衣梨奈は空港のロビーの椅子に、足の間にズタ袋を挟んで座っていた。
手には一枚のハガキを持っている。

『聖、元気と? 俺は元気たい。遥のハイハイは、もう物にぶつからんようになったと?
 今回の大会も優勝したっちゃ! 今すぐ帰るけんね!』

簡素な文章の書かれたハガキをヒザの上に置いて、そ、っと右の?にある古傷に触れる。

今回は聖、ばり心配しとったと……。

そんなことを考えながら、約一年前の出来事に思いを馳せた。 ̄ ̄ ̄ ̄



あれは遥がまだお腹の中で。聖のお腹が遠目でも分かるくらいに大きくなった頃。
聖が応募していた公団住宅の抽選が当たり、安い家賃で2DKのマンションに住むことができた。
当時、俺と聖はともに18才で、二人とも結婚できる年齢だったが、籍は入れなかった。 ̄ ̄ ̄ ̄というか、入れることができなかった。
未成年の婚姻には、双方の親の承認が必要なのだ。
聖の両親は結婚はおろか、出産にも反対していたし、俺の親父はアルコールで頭がやられて、碌に会話することですら不可能だった。
だから法的には、聖はシングルマザー、俺は内縁の夫、という形だった。
けれど、俺は聖と、聖は俺と一緒に暮らせれば、なにも問題がなかった。 ̄ ̄ ̄ ̄

お腹の子、遥は予定日を大幅に過ぎて、10月の27日に元気な男の子として誕生した。
新生児室のガラス窓の前で、指を絡め、聖は俺の肩に頭を置く形で二人寄り添いながら、スヤスヤ眠る遥を幸福な気持ちで見ていた。

「男前やね、遥は」
「えりぽんに似たんだよ」

そんな会話をしながらクスクス笑い合った。 ̄ ̄ ̄ ̄そんな時間は、何時間でも飽きなかった。



遥を出産した後も、聖は一週間ほど入院する必要があったので、
その間に俺は近所の大木を引っこ抜いて……は怒られそうだったので止めて、
ホームセンターで板と釘を買ってきて、それらをトンテンカンと打った。
最後に『ハルのおうち』と書いた紙を貼って。歪つながらもベビーベッドが作れた。

退院の日、聖はタクシーで帰ってきた。
それから寝室にある、俺の作ったベビーベッドを見て。
目を丸くして驚いてから、 ̄ ̄ ̄ ̄すごく喜んだ。

「えりぽんの愛情が詰まった、世界に一つしかないベッドね」

そう言って、ベッドに赤ん坊用の布団を敷いて遥を寝かせた。
遥も気に入ったらしく、ベッドの中でコロコロと転がっている。

「遥ー、寝心地はどうっちゃー?」

ベッドに顔を入れて呼びかける。遥は俺の顔を見て、

「ブウー」

と言った。今度は聖が顔を入れ、

「遥。パパにそんな顔しちゃだめよ」

優しくそう言うと、遥はキャッキャ、と喜んだ。

「……遥は俺より聖のほうが好きみたいっちゃね」
「パパ、拗ねないの」

そう言って、ちょん、と俺の鼻先を指でつついた。
それだけで俺の機嫌は直って、聖の腰に腕を回す。
チュ、チュ、とキスの雨を聖の顔に降らせながら、俺たち二人のベッドへと移動する。
聖を優しくベッドに押し倒して、覆い被さる形で、

「聖、話があると」

と切り出した。

「……なに?」
「俺は明日、南米に行く」

聖が息を飲むのが分かった。

「日本にはもう俺より強いヤツはおらんけん。だから俺は世界に行って、 ̄ ̄ ̄ ̄俺より強いヤツに会いに行く」

聖は少しだけ困った顔をして。 ̄ ̄ ̄ ̄それから決心したように、

「……それがえりぽんの夢だものね。一緒に行くことはできないけれど……無事に聖のところに帰ってきてね」
「当たり前たい。聖のおるところが俺の帰る場所やけん」

それだけ言って、俺たちは深く口付けた。 ̄ ̄ ̄ ̄



翌日の早朝。
聖は不安げな顔をしながらも、気丈にも笑って見送ってくれた。
抱いた遥の腕を持って、俺にバイバイと手を振ってくれる。
俺は笑顔で家を出た。

 ̄ ̄ ̄ ̄聖、必ず勝って賞金と一緒に帰ってくるたい。

心の中で、そう熱い闘志を燃やしながら、 ̄ ̄ ̄ ̄。




プロペラ飛行機で降り立ち、ジープで向かった町は、電気も碌に通ってない場所だった。
日本のようにちゃんとしたリングがあるわけでもない、乾いた地面の上で闘う、まさにストリートファイト。
観客たちが輪になって選手たちを取り囲み、倒れたり逃げようとする選手を押し戻す、ロープのような役割をしていた。
トーナメント方式の試合で、俺は順調に勝ち進んでいく。

 ̄ ̄ ̄ ̄決勝の相手は、俺よりも背丈が1.5倍、幅は2倍はあると思われるヤツだった。

「Daniel! Daniel!」

この町の有名人らしく、観客全員がヤツの名前を呼んで鼓舞する。
アウェーの中のアウェーっちゃね、と小さく苦笑した。

そして決勝戦が始まった。
相手は大振りながらもスピードのあるパンチを放ってくる。当たればパワーも相当なものだと想像できる。
繰り出されるパンチを紙一重でかわし、間合いを取ってステップを踏んでいると、

「Hey,Chicken!」

あざ笑いながら言われた。観客たちからもドッと笑いが起きる。
腕のガードを解き、ニタニタ笑う。 ̄ ̄ ̄ ̄完全なる挑発だ。

 ̄ ̄ ̄ ̄よかよ、後悔させてやるけんね!

