好き、とか
愛している、という言葉だけでは
アナタへの想いを表現しきれない
心の容量はアナタでいっぱいで
他の人なんて眼にも入らない
友人とお喋りしている一時間よりも
アナタといる一分のほうが幸せなの
アナタとの思い出が出来るたびに
心の宝物が増えていく
アナタといることが罪だというのなら
喜んでその罰を受けるわ
ねえ。
ワタシ、幸せだよ?
たとえ大好きな両親を裏切る形になったとしても。――――


【遥か未来まで】


高校三年生の聖は吹奏楽部に在籍していた。担当はフルート。
昼休みは自主練で、毎日空き教室で一人練習をしていた。
ある日、いつものようにフルートを吹いていると、ガラリ、教室のドアが開く音がした。聖は中断して振り返る。
そこにいたのは一学年下で、学校一の不良と言われている生田。
ケンカには縁遠い聖ですら顔と苗字を知っているくらい、有名な存在だった。

「なにか、ご用ですか……?」

恐る恐る声をかけてみる。

「今の音楽、アンタやったと?」
「……はい」

もしかして、うるさいと怒りにきたのかな、と内心怯えていると。

「なんて曲?」

予想もしていなかったことを聞かれた。

「……ケーラーの子守唄、です」

一応、ちゃんと答えてみる。

「ふーん、知らん曲っちゃ」

聞いておきながら、とんでもない言い草だ。

「ばってん、」

そこで彼は白い歯を見せてニカッと笑った。

「ばり良かったっちゃ」
「……え?」

思いもよらなかった言葉に目が丸くなる。

「アンタの……あー、名前なんて言うと?」
「……譜久村、聖、です」
「聖、って呼んでよか?」
「はあ、はい」
「聖、いつも昼休みはフルート吹いてるっちゃろ? 俺、屋上で毎日聞いとったと」

屋上? 彼の言葉に眉をひそめる。

「屋上は立ち入り禁止で鍵がかかっているはずじゃ……」
「ん、壊したと」

あまりにもあっさり言うものだから、真実味がなかった。
こちらが呆気に取られていても、彼は意に介さず話し続ける。

「聖の音楽、ばり気持ち良くて、俺は好きやけん。だからこれからも吹き続けてほしか」

言うだけ言って満足したのか、「じゃ」の一言だけで去っていった。
一人残された聖は、フルートを持ったまま呆然と立ち尽くしていた。
突然現れ、当然去っていった彼の言葉を反芻する。

「変な人……」

それが正直な感想だった。――――でも。

「そんなに悪い人じゃないのかも……

これも、素直な感情だった。


翌日の昼休み。聖は屋上へと続く階段を上っていた。
階段を上りきり、目の前にあるドアのノブを見る。
そこは、力任せ、という言葉が相応しい形に歪んでいた。――――どれだけの怪力なんだ。
ドアを押すと、それはギイ、と不快な音を立てつつも、簡単に開いた。
屋上へと足を踏み入れる。サア、と涼しい風が聖を出迎えた。
果たして、彼はそこにいた。寝転がる姿で空を見ている。
近付くと、足音で気付いたらしい、上半身を起こし、

「お、聖やん。どうしたと?」

人懐っこい笑顔を見せた。

「うん、あのね……」

左手に持ったフルートケースを掲げながら言いかけて、そして気付く。

「……生田君……その頰……」

彼の右頰に大きなアザが出来ていた。――――よく見ると、制服のYシャツのボタンもいくつか飛んでいる。

「んー? 今朝、他校のアホ共が絡んできただけっちゃ」

事もなげに言っているが、見ているほうが痛くなりそうなものだった。

「こんなとこにいないで保健室に、――――」
「センセーに『不良につける薬はない』って以前言われたと」
「そんな……ひどい」

自分のことのように落ち込む聖。

「別に構わんと。これくらい舐めれば治るっちゃ」
「そんな傷じゃないでしょ!?」
「聖は気にせんでよかと。――――それより」

聖の持っているケースを指し、

「俺に聞かせる為に来てくれたんやなかと?」
「……うん」

元気なく頷く聖とは対照的に、彼はあぐらをかいて嬉しそうな顔をする。

「聞かせてほしか。――――俺にはそれが一番の薬たい」

彼が言うと、本当にそんな気がしてきたので、ケースを開いてフルートを取り出した。

「――――じゃあ吹くね」

彼が頷くのを見てから聖は口をあてた。

――――――――♪

空へと吸い込まれていく音色。彼は一音も漏らさないように、熱心に耳を傾けた。
吹き終わり、フルートから口を離すと、彼はパチパチと手を叩いた。

「ばり良かったと。格好良い曲っちゃね」
「……うん、生田君に似合うかな、と思って」
「へー」
「曲名はね、――――『英雄行進曲』」

聖の言葉を聞いて彼は目を丸くした。

「俺が……英雄? 不良行進曲の間違いやなかと?」
「そんなタイトルの曲は無いよ」

聖が笑ってみせると、彼も照れたように笑った。

「――――ねえ、明日もここに来ていい?」

そう尋ねると、彼はあっけらかんと、

「屋上は俺のもんじゃなか。聖の来たいときに来ればいいっちゃ」
「じゃあ明日も来るね」
「おう」
「それじゃあ」

そうして聖は屋上を去った。階段を下りながら、自分の中に生まれた不思議な感情に戸惑っていた。

彼と多くの言葉を交わしたわけではない。
昨日会ったばかりの関係だ。
けれど。
彼と同じ空気を共有しただけで満足している自分が確かにいた。

約束を交わした翌日。
聖は昨日と同じように屋上へと続く階段を上っていた。
壊れたドアを押し開けると、彼は昨日と同様に寝そべって空を見ていた。

「やっほー聖ー」

寝たまま片手を振る彼に近付く。

「あれ? 今日は聞かせてくれんと?」

聖の持っているものがフルートケースじゃないことを訝しく思ったらしく、体を起こしてそう尋ねた。

「うん、今日はお休み」

持ってきた二つの箱を床に置く。

「聖……これ、」
「家から持ってきたの」
「そうじゃなくて。なにをするつもりと?」
「二つの箱がヒントです」
「……救急箱と裁縫箱、っちゃね」
「正解です。今日は、」

パカリと救急箱を開ける。

「生田君の手当てをしまーす」

彼は聖の言葉に慌てた。

「べ、別によかと、そんなことせんでも……」
「だーめ。見てるほうが痛いんだから」

脱脂綿に消毒液を含ませ、そっと彼の右手を取る。

「やっぱり。傷だらけじゃない」

聖は眉をひそめ、彼の指に脱脂綿をあてた。
いてっ! と声を上げられたが、気にせず多数の傷、一つ一つを消毒していく。
ひゅお、と涼しい風が吹き、聖の長い髪を揺らす。
消毒を終え、傷口に絆創膏を貼る。

「次は頰ね、湿布を出すから」
「ん……」

しぶしぶ、といった感じに頷く。
それを横目で見ながら湿布の袋を破り、一枚取り出す。
アザに合わせて湿布を貼る。と、彼は少しだけ顔をしかめた。

「動かないでね。今テープで固定するから」

サージカルテープを取り出して、湿布が落ちないように十字に止める。

「ほかに怪我してるとこない?」
「なかとー」
「そう。じゃあYシャツを脱いで」
「へ?」
「ボタン留めるから」

ぽかんとした表情で自分を見る彼に、痺れを切らした聖は、

「ほらほら早く」

と、無理矢理脱がそうとする。

「ちょ、待つと、自分で脱ぐっちゃ!」

彼は慌てた様子でYシャツを脱ぐ。その下に着ている蛍光色の黄緑Tシャツがやけに眩しくて、聖は目を細めた。
受け取ったYシャツの、ボタンが飛んでいる箇所を確認する。
手首の箇所も合わせて合計五つ。派手に飛んでるなぁ、と、聖はなんだか逆に感心してしまった。

聖がボタンを付けている間、彼は落ち着かない様子でTシャツのスソを引っ張ったりしている。
ボタンを三つ付け終えたところで、聖の集中力も途切れたらしい、顔を上げ、

「ねえ生田君」

と声をかけた。

「なん?」
「生田君は下の名前、なんて言うの?」
「俺? 衣梨奈やっちゃけど……」
「えりな……、――――じゃあえりぽんね!」
「はい?」
「聖、これから生田君のこと、えりぽん、て呼ぶから」

ニコニコ笑顔の聖と、あんぐり口を開けている衣梨奈。
呼び方が決まってスッキリしたのか、またボタン付けに戻る聖。
四つ目を付け終え、最後の一つに針を通し始めたところで。

