楽しかった・・・?」

何を暢気なこと言ってるんだ、と思ったけれど、彼はいつになく思いつめたような表情をしていて、
私は踏み出していた一歩目の脚を引っ込め、「うん、楽しかったよ」と答える。
こうしている間にも髪も服も全部がビショビショになってしまっていたけれど、
彼は焦る様子もなく、たっぷりと間を取った後、「良かった」と言った。

「どうしたの・・・?」
「ううん、何でもないんだけどさ・・・あの、さゆ・・・?」
「なに?」
「・・・これからもずっと一緒にいてくれる?」
「・・・うん。ずっと一緒だよ」
「良かったw」

降り注ぐ雨に打たれながら、彼の唇が私のに重なった。
彼に抱き寄せられ、響き渡る雷鳴なんてすっかり忘れてしまうくらいに高鳴る心音が、時間を止める。
初めてのキスの味と、彼の温もりの名残がすっかり雨で洗い流されてしまわぬうちに、私たちは駅に向かって駆け出した。
雨のせいで全身が冷えてしまいそうだったけれど、彼と繋いだ手の間の僅かな空間だけが、新しい命が宿ったみたいにすごく温かった。


 ***


クリスマスイブまであと2日という夜。
家で一人でゴロゴロしながら漫画を読んでいると、携帯が鳴った。新垣先輩からのメールだった。

<連絡がギリギリになって申し訳ないけど、25日のクリスマスパーティでプレゼント交換することになったからパーティにプレゼント持って来てください!
 予算は、だいたい2千円くらいかな・・・?よろしくお願いします!追記:お金厳しそうだったら言ってね>

「プレゼント交換かぁ・・・明日日曜だし、明日買いに行けばいっか」

私は「了解しました」という旨のメールを返信すると、ぼんやりと天井を見上げ、そして胸の中に何かざわざわとしたものがいるのに気が付いた。

「はぁ、さゆみ、まだ絵里のこと忘れられないでいる・・・」

不意になった携帯の着信音にすら、彼の笑顔を思い出してしまう。
もう彼から連絡してくることなんてないのに。まったく、馬鹿げてる。
私はベッドに伏せていた読みかけの漫画を閉じ、なんとなく携帯の画像のフォルダを開いてみた。
どうして、と聞かれれば、多分私は淋しかったのだ、と答えるよりほかないだろう。
ほんとに未練タラタラで女々しい男の子みたいだったけれど、でも、どうしても写真も彼からもらったメールも消すことができないでいた。
別れてもう何か月も経つのに、どうして私はまだ彼のことを忘れられないでいるんだろう。
どうしてこんなにも彼のことが好きなのに・・・彼は私から離れて行ってしまったんだろう。
考えまいとしているのに、また私は彼のことを考え始めていた。

「ずっと一緒にいる、って約束したのに」

ひとりでに溢れ出てくる涙を拭い、私は頭から布団を被った。
<足の先が冷えている>何故だか、布団の中で声を潜めて泣いている間中、ずっとそのことばかりが頭の中をグルグルと回っていた。
私の足先にはまだ、あの初めてキスをしたときの冷たい夏の雨が、乾くことなく纏わりついているみたいだった。



翌朝、目が覚めたのは昼過ぎだった。
頭から被った布団の中では永遠の時間が流れてるみたいに、いつまで泣いてみても哀しさの底に辿り着くことはなく、
布団から出て冷たい空気を吸い込んでみても、昨日のしゃっくりがまだ喉の辺りに居残りしてるみたいな感じだった。
窓の外には冷たい曇り空が広がっていて、その憂鬱さに私はまた温かい布団に戻りたくなってしまう。
けれど、時計を見るともう12時を回っていたので、ママも誰も起こしに来ないのは変だと思い、できるだけ目の腫れが目立たないように眼鏡を浅くかけてから、1階へと降りて行った。
1階には誰もおらず、雪のようなシンとした空気が壁やら家具やらにぴったりと貼りついている。
冷たいフローリングをつま先で渡っていくと、テーブルの上にメモが置いてあるのを見つける。

