「逆子のままですね」

予定日間近の、最後の定期検診のとき、医師がエコー画面に映った映像を見て言った。
聖さんは逆子、と聞いて一抹の不安を覚える。自分のことはどうでもいい、お腹の子になにかあったら、きっと正気じゃいられない。
性別が分かる周期に診断し、以前生田クンが言った通りお腹の子が女の子だと知って喜んだ。
名前は生田クンが言った『アカネ』、漢字は聖さんが考えて『朱音』となった。
その朱音が健康に産まれることができないのかもしれない、そこまで考えが行って大人げなく泣きそうになる。
医師はそんな聖さんの表情を見て、安心させるように「大丈夫ですよ」と微笑んだ。

「逆子のまま出産、というのもそう珍しくないんですよ。
 それに生田さんは二人目のお子さんですから帝王切開せずに自然分娩で出産できますから」

どうやら朱音に被害はないらしく、聖さんは安堵の息を大きく吐いた。

「ただし、今日一度ご自宅に戻ったら、支度をしてすぐに入院してもらいます。
 そしてそのまま出産をむかえてもらいます。予定日よりも早くに破水する可能性があるからです。
 ご家族にちゃんと言っておいてくださいね」
「あ……はい」

聖さんは縋るように左手の薬指に手をやった。
白金に輝く指輪。生田クンが二十歳になった日に市役所に書類を提出し、その足で買いに行った、お揃いの二人の永遠の愛を示す物。
こうして晴れて『生田聖』になれたわけだが、マンションの住人には名残で『フクちゃん』と呼ばれ続けている。

えりぽん一人でちゃんと遥の面倒見れるかなぁ……。

医師が言う小言が右耳から左耳に通り抜けながら、そんなことをぼんやり考えた。



一応、のことも考えて、一週間分の入院の準備をした。

「というわけで、これから入院してくるからね」

生田クンはやや不満げに、遥クンは心配そうに生田クンの足に縋りついている。
遥クンは、

「とーちゃん。かーちゃんは、びょーきなのか?」

生田クンを見上げながら小さな声で尋ねた。

「ん? 違うとよ。かーちゃんは赤ちゃんを産んでくるけん。遥ー、お前もおにーちゃんになるっちゃよー」

笑顔で言って、クシャッと遥クンの髪を撫でる生田クン。
生田クンはぐりぐり撫でながら、顔を上げて聖さんに唇を突き出す。

「ばってん、聖。なんで陣痛がくるまでオレと遥、病院に行ったらあかんと? 心配やけん、一緒におりたか」

生田クンは「なあ、遥?」と同意を求める。
遥クンも「ハルもかーちゃんがしんぱい」と言ってくる。
聖さんは男二人に苦笑いを見せ、

「仕方ないじゃない。今回は個室が取れなくて大部屋なんだから遥が騒いだりしたら、他の妊婦さんに迷惑かけちゃうでしょ。
 それにえりぽんは……我慢、できるの?」
「我慢ってなにがっちゃ?」
「大部屋でもカーテンで仕切れるからプライベートな空間は作れるけど……でも、音とか筒抜けなんだよ……?」

生田クンは病室の中を想像してみる。
カーテンで仕切り、パッと見は聖さんとだけの空間……
照明もカーテンで遮られ薄暗くなっている……
ベッドに妖しく微笑む聖さん……誘われるようにキスをして、それから……。

…………。

「あー……聖の言いたいことが分かったばい。我慢できる自信はなか!」
「うん、分かってくれてありがとう。それじゃあ、そろそろタクシーが来るころだから、行くね。えりぽん、遥のことお願いね」
「おう、任せろっちゃ。あ・遥。タクシーが到着したか、ちょっと窓まで行って見てきてくれんと?」
「わかったー」

とっとこ、走っていく我が子の後ろ姿を見ながら、なぜわざわざ? と聖さんが思っていると。
優しく肩を引き寄せられる。

「えりぽ……」
「今、キスだけならいいやろ?」

アゴを緩く掴まれ、瞳の中に自分の姿が見えるくらいの至近距離で言われたら。
遥クンが、

「とーちゃん、かーちゃん、タクシーがきたぞ」

と言いに来るまで、甘い口付けは続いた。



陣痛がきたらすぐ連絡するように、と念を押して生田クンと遥クンは聖さんを乗せたタクシーを見送った。
生田クンは遥クンを抱っこしながらマンションへと戻っていく。

「さあ遥。とーちゃんとなにして遊ぶと? 優樹ちゃんとこ行くと?」

歩きながら尋ねると、

「かたぐるまして」

そう言われたので素直に肩車をしながらエレベーターに乗った。

「とーちゃん」
「なん?」

ぐう〜。
お腹の虫が遥クンの言いたいことを伝えた。

「そういえば聖の入院騒ぎで昼メシがまだやったとね。よっしゃ、とーちゃんが昼メシを作ってやるばい」
「ハルはにくがいいー」
「とーちゃんも肉が食いたか。ガッツリ肉が食えるメシを作ってやるけん」