「――――なあ、聖」

衣梨奈が声をかけてきたので、顔を上げる。

「なに? えりぽん?」
「聖は、――――俺のこと怖くなかとーと?」

そう言われて。
衣梨奈のことをまじまじと見つめる。

明るすぎる茶色の髪、耳に無数に開けられたピアス、動くたびにジャラジャラと音が鳴る腰のウォレットチェーン。

「校則違反の格好だなあ、とは思うけれど」
「聖、なんかズレとると」

聖は最後のボタンを付け始めた。

「初対面の時は少し怖かったよ。えりぽん有名だもん」
「あー。もう三人殺してるとか、そういう噂っちゃろ?」
「……それは初耳だけど。不良、と呼ばれているだけで実際はなにをしたのか全く知らないのに、そのレッテルだけで怯えてた」
「それが普通やと」
「でも聖のフルートを褒めてくれた、笑顔を向けてくれた、顔立ちが綺麗だった。
 ――――それが聖の見たえりぽん。だからえりぽんのこと、怖くないよ」
「…………」

聖はボタンを付けていた糸を留め、余分な糸をハサミで切る。

「はい完成。――――今だって、手当てやボタン付け、させてくれたしね。聖から見たえりぽんは、素直な男の子だよ」

Yシャツを衣梨奈に返す。衣梨奈はのろのろとソデを通した。

「――――聖、ありがとっちゃ」
「これくらいどうってことないから」
「傷の手当てやボタン付けのことやなか。……ありがとっちゃ」

衣梨奈の言いたいことが、分かるような分からないような、
そんなむず痒い気持ちになりながら、救急箱と裁縫箱を持って立ち上がる。

「えりぽん、明日も来るね」
「――――ん。待っとると」

聖がにこりと笑うと、衣梨奈もニカッと笑い返してくれた。



こうして聖の学校生活が少しだけ変わった。

昼休みになると、お弁当箱とフルートケースを持って屋上へと上がる。
食事を衣梨奈と摂り、その後は衣梨奈一人だけに向けてフルートを吹く。
日によってはフルートケースではなく、救急箱と裁縫箱を持って階段を上ることもあった。
衣梨奈の怪我は大抵、大したものではなかったので、日を重ねるにつれてあまり気にならなくなった。
それより気になったのは衣梨奈の食事内容だった。
いつも購買のメンチカツサンドやホットドックなのだ。
試しに、と思って野菜ジュースを渡してみたら、露骨に嫌な顔をされ、突っ返された。

「えりぽん、野菜も摂らないと大きくなれないよ」

子どもに言うような科白を言ってみる。

「今のままで充分とー」

あっさり流されてしまった。

「じゃあ……強くなれないよ?」

この言葉に衣梨奈は少し驚いた表情をして、

「聖、知らんと?」

逆に聞き返した。

「なにを?」

首を傾げて尋ねてみる。

「俺、ケンカは一度も負けたことなかとーよ」

衣梨奈の言葉に、今度は聖が驚いた表情になる。

「それ、本当?」
「こんなことで嘘を言ってもしょうがなか。ついでに言っとくっちゃけど、俺からケンカをふっかけたことも一度もなか」
「え! そうなの!?」

聖の驚きに、深く頷く衣梨奈。

「頼んでもないのに、向こうから絡んでくると」

ばってん、そこまで言って衣梨奈は空を仰ぐ。

「売られたケンカを全部高価買取してたら、この学校一の不良の称号がつけられたっちゃ」

聖を見ずに言うその言葉は、どこか寂しげだった。

「……そうなんだ

聖も寂しく呟くことしかできなかった。

「――――なぁ聖、フルートを聞かせてほしか」

暗くなった雰囲気を払拭するかのように、明るい声で聖に笑顔を見せる衣梨奈。
聖は、衣梨奈の切り替えの早さに、ついクスリと笑う。

「いいよ。どんな曲がいい?」
「んー、なんか落ち着いたやつが良かと」
「うん分かった」

ケースからフルートを取り出し、聖は立ち上がる。
一度深呼吸して、フルートを口にあてた。

――――――――♪

衣梨奈は目を閉じ真剣に耳を傾ける。
グルックの「精霊の踊り」が屋上に響き渡り、空に吸い込まれていった……。



そんな出来事があった数日後の放課後。
聖は教室で、部室である音楽室に向かうためにノートや教科書を鞄にしまっていた。
宿題のプリントも忘れずに入れ、鞄を閉めて立ち上がった、その時。

「ねえ譜久村さん」

声をかけられたほうを見ると、クラスメートの女子数人が立っていた。
聖が何の用か聞く前に、一人の女子が口を開く。

「友だちの友だちに聞いたんだけど、最近、二年のあのイクタと仲が良いって本当?」

言われた言葉に溜め息が出る。――――友だちの友だち。
実体も根拠もないような存在からの情報であり、そして『自分には責任ありませんよ』と言い逃れできる便利な存在だ。
それに衣梨奈の名前の前につけられた『あの』とはどういう意味なのか。
軽く怒りを抑えながら、

「それがなに?」

と聞き返す。

「ヤバイって。関わらないほうがいいよ」

別の女子が話し出す。

「だってアイツ、人を殺してるんでしょ」
「アタシは女の子を脅して無理矢理……って噂を聞いたことがある」

ヤバイよ、ヤバイよねー、チョー危ない、と騒ぎ出す女子たちに。抑えていた怒りが頂点に達した。
バン! と机を強く激しく叩く。
その音に驚いたのか、女子たちは口を閉じた。

「えりぽんはそんな子じゃないよ!」

叫んで、鞄を引っ掴んで教室を走り出る。
廊下も走り抜け、音楽室ではなく、屋上へと続く階段を駆け上がる。
乱暴にドアを押し開けると、渦中の人物が足を投げ出す形で屋上に座っていた。

「あれ、聖ぃー、部活あるんじゃなかとー?」

笑顔でのんきに話す衣梨奈の姿を見て。
心に溜まっていた思いが涙となって体の外から溢れ出た。

「ちょ、聖、なんで泣くっちゃ?」

衣梨奈が慌てて立ち上がり駆け寄ってくるが、涙は止まらない。聖は崩れ落ちるように床にヒザをついた。

すごく腹が立った。
すごく悔しかった。
すごく悲しかった。

寄ってきた衣梨奈が聖の背中をゆっくりとさする。――――その優しさも心に沁みて、余計に涙が溢れる。
根も葉もない噂を信じてお喋りの材料にする、先ほどの女子たちの姿が脳裏に浮かび上がる。

「えりぽんは……えりぽんは……っ」
「……俺のことでなにか言われたと?」

こくん、と一つ首肯する。

「えりぽんのことを、ひどく言われたの……」

囁くような大きさの声でそれだけ言うと。衣梨奈は優しく聖の頭を撫でた。

「聖のことも悪く言うヤツがいたら、ぶっ飛ばすけん。
 ばってん、俺のことだけなら、俺は慣れとるっちゃ、聖は気にせんでよかとーよ」
「でも……っ」

ぽんぽん、と頭を叩かれる。

「俺のために泣いてくれてありがとう、聖は優しいっちゃね」

違うよ、本当に優しいのはえりぽんだよ。

そう言いたかったのに。それは言葉として口から出なかった……。



それから一ヶ月ほど経った頃。
聖は日課となった衣梨奈との昼食のとき、

「えりぽん、最近は怪我がないね」

嬉しく思いながら言った。
衣梨奈は焼きそばパンを咀嚼しながら、

「この辺りのアホ連中は、ほとんど叩き潰してやったけん、もう絡んでくるヤツはおらんちゃろ」

あっけらかんと答える。

「それは……いいこと? だよね、うん」

聖は自分に言い聞かせるように返す。
パンを全部胃に収めた衣梨奈は、腕をぐーと伸ばし、

「ばってん、腕が鈍ってしまうと」

つまらなそうに言う。

「……えりぽんはケンカが好きなの?」
「ケンカが、って言うより強いヤツと闘うのが好きっちゃ」

その言葉に聖は、こくり、と小さく唾を飲み。

「あのね、えりぽん。……前から考えてたんだけど……」
「うん? なん?」
「――――部活をしてみる気、ない?」

聖の言葉に。
衣梨奈は目を大きく丸くした。

「俺、楽器はなんもできんちゃよ?」
「吹奏楽じゃなくて。その、ボクシング部に」

衣梨奈は不思議そうに首を傾げる。

「ボクシング部? うちの学校にそんな部、あったと?」

頭上に疑問符を浮かべた衣梨奈に、聖は順を追って説明し出した。

「うんあのね、聖の一つ上の学年の人たちが最後の部員だったらしくて、今は部員がゼロで休部状態なの。
 でも顧問の先生はまだいらっしゃるし、ボクシングの設備も残ったままらしいの。
 ほら、運動部の部室棟の隣にプレハブの平屋建ての建物を見たことない? あそこがボクシング部なの」

聖の説明に、衣梨奈は少し興味を示したようだった。

「ボクシング、かぁ」
「不良さんたちより強い人、いっぱいいるだろうし、それに聖はえりぽんが全国制覇だってできるって思ってる」
「全国制覇。――――いい響きっちゃね!」

