静かな風が吹いていた。
私は彼女の手をそっと握り、頬に当てた。
血が通っているはずなのに、少しも温かくない手があまりにも寂しくて切ない。
この手は確かにあの日、私をこの世界に繋ぎとめてくれたはずの優しい手なのに。

「今日は風が気持ちいーよ」

そう、呼びかけた。けれども返事はない。
もう10日。ずっとこんな感じの日がつづいている。
それでも私は、あなたを待つ。

「今度は私の番だね」

世界はずっと真っ暗だった。
両親が事故で死んでしまったあの日から、私の中で光は消えた。

だけど、だけどね。
あなたに逢ってから、一筋の光が見えた気がしたから。
だからね、私が今度は、あなたの光になりたい。

「また、いっしょに写真撮ろうね」

風に舞ってラベンダーの香りが部屋を満たす。
あ、部屋のカンパニュラ、ちゃんとお水あげないとね。


―――――――


さゆみの言葉を即座に理解することは、れいなには不可能だった。
「逃げちゃダメ」とは、何のことだろう?
逃げるって……いったい何から?いったいだれが?

「さゆみもね、限界だったのかもしれない。自分で自分を支えることが」

ひとり言のように呟く彼女を、れいなはただ黙って見つめた。見つめる以外の術は、なかった。
彼女はそんなこと意に介さずに、「私ね」とつづけた。

「私、れいなが思ってるほど、強くないんだよ」

さゆみの言葉は、想像を超えた威力を持ってれいなに突き刺さった。
世の中に蔓延る「常識」というやつが、実は違った側面を持っていたと知るような、そういう逆転現象を感じる。

「さゆは強いね」なんて口に出したことはいちどもない。だが、口に出さずとも心の中ではずっと思っていた。
厄介なカメラマンに絡まれても、プロデューサーにセクハラ紛いのことをされても、さゆみは黙って堪えていた。
自らの感情を表に出さず、すべては仕事だと割り切って、自分の立ち位置を理解して仕事をに挑んでいた。

れいなも「事務所」に所属している立場だが、モデルとカメラマンでは背負うものが違う。
さゆみのわがままが通る事などほとんどないことくらい、れいなにだって分かっている。
逆に彼女が理不尽な案件を引き受けていることも、れいなは知っていた。
だから彼女は強いと、勘違いしてしまう。どんな要求でも呑んでくれる彼女は、自分より大人なのだと、勝手に思い込んでいた。

口にできない感情が、胸の中に芽生えて、広がる。
静かに根を張るそれは、まるで蜘蛛の巣のようだ。

「れいな、此処が何処だか、分かる?」

彼女は話を逸らすように、そう切り出した。
演説するように両手を広げた途端、触れてもいないのに窓際のカーテンが音を立てて開く。
それを見ても、れいなはさほど驚かなかった。どうやら本能的に、此処が「現実」とは少し違う次元の場所だとは理解しているようだ。
世界を規定するのが「思考」であるとするならば、れいなの頭はいまのところ、ちゃんと機能しているらしい。
とはいえ、此処が現実でなかったとして、じゃあいったい何処かという解にはたどり着けない。

れいなは率直に「夢、とか?」と訊ねた。
なにかの本で読んだことがあるが、「夢」を「夢」だと理解できることがあるらしい。明晰夢、と学術的には呼ぶようだ。
だが、さゆみはゆっくりと首を振る。髪が揺れ、彼女の甘い髪の香りが漂った。

「此処は、れいなとさゆみの、“意識”の中」
「意識……?」
「夢には必ず終わりがあって、ちゃんと目が醒める。でも、此処はその確証のない、自分の望んだ、脳の世界だよ」

その香りに絆されたのか、れいなはさゆみの言葉の意図をいまひとつ噛み砕けなかった。
脳って、脳って、なん?と思わず自分の頭に触れた。途端に、突き刺すような痛みが襲いかかり、声を押し殺す。
いまの感覚には、覚えが、ある。何処かで感じたことのある、痛み。何処で、いつ受けたものかは、思い出せないけれど。

「さゆみだって……愛されたいの」

太い針が貫通したような痛みを堪えながら、れいなは眉をひそめ、さゆみを見つめた。
長い髪を夜風に揺蕩わせながらさゆみは目を伏せた。長い睫毛に微かに雫が煌めいている。
彼女の発した言葉の意味を額面通りに受け取るべきか、それともその奥にあるなにかを察すべきか、
本来なら答えはすぐに出ていたはずなのに、れいなは迷った。
それほどまで、彼女は美しかった。

「ひとりは、もう、いやなの…!」

彼女の涙の意図を、すぐに理解することができなかった。
即座に、彼女が自分に覆い被さってきた。ベッドが軋む。彼女の長い髪がれいなの顔に触れる。
髪の向こう、さゆみの瞳が見えない。なにを望んでいるのかも、彼女がどんな色を宿しているのかも、まったく、見えない。

「どうして…?」
「え?」
「どうしてさゆみは、愛されないの……?」

ぽたりと落ちた雫が涙だと気付くのに2秒といらなかった。
だけど、彼女の言葉を噛み砕くのには2秒じゃ到底たどり着けなかった。
「どうして愛されないのか」という問に対する答え。
答えなければならない。応えてあげなければならない。
「さゆは愛されとーよ」と。


―――なぜ、愛していると、云えないのか?


