シーン11 ふたたびあの場所で


日が暮れ、街灯に灯った明りが冷たい路地を照らしている。
駅前からほんの数分歩いてきただけなのに、辺りは随分と静かだった。
とりあえず涙は拭いて足も踏み出してみたものの、行く当てはない。
家に帰る気もしなかった。
電車にも乗りたくはない。
両親には言えないようなことだったし、変な心配もさせたくはない。
けれど、このまま一人でいても気がおかしくなりそうだった。
絵里なら助けてくれるだろうか。
でも、連絡を取るすべもない。

そこまで一通り考えを巡らせてみたところで、私は自分が随分と孤独な人間だということを思い知った。
れーなを除いては本当の友達なんて一人もいないし、頼れる人間というのも両親を除いては彼くらいしかいない。
しかし、唯一残された家庭という平和のためにも両親に助けてもらうわけにはいかないし、
このご時世に携帯電話すら持たない変わり者の彼とは連絡を取る手段もない。
私にとって彼はヒーローだったけれど、いくらヒーローのような役割と言えど、
この現実世界では彼もまた警察と同じように、こちらから「助けてくれ」と求めなければ私を助けることはできないのだ。
ならば、こちらから彼を訪ねたらどうか。
そんな彼の都合も考えない自己中心的な考えが浮かぶけれど、私はそんな風に弱くてわがままで高飛車な女にはなりたくはなかった。
彼と初めてデートした時に声高に「私は高飛車な女なんかじゃない」と叫んだ言葉が頭に思い浮かぶ。

私はトボトボと暗い路地を駅に向けて歩いて行った。
歩きながら、どうして私はこんな苦しみが蔓延る場所に足を踏み入れてしまったのだろうと考える。
彼が話していた「泥沼」というものをとても鮮明に想像することができた。
私の愛情のいったいどこが間違っていたというのだろう。
もちろん、2人の人間を、それも男と女を同時に好きになってしまったり、
好きになった相手の事情やその他諸々のことを考えると、私の恋愛にはいくつもの欠陥が見えては来る。
けれど、そういった現実的な要因を排除したうえで、私の心だけに焦点を絞ったときに、いったい私の何が間違っているのかがわからなかった。
私はできるだけ誠実に愛情を捧げたつもりだし、そんな風に私が何かに対して誠実であったことは今までの人生で一度も無かった。
勉強や委員会活動に身を捧げたこともなかったし、部活は結局今の今までやったことがない。
習い事も嗜み程度にこなしていただけだし、友人関係もなぁなぁで済ませていた。
こうして思い返してみると、私は今までの人生、いったい何をしていたんだろう、と馬鹿馬鹿しくもなる。
けれど、今の問題はそんな私の過去の空虚さなどではない。
むしろそれとは反対の、私のほとんど命を賭すような想いの行く末に待ち受けているものにこそ今の私の問題がある。

ただただ不思議でならなかった。
というよりも、とても皮肉めいている。
適当にやり過ごしていたときは何も問題がなかったのに、一旦真剣になってしまうと、これだけ訳の分からぬ問題に脚を絡め取られる。
私が本気になって愛情を振りまけば振りまくほど、事態は悪化していくような気がするのだ。
正しくあろうと思えば思う程、私の行動は正しさを失っていっているみたいだった。
こんなとき、彼は何と言って私を慰めてくれるだろう。
深淵を覗き込むようなあの冷めた目を私に向け、そして優しさと正義と温かさがぎっしり詰まった言葉をかけてくれるのだろうか。
彼は私を本当の意味で救うことはできない、なんて言葉を言っていたけれど、
彼にとって彼が私に対して為す「救い」というものが本当の意味であろうが、嘘っぽい意味であろうが、私はそんなことはどうでもよかった。
ただ、今、私の傍にいて優しくしてくれるだけで良いのだ。
手を繋ぐだけでも良い。
頭を撫でてくれればなおのこと良い。
けれど、結局私の右手からは既にれーなが消え、そして彼の為にとっておいた私の左手も、
今はぷらぷらと身体のバランスを取るよりほかにすることはなかった。