俄然ヤル気が出たようで、衣梨奈は身を乗り出す。

「でしょう。だから今日の放課後に顧問の先生に会ってみようよ」
「ん。分かったと」

頷いて聖を見るその目は、どこか輝いていた。



そして放課後。
聖は部活を休み、衣梨奈の横を歩いて職員室へと向かう。

「なんか緊張すると」

固い声で呟く衣梨奈に、クスリと笑う。

「えりぽんでも緊張するんだ」
「俺にとっては、職員室なんて怒鳴られる場所専用やけんね」
「今回は怒られるために行くわけじゃないから、もっとリラックスしようよ」
「ばってん……」

緊張を解すようにYシャツのボタンを忙しなくいじる姿が、聖には可愛く見えた。
たどり着いた職員室。

「失礼します」

聖が声をかけてドアを開ける。

「……失礼しまーす」

聖の後に入ってきた衣梨奈に、職員室にいた人間の視線が一斉に集中する。
聖は努めて視線を気にせず、ボクシング部の顧問のいる机へと足を進める。
その後ろをこそこそ歩く衣梨奈。
ボクシング部の顧問はパソコン作業の手を止め、険しい目でこちらを、――――正確には衣梨奈を見ていた。

「先生」
「どうした譜久村」
「ボクシング部の入部希望者を連れてきました」
「入部希望者って……生田、お前のことか?」
「――――はいですっちゃ」

険しい目のままの顧問に、堂々とした態度で衣梨奈は返事する。

「ボクシングはケンカの道具じゃない」

それだけ言って、顧問はパソコンに視線を戻す。

「ケンカに使うつもりなんてなかと。俺はボクシングで全国制覇を目指すつもりたい」

ぴくり、顧問の肩が動いた。

「……全国制覇とは大きく出たな、生田」

再び衣梨奈を見る顧問の目に、険しさは消えていた。

「それだけ本気ってことばい」

真剣な表情で答える衣梨奈に、顧問の片方の口角が上がる。

「――――ならお前の本気を見せてもらうぞ。すぐに音をあげたら『生田衣梨奈は根性なし野郎です』と学校中に広めるからな」
「望むところっちゃ」

顧問は机の引き出しから鍵を一つ取り出して立ち上がる。

「じゃあついて来い。譜久村、お前もだ」
「は、はい」

職員室を出ようとする顧問と衣梨奈の後を、聖は慌てて追い駆けた。


顧問は鍵穴に鍵を差し、錆びついた引き戸を開けた。
中に入ると、一年以上も使用されてなかったせいか、埃と汗の臭いが鼻についた。
衣梨奈は物珍しそうに腹筋器具やサンドバッグをキョロキョロと見る。

「ジャージは……持ってきてないんだな。じゃあ今日は体験入部ということで、好きに道具を使っていいぞ」

顧問の言葉に、衣梨奈は、ととと、サンドバッグに近寄る。

「センセー、これ叩いてみてよかと?」
「ああ。ただ素手では駄目だ。準備してやるからちょっと来い」

その言葉に従い、二人はグローブやヘッドギアが置かれた棚に行く。

「まずはバンテージで拳を痛めないようにする。今は巻いてやるが、巻き方も覚えて自分で出来るようにしろ。
 それからグローブを……練習用はこれだな、グローブをはめて叩くんだ」

グローブをはめた衣梨奈は、

「なんか手が不自由に感じるけん」

そう感想を漏らす。

「その内に慣れる。それからファイティングの構え方は、――――こうだ」

顧問が取ったポーズを、そっくりそのままで構える衣梨奈。

「左拳はアゴを守る役割もあるから絶対に下げないようにしろよ。そして基本的な攻撃は、ジャブ・ジャブ・ストレート」
「じゃぶじゃぶストレート?」
「ジャブ、な。右で軽いパンチを放って相手を牽制する。それを二回行って、左で攻撃のストレートパンチを撃つ」

言いながら顧問はゆっくりパンチを放つ。

「ちょっとここで練習してみろ」

言われた通り、空気に向かって拳を繰り出す衣梨奈。衣梨奈がパンチを放つたびに、シュッ・シュッ・ブンッ! と空気が鳴いた。

「……よし、サンドバッグを打ってみろ」
「はいっちゃ」

サンドバッグに駆け寄る衣梨奈。聖と顧問は危なくない距離から並んで見守る。

「ジャブ・ジャブ・ストレート、っちゃね」

そして衣梨奈はサンドバッグに拳を打ち込んだ。

――――――――。

衣梨奈が右拳を打ち込むたびに、サンドバッグは軽く『く』の字に曲がる。
攻撃の左ストレートを放つと、サンドバッグは大きく浮かび上がり、そして振り子のように激しく揺れた。

「譜久村……」
「はい」

名前を呼ばれ、顔を仰ぎ見ると顧問は驚いた表情をしていた。

「お前、すごい逸材を連れてきたな……」

その声は少し呆然としている。
衣梨奈はサンドバッグが気に入ったのか、何度も叩いている。
ギシギシと激しく揺れるサンドバッグ。
――――そのうち、その振動がプレハブの建物にも伝わり、部室全体がギイギイと音を立て始めた。

「生田! もういいぞ、止めるんだ!」

顧問の声が飛ぶ。衣梨奈は素直にサンドバッグを打つのを止めた。

「――――生田、お前は本気でインハイに出たいか?」
「いんはい?」

首を傾げる衣梨奈に顧問は説明する。

「インハイ、インターハイ。全国大会のことだ。それに出て優勝すればお前の目指している全国制覇だ」

その言葉に衣梨奈の目はキラリと輝いた。

「ボクシングのインハイは夏季だから今年は無理だが……もし来年に出る気があるのなら、先生は全面的に協力してやる!」

顧問の宣言に。
衣梨奈は90度のお辞儀をして、

「よろしくお願いしますけん!」

大声で礼を言った。



それから衣梨奈のボクシング生活が始まった。
顧問が「髪はまあ目をつぶるとしても、ピアスは危険だから外せ」との言葉に素直に従って、全て外した。
サウナスーツを着てのジョギング、鏡の前でのシャドーボクシング、縄跳び、サンドボールを使っての腹筋鍛え、
顧問とのスパーリング……もちろんサンドバッグでの練習も含まれている。その他諸々。
毎週のように日曜日にはボクシング部のある他校に練習試合に出かけた。
時には顧問が自家用車を使って隣県の学校まで送ってくれた。
それは、強豪校として名高い遠くの他県にまで及ぶこともあった。
体験入部のときに顧問を驚愕させた衣梨奈のパンチはリング上でも衰えることなく、むしろ更に強さを増して、相手をリングに沈めた。
大会など正式な試合にはまだ出ていなかったが、顧問の熱心な協力と、
そして衣梨奈自身の才能のために、高校ボクシングの世界で「生田衣梨奈」の名前は急速に広まっていった。

ある月曜日の昼休み。
聖はいつものように屋上で衣梨奈と昼食を摂っていた。
衣梨奈は昨日も練習試合に行っていたらしい、右の口端に絆創膏を貼っている。

「えりぽん、ボクシングは楽しい?」
「もちろんやけん! 不良共より歯応えのあるヤツが沢山おると。ばり楽しか!」

そしてニカッと笑い、

「これも聖が勧めてくれたおかげっちゃね!」

真っ直ぐな瞳を向ける。

「そ、そんな大したことはしてないよ……」

聖は気恥ずかしさで顔を紅くさせる。
衣梨奈は気にせずカレーパンを齧り、

「……ごちそーさん」

まだ半分ほど残っているカレーパンを袋に戻した。

「えりぽん食欲ないの?」

純粋に疑問に思ったことを口にしてみる。
衣梨奈は腹をさすり、

「昨日の相手、ボディブローをばり叩き込んできやがったと。正直、腹が痛くてあんましメシが食えんと」
「ええ! 手当てしないと……」

隅に置いておいた救急箱に手を伸ばすと、衣梨奈はひらひらと手を振った。

「大丈夫っちゃ。こういう痛みに慣れてこそボクサーは強くなると」
「……そっか」

救急箱に伸ばしていた手を引っ込める。

「なあ聖」
「えりぽんなに?」
「手当てしてくれるんなら、――――フルートを吹いてほしか」
「え?」
「前にも言ったっちゃろ。聖のフルートが一番の薬やけん」
「――――分かったよ」

ケースからフルートを取り出し立ち上がる。
なにを吹くか少し考えて。それから口元にフルートをあてた。

――――――――♪

フルートのための曲ではないけれど、聖の好きな一曲だった。
――――どうかこの優しい音色がえりぽんの痛みを癒してくれますように、――――。
そう願いながら聖はフルートを吹いた。

バッハ「G線上のアリア」



夕暮れの街中。聖は部活を終え、歩いて帰路についていた。
衣梨奈はまだ部活中らしく、学校を出る間際にボクシング部を覗くと、真剣な表情で腹筋をしていた。
声をかけるのも躊躇われるほどだったので、静かにそこを去ったのだ。
――――衣梨奈が遠い存在になったように感じた。