唐突に浮かんだ疑問が、鋭い痛みとなって頭に襲い掛かった。
視界が濁る。泣いているのは、さゆみだった。その姿が、“彼女”と重なる。
“彼女”って、“彼女”って、だれ?

「さゆは……」

愛されているよ。

その、たったひと言だけなのに、言葉が出てこない。
喉につっかえて、へばりついてしまって音にならない。
「だれに?」という自問に対する答えが見つからない。

違和感。不和。不一致。不完全。不能。
頭が、脳が、心が、自分が、揺れる。

「どうして、居なくなったの……?」

震える声でさゆみが言った。相変わらず彼女は、れいなに覆いかぶさったまま、肝心な言葉を置き去りにしている。
思わず「だれが?」と聞き返したくなったが、彼女の瞳に映っていたのはれいなではなかった。
さゆみがその黒曜石のような瞳に映していたのは、彼女と同じく黒髪を風に揺蕩わせた、ひとりの少女だった。
その人の名前を、れいなは知らない。
いや、知らないのではない。分かっている。
綺麗な黒髪の、深い悲しみの色を背負った「彼女」の名を。れいなは、知っている。覚えている。

それなのに、出てこない。
彼女は、「彼女」は、“彼女”は、だれだ?


―――れーな


呼ぶ、声がする。
先ほどかられいなを呼んで、れいなの心を捕らえようとしている彼女の名前も、出てこない。
情景が、記憶のように流れていく。
車窓を過ぎ去るそれを追うことは叶わないが、微かにその目の端に映る姿は、確かに、泣いていた。
彼女はそこで、泣いていた。

「泣かんで……」

れいなは思わず、“彼女”に向かって手を伸ばす。
自分を守るように震えながら泣いている姿は、とても幼く、自分より年上には見えなかった。
そう、本当は“彼女”の方が年上なんだ。れいなよりも、ひとつだけ。

でも、思った。
あの雨の夜に出逢った瞬間から、この人は、私が護らなきゃいけないって。傷付いた彼女を、もう泣かせたくないって。そう思った。
それは個人的な決意だったはずのに、いつしか使命感へと変わり、重責へと色を変えた。
護らなくてはいけない。傷付けてはいけない。
“彼女”を護れるのは自分しかいないと。自分が倒れればすべてが終わると、そう思っていた。
“彼女”だって一人でがんばれることもあるのに。自分しかいないと、自惚れていた。
その自惚れが、あの夜、弾けた。

あの夜……?

あの夜。

そうだ、あの夜。

私はあの場所に居た。
仕事をしていた。暗闇の中。そうしたら、鋭い音がした。現実を、泡沫の夢を叩き壊す、音が。
崩れ落ちる空間で、私は思った。
護れない。護れやしない。“彼女”を傷付ける。この闇の中に置き去りにして、また一人きりにしてしまう。
終わりだ。所詮、私に護れるものなどない。“彼女”は孤独だ。永遠に。私にはなんの、力もない。


―――田中さん!!


そう、呼ぶ声がした。
必死になって叫んだ想いは、さゆみが探している「彼女」のものだったはずだ。

「さゆは……」

もう一度、もう一度だけ、愛されているよと口にしようとした時、ふたりの女性が目の前に浮かんだ。
肩口で揃えたセミロングの女性と、腰まで伸びた黒髪の女性が。
居たんだ。そこに。確かに。目の前に。

私たちは、その人を探している。その美しい人を。大切な人を。護りたかった人を。
それなのに。それなのに、何処で、置き去りにしたのだろう。

私はどうして、此処に居るのだろう?

「さゆは、あの子が、好きやっちゃろ?」

いつだったか、あの時と同じセリフをさゆみに訊ねた。
あれは、そう。星が降る夜だ。
暗い闇の中でも真っ直ぐに道を歩めるほどに照らし出した、沖縄の夜だ。
裏切られて、傷つけられて、それでもなお傍に居たいと泣いたさゆみのために、れいなはその心に手を伸ばした。
彼女が封じ込めていた想いを掬い取り、問いかけて、扉を開けた。
その時、彼女は確かに、云った。

「好き、だよ」

そう、云ったんだ。

「……好きっ…なの!」

だからこそ、なぜ「彼女」が居ないこの世界に、私たち二人は居るのだろう?
その疑問が浮かび、すぐに、晴れる。


これが、望んだ結末だったんじゃないか―――?