素早いスピードで相手の懐に入り、アゴに左拳底を打つ。そのまま流れる動きで地を蹴って、相手のこめかみをキックした。
驚いた表情で揺れる頭。その隙に渾身のボディブローを連打した。
相手のヒザが地につく。それでも闘争心は衰えてないらしく、憎しみのこもった目で俺を見た。

「Wooooo!」

吼えて突進してくる。
腕でガードしたが、あっけなく吹っ飛ばされ、観客にぶつかった。
しかし、大したダメージはなかったので、即反撃しようと体を起こしたその時だった。
何人もの観客が俺の両腕を掴んで離さない。

「お前ら離せっちゃ!」

叫んでみるも、ニヤニヤ笑うヤツもいて、俺はその場に固定される。
ガシャン! と割れるような音が聞こえ、対戦相手を見ると、観客の一人が持っていたらしき瓶ビールの底を地面に叩きつけていた。
鋭い刃を幾つも持ったビール瓶を手にしながら、相手はゆっくり近付いてくる。
笑いながらビール瓶を振り上げる。 ̄ ̄ ̄ ̄思わず目をつぶった。
ザシュッ! ザシュ!
右頬に熱い痛みが走る。目を開けると、地面に血が滴っていた。
相手は笑ったままビール瓶で腹をつつく。 ̄ ̄ ̄ ̄今度は腹を刺す、そういう意味か。

 ̄ ̄ ̄ ̄アホ。俺がやられっぱなしなわけなか。

相手がビール瓶を俺の腹に水平に構え、突き出した瞬間。
自由なままの両足を浮かし、相手の腕に絡めた。
 ̄ ̄ ̄ ̄そして。

ゴキッ!

ヒジの関節を折ってやった。

「Gyaaaa!」

この反撃に観客も怯んだらしい、掴まれていた腕の力が抜ける。
力任せに観客を振り解き、折られた箇所を押さえている相手に走り寄る。
脅えた目の相手の顔面に。容赦なく左ストレートを打ち込んだ。
数本の歯を宙に舞わせて、 ̄ ̄ ̄ ̄相手は泡を吹いてドサリと倒れた。

 ̄ ̄ ̄ ̄俺の勝利だった。

観客を掻き分け、主催者に近付く。

「賞金を渡すったい」

主催者は困惑した表情で輪ゴムで縛った札束を出す。

 ̄ ̄ ̄ ̄おかしい。少ない。

「おい、ちゃんと全部渡すと!」

主催者はヘラヘラした表情で、それで全部だ、と現地の言葉で言う。

 ̄ ̄ ̄ ̄コイツ、明らかにピンハネしとるばい。

「……金はこれだけでよかと。 ̄ ̄ ̄ ̄その代わり、」

そいつが縄紐で首に飾った宝石を手に取る。

ブチリ。

「これをもらっていくたい」

縄紐を引き千切って宝石を手中に収める。そしてクルリと体を反転させた。
待て、返してくれ! ちゃんと金を渡すから!  ̄ ̄ ̄ ̄そんな声が聞こえたが、俺は無視して、その場を後にした。


現地の町医者に?の傷を見せたら、ガラスの破片は入ってない、と素っ気なく言われ、ヨードチンキを塗られて帰された。
その時には既に血も止まっていたので俺も深く考えなかった。
ベッドがあるだけの粗末な宿屋で、主催者から千切り取った青色の宝石を眺めていた。
生憎、宝石には詳しくないので、なんの石かは分からなかったが、とても綺麗だった。