二人で肉肉言いながら、自宅へと戻っていった。



遥クンを肩車したまま生田クンは冷蔵庫を漁る。
まず野菜室を見て、レタスやトマトといったサラダが作れそうな食材を見つけたが、静かに扉を閉めた。
次に冷凍庫を見る。何匹ものスッポンが生きてたときと同じ状態で凍っていた。

「これは調理方法が分からんからパス、と」

メインの冷蔵室を見る。玉子とニンニクと焼き豚、それに特製タレに付け込まれたカルビ肉を見つけた。

「お・炊飯ジャーには今朝、聖が炊いたご飯があるし、これで男の炒飯が作れるばい」
「おとこのチャーハン?」
「そうっちゃ。さ・遥、とーちゃんは料理するから危ないけんね、ちょっと離れとり」

肩車から降ろすと、遥クンは素直にキッチンから出て、一人で子ども部屋に走っていった。
生田クンは手を洗ってから調理を始める。
ニンニクは粗みじん切りに、焼き豚はもっと粗く、噛み応えがあるように切っていく。
フライパンにサラダ油を引いてニンニクを入れて香りを出す。
それから溶き玉子を流し入れて菜箸でチャッチャと適当にかき混ぜてからご飯を投入。
別の小型フライパンに特製タレをよくきったカルビ肉を敷いて焼く。
炒飯のフライパンに頃合いを見計らって焼き豚を入れ、カルビ肉を漬け込んでいたタレと醤油を半々の割合でご飯に回しかけた。
焼き肉屋のような香りが生田家に蔓延し始めたころ。

「遥ー、メシができたっちゃよー」

子ども部屋で遊んでいた遥クンの耳にご機嫌な父親の声が聞こえた。
遥クンが椅子に座ると前掛けが結ばれ、それから皿が一枚、目の前にスプーンと共に置かれた。
山盛りの薄茶色のご飯に、ところどころに玉子の黄色がある。
そして自己主張が強いのか、ニョキッと焼き豚があちこちで突き出している。白いのはニンニクだろうか。
そんな炒飯の隣に添える、と言うには存在を主張する五枚のカルビ肉。

「とーちゃん、これが、おとこチャーハン?」
「そうたい。見かけは聖が作ったものより劣るけれど、がっつり肉とがしっとニンニク!」

二人、向かい合って、「「いただきます」」と手を合わせてから炒飯にスプーンを入れる。

「ん、我ながらよくできたばい」

生田クンのそんな声を聞きながら、遥クンはふーふーと息を吹きかけてから口に運んだ。

「うんめー!」

思わず出る感動の声。

「遥、美味いと思ってくれると?」
「とーちゃん、これ、うんめー」
「うんめー、か。なら良かったばい」

父子で、うんめー、や、にくー、と言い合いながら大盛りの炒飯を綺麗に平らげた。



優樹ちゃんの家に遊びに行っていいか聞くためにれいなクンに連絡すると、れいなクンは今日は仕事が休みとのこと。
さゆみさんが電話を代わって、遊びに行くことを快諾してくれた。
遥クンお気に入りのおもちゃを持って遊びに行くと、優樹ちゃんがとことこ歩いて出迎えてくれた。
二人、手を繋いで仲良くリビングでブロックで遊びだした。
そんな子どもたちを温かい眼差しで見つめる三人の大人。

「はい、生田」

さゆみさんが紅茶を差し出してくれたので、「ありがとうございますっちゃ」受け取ってカップに口をつけて中身を啜る。
温かいアッサムティーに体と一緒に心も温かくなる。

「どうしたの、なに眩しそうに見てるのよ?」

さゆみさんが聞いてきたので、素直に口を開く。

「いや……聖のお腹の子が産まれたら、そしてすくすく育ったら、遥とこうやって遊ぶっちゃろか、って思うと……
 すみません、なんか上手く言葉にできんですたい」
「あ、なるほどねえ」
「なんか生田の気持ちが分かるばい」

れいなクンは猫舌なので、まだ紅茶に口はつけていないが、しみじみと頷いた。

「正直、れなたちも二人目を、とか考えたりするけん、そしたらこんな光景が毎日見れて幸せやろうな、って思うと」
「なんで自分の子どもが楽しそうにしている姿ってこんなにも尊く見えるんでしょうか?」
「んー、これはさゆみの考えだけどね、」