「……護ろうと、したと」

思い、出す。
濃い霧がゆっくりと開け、鮮明な視界が飛び込んでくる。
あの夜だ。
願いが弾けたあの瞬間、「彼女」は、護ろうとしていた。
振り下ろされる狂気に対し、咄嗟に引き金を引こうとした。
銃口を向け、心を殺し、全てを罪を背負ってでも、「彼女」は護らんがために力を込めた。

その身体を塞いだのは、


―――撃つなああああ!


私だ。

「あの子は、さゆを、護ろうとした」

「彼女」が沢山の感情を抱えて、その引き金に力を込めたことを、れいなは知っている。
仕事の範疇でありながら、個人的な感情を、さゆみへの想いを込めて、清算の引き金を引いたことを、れいなは、知っている。

だかられいなは、その銃口の前に立った。
「彼女」にどうしても、撃ってほしくなかった。傷つけてほしくなかった。

そう、あれは。


―――れーなの手は、そんな手じゃないよ


“彼女”がそう、教えてくれたから。


「あの子はさゆを、護っとったよ」

間違いだらけだったけど。
正しい選択じゃなかったかもしれないけれど。
それでも「彼女」は、引き金を引いた。他の誰でもない、さゆみのために。
深く心に色を付け、どうしようもなく愛しさを覚え、淡く切ない感情を掬うために。たった一人の人を護るために。

「護りたいから、出て行ったっちゃろ?」

ああ、そうだ。
だから「彼女」は背を向けたんだ。
約束を破り、人を傷つけた報いを自らに課し、あなたに相応しくないからと。
想いを伏せ、一歩踏み出したんだ。
それがたとえ、さゆみを傷つけることになったとしても、それでも「彼女」は振り向けなかった。

「逢いたいっ……」

さゆみが、涙をぼたぼたと零す。
頬に当たるそれは、雨よりも冷たく、どうしようもない悲壮感を与える。
「此処」には、さゆみとれいなが求める人はいない。
それはきっと、「綺麗」な世界なんだと思う。
彼女たちが居なければ、さゆみとれいなの世界は、今の世界は存在しなかった。
2人は普通に仕事仲間として付き合い、何らかの機会があれば身体を重ね、愛を囁かなくても関係は続いていた、かもしれない。
ビジネスパートナーとしての時間を紡ぎ、同じ景色を見ていたかもしれない。

だけど、もう2人は、出逢ってしまった。
自分の世界を傷つけても、苦しくなっても、哀しくなっても、それでも一緒に居たい人を。
分かり合えないからこそ分かりたくて、泣かせてしまったとしても護りたいほどの存在を。
綺麗なばかりじゃなくても。
薄汚れて乱れた空間であっても。

それでもどうしても、手を繋いでいたかったんだ。

「逢いに、いこう……?」

たった一人の、あの人に。

ふと、鼻を確かに擽った。
何処かで感じたこの香り、名前を覚えた、この香り。
微かにかぐわしいそれは、ああ、ラベンダーだ―――


「ふたりなら、だいじょうぶ」


それはどちらの声だったのだろうか。
さゆみの言葉か、果てはれいなの声か。
それとも、ふたりを待つ誰かの想いか。
もうそれは、確かめようもなかったけれど。

「れいな……」

さゆみは鼻を啜り「さゆみね」と紡ぐ。
れいなはしっかりと言葉を聞こうとする。もう二度と、落としてはいけない、彼女の感情を。

「やっぱり、あの子に、逢いたい」

そこに残った、たったひとつの、答え。
どれだけ裏切られたとしても、それでも懸けてみたい。たったひとつの、可能性に。
それにれいなは頷き、「れなも」と繋ぐ。

「れなも、あの子に逢いたい」

この世界は、優しいだけじゃ済まない。
ツラい事も、怖い事も、傷みも悲しみも、一種の絶望も、たくさんの寂しさを抱えて回っている。
だけど。
だけどふたりなら、暗闇だって怖くなかった。
怖くないって、信じられた。

光りの射さない世界に、確かな「光」をくれたのは、紛れもなくあなただったから。
だからせめて、そんな光りを浴びて輝く月のように、あなたの傍に居たかった。
あなたが望んでくれるのならば、いつだって、いつだって隣にいるから。


「―――」


その名を呼びたい、もう一度だけ、離さないように。

「待ってるね、れいな」

涙で滲んださゆみの声が遠くなる。
ああ、やっぱりさゆは、優しすぎる―――

そう感じながら、目を閉じる。
こめかみを刺すような痛みが激しくなる。
それでも瞳を開けず、身を委ねていた。

きっとその先に、求めた答えがある気がしたんだ。


―――れーな


分かってる。分かってるよ。

いま、行くよ―――





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