<さゆちゃん、おはよう。ママとパパ、急にお仕事入っちゃったから、お留守番よろしくお願いね。朝ごはんはパンがあります。
 お昼ご飯はチャーハンを作っておいたから、冷蔵庫の中から取ってレンジで温めて食べてね。18時までには帰ります!>

私はそのメモを読むと、まずは部屋の灯りを点けて、それから暖房を全開にして、そして昼飯のチャーハンを平らげた。
客観的に見れば何も哀しい事なんてないはずなのに、この広いリビングが今日は何だか私に背中を向けているような気がして、せっかくつけた暖房もさっさと消して、自分の部屋に戻った。
張りつめた空気に電気を消す時のパチンという音が気味が悪いくらいによく響く。
部屋に戻ると、私はまたベッドに潜り込み、この長い日曜日をいかに過ごそうか、と泣き疲れてぼうっとしている頭で考えてみる。
が、当然そんなのは「私、今考え事してるんで」という言い訳にしかすぎず、
結局何も思いつかないまま何の気なしに携帯に手を伸ばしてみたところで、ようやく「クリスマスプレゼント」の件を思い出した。

「はぁ、メンドクサイな・・・」そんな風にぼやきながらも、私はベッドから抜け出すと腕時計を手に取った。



電車に揺られて渋谷まで出てみたけれど、それは完全なる失策だった。
今日がクリスマス直近の日曜だということをすっかり忘れてた。
人、人、人・・・もはや人だらけで足の踏み場もない、といった感じだ。
すれ違う人と肩をぶつけ合い、男女のカップルの楽しげな声や通りの店々から流れているクリスマスソングが耳に捻じ込まれるように入って来るし、
何と言ってもそんな街の中でただ一人、独りでいるという場違い感が私を苦しめた。
私はできるだけ「それでも、私は独りでいることなんて気にしてない。今日はバイト先で誰もシフトを入れたがらなかったから、仕方なく私が出勤しにきてるのだ」と
自分に惨めな言い聞かせをしながら(おそらく酷い顔をしていたとも思うけれど)、比較的人の少なすなアクセサリーショップが視界に入ると迷わずそこへ飛び込んだ。

「もう、ここでいっか」

私はガキの遣いのように(言葉にすると、確かにそうなるな、という感じだ)、予算の二千円を瞼の裏にチラつかせながら、意外と気の利いたアクセサリーの値段を確認していった。
なかなかお手頃な値段のものが無くて困ったけれど、結局、指輪かネックレスか、最終的にはその2択まで絞り込むことができた。
ちょっと可愛らしいハート模様の細工が入った指輪か、それともちょっと大人っぽい銀のクロスのネックレスか・・・大学生はどういうの欲しがるんだろう。
運良く私のプレゼントが新垣先輩に渡ってくれるのであれば、そんなに気にする必要もないのだろうけれど・・・
私はクリスマスプレゼントを選びながら、知っている人が一人しかいないクリスマスパーティへの招待を二つ返事で承諾してしまったことを今更になって後悔し始めていた。
が、きっと落ち込んださゆみを見て善意で誘ってくれたのであろう新垣先輩に背を向ける訳にもいかない。
そう、それにもしクリスマスパーティのお誘いを断ったところで、パパとママにはもう出かけるって言っちゃったし、
急な予定変更があればきっとパパもママも「なにかあったのだろうか」と心配してしまうだろう。
ふと、良い子でいるのも楽じゃないな、なんて言葉が頭に浮かんできた。

