真紅にまみれた彼女が、倒れ込んでくる。
彼女の名を叫びながら目を覚ました。
もう何度目かの、悪夢だ。

汗の海に溺れ、「あぁ」と漏らす。
どれだけ時間が経っても、赦されることのない、罪だ。
大切な人を傷つけ、泣かせ、苦しめた私は、罰を受けなければならない。
繰り返し見る悪夢もそのひとつだけれど、私が受けた罰は、何よりも―――

ひとつ息を吐き、立ち上がる。
引き出しの奥の、さらに奥、小さな箱の中にしまったそれを、取り出す。
ずしりと重い鉄の塊は、あの日と何も変わらない。
ぐっと銃口をこめかみに押し付ける。
途端にがちがちと指先が震える。

引け、と言い聞かせるも、重くて、人差し指が、動かない。
必死に力を込めるも、最後の一押しが、できない。
重いのは、引き金なのか、その先にある、生命なのか。私にはわからなかった。


―――撃つなああああ!


過去の記憶が蘇り、溜息が重くなる。
私は鉄の塊をゆっくりと床に置いて、ノロノロと立ち上がった。
冷たい水を、頭からかぶりたかった。
どうせ髪だってすぐ乾くし、構わない。
乱暴にシャツを洗濯機に放り込み、シャワールームへと入っていく。
背中に雨音を聞く。あの日と同じ、今日も此処は、雨降りだ。


 -------


その日から2週間経っても、絵里の毎日は変わらなかった。
朝、病室に来て、彼女の容体を確認する。勝手知ったナースたちの話を聞き、ラベンダーの水を換え、盲学校へと通う。
授業を終えれば、また病室に来て、彼女に話しかける。泊まったり泊まらなかったり、まちまちだが、1日はこうして終わる。

そろそろ絵里は、学科や実地訓練を終え、職業コースへの進学を考える時期だった。
必須課程は修了している。あとは、将来を見据えた次の一歩。
主に按摩や鍼灸師が一般的だが、彼女の云っていたモデルの道も、気になっている。
だけど、そんな華やかな世界に自信はない。そして、写真を撮ってくれる彼女は、眠りつづけていた。

「進路の相談したいなぁ…」

思えば、絵里は進路や将来について、ほとんどだれにも相談したことがなかった。
高校も大学も、なんとなくで選び、なんとなくで生活を続けていた。
就活だってさほど悩まずに、適当に入社したら、あんな事故が起きて、すぐに辞めることになった。

「罰、かな?」

あまりにも自分の人生に無責任だった、私への罰。
一気に何もかもを失って暗闇に突き落とされた絵里は、たった一筋の光を頼った。
その光もまた、途絶えてしまいそうだけれど。
思い上がるなと、だれかが嘲笑っているようにも、思えた。

大切な人がふたりも、眠り続けている事実が―――

西日が射し込む病室に、柔らかい風が吹き抜けた。
ラベンダーの香りがいっぱいに広がって心地好い。
その花言葉は、清潔と期待。
そしてもうひとつ、この花を持ってきたあの人が教えてくれた。

―――あなたを待っています

カンパニュラをくれた人の仕事仲間という彼女は、ちょくちょく新垣里沙に逢いに顔を出している。
絵里とも何度も話し、その度に心配してくれる。
とても優しい人だと、思う。

「れーな……」

待ち人の名を呼び、その手を握る。
相変わらず、少し冷たい手。温度の感じられないそこには、あれほど鮮やかだったスカイブルーさえも、残っていない。
ベッドの脇の椅子に座り、ぎゅうと握る。
今日こそは、明日こそは、そう祈りを込めながら、何度も手の甲に口付ける。
だけど、いつもその期待は裏切られ、寂しい朝を迎えてしまう。

それでも絵里は、待とうと決めた。
変わらぬ彼女が光をくれたから。

「れーな」

名を、呼ぶ。
届いてと祈りながら、そっと目を閉じる。
心地好い睡魔に手を伸ばし、絵里はそのまま身を委ねた。


 -------


いつからだろう。
彼女の笑顔を見たいと願うようになったのは。
光を失い、世界を失い、それでもなお、絵里は願った。

「絵里」

あなたが呼ぶ、私の名前。
たったの二文字が、あまりにも綺麗で、柔らかくて。

「絵里」

あなたのもたらす水色が、かつて当たり前のように目にしていた空に広がるその色が、尊くて、美しかった。
爽やかな夏を思わせるその色が、絵里は好きだった。

「れー、な?」

重たい瞼を上げて、思わず、呼ぶ。
鼻を擽るその香り、ああ、ラベンダーの花の匂いだ。
待つと決めた、その匂いの先、絵里は確かに、「見えて」いた。

「れーな?」

もう一度、そう呼ぶ。
瞳は相変わらず、何も捉えない。
だけど、あの瞬間、瞳は光を遮ったにもかかわらず、その水色だけは、見えていた。

自らの髪を撫でる感触を、覚えている。
名前を呼ぶ柔らかい声を、覚えている。

「ゆめ?」

ああ、都合の良い夢だ。
どうせすぐ醒めてしまう。
知ってるよ。かみさまってひどいんだ。絵里が求めていたもの、全部奪っちゃう。
お母さんも、お父さんも。
大事な友達のさゆも。
大切な恋人の、れーなも。