駅に近づいてくると次第に人が増え、辺りには様々な店の雑多な光が降り注いでいた。
塵よりも軽い笑い声、空っぽの視線、抑揚も無くぶつかる肩、
そういった街の喧騒とも虚無とも区別つかないあれやこれやというものに囲まれ、私の頭は狂ってしまいそうだった。
何故、自分だけがこんなにもみすぼらしく、訳の分からぬ泥沼に脚を突っ込み、
そして感傷性に打ちのめされながら頭を抱えなければならないのか。
どっからどうみても私よりも、不誠実そうでいい加減そうな人間が暢気な顔をして街を歩いている。
そんなことに無性に腹が立って、人生で初めて「人間なんて皆死ねばいい」と思った。
けれど、そんなことを思ったところで気が晴れる訳でもなく、
ただ「酷いことを考えてしまった」という罪悪感の重さが一つ分余計に肩にのしかかっただけだった。

そして一つの小さな交差点に出会う。
思い出深い交差点だった。
丁度交差点を挟んだ右正面には彼と一緒に入ったカフェがあって、そこを真っ直ぐ突っ切って行けば駅まで辿り着ける。
そしてそのカフェを右手に折れて進んで行くと、あの猥雑な繁華街がある。
そこには彼の働いているあのラブホテルだってある。
面倒くさい女。
そんな風には思われたくなかったけれど、今の私にはそんなことを気にしている余裕なんてなかった。
今にも挫けてしまいそうで、この交差点のど真ん中で思いっきり泣きだしてしまいそうだった。
喉元にはあの熱い感覚がぎりぎりと押し寄せてきて、吐いた息がマフラーを湿らせている。
信号の色が変わる。
右に横断する方が青だ。


「神様のせいだ」


私が面倒くさい女になるのも、泣きそうになればすぐに彼に助けを求めるような弱い女になるのも、
ここで彼に救われてしまったら私は完全にれーなを見捨てることになってしまうであろうということを自覚しながらも
彼のホテルに足を向けるのも、全部神様のせいにしてしまえ。
れーなは去ってしまった。
だから、彼を選ぶ。
それのどこが悪いのだ?
ほんの数か月前までの打算的な私に戻ることの何がいけない?
私はそんな風に自分を肯定する言葉を頭の中で祈りのように唱えながら、信号に流されるまま、交差点を右手に折れていった。
不埒なネオンの照明が私の制服を照らしている。
開店の支度をしている人々が私の制服姿を見て、一瞬作業の手を止めるのがわかった。
私は声を掛けられないように彼らの前を足早に過ぎ去り、彼の働いているホテルへと急いだ。
そういえば、彼は年末であのホテルは廃業になると言っていたけれど、まだ営業していることはしているのだろうか。
しかし、彼があのホテル以外に行く当てを持たないのも知っている。
彼は今頃、事務室で何か作業をしているか、それか客室の掃除などをしているはずだ。

でも、きっと職員は彼の他にもいる。
私は彼以外にあそこで働いている人は、彼から聞いたオーナーという人しか知らないけれど、
この間はたまたま彼しかいなかっただけで、彼以外にも誰かがあそこには必ずいるはずだ。
あの事務室を訪ねたとして、彼じゃない人間が制服姿の私を見たらどう思うだろう。
警察に突き出されるだろうか。
いや、警察ならまだいい。
ラブホテルの従業員が全て彼のような温厚な人間であるとは限らないし、もしかしたらちょっかいを出されるかもしれない。
色々なリスクが頭を過ったけれど、初めてれーなを追ってあのホテルに行った時と同じように、
私は何かに憑りつかれたように彼のいるところへと真っ直ぐ向かっていく。
リスクを実感できないまま、一縷の望みにすがって行動してしまうのは私がまだ17歳だからだろうか。
どうして私はこんなにも馬鹿なんだろう。
そんな風に自分の愚かさを知らしめるような言葉をいくつか挙げてみたところで、結局私の足は止まることは無かった。
気が付けば、繁華街の光を映した見覚えのある自動ドアの目の前に来ていた。