さゆみさんはそこまで言って、紅茶を一口飲んでから言葉を続けた。

「子育てって正直楽しいことや幸せなことばかりじゃないの。
 産まれたばかりは夜泣き、歩きたては家じゅうが危険地帯、それにこれから反抗期だってあるんだろうし。
 そんな親が怒ったり泣きたくなったりするようなこともいっぱいなの。
 その分だからこそ、我が子が楽しいと親はその何倍も嬉しいものなの」
「あ……重い言葉ですと」
「生田どうしたっちゃ、いきなり落ち込んで」
「いや……オレ、ちょくちょく海外へ武者修行に行くから遥の子育てはほとんど聖任せですばい。
 ばってん聖から子育ての愚痴とかそういうの、一回も聞いたことなくて。
 本当は苦労してるのに、それを見せんようにさせてしまってるかと思うと……」
「あー。フクちゃんのことやし、それはあるかもしれけんね」
「田中さんもそう思いますか」
「さゆみはそう思わないの」

その言葉に四つの目が集中する。

「さっき子育ての大変さを言ったけれども。でもフクちゃんはそれ以上に生田と会える喜びが大きいんだと思うの、
 それこそふだんの子育ての苦労が吹っ飛ぶくらいに」
「聖はそう思ってくれていると?」
「あくまでさゆみの推測だけどね」

生田クンは無意識に左手の薬指に手をやった。海外にいくときは着けられないけれども、聖さんへの永遠の愛を誓った証の白金の指輪。
指輪を触り、撫で、聖さんを想う。
さゆみさんは生田クンのそんな無意識の行動に気付いていたが、何も言わずに静かに紅茶を飲んだ。



田中家の夕飯の時間になったので、生田クンと遥クンはお辞儀して帰宅した。
夕飯になるような物を探っていたら、冷凍庫から作り置きの聖さん特製ニンニクスッポンカレーを見つけたので、それを解凍して、父子で食べた。
それから一緒に風呂に入り、そこで遥クンのエネルギーが切れたのか、うとうとし始めたので、生田クンは四苦八苦してパジャマを着させた。
普段は聖さんと生田クンが使っているベッドに、父子で入り、遥クンはすっかり夢の中、生田クンも睡魔の尻尾を掴もうとした、その瞬間。
枕元のスマホが鳴った。
しかめ面で画面を見ると、発信相手に『聖』と書かれている。生田クンは大慌てで着信ボタンをスライドさせた。

「もしもしっ? 聖どうしたと!?」
「破水……陣痛、きた……」

それだけで通話が切れてしまったが、生田クンはすっかり睡魔を殴り飛ばしていた。
布団を蹴り飛ばし、跳ねるようにベッドから出て洋服に着替える。
黄緑のTシャツを頭から被りつつ、

「遥っ、起きんしゃい!」

と叫ぶが、一向に起きる気配がない。
タクシーを外に出て捕まえよう、そんなことを考えながらコートに腕を通し終える。
財布と鍵をポケットに突っ込み、全く起きない遥クンを毛布でくるんで小脇に抱え、慌てて家を出た。



タクシーの運転手さんを脅すような気迫で聖さんの入院している産婦人科まで急いでもらい、夜間外来の扉をタックルする勢いで開けた。

「生田衣梨奈です! 聖は!? 今どこですっちゃ!?」

外来受付の担当者を気迫で押しながら尋ねると、

「い、今、分娩室に入ったそう、です」

引き気味の声で答えられた。

「分娩室っ」

病院の地形も分かっていないのに、野生の勘で生田クンは走る。
右に曲がって次は左、次も左……分娩室前に到着!
出てきた助産婦を捕まえて、聖の夫だと告げる。
中に入るのでしたら着替えてもらいます、毛布の持ち込みはできません、と言われて、

「毛布じゃなくて息子ですばい」

と毛布をめくると、遥クンがまだ寝ている状態だった。
遥クンの頬をぺちぺち叩いて、なんとか起こして毛布から出して立たせる。

「……とーちゃん?」

まだ半分夢の中の遥クンは現状が理解できないらしい。

「遥、ここは病院ちゃ、かーちゃんから赤ちゃんが産まれるけんね」
「かーちゃん、あかちゃん……? あかちゃん!?」

遥クンはいきなりキョロキョロ辺りを見始める。

「あかちゃん、どこ?」

生田クンは半分呆れながら、

「まだ寝ぼけとると? 今からたい。遥もかーちゃんの傍で赤ちゃんが産まれるのを応援するっちゃろ」
「うん!」

そんなやり取りを近くで見ていた助産婦は笑いを堪えた表情で、

「ではこちらの服を着てください」

震え声で案内した。



小学生のころの給食着、水色バージョン。そう形容するのが相応しい格好で生田クンと遥クンは分娩室に入った。
分娩室の中央で。
聖さんは全身汗まみれになって握り棒に掴まり赤い顔でいきんでいた。