歩いていた足を止める。

「寂しいと思うなんて……聖、ワガママなのかな、――――」

その時だった。
口を手で覆われ、強い力で横の路地に引っ張られる。
思わず持っていたフルートケースを取り落とし、あっという間に全身を暗くて細い路地に引きずり込まれた……。
あまりの混乱と恐怖に抵抗することも忘れ、ずるずると路地奥へと引っ張られる。
路地の最奥はコンクリートの壁になっており、またもや強い力で、壁に投げられた。
背中からぶつかり、その痛みでずるずるとへたり込む。
顔を上げると四人の男が聖を見下ろしていた。
それぞれ赤髪・茶髪・銀髪・金髪で、ゲージの大きなピアスをつけて、だらしなく制服を着崩している。――――典型的な不良だ。

「こいつが生田のオンナかよ。いーオンナじゃん」

ボス格らしい赤髪の男がそう言うと、他の三人はニタニタと笑った。

「マジで生田にはもったいねーな」と茶髪。
「オレらでマワしちまおうぜ」と銀髪。

聖は、男たちの言う「マワす」の意味はよく分からなかったが、これからひどいことをされることだけは理解できた。
恐怖でガタガタ震えている聖の側に赤髪がしゃがみ込む。

「じゃ、オレからな」

いやらしい目つきと笑みで聖のブラウスの胸元を。無理矢理引きちぎった。

「きゃあ!」

思わず出る悲鳴。すかさず左頬に平手打ちが飛んできた。

「うるせえ静かにしてろ!」

痛みと恐怖で声が出せずにいると、赤髪はニタニタと笑う。

「おとなしくしてりゃーいんだよ。そしたら気持ち良くしてやるぜえ?」
「そうそう、オレらなしじゃいられないくらいの身体にしてやるって」

茶髪がそう言うと、男たちはゲラゲラと下品に笑った。

「じゃあオレはムービー撮るわ」

そう言って金髪はスマホを取り出す。

「データを業者に売ったらいい小遣いになるんじゃね?」
「いいなそれ。このオンナ、おっぱいもデケーし」

赤髪が下品な笑みを浮かべて、聖の胸を鷲掴みする。
強く乱暴に掴まれたせいで、痛みで顔を歪めるが、
赤髪は気にせず片手で聖の胸を掴み、片手で自分のズボンのベルトを外し始める。


嫌だ。
痛い。
怖い。
助けて……!


その時、――――聖の頭に浮かんだのは、たった一人の人物だった。

「――――なんしとーと」

路地の入り口から聞こえた声に男たち全員が振り返る。

――――そこには。

聖が求めてやまない人物、――――衣梨奈が立っていた。

「ジョギングの最中に見覚えのあるフルートケースが落ちとったから、まさかと思ったら……! お前ら聖になんしたと!?」

衣梨奈の怒声に、男たちは一瞬怯む。が、

「まだなにもしてねーよ。これからするんだよ」

赤髪の言葉に、男たちはゲラゲラと下品に笑う。

「聞いたぜ生田ぁ、お前ボクシング始めたそーじゃん」

銀髪が馬鹿にしたように言う。

「ボクサー様がケンカなんてしたら選手生命は終わりだよなあ?」

茶髪が脅しとも取れる発言をした。

「最悪、退学処分かもなぁ?」

赤髪が舐めきった口調で言う。

――――それらの言葉に対して衣梨奈はなにも言わず、指一本動かさなかった。

「ほら、ボクサー様はとっとと去れよ。これからオレらはお楽しみなんだからよ」

金髪が軽々しい態度で言いながら衣梨奈に近付いた。
その瞬間。
衣梨奈の右手が金髪の後頭部を素早く掴み、そのまま横の壁に金髪の顔面を激しく叩きつけた。
グシャア! と不快な音を出し、金髪は顔面を血だらけにしながら地面に倒れた。

「なっ……テメエ! 自分がなにしたのか分かってるのか!?」

赤髪が吠える。
対して衣梨奈はサラリと、
「お前らはアホたい」
と言い放った。
そして男たちを鋭く睨み、

「選手生命より退学より、――――聖のほうが大事に決まっとるばい!」

吼え返し、素早く男たちの一人、銀髪に近付く。
そして、手加減なしの左ストレートを撃ち込んだ。
銀髪は吹っ飛び、生ゴミの入ったゴミ箱に頭から突っ込む。

「生田死ねやぁ!」

茶髪が落ちていた鉄パイプを拾い上げ、振りかぶる。

えりぽん!

聖が声にならない悲鳴を上げる。
ガスッ! という音に、つい目を閉じる。
そして恐る恐る目を開けると、――――

「今、なんかしたと?」

後頭部に鉄パイプを受けながらも、平然と立っている衣梨奈と、驚きの表情の茶髪の姿があった。
茶髪は鉄パイプを握ったまま固まっている。
その隙に衣梨奈はくるりと体の向きを変え、茶髪の手首を掴み、――――流れる動作で茶髪のアゴにヒザ蹴りをお見舞いした。
泡を吹き、白目になって倒れる茶髪。

「動くな生田ぁ!」

その言葉と共に聖の喉に小振りだがよく切れそうなナイフがあてられる。
ナイフを持った赤髪は、弱い犬が威嚇するように、

「オンナの命が惜しかったら……」

叫びかけ。

「惜しかったら、――――どうすると?」

衣梨奈の、静かだが青い炎のような雰囲気に飲み込まれ、言葉を失う赤髪。

「聖にこれ以上なんかしたら、――――貴様はどうなると?」

ゆっくりと赤髪に近付く衣梨奈。――――赤髪のナイフを持つ手は小さくカタカタと震えている。

「動くなって言ってるだろお!」

赤髪の叫びも虚しく、衣梨奈は赤髪の前に立ち。
ナイフを持っている腕を掴み。
グシャボキッ!
骨を握り潰した。
ギャアアアッ! と汚い悲鳴を上げてナイフを取り落とす赤髪。

「……うるさか」

それだけ言って、衣梨奈は赤髪の腹部に一発、右のブローを叩き込んだ。
赤髪は悲鳴を上げるのを止めて、地面に倒れて胃液をまき散らす。

衣梨奈は聖の前にしゃがみ込み、優しい笑顔を見せながら、

「聖、立てると?」

労わるように声をかけ、手を差し出す。
いまだ現状が把握できない聖は、無意識にその手を取った。
聖の手を握り、一緒に立ち上がる衣梨奈。
そして周りを一睨みしてから冷たい声で言い放つ。

「次、聖になんかしたら、こんなもんじゃすまんと。――――本当に殺すけんね」

半分は気絶し、半分は痛みで悶絶している男たちに返事する術は無かった。



聖は衣梨奈に手を引かれ、街中から住宅街へと歩く。
聖のブラウスのボタンは弾き飛ばされたため、衣梨奈のジャージを上に着ていた。
ちなみに衣梨奈は蛍光色の黄緑Tシャツ姿だ。
歩いているうちに、衣梨奈の手の熱が優しい温もりとなって、身体中に広がり染み渡る。
安心すると同時に、先ほどまでの恐怖が徐々に浮かび上がってきた。
聖の足が止まる。つられて衣梨奈の足も止まる。
衣梨奈が振り向くと、――――聖はポロポロと涙を流していた。

「み、ずき……」
「えりぽん……えりぽん! 怖かった、すごく怖かったの……っ!」

そこまで言うと、本格的に泣き出した。
泣きじゃくる聖を、衣梨奈は優しく抱きしめる。

「すまんちゃ、俺のせいで……! 聖を怖い目にあわせてばり悪かったと」

――――えりぽんのせいじゃないよ。
助けてくれてありがとう。

そう言いたいのに、流れる涙のせいで上手く言葉が出てこない。
恐怖で泣く聖を、衣梨奈はずっと抱きしめていた……。



聖の涙も落ち着いたころ。
衣梨奈は、そっ、と体を離した。そして男に叩かれて青くなった聖の左頬を痛々しそうに見る。

「聖、その顔じゃ家に帰れんちゃろ? 応急処置くらいは出来るけん、俺んちに来ると」
「うん……」

聖は素直に頷いた。
再び衣梨奈にゆっくり手を引かれ。着いた先は。
二階建て木造アパートの一階の部屋だった。

「……おじゃまします」

ガスコンロと流しだけという小さな台所に六畳の畳部屋が一間。
それに浴室とトイレ。――――それが衣梨奈の家だった。

「俺一人やけん、気兼ねすることはなかと」

スニーカーを脱いで中に入り、押入れから救急箱を取り出す衣梨奈に、
聖は聞いてはいけないことかと思いつつも、誘惑に勝てず、口を開く。

「えりぽん……ご両親は……?」
「ん? お袋は俺が小さいころに男作って家を出て行ったと。
 親父は長年の酒びたり生活のせいで今はアルコール閉鎖病棟におるたい。
 俺は親戚のお情けの雀の涙程度の仕送りで生活しとるっちゃ」