「絵里・・・お願い・・・」


自分が馬鹿なことをしているなんてことはわかっている。
けれど、リスクがあろう無かろうが、そんなことはどうでも良かった。
どうせこのまま引き返したところで、私が救われる可能性はゼロなのだ。
事務室の中には彼しかいない、というわずかな希望にすがったっていいじゃないか。
そんなことを考えながら、私は自動ドアを潜った。

相変わらずロビーはよく掃除が行き届いていて清潔だった。
鍵の自販機も相変わらずだし。事務室の扉はまるで海底に沈んだ鉛のように重たそうに見える。
その扉から彼以外の人間が出てきたときの言い訳をいくつか考えてみたけれど、
「妹なんですけど」とか「駅前で落し物を拾って」とか、そういったことで色々と嘘を取り繕うよりかは、
素直に「亀井さんにちょっと用があって」と言った方が楽ではないか、ということに気が付いた。
そうと決まればあとはこのとてつもなく頑丈そうな扉をノックするだけだ。

とはいっても、一応中の人間が恐ろしい人物ではない事を確認しておくべきだ、と思ってそっと扉に耳を近づけたところで、
中から聴こえた微かな声に私は心臓が凍りつくのを感じた。
しかし、その原因を脳で理解するのには少し時間がかかる。
紅い絨毯の上で固まった私の身体に、私の聴覚が感じ取ったものが徐々に広がっていった後で、
ようやく私は自分の耳が捉えたものが何であるか、ということを理解する。


「れ・・・」


不意に漏れた声がシンと静まり返っているロビーにことさら大きな音量で響いたような気がした。
しかし、自分から発せられた言葉の断片が自分の感じ取ったものが何であるのか、ということをより確実に示している。
何故かはわからなかった。
どうしてこんなことが起こり得るのだろう。
自分をこんな所へ導いた神様が許せなかった。
運命的なまでに、私に右に曲がることを勧めたあの交差点のあの青信号すら疎ましかった。
何かが巧妙に仕組まれた出来事のようで、私はありきたりのストーリーの主人公がそうするように、
ドアノブに手を掛けてそっと扉の隙間から事務室の中を覗き見た。

女の方がれーなであることは扉の外からでもわかっていたことだったけれど、
男の方が誰であるか、ということに関して言えば、扉を開ける前は私はまだどこかに希望を持っていた。
けれど、神によってなのか、何者によってなのかはわからないが、これだけ巧妙に仕組まれた罠が最も重要な部分をおろそかにするはずもない。
私はれーなの腰を掴む彼の冷え症の指先の感触を自分の左手に思い出す。
そして、私の頭の上で、または唇の間で何度となく聴いたれーなのあの官能的な鳴き声を扉の隙間から聴く。
 
事務机に上半身を突っ伏したれーなの上に彼の身体が重なっている。
私の視線はまず2人の繋がっている箇所に注がれ、そしてそこかられーなの白い肌の上を伝っている赤い血の行く末を追った。
れーなが処女であったことは、聞いていたし、見てもいたから知っている。
何故だかわからないけれど、れーなのそれが失われたことに対しての純粋な落胆が私の頭の中でパッと弾けた。
けれど、そんなことはすぐに塵になって消えていく。
彼はズボンを膝の下までおろし、剥き出しになった下半身をれーなの下半身にゆっくり、けれど激しく悶えるように打ちつけている。
先程までれーなの腰を掴んでいた彼の手は今はれーなの肩に添えられ、彼の唇はれーなの耳元で何かを囁いているみたいだった。
金色の髪の隙間からその唇の端が見える。
けれど、私の位置から見えるのは重なっている2人の右後ろ姿ばかりで、彼らの方は全く私の存在に気が付いていないようだった。
私は扉をゆっくりと開け、そして部屋の中に足を踏み入れる。