「聖に良い土産ができたばい」

聖の喜ぶ顔を想いながら、明日の帰国に備えて早々と寝た。 ̄ ̄ ̄ ̄




ガチャリ、玄関のドアを開ける。

「ただいま聖ぃー」

そう声をかけると、寝室のほうから、

「えりぽん、おかえりなさい!」

と弾んだ声が返ってきた。
遥の世話でもしとると? そう思いながら寝室に入ると、予想通りベビーベッドでオムツを取り替えていた。

「聖、今回は土産があるったい」
「え? な、に……」

笑顔で振り返った聖は、俺の顔を見て笑顔を凍らせた。

「えりぽん……その?……」

震える指で、すっかりカサブタになった傷を指す。

「ん? 別に大したことなかと」
「嘘!」

俺に駆け寄り、震える手で傷に触る。

「いてっ!」
「ほら、カサブタができてても痛いなんて、傷が深い証拠じゃない!」
「ばってん、俺は平気ったい」

そう言うと。
ポタリ、真珠のような涙が聖の目から床へと落ちた。

「聖が……平気じゃないよ」

そのまま崩れ落ち、子どものようにワンワンと聖は泣き出した。

「えりぽんの顔が……せっかくの綺麗な顔が……」

言いながらも泣き続ける聖。
俺は困り果てながら、しゃがんで聖の頭を撫でる。

「聖、泣かんでよ。聖が泣くと俺も辛いと」
「だって……だって……っ」
「な、聖。この傷は俺が世界一に一歩近付いた、って証拠たい」
「そうだけど、そうだけどっ」

それでも聖は泣き止まない。
聖の頭を撫でる手を止め、ぎゅう、と抱き締める。

「な、俺のこと……嫌いになったと?」
「……これで嫌いになれたほうが楽だったよ。 ̄ ̄ ̄ ̄好きよ、大好き。でもすごく悲しいの」
「 ̄ ̄ ̄ ̄な、聖。聞いてほしか。俺はこれからも闘い続ける。
 傷なんて、どんどん増えていくばい。でも俺は、聖には笑っていてほしか」

真剣な声で想いを言葉にすると。
聖も覚悟を決めたように、俺の胸の中で深く頷いた。

「そうだよね、 ̄ ̄ ̄ ̄聖は世界最強の人の奥さんになるものね。傷程度で泣いてちゃ、だめ、だよ、ね……」

そう言いながらも最後は嗚咽混じりの声だった。


その日の夜。俺と聖はベッドで何度も愛を交わした。
聖は何度も喘ぎ鳴いて、そして、そっと俺の傷に触れては幾度も泣いた。

 ̄ ̄ ̄ ̄泣かんで。泣かんでよ、聖。

聖の悲しみを消す気持ちで、俺は激しく腰を動かした。 ̄ ̄ ̄ ̄



翌日。
俺は一人で質屋に行っていた。 ̄ ̄ ̄ ̄今迄も、優勝したら賞金じゃなくて、金のネックレスだとか、
ダイヤの指輪だとかを賞品にする大会があったりしたので、
俺も聖もそんなモノに興味はなかったから、毎回換金しては、聖が貯金していた。
 ̄ ̄ ̄ ̄だから顔馴染みの質屋だった。
今回は、主催者から奪った宝石。 ̄ ̄ ̄ ̄今朝、聖に見せてみたら、悲しそうな顔で「……いらない」と言われ、
じゃあ遥に、と思ってベビーベッドにいる遥に見せてみたら、顔を顰めて「バブ!」と拒否られてしまった。
質屋の店主は、白い手袋をはめて虫眼鏡で詳しく宝石を見た後、

「こんなに大きくて見事なパライバトルマリンは初めてです」

と驚いた声で言った。

「パライバトルマリン?」
「はい。トルマリンの一種で、一番値打ちのあるものです」

 ̄ ̄ ̄ ̄トルマリン。それは10月の誕生石。

それくらいの知識なら俺にもあった。

「本当にお売りいただけるんですか?」

と店主が念を押したので、俺は無言で頷いた。
 ̄ ̄ ̄ ̄パライバトルマリンは予想以上の札束になった。
これも聖に渡して、貯金に回してもらおう。
金銭管理は聖に任せていたので、今、通帳に幾らあるか知らないが、マンションを購入する頭金の足しになるだろう。 ̄ ̄ ̄ ̄

正直、俺は、聖はシングルマザーで俺は内縁の夫だから、という理由で白い目で見てくる公営住宅のヤツらに嫌気がさしていたのだ。
聖には言ってないが、購入したいマンションは決めていた。
駅からも近く、1階がコンビニという便利な、11階建ての大きなセピア色のマンション。
近くに公園もあり、親子三人で暮らすにはぴったりだと感じた。

 ̄ ̄ ̄ ̄だから、もっと稼がなあかんちゃ!
……なるべく体に傷を作らないように……

意識を現在に戻すと、飛行機の搭乗時刻は残り30分を切っていた。
日本を出る前に「今度の試合は南米たい」と告げると、聖は顔を曇らせながら俺の?の傷を見た。

「……えりぽん、」
「分かっとるばい。なるべく傷は作らんようにすると」
「 ̄ ̄ ̄ ̄うん。それが聖にとって、一番のお土産だからね?」

聖ぃー、今回は傷は一個も作らなかったけんねー。

心の中で、遠い日本にいる聖に呼びかけてみる。 ̄ ̄ ̄ ̄なんとなく、聖が笑ってくれた気がした。
ヒザの上に置いたハガキを手に取る。

「直接手渡したほうが早いっちゃけど……ま・いっか」

ズタ袋を持って立ち上がり、空港に据え付けてあるポストに投函した。
ノイズ混じりのアナウンスが、飛行機の搭乗開始を告げる。
衣梨奈はズタ袋を肩に乗せ、ゆっくりと飛行機まで歩いた。





TOURMALINE 了
 

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