――――やっぱり聞いてはいけないことだったんだ。あっけらかんと答えた衣梨奈が逆に痛々しくて、聖の顔が曇る。

「……ごめんなさい」
「? なんで聖が謝ると? さ、それより手当てするっちゃ

あぐらをかいて救急箱を開く衣梨奈の側に腰を下ろす。
衣梨奈は湿布を聖の顔のサイズに合わせてハサミで切り、青くなった箇所に貼り付ける。

――――ひんやりとした感触が心地良い。

テープで固定されている間、聖のケータイにメールの着信音が鳴った。

「親からと?」
「うん、多分お母さん。いつもの帰宅時間を大幅に過ぎてるから……」
「心配させたらあかんちゃ。処置は終わったけん、返信すると」
「分かったよ。ありがとうね、えりぽん」

早速鞄からケータイを取り出し、メールを読む。予想通り母親からで、安心させるような内容を打って送信した。
ケータイを鞄にしまい、衣梨奈のほうを振り向く。

「えりぽんは大丈夫なの?」
「なにがっちゃ?」
「さっき……鉄パイプで頭を……」

聖の言葉に、衣梨奈は自分の頭に手をやる。

「俺は頑丈やけん、問題なか……ん?」

不思議そうな声を出した衣梨奈に聖も首を傾げる。

「どうしたの?」
「いや……なんか、ぬるっとしたものが」

そう言って手を離すと。――――手には赤い血がべったりとついていた。

「きゃああ! え、えりぽんのほうが重傷じゃない!」
「痛くなかったけん、全く気付かんかったと」

慌てる聖に、どこまでものんきな衣梨奈。
聖はバタバタと衣梨奈の背後に回って傷を確かめる。
髪の毛を掻き分けて傷口を見ると、そんなに大きくはないが、はっきりと裂傷していた。
急いで近くにあったティッシュを数枚引き抜いて血を拭う。
何度もティッシュを取り替えて傷の周りの血を拭った。
あらかた拭うと、傷に止血の軟膏を塗ってガーゼをあてる。そして包帯で丁寧に巻いた。

「聖は大袈裟っちゃ」
「大袈裟じゃありません」

包帯を留めて衣梨奈の正面に戻る。

「明日はお医者さんに行ってね」
「別に大丈夫っちゃよ」

頭に包帯を巻いた衣梨奈の姿は、聖には痛々しく映る。

「大丈夫じゃないよ……」

涙が出そうになるのを堪える。

「聖のために……無茶はしないで……」

堪えていた涙が一筋、頬を伝った。

「聖、」

衣梨奈が手を伸ばす。
頭を引き寄せられて、――――唇と唇が重なった。

聖は目を閉じることも忘れて口付けを受け入れていた。
距離が近すぎて、衣梨奈の顔はぼやけている。
ただ、閉じられた衣梨奈の目のまつ毛が、男の人にしては長いな、という感想はあった。

衣梨奈がゆっくりと顔を引き、重ねるだけのキスは終わった。
聖は信じられない思いで、自分の唇を指で触れた。

――――今のはマボロシ? ユメ? それとも、――――

目を開けた衣梨奈が、

「……あ、順番を間違えたと」

困ったように頭を掻いた。
衣梨奈は真剣な表情になって聖を見つめる。

「俺は聖のことをばり好いとぅ。――――聖、俺の女になってほしか」

これを先に言うつもりだったとに、という衣梨奈の呟きは聖の耳に入らなかった。
なにも言わずに自分を見つめてる聖に、衣梨奈は心配になる。

「返事……聞かせてくれんと?」

衣梨奈が不安げな声を出した瞬間。
聖は衣梨奈の胸に飛び込んだ。

「みず、――――」

名前を呼ばれかけたところで、今度は聖が衣梨奈の唇を奪う。
10秒くらいのキスをして、ゆっくり体を離す。
そして衣梨奈の目を見て微笑んだ。

「聖もえりぽんのことが好き。大好きです」
「聖、――――


――――この人が呼ぶだけで、自分の名前が愛しくて尊いもののように思える。


見つめ合い。そして今度は二人、目を閉じて口付けを交わした。
重ねるだけのものから啄むものになり、チュ、チュという音が部屋に響く。

「ん……」

聖は両腕を衣梨奈の首に回す。

「はあ……」

吐息を漏らすと、その口も塞がれる。
唇が開いていたので、するりと衣梨奈の舌が入ってきた。――――それを抵抗なく受け入れる。
舌同士が触れ合い、絡み合う。
クチュ・ピチャ、と水音が鳴る。

――――聖は自身の中で衣梨奈への想いと身体の熱が昂ぶるのを感じた。

それは衣梨奈も同様だったらしい、――――左手がそ、っと聖の右胸に添えられる。
そして優しく胸を揉む。――――慈しみに溢れた触り方で、先ほどの赤髪の男とは大違いなので、聖の中に嫌悪感は一切なかった。
むしろ身体の熱がますます上がる。
衣梨奈が聖の着ているジャージに手をかけたところで、唇が離れる。
至近距離で見る衣梨奈の瞳が「よかと?」と尋ねている。
だから聖は微笑んで、

「……続きはお布団で、ね?」

と甘く囁いた。
衣梨奈は、自分の敷きっぱなしの薄い布団をちらりと見、

「……本当に俺でよかと?」

と今更ながらのことを聞いた。
聖は頷き、

「えりぽんがいい。えりぽんじゃなきゃ嫌なの」

一種の信念を持って答えた。

「……嫌だったり怖かったり痛かったら、すぐに言うっちゃよ」

それだけ言って、ひょい、と聖をお姫様抱っこした。
ゆっくりとした足取りで向かい、優しく聖を布団の上に下ろす。
そしてまた、どちらから合図することもなく、二人は唇を重ねた。
唇を離すと衣梨奈は聖のジャージのジッパーをゆっくり下ろしてジャージを脱がせる。
その下に着ていたブラウスも優しく脱がせた。
聖の上半身がブラジャーだけになったところで、衣梨奈はコクンと唾を飲み込んだ。
そして震える手で聖の背中に手を回す。ぎこちなく、不器用な動作で、なんとかブラのホックも外した。
衣梨奈はホックを外したブラも脱がす。
聖が、さすがに少し恥ずかしくて胸を両手で隠していると、衣梨奈は自分の着ていたTシャツを荒々しく脱いだ。

「聖……隠さんで」

お互い上半身裸になったところで、優しく腕を掴まれる。
そして聖のたわわな胸は衣梨奈の熱い視線を受けた。

「ばりキレーっちゃよ……」

うっとりとしたような衣梨奈の声。蝶が花の蜜に誘われるかのように、衣梨奈は聖の胸元に口付けた。

「あ……」

思わず漏れ出る甘い声。
ちゅ、ちゅ、と衣梨奈は聖の胸にキスを降らせる。
それだけで、聖の息は上がっていく。
衣梨奈の唇が、そろり、と胸の先端をかすめ。ぱくっと口に含んだ。

「んうっ」

口の中でぺろぺろと舐められる、先端が硬く起立し出すのが分かった。
舐めるだけでなく、ちゅう、と吸ったり甘噛みしたり。――――聖は無意識に股をこすり合わせた。
衣梨奈は聖の両腕を解放し、口で愛撫していないほうの胸を優しく揉む。
先端を指の腹がかするたび、

「あんっ」

と、自分でも聞いたことのないような声が出た。
衣梨奈の行為はエスカレートしていって、先端を二本の指でクリクリと擦られると、

「えりぽん……っ」

聖は堪らなくなったように衣梨奈の頭を抱き、髪に手を入れる。
衣梨奈の指が、舌が、唇が動くたびに、聖は衣梨奈の髪をぐしゃぐしゃに掻き回す。
――――衣梨奈の頭の包帯がズレるが、それを気にする余裕が聖にはもうなかった。

「はあっ、あっ」

出てくる息もすごい熱い。

「えりぽん……もう、っ」

聖の言葉に衣梨奈は愛撫を止めて顔を上げる。
衣梨奈の手が、する、と聖の太ももを撫でた。ビクリ、と身体が震える。

「待、って……下は自分で脱ぐから……!」
「ん……。じゃあ俺も」

甘い痺れが身体中にあったが、なんとかしてスカートとショーツを脱ぐ。
衣梨奈を見ると、乱暴にズボンとパンツを一緒に下ろしている。
――――その時に見えた衣梨奈の男根は、カチカチになって天を向いていた。
二人とも全裸になって、お互いなにも言わずに抱きしめ合う。