後ろでバタンという音がした。
振り向いてみてから、それが今しがた私が手を離した扉の閉まる音だとわかる。
そしてまた正面に視線を戻したところで、物音に驚いた彼と目が合う。
息を荒げて肩で呼吸している彼の瞳は充血していて、それでいて鋭かった。
まるで自分の縄張りを侵された狼か何かのように私を睨みつけ、額から垂れた汗は彼の金色の髪を瞼の上に貼り付けている。
彼は私の目から視線を逸らさないまま、ゆっくりと上半身を起こしれーなの腰の上に手をついた。
それから、れーなが動きの止まった彼に不信感を抱いて後ろを振り返るまで、
れーなと繋がったままの彼と私はお互いを見つめ合い、言葉やそういったものでは表現しきれない何かを共有しあっていた。


「さゆ・・・」


そう口を開いたのはれーなだった。
虚ろな目のれーなのその言葉を耳にした途端、私は超音波で頭が狂ってしまったように吐き気を催し、そしてそのまま床に嘔吐した。
といっても、ほとんど胃液みたいなもので、私は膝から崩れ落ちた後、床に手をついてその唾液の泡が混じった小さな水溜りを見下ろしていた。
鼻の奥や喉元が胃液でやられ、それから数秒か、数十秒かの間、しばらく咳き込む。
潤む視界の中で、白い蛍光灯の光を照り返す私の吐瀉物を捉えながら咳き込む私には、
その実際には数秒くらいの時間が永遠のもののように感じられ、息苦しかったが、
何も考えずにいられるその時間が終わるのを恐れるみたいにして気が済むまで咳を吐いていた。

口の端に着いた唾液を右手の甲で拭い、それから視線を上に向ける。
彼はれーなの中からそれを抜き出していたが、それは隠されることなく私の目に留まった。
初めて見る男の人のそれに胸がざわつき、そして、それの所々についたれーなの血の跡がより胸を締め上げる。
私は何かを言おうとした。
けれど、それは音にはならず、胃液に浸食された喉がまた締め付けられ、再び小さく咳き込むことになった。
眼には涙が溜まっているのが自覚できていたけれど、これは単純に嘔吐した後の名残であって、別に悲しいわけではない。
私はもう一度膝に力を込め、何とか立ち上がると、心配そうな彼の視線を置き去りにして、一目散に事務室を出て行った。
心の隅で彼が追ってきてくれるのではないか、と期待していたみたいだけれど、そんなことは決してなく、
僅かな失望感がまるで風船ガムの中に私を閉じ込めるみたいにして包み込む中、
事務室を汚してしまったことに対する後ろめたさみたいなものをずっと感じていた。


ネオンの光や、街の笑い声がまた私の脳を揺さぶり、頭痛と吐き気を私に投げかけて来たけれど、
もう胃の中には何も残っていなかったし、ただただ胃酸の臭気が身体のあらゆるところに浸み込んでいくような感覚があるだけであった。
フラフラとした足取りを自覚しながらも、それを直す気にもなれず、駅の改札を潜り、やってくる電車に乗り込んだところで、
「どうして今線路に飛び込まなかったのか」と不思議に思う。
私は自分に染み付いた胃液の臭気と腫れた目元を隠すために、
電車の箱の角と向かい合いながら「良女」という駅名がアナウンスされるのをひたすらに待った。
電車を降りると、駅の便所に行って顔を洗い、口をすすぎ、少し人目は気になったけど化粧も落とす。
水はまるで今しがた氷から溶けだしてきたみたいに冷たく、指先は痛むほどだった。
タオルで一通りの水気と、その他諸々の私の残骸を拭き取ると気分は幾分かすっきりした。
私はマフラーを捲き直し、鏡を見て、ただのすっぴんの女子高生がそこにいることを確認すると、駅のトイレを後にした。





(66.2-260)なん恋 Scene12
 

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