「夢じゃないし」

夢だと思った。
だけど絵里は、確かにその頬を両手で包まれた。
ふわりと触れた温もりが、彼女の体温が、彼女が此処に居る事を教えてくれた。

「れー……な?」

身体が震える。
どくんと心臓が撥ねる。
確信を持てないから、期待するなと言い聞かせる。
それでも、それでも、それでも―――

絵里はそっと手を伸ばす。
真っ暗な空間。光の射さない世界。その右手の指が、彼女の肌に触れる。
温もりと、そして確かな水色が、絵里の中に入り込んできた。

「おはよ、絵里」

れいなはそう言うと、頬にかけていた手を離し、そうっと彼女の右手を包み込んだ。
途端に、絵里の世界がぶわぁっと広がりを見せた。
見えていないのに。
見えていないのに。
それでもれいなが、戻って来てくれたことを、漸く、分かった。

「っ……れーなっ―――!!」

無我夢中で、絵里はれいなに抱き着いた。
ぎゅうとその身体を包み込み、皮膚に爪を立て、まるで夜に交わった時のように、必死にれいなの名を呼んだ。

「れーなっ……れーなっ!!」
「うん……ここにおるよ。だいじょうぶ」
「れーな…れーな、れーな…れーな……!」

れいなが絵里の髪を梳き、背中を撫で、呼吸を落ち着かせてくれる。
逢えない時間が、話せない時間が、彼女が此処に居なかった時間が、なくなることなく存在していた哀しみの隙間が、すぅっと薄くなっていく。

「っ、せんせ…おい、お医者さん呼んでくっ…」
「絵里、落ち着いて。ナースコール、するから。涙、拭いて?」

れいなは冷静にそう言うと、枕元にあるナースコールを何度か押した。そのうち看護師が来るだろう。
泣きじゃくる絵里はまるで子どものようだった。
そこまで、絵里を追い込んでしまった責任を、れいなは痛いほどに感じる。
ひとりになってしまう寂しさを、もうその身に背負わせたくないと、思っていたはずなのに。

「絵里―――」

ひとりさせて、ごめん。
不安にさせて、ごめん。
ずっと待たせて、ごめん。

謝りたい言葉はたくさんあった。だけどなぜか、ひとつもでてきてはくれなかった。
それは何処かで、謝る事に意味はないと、分かっていたからかもしれない。
過去に目を向け続けて、後悔に押しつぶされる事に、価値などない。
だけどただ、漠然とした誓いを立てる気にはなれなかった。

護るんじゃない。
“彼女”はそんなに弱い存在じゃない。

対等なんだ、いつだって。
“彼女”のほうが、ひとつ歳上だけど。

大層な誓いなんてらない。
必要なのは、そう。

「これからも、一緒に、生きていこう?」

此処から始まる未来への、広がっていく世界への約束が、欲しかったのかもしれない。

「絵里」

たとえ此処が、優しい世界ではなくても。
ツラい事も、怖い事も、傷みも悲しみも、一種の絶望も、たくさんの寂しさを抱えて回っていたとしても。

「大好きっちゃよ、絵里」

それでもふたりで、生きていこう。
この手を繋いで、この空の下で、時が赦す限り、生きていこう。

「れーなっ……」

絵里はまだ、泣いている。
泣かせるつもりなんてなかった。彼女には笑っていてほしいのに。
ふたりで一緒に、くだらないことで、たわいないことで、ただシアワセを噛みしめて、笑っていたかったのに。

「えっ、えり、絵里ねっ……」

泣きじゃくる。
そんな彼女を引き寄せる。

頭はまだ、痛い。
傷口がどんな状態なのか、知る由もない。
だけど、触れたかった。
この痛みの先に。
誰も傷つけたくなくて、それでも傷つきやすい世界で生きることを選んだ結末を。
知って、語って、聞いて、愛したかった。

「――――――」

それは、久しぶりの口付けだった。
向こうの“世界”で、さゆみと交わしたものと同じで、違う、キスの色、キスの味、キスの温もり、キスの、重さ。
唇から伝わるそれは、そのまま、絵里の中にある、生命の、重みだったのだろうか。

「ただいま、絵里」

触れるだけのキスの後、真っ赤になった彼女を見て、そう、「見て」、云う。
決して瞳が重ならない事が分かっていても。

「っ……お、おっ…か、え…」

彼女に、此処に居る目の前の彼女に、そう、告げる。

「おかっ、お、おがっ……」

待たせた謝罪でも、待っていてくれた感謝でもなく。
いつものように。普通の日々に紛れ込んでいた、その、当たり前の、瞬間を。

「おがえ゛り゛ぃぃ!!」

濁って濁って濁って、それでも彼女は必死に、返してくれた。

それがひとつの、到達の証だと感じながら、れいなは絵里を抱き締めた。
まだ、此処に在るすべての空白が埋まったわけではなくて。
まだ、此処に在るすべての哀しみが癒えたわけではなくて。
まだ、此処に在るすべての痛みにを解決できたわけではない。

「れーなっ…れー…っ、えり、えり、待ってたよ?」

だけど。それでも。だからこそ。

「れーなのことっ…ちゃ、ちゃんと!ちゃ、ちゃぁんと!まっ、てたよ゛ぉ!」

うん。うん。分かっている。
分かっているよ、絵里。
だからもう一度、伝えるね。

「ただいま、絵里」
「っ、お、っ、がえりぃぃ!!」

結局れいなは、絵里の涙を止める術はなかった。
彼女がこの暗闇の中で待ち続けた時間の長さや、重さを、はかり知る事は出来ない。
だかられいなは、何度も何度も絵里の事を撫で、口付け、抱き締めた。

そうして“いま”、此処に居るということを証明する以外になかった。

ナースコールで呼ばれた看護師が走って来るまで、れいなはそうして、絵里をずっと、抱き締めていた。





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