「……素肌同士って、こんなにも気持ち良いんだ……」
「そうっちゃね。知らんかったと」

衣梨奈は体重をかけ、布団の上に聖を押し倒す。
聖は「えりぽん……」とだけ呟いて、その行為を受け入れた。
布団の上で裸で絡み合う二人。

衣梨奈はあちこちにキスしたり、滑るように肌を撫でたりして、聖を昂らせていく。
聖は熱い息を吐いたり、甘い声で鳴いたりして、衣梨奈の興奮を煽っていた。

聖は衣梨奈の両肩を掴み、衣梨奈は聖の股を割って身体を入れる。

「……辛かったらちゃんと言うとよ」

それだけ言って、自分の男根の根元を掴み、潤いすぎて布団に小さな水溜りを作ってしまった聖の秘部に、挿入し始めた。
聖は硬い異物が自分の中に入ってくるのを感じた。
衣梨奈が少しずつ腰を落とすたびに、異物感は増してくる。
男根が3分の1ほど入ったところで、衣梨奈は、ふぅー、と息を吐き、

「……いくっちゃよ」

と言って、ぐっ、と腰を落とした。

「んっ!」

――――身体が裂けるような激しい痛み。奥歯を噛み締めて必死に耐える。
衣梨奈の肩を掴む手に力が入る。

「聖……力、抜いて」

そんなこと言われても、そんな気持ちがあったが、はあ・はあ、と口で大きく呼吸して、なんとか力を抜いてみせる。
すると、ずぷぷ……と音を立て入ってくるのが分かった。

「んっ、ああっ!」

喘ぎではない、痛みのせいで声が出る。無意識に目を閉じる。
それでも言われた通り、自分なりに力を抜いていると。

「聖、もう大丈夫っちゃよ。全部入ったけん」

衣梨奈の優しい声が降ってきた。
ゆっくり目を開けると、そこには微笑んでいる衣梨奈の顔が近くにあった。
衣梨奈は身体を倒して聖を抱き締める。聖も衣梨奈の肩に置いていた手を背中へと回した。

「聖のナカ、ばり温かいと……それにトロトロでギュウギュウで……俺、動かなくても射精してしまいそうたい」

夢心地に呟く衣梨奈に、聖は背中をさする。

「……だめ。……動いて?」
「聖?」
「もっと気持ち良くなって? そして、――――聖を気持ち良くさせて?」
「……身体、辛くなかと?」
「だいじょうぶ……大丈夫だから。――――ね?」

聖の言葉に従うように、衣梨奈はゆっくりと腰を動かし始める。
ズグ・ズグリ、と結合している部分が音を立てる。

「はあっ、あっ」

気持ち良いのかまだ分からなかったが、自然と声が出た。
衣梨奈は気持ち良いのか、はあ・はあ、と熱い息を吐きながら徐々に腰の動きを速めていく。

「あん、んあっ」

お互いがお互いにしがみついて、腰をぶつけ合う。
その時だった。

「あぁん!」

衣梨奈の男根がある箇所を擦ったとき、高い声が出て、自分のナカが締まったのが分かった。
聖の変化に衣梨奈も気付いたらしく、

「聖はココが感じると?」

そう言って、重点的にその箇所を攻める。

「ふあ、ああ……だめぇ……おかしくなっちゃう……」

震える声で訴えてみるものの、衣梨奈は、

「よかよ。――――おかしくなった聖も見せてほしいと」

と、聖の弱い箇所を攻めるのを止めない。

「はぁんっ、あっ!」

足の指が丸まる。目の焦点が合わなくなる。
自分の限界が近いのを悟り、必死に衣梨奈にしがみつく。
衣梨奈も衣梨奈で、

「そろそろ……イクッ!」

そう言って聖のナカから男根を引き抜こうとしていた。
瞬間。

「だめっ!」

聖は叫んで両足で衣梨奈の腰をホールドした。

「み、ずき……?」

腰の動きを止め、訳が分からない、といった表情の衣梨奈に。

「……ナカに、出して」

聖は自分の願いを口にした。

「ばってん、――――」
「お願い……えりぽんの全てが欲しいの……」

二人とも、真剣な表情で相手を見る。
――――しばし見つめ合い。

「……もっと大きく動くばい」

覚悟を決めたように衣梨奈は言った。
聖はそれに頷く。

腰の動きが再開される。
聖も合わせるようにゆらゆらと腰を動かした。
ぱん! ぱん! と腰同士がぶつかる音が部屋に響く。

「えりぽん! えりぽぉん!」
「聖……好きっちゃ、ばり好いとぉ!」

衣梨奈が男根をぎりぎりまで引き抜き、強く深く打ち込んだ。

「ああっ!」

聖の背中が大きく反る。自分のナカが強く収縮するのが分かった。

「……出るっ!」

衣梨奈の叫びとともに、熱い液体が注がれ。
聖の意識は白い光に包まれた。
白い光の中で今まで経験したことのない快感を感じ、――――。
――――そこで聖の意識は途切れた。


目が覚めると、聖は自分がなにか固いものを枕にしていることに気付いた。

「あ、起きたと?」

すぐ近くで優しくて愛しい声が耳に入った。
少しだけ顔を上げると、衣梨奈が柔らかく笑っていた。
そして分かった、自分が枕にしていたのは衣梨奈の腕だったことに。
慌てて頭を起こす、

「えりぽん、腕は痺れてない?」

衣梨奈は笑って、優しく聖の頭を自分の腕の上に戻す。

「聖は軽いから平気っちゃ。それより、――――」

そ、っと聖の頰に衣梨奈は触れる。

「聖こそ、身体は大丈夫と? 俺、初めてやったけん、無理させたかもしれんばい」

不安そうに自分を見つめる衣梨奈。その胸板に額をあてる。

「――――大丈夫。えりぽんの愛情を感じれて、すごく嬉しかったよ……」

そう答えたら、優しく抱き締められた。

「……そんな可愛いこと言うんじゃなかと。帰したくなくなるけん」
「――――いいよ、帰さなくても」
「へ?」

顔を上げると、ぽかんとした表情の衣梨奈と目が合った。
聖はクスリと笑う。

「さっきお母さんからのメールにね、」
「うん」
「『今日は女友だちの家に泊まるから』って返信したの」
「それって……」
「うん、だからね、」

体を回転させて衣梨奈に覆い被さる。

「もっと、愛して……?」

囁き、口付けると、衣梨奈も強く聖を抱き締めた。


そうして。
二人は夜が更け、そして夜が明けるまで、身体を重ね、交わり合った。――――




二人が正式な恋人になってから、しばらくして。
秋も深まり、そろそろ屋上での昼ご飯は辛くなってきたね、なんて話をしていた。

「なあ聖。実は頼みごとがあるけん」
「なあに? えりぽん」

衣梨奈の口から出た言葉は聖を驚かすのに充分だった。

「勉強を教えてほしいと」

「いいけど……どうして?」
「俺、大学にいけるかもしれんと」
「ええっ!?」

今度こそ、驚きの声が聖の口から出た。

――――前に、衣梨奈の部屋、衣梨奈の布団の中で、
親戚からの援助は高校までだから卒業したら働かなくてはならない、と聞いていたからだ。

「えりぽん、どういうことなの?」
「ん、顧問のセンセーが言っとったと。『お前なら来年のインハイ出場は確実だ』って」
「いいことじゃない。――――でもそれと大学進学は関係あるの?」
「ないように見えてあると。インハイで良い成績を出したら、大学のスポーツ推薦の枠が取れるたい。
 センセーがボクシング推薦で学費も免除になる大学を調べてくれたと」

ふむふむと頷きながら話を聞く。

「ばってん、スポーツ推薦を取るには三年の一学期の中間と期末で、そこそこ真面目な点数を取らんとあかんちゃ」

そこで聖はポンと手を叩いた。

「だから今のうちに勉強をしようと考えたのね」
「そうやけん。俺、授業はサボってばかりだからテストなんていつも全教科赤点たい。
 ……こんなこと頼めるの、俺には聖しかおらんし……」

その言葉に聖の心はジーンとした。

「聖、お願いしてよかと?」

捨てられた仔犬のような目をする衣梨奈の手を強く握った。

「もちろんよ。聖もそんなに頭良くないけれど……精一杯協力するね!」
「うん……ありがと聖」

手を握り見つめ合ったので、――――。
自然と唇を重ね合わせる二人を、からかうように秋風が通り去った……。

――――それからは。
二人とも、自分の部活が終わってから、衣梨奈の家で勉強会を始めた。
――――聖のほうが先に部活が終わることが多いため、外で待たせないようにと、衣梨奈は合鍵を渡した。
小さなちゃぶ台にノートと教科書と参考書を広げ、肩を寄せ合う。
衣梨奈は最初こそ、全くと言っていいほど勉強ができなかったが、
次第に、

「ああ、だからy=x-1になるけんね」
「鎌倉幕府は元寇で制度が崩壊したっちゃね」

と、とても飲み込みが早く、聖の拙い教え方でもぐんぐんと学んでいった。
二学期の期末試験では、ギリギリの点数ばかりだったが、全教科赤点を免れ、衣梨奈の担任は大いに驚いた。
聖は金曜日は衣梨奈の家に泊まるのが常となり、勉強会を終えた後は、
ありあわせの材料で夕飯を作って、衣梨奈とともに食べ、そして夜は何度も身体を重ねた。
行為が終わって衣梨奈の腕枕で横になりながら、