「良い子・・・だよね。さゆみは・・・」

また絵里のことを思い出してしまう。そういえば、今日は絵里の誕生日だ。いつの日か、そう、あれはまだ蒸し暑い夏の夜。
パパもママも寝静まったのを見計らって、絵里と電話をしたときの会話を思い出す。
誕生日の次の日がクリスマスイブなんて、一気にたくさんプレゼントを貰えていいね、なんて話をしていた。
「ちゃんと誕生日プレゼントとクリスマスプレゼントひとつずつ頂戴ねw」なんて言って笑っていた絵里の電話越しの声すら懐かしい。
電話で話していると急に絵里に会いたくなって、今から家を抜け出していこうかな、と私が言うと、彼は「夜道は危ないからダメだよ」と優しく言ってくれた。
彼のそんな優しさに胸がホクホクしながらも、なんだかそんな自分が恥ずかしくて、ちょっとブーたれた振りをしながら通話料金が心配になるくらい電話を続けていると、
突然絵里が電話口でクスクスと笑い出し、私がどうしたの、と尋ねると、「窓から外見てごらん」と彼が言った。
私はドキドキしながら、カーテンを開けてそれから窓も開けて、身を乗り出した。
街灯に照らされて満面の笑みを浮かべている絵里が私に向けて手を振っていた。私は潤んだ瞳を暗闇に誤魔化しながら手を振り返す。
そして、通話中のまま携帯をベッドの上に投げ出すと、急いで、でも忍び足で階段を降りて行った。
そういえば、あれが2度目のキスだった気がする。
私は自分の左手首に捲かれた銀の腕時計を見下ろしながら、まだあれから半年も経っていないのに、と哀しくて、悔しかった。
別れ際に彼が言った「さゆの他に好きな人ができちゃったんだ」という言葉がまだ頭の中で歪に響いている。
手に持っていたハート型の指輪・・・彼が付けるにはあまりにも可愛らし過ぎたけれど、でも、もし私がプレゼントしたらきっと喜んでくれただろう。
いや、何を考えているんだ、さゆみは。結果的に私はこの腕時計のお返しをする暇もなく、彼から見捨てられてしまったのだ。
彼はもう私のものではないし、私の知らないどこかの誰かのもので、この腕時計ももはや私と一緒に彼から見捨てられ、
そして見捨てられた者同士、惨めに寂しく、そして虚しくただ記憶の海に足先を浸しながら漠然とした時間を進めているだけ。
今、私が彼の為に彼の誕生日プレゼントを買っても、それは彼に届くことも無く、この惨めな集会にメンバーを新たに加えるだけに過ぎないのだ。
そう考えると、何だか無性に情けなくて、深い溜息が出てしまう。湿った吐息に銀の指輪が曇った。

その時、懐かしい声音が店主に客の到来を告げる鈴の音と一緒に店の中に響いて来た。
あまりにも突然のことに私は手に持っていた指輪を落としてしまったが、その声の主の隣に見慣れぬ人物が並んでいるのを見て、慌てて物陰に身を隠した。
その姿を見るのは初めてだった。私たちとは違う高校の子とは聞いていたけれど・・・心臓が痛い。
息すらまともにできなくなっていた。膝は私のこれまでの人生の中で一番震えているし、まるで硫酸を眼球にかけられたみたいに目頭が熱くなっている。
どうしてこんな日に、こんな気持ちの時に・・・私は身を強張らせながら、ゆっくりと店の出口の方へと足を進めた。
2人の話し声が聞こえてくる。聞くまいとはしても、耳が勝手に音を拾ってきてしまう。
そのうちに足も止まり、私は店の隅で彼らに背を向けながらそのまま固まってしまった。

「えぇ?誕生日プレゼントなんていらないよ」
「だめw絵里のためにずっと貯金しとったとよ?wここで使い切らんと、全部お菓子に変わってしまうけん、絵里はれーなが太ってもいいと?w」
「うーん、ぽっちゃりなれーなも悪くはないなぁw」
「ほんと?///でも、今日は絵里の誕生日なんやけん、ちゃんとプレゼント買わせて」
「まぁ、れーながそこまで言うなら良いけど・・・でも、プレゼントって前もって買っておくものなんじゃないの?w当日本人と買いに行くって・・・w」
「細かい事はいいやろw絵里はれーなにプレゼント買ってもらう立場なんやけん、黙っとってw」

楽しげな会話がより一層私を叩きのめした。もはやそこに立っていることすらできなくなりそうだった。
しかも、知らぬ間に私はまるで馬鹿みたいに熱い涙をぽろぽろと零していた。机の上に並べられたアクセサリーの上で私の涙が弾けていく。

「ねぇ、絵里。この腕時計っていくらくらいしたとぉ?」

腕時計、という言葉に私は目を腫らしたまま振り返る。彼の横に立つ華奢な彼女の真っ白な手首にシルバーの腕時計が捲きついている。

「そんなに高いものじゃないよw」
「えぇっ!?安物だったと、この腕時計!?」
「違う、違うwまぁ、ほんと言うとそれなりには高かったけど・・・でも、れーなは無理して高いの買う必要ないからね。はぁ、せっかく気つかって言ったのに、「安物だったとぉ!?」は無いよねw」
「にひひひwごめん、ごめんw」