――――これがシアワセ、ってやつなのかな。

と、満ちた心で幾度も思った。

「……このまま時間が止まっちゃえばいいのに」

そう呟くと、

「俺もそう思っとるけん」

衣梨奈は答え、聖の髪を優しく撫でた。




二学期も終わりかけ、街がクリスマスムードに溢れた時期の、ある日曜日。
聖はダイニングで両親と一緒に朝食を摂っていた。

「聖」

厳かな声で名前を呼ばれ、クロワッサンをむしる手を止める。

「なに、お父さん」
「最近、一つ後輩の男の子と仲が良いそうじゃないか」

ピーン、と空気が張り詰める。

「それが、なんなの?」

空気に飲まれないよう、なんでもないように言ってみせる。
父親の眼が鋭く光った。

「まだ高校生だからと自由にさせていたが……お前に相応しい相手は他に沢山おる」
「…………」

聖は敢えて無言で次の言葉を待った。

「ワシが相手を見繕ってやるから、その男の子と仲良くするのは止めなさい
「そうよ聖。今だってちゃんとした方々から釣書やお見合い写真がいっぱい来てるのよ。あなたには見せていなかっただけで」

母親が父親の援護をした。

――――もう我慢の限界だった。

ガタン、と音を立てて椅子から立ち上がる。

「……ご馳走様。……今日は遅く帰るから昼も夜も食事はいりません」

努めて静かな声でそれだけ言って、足早にリビングを抜け出す。

「待ちなさい聖」
「聖!」

まだ両親がなにか言っていたが、聞く耳持たず、自分の部屋へと戻り、コートとマフラーを掴んで、家の外へと飛び出した。
コートを羽織り、マフラーを巻いて、走り出す。
両親の言葉が頭の中でぐるぐると回り、心の中で怒りがぐつぐつと沸騰していた。

――――相応しい相手って誰!?
――――ちゃんとした人ってなに!?
お金? 家柄? 地位?
そんなモノを持っているのが「ちゃんとした人」で、聖に「相応しい相手」だとでも言うの!?
――――そんなモノ。
――――そんなモノ!

「聖はいらない!」

曇天の空に向かって、思いきり叫んだ。


目的の場所に着き、聖はコートのポケットに入れていた合鍵を鍵穴に差した。

「お、聖やん」

ドアを開けると、部屋の住人、衣梨奈はちゃぶ台に教科書を広げて勉強をしていた。
聖はなにも言わずに中に入り、急いでコートとマフラーを脱いで床に落とす。

「……どうしたと?」

いつもと雰囲気が違うことを察し、衣梨奈は不安げに眉を顰めた。
シャーペンを置いてこちらに体を向ける衣梨奈。――――その身体に聖は飛び込んだ。

「……聖?」

不思議そうな声を出しながらも、衣梨奈は優しく受け止め、聖の背中に手を回す。
どこまでも優しい衣梨奈に、聖は切羽詰まった表情を向けて、

「――――抱いて」

と、それだけ告げた。

「……なんかあったと?」

困惑気味に尋ねる衣梨奈の服を、ギュ、と掴む。

「理由は聞かないで。――――お願い、今すぐ抱いて」

泣きそうな顔を見せる聖に。
衣梨奈は優しい口付けをした。

「――――布団に行くたい」

聖の手を引いて布団の上に連れて行く。そして衣梨奈は聖を押し倒した。
貪るような激しいキスをする衣梨奈の首に、強く手を回す聖。

先ほどの怒りも。
先ほどの悲しみも。
全部アナタで塗り潰してほしい。

そんな思いが聖の胸中を駆け巡り、激しく衣梨奈を求めた。




年が明け、三学期が始まると。三年生の聖は、ほとんど学校に行かなくてもよかった。
だから衣梨奈に会うのは必然的に衣梨奈のアパートで、ということになる。
寒さが厳しくなったある日。
衣梨奈に会いにアパートに行き、部屋に入ると、今までちゃぶ台が置いてあったところにコタツがあった。

「えりぽん、これ……」
「昨日、押入れから引っ張り出して組み立てたと。俺んちの唯一の暖房っちゃ」

そう言って、さっさとコタツに入る衣梨奈。

「ほら聖も入り。風邪引くと」
「うん! うわーコタツなんて初めて」

小さく感動しながら、衣梨奈の隣に入る。

「……あったかい」

初めて入ったコタツは、とても心地良いものだった。

「親戚がミカンを送ってきてくれたけん、一緒に食べよ」

手渡される二個のミカン。
早速剥いて、口に入れる。

「美味しい、コタツにミカンて、とても素敵だね」

ニコニコしながら言うと、衣梨奈はからかうように、

「聖んちは薪を使う暖炉があるんちゃろ?」

そう言ったので、聖はキョトンとした顔で、

「えりぽん、なんで知ってるの?」

と言ったら、衣梨奈は

「……冗談のつもりやったっちゃけど」

困ったように頭を掻いた。
それから衣梨奈もミカンを剥き、口に入れる。そして少し顔をしかめた。

「これ、まだ熟してないんじゃなか? けっこー酸っぱいと」
「そう? 聖は美味しいと思うけどな」

言いながら二個目のミカンを手にする。
衣梨奈は一個、聖は二個のミカンを食べて。二人はコタツに入りながらぴったりと寄り添う。

「ね、えりぽん」
「なん?」
「さっき暖房器具がコタツしかない、って言ったけど……」

そこまで言って衣梨奈のほうを向き、頰にそっと手を添える。

「二人の人肌で熱くなればいいと思わない?」

煽情的な表情で甘く言う。
衣梨奈も聖の頰に手を添え、

「聖は積極的っちゃね……」

熱のこもった声で答える。

「積極的な女の子は嫌い?」
「まさか。聖なら大歓迎たい」

そうして二人、見つめ合い。
――――ミカンの味のする口付けをして、同時に畳の上に倒れた……。




聖はコートの下に学校の制服を着て、家路を急いでいた。
今日は、進学予定先の音大の推薦入試のための面接練習をしていたのだった。
思ったより遅くなっちゃった、そう思いながら家の玄関を開ける。

「ただいまー」

おかえり、とキッチンのほうから母親の声と、ジュワーとなにかを油で揚げる音が聞こえた。
今夜はトンカツかなにかかな、そう思いながらローファーを脱ぐ。
揚げ物の匂いが漂い、鼻についた。――――その瞬間だった。
突如、胃から込み上げてくるものを感じ、トイレに駆け込む。
便座を上げて、ゲッ・ゲェッ、と胃の中のものを吐き出す。
まだ気持ち悪さが治まらず、涙目になりながら胃液まで吐いた。
一通り吐いて、レバーを回して便器の中のものを流すが、荒い呼吸はまだ治まらなかった。
トイレの床にへたり込み、現状を整理しようとする。

脳裏に三つのピースが浮かんだ。

――――衣梨奈のアパートで美味しく食べた酸っぱいミカン。
――――揚げ物の匂いで吐いた今。
――――避妊もせずに衣梨奈と身体を重ねた幾度もの夜。

これらが意味すること。

「もしかして……」

聖はぼんやりとした目で自分のお腹に手をあてた……。


翌日、聖は家や学校から遠く離れたドラッグストアまで足を運んだ。
そして妊娠検査薬を一つ、購入して、そそくさと店を後にした。
家に戻り、トイレに閉じこもり使用説明書を丹念に読む。
書かれているその通りに使い、そして数分後。
検査薬に浮かび上がった『+』の記号。
聖はどうしようもない思いで記号を見つめていた……。


具合が悪いから夕飯はいらない、と母親に告げ、聖は自室のベッドでシーツにくるまっていた。
色々な想いや考えが頭を巡る。

――――衣梨奈と自分の赤ちゃん。

もちろん聖は産みたかった。
しかし。
両親に言ったら、きっと有無を言わせず産婦人科に連れて行かれ、強制的に中絶手術を受けさせられるだろう。
――――衣梨奈には。
衣梨奈はまだ17才の高校二年生だ。
来年にはボクシングでインターハイに出て、輝かしい成績を作り、大学に進学して将来はプロボクサーになるのだろう。
そんな前途有望な衣梨奈にとって、今、子どもが出来たことは、ただの障害でしかないこと、聖にだって分かる。
だから、――――衣梨奈にも言えない。

強く目をつぶり、ひたすら考える。
どうしたら最善か。――――自分はどうしたらいいのか、どうしたいのか。
いくら悩んでも答えは出なかった……。




冬が過ぎ去り、春が来た。
暖かい日和の中、小鳥たちが囀り、桜の花は満開だった。
今日、聖はこの学校を卒業する。
卒業式で退屈な祝辞を聞き流しながら、聖はぼんやりと椅子に座っていた。
考えるのは衣梨奈のこと。――――式が終わったら屋上に来てほしい、と下駄箱に手紙を入れておいた。

妊娠したことは、両親にも衣梨奈にも、誰にも言わなかった。
幸いにも今日までお腹は目立たなかったので、気付かれることはなかった。
妊娠が分かって、一ヶ月近く経過した今、聖の心は決まっていた。

今日、聖はこの学校を卒業する。
そして、――――衣梨奈との関係も卒業しよう。
お腹の子は……家を出て、一人で産んで、一人で育てよう。
音大には行かない、自分名義の貯金が少しはあるから、それを出産費用に充てて、そして働こう。
……そう心に決めていた……。


屋上に行くと、衣梨奈は既に来ていた。

「聖、卒業おめでとうっちゃ」
「うん……」

ぴょお、と春風が吹き、二人の髪を揺らす。
衣梨奈が目を細めながら微笑む。

「この屋上には思い出がいっぱいあるたい」
「聖もだよ」

衣梨奈の傷の手当てをした。
ボタンを縫った。
一緒にお昼ご飯を食べた。
そして、フルートを吹いた。

思い出すと、涙が出そうになるので、必死に堪える。
そんな場所を自分で選んでおいて、残酷にも衣梨奈に別れを告げようとするなんて。
でも、言わないといけない。

「えりぽん、あのね、今まで黙っていたんだけど……」
「うん? なんね?」
「実は、聖のお腹の中に……」

そう言って、愛おしくお腹に手をあてると、衣梨奈も察したらしい、

「もしかして……」

目を大きく丸く開く。

「俺との、赤ちゃん……と?」

聖はゆっくり頷く。
衣梨奈が驚くのは想定内だった。
この後は、――――きっと困り慌てるのだろう。

大丈夫だよ、えりぽん。
この子は聖が育てるから。
えりぽんに迷惑はかけないから。

そんな科白を言う覚悟をしていた。


突然強く抱き締められる。

「やったとー! 俺と聖の子たーい!」

衣梨奈は学校中に響き渡るような大声で、喜びを露わにした。

「聖、なんでもっと早くに言ってくれなかったと? 今は何ヶ月たい?」

嬉しそうに聖のお腹をさする衣梨奈に、逆に聖は戸惑った。

「え、えりぽん!? 状況が分かってるの!?」
「ん? 聖のお腹の中に俺との子どもがおるんちゃろ?」
「そ、そうだけど、そうじゃなくて……」
「――――聖、もしかして俺の将来のことを言ってると?」
「当たり前じゃない! えりぽんの夢はプロボクサーになることでしょ!?」
「へ? 俺がいつそんなこと言ったと?」

衣梨奈の言葉に、聖はあんぐり口を開けた。

「確かにボクシングで全国制覇は目指しとったけん。ばってん、それは途中過程でしかなか。
 聖、俺の夢は、――――世界一の格闘家になることっちゃ」
「世界一の……格闘家……」
「そうたい。ボクシング、空手、ムエタイ……そんなカテゴリを越えて、全国・全世界の強いヤツと闘って勝ってみせるけん」
「異種格闘技、ってこと?」
「んー、そんなメジャーなやつじゃないっちゃけど、イメージとしてはそれで充分たい。
 で・調べてみると、大小含めて日本各地や世界のあちこちで、そんな闘いが毎日のように行われとると。
 勝ったら賞金も出る。――――それで聖とお腹の子を養ってみせるばい!」
「えりぽん……」

じん、と聖の胸が熱くなる。

「でも学校は? 大学は?」
「退学すると。大学も行かん」

あっさり言う衣梨奈。

「格闘家に学歴なんて必要なか。それに、――――学校よりも俺には聖のほうが大事に決まっとるっちゃろ」

白い歯を見せて言う衣梨奈に。
今度は聖から抱きついた。

「えりぽん、えりぽんっ!」

衣梨奈の愛の深さが嬉しかった。けれど上手く言葉に出来なかったから、抱きついたまま、何度も愛しい人の名前を呼んだ。

衣梨奈は抱きつく聖の背に腕を回し、

「妊娠したこと、両親には言ったと?」

と聞いてきたので、首を横に振った。

「言ってないの。もともと、えりぽんとの交際を反対されてたし、絶対に『堕ろせ』って言うに決まっているし……」

困った表情をする聖に、険しい顔をする衣梨奈。

「――――聖、そんな家、もう戻らんくてよか。今日から……俺と暮らさんと?」
「……いいの?」
「全然問題なか」
「……フルート、家に置いてきちゃったよ?」
「フルートは聖が吹くから好きやったと。俺は聖がいてくれるならそれでいいっちゃ」
「じゃあ……えりぽんと暮らす、暮らしたい」


――――そうして二人は手を繋いで思い出の屋上を後にした……。


下駄箱で靴を履き替える。衣梨奈は先に生徒玄関前に立って聖を待っていた。

「忘れモンはなかと?」
「うん。――――あ、ちょっと待って」

聖は鞄を開けて、今日もらった黒い筒を取り出す。フタを開けて、中に入っていた卒業証書を引き抜いた。

「聖?」

不思議そうな顔をする衣梨奈に微笑んでから、――――卒業証書を二つに裂いた。

「ちょ!? ちょぉー!?」

驚く衣梨奈を尻目に、卒業証書はビリビリに引き裂かれていく。
すっかり紙クズとなったそれを、ゴミ箱に捨てる聖。

「なんでそげんこと……」

まだ驚いている衣梨奈に、聖は平然と、

「だってこれから、えりぽんと歩む人生に、必要ないじゃない」

衣梨奈はぽかんとしていたが、――――大きく笑い出した。

「確かにそうっちゃね! 聖は器が大きいと。さすが俺が惚れた女たい!」

笑い続ける衣梨奈に寄り添うように聖も微笑み、再び二人は手を繋いで歩き出す。
玄関近くに植えてある桜の樹が、二人を祝福するように、桜の花びらを舞い散らせた。



衣梨奈はアパートの鍵を開け、中に入る。聖もそれに倣う。

「ただいまー」

と声を出す衣梨奈。聖はいつものように、

「お邪魔しまーす」

と言った。すると、

「聖、違うちゃろ?」

と衣梨奈が優しく言う。

「え? ……あ。…………ただいま」

恥ずかしそうに訂正した聖に、衣梨奈は、

「おかえり、聖」

満足そうに答えた。

「……ただいま、えりぽん」
「うん。おかえり、聖」

いつまでもやってしまいそうなので、ここで切り上げ、二人は部屋に入る。

「この部屋も俺一人やったけん、この狭さでも問題なかったっちゃけど、
 聖と産まれる子どものことを考えたら引っ越さんといけんと」

そう呟く衣梨奈に、聖は、

「どんな部屋でもいいよ、えりぽんと一緒なら」

と返す。

「あかんちゃ。来週、隣県で格闘技大会があると。優勝したら賞金50万たい。勝って引っ越すばい」
「……ねえ、えりぽん。……その大会について行っていい?」
「――――え?」

驚いた様子で自分を見る衣梨奈に、聖は真剣な表情を返す。

「えりぽんの夢が叶うのを、なるべく見ていたいの」

衣梨奈も真剣な表情になる。
しばし二人、見つめ合い。

「……無理だけはしたらあかんと」

衣梨奈が折れた。

「うん! ありがとう、えりぽん」

抱きつくと衣梨奈も抱き締め返し、聖の額に一つ、チュッ、とキスを落とした。

「な、聖。俺、学校からこのアパートに帰るまでの間に考えとったと」

抱き合ったままの体勢で、聖は、「なにを?」と目で尋ねる。

「聖。『永遠』なんて言うと逆に嘘くさいから使わんと。
 ――――その代わりに、遥か未来まで俺は聖を愛するばい。お腹の子がその証したい。
 だから、――――子どもの名前は『遥』ってのはどうっちゃろ?」

「ハルカ……」

聖が呟いた、その瞬間。

トクン。

「あ……」
「どうしたと?」
「今、動いたの……」

そう。まるで自分の名前を喜んだかのように。

「えっ、マジで!?」

抱いていた腕を解き、聖のお腹に衣梨奈は耳をあてる。

「……反応がなかと」
「遥は気まぐれみたいね」

聖がクスクス笑うと、衣梨奈はお腹に向かって呼びかける。

「遥ー。お前が男の子でも女の子でも、どっちでもよかとー。ただ元気に産まれてくるっちゃよー」

――――トクン。

「あ……また動いた」
「マジでマジで!?」
「パパの言葉がよっぽど嬉しかったみたい」

笑いながら言うと、

「パパ、ってなんか照れるっちゃね」

そう言いつつも、衣梨奈は嬉しそうにだらしない顔になる。
顔を上げた衣梨奈と微笑み合いながら、見つめ合う。
そして、ゆっくりと顔が近付く。

六畳間の安アパートで、二人は幸せに満ちた口付けを交わした。





遥か未来まで fin.
 


(69-38)病めるときも健やかなるときも

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