絵里が隣の女と身体を寄せて笑い合うのが、目に入った。もう我慢できなかった。
けれど、鼻を啜ればその音で絵里にばれるかもしれないと思うと、私は鼻を啜ることも涙を拭うこともできず、みっともない格好で店の中から転がり出た。
背中の方で、冷たい鈴の音が鳴る。その合図を皮切りに、私は雑多な人混みの中にもかかわらず、しゃっくり混じりに泣き出してしまった。
そのまま、コートの袖で涙と鼻水を拭きながら、すれ違う人々に何度もぶつかりながら、幸せそうなクリスマスソングを払い除け、駅へと駆けて行った。
あの日と違って、雨は降っていなかったし、それに彼が私の手を引っ張ってくれるようなこともなかった。
なんとか、駅の構内に辿り着くまでに鼻水と嗚咽は止まったけれど、涙はまだちょっとずつ瞼から零れ落ちてくるし、
雨も降ってないのに、私のコートの袖はもうビショビショに濡れてしまっていた。

できるだけ、一目につかないように改札を潜り、ちょうど出発するところだった電車に身体を滑り込ませる。
無機質な車掌の声に送り出され、電車は進み出す。
私はできるだけ人目につかない車両の端の席に座り、それから思いついたように左腕に捲きついていた銀の腕時計を外した。
私の乱れた心とはうって変わって、時計の針は規則正しく、何事も無かったように時を進めている。
それでも何も考えまいとは思っていた。たとえ、時計が時間を進めようとも、私はそこから取り残されたように、じっと固まって、感情も全て閉じ込めたままにしようと思っていた。
けれど、そんなことは到底無理だったし、やけに暖房が効いていて、暖かい空気が涙腺を緩めていく。
絵里の顔が瞼の裏に浮かんで、そして、絵里の隣の女の子の楽しげな表情も声も、全てが私の心臓に突き刺さってくる。
我慢なんてものは、ほんの一瞬しか効かず、あっという間に私の膝の上には水溜りが生まれた。
すべて悪い夢なんだと思い込みたかった。毎日毎日、時計の針が一周巡る度に、いつか私は悪夢から目覚められることを願っていた。
彼が「別に好きな人ができた」と言ったのは、何か彼なりの私への優しさで、本当はそんな子なんていなくて、いつかまた私のもとに戻って来てくれるのではないか、とそんな未来ばかりを想像していた。
でも、違った。彼には新しい彼女がいて、そして彼は前に進み、幸せそうに過ごしている。
私だけが取り残され、とっくの昔に停まっていた時計を何度も取り出して、そこに刻み込まれた彼との幸せな時間を思い返していた。
一人で俯いていた夜も、彼から貰った腕時計にはあの無邪気な笑顔が写っていた。
そんな自分が情けなかったし、それに未だに鋭利に突き刺さってくるこの痛みが、私の中で彼への想いが消え去っていないことを辛辣にも証明していた。
涙も嗚咽も、何もかも感情という物がせき止められなかった。車内の人が心配そうに私を見ているのがわかった。
でも、心配されようが、笑われようが、そんなことはどうでも良かった。
ただ、どうしようもなく哀しくて、苦しくて、あの暖かい腕の中の記憶が切なくて、こんなことになるとも知らず、馬鹿みたいに幸せを感じていた自分が許せなかった。
今頃、彼は私の代わりにあの金髪の女の子と幸せな時間を過ごしているのだと思うと、とにかく悔しかった。

ずっと一緒にいる、って言ったのに。大好きだよ、って言ったのに。
あんなに優しいキスもしてくれたのに。
まだ、こんなにも好きなのに。

「うぅ・・・やだ・・・もう、全部・・・」

もうとっくの昔に止まってしまっている彼との美しい時間の中に身を埋めながら、私は電車の中で泣いた。
涙で濡れた掌の中で、シルバーの腕時計だけが、カチカチと時を刻んでいた。





シルバーの腕時計 終
 
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