「聖っ!」
「旦那さんですか? 奥さんの傍にいてあげてください」
「はい! 息子もいいですっちゃろか?」
「構いませんよ、励ましてあげてください」
「先生、足先が出てきました!」

生田クンは遥クンと一緒に急いで聖さんの傍に立つ。

「聖、オレっちゃ!」

その声にぼんやりと目を開け、生田クンを捉えた聖さんは、迷うことなく握り棒を握っていた手を生田クンの手を掴んだ。
強く握られた手を、生田クンも強く握り返す。

「かーちゃん、がんばれっ」

遥クンが声援を上げたタイミングで聖さんはいきむ。助産婦が、

「生田さん、その調子です。少しずつ出てきてますよ」

と言ってくれた。
顔を真っ赤にして荒い息で全身を汗だくにしている聖さんの姿に生田クンの心が痛む。

「聖、苦しいっちゃろ……聖の痛みや苦しみ、オレが全部引き受けたか……」

すると聖さんは閉じていた瞳をゆっくりと開いた。

「だい、じょうぶ……聖とえりぽんの赤ちゃんが産まれるんだよ? これくらいの苦しさなんて通過儀礼だから……」
「聖……」

健気な聖さんの姿に生田クンの胸が熱くなる。なんなら今ここでキスしたい、そう思った。
聖さんがいきむ。生田クンは強く手を握る。遥クンが「かーちゃんっ」と声援を送る。
下半身まではスムーズに出てくることができた。
しかしそこからがなかなか出てこない。

「聖、あともうひと踏ん張りばい!」

生田クンはタオルで聖さんの顔中の汗を優しく拭く。

「あかちゃん、でてこいーっ」

そう叫んだ遥クンは、ぴたり、と体を停止させてから生田クンを仰ぎ見た。

「とーちゃん。あかちゃんのなまえ、なに?」
「……? 言ってなかったと? 朱音、たい」

すると遥クンは、今まで聖さんの顔を見ていたのに、顔を聖さんのお腹に向けた。

「あかねー。でてきたら、にーちゃんがあそんでやるぞっ」

その瞬間、聖さんがいきんだ。
おおっ、医師が驚きの声を上げる。

「信じられんっ、上半身が一度で出てきた!」

医師の言葉に生田クンは「……へ?」と声を出す。
聖さんは虚ろな目で分娩台に沈み込んでいる。

「えっと、産まれたですと?」
「はい。ですが……看護師のキミ、酸素マスク! 泣いていない、息をしていない!」

息をしていない? 生田クンは言葉の意味が瞬時に理解できなかった。

「朱音、朱音っ! 息をするったい!」
「心電図の用意!」
「先生っ、微かに呼吸はありますが危険な状態です!」

意識が闇に飲み込まれそうになる。オレと聖の子が、朱音が。

「あかねーっ! 泣け! 思いっきり泣くばい!!」

生田クンが力の限り叫ぶ。
ズボンの辺りを引っ張られる。潤んだ瞳で見ると、不思議そうな顔をしている遥クンだった。

「とーちゃん、あかねをなかせるのか?」
「あ、ああ。赤ちゃんは産まれて泣くときに思いきり酸素を吸い込むっちゃ。だから泣かないといかんたい」
「ん。わかった」

遥、分かったってなにをやけん、そう言いたいのを堪えて遥クンの行動を見ていると。

「あかねー! なかないとにーちゃん、あそんでやらないぞ!」

看護師に抱えられている朱音にそう叫ぶ。
すると。

「……みょ〜ん」

不思議な声が、聞こえた。
そして。
分娩室の外にまで響き渡る大きな泣き声。
みょーんみょーん、と不思議な泣き声が響き渡る分娩室で医師も看護師も助産婦も生田クンも、ぽかんとしていた。
一人、遥クンだけが嬉しそうに、

「あかねはハルにはすなお」

と言った。
生田クンは茫然とした表情で聖さんを見た。
聖さんも意識がはっきりしていて、目を丸くしていたが、生田クンと視線が合うと、

「聖とえりぽんの子だから、こういうのもアリじゃない?」

と言って微笑んだ。
生田クンとしてはあまりの非現実さに戸惑うしかなかったが、聖さんはすっかり受け入れている。
……これが母の偉大さってやつと?
ぼんやりと、そう思った。




その後、母子ともに安定しており、無事に退院した。
出産した翌日には、マンション中の住人が駆けつけてきてくれた。
朱音は生まれたてながらも人懐っこく、生田クンや聖さんが目の前で手を振ると、みょんみょん言った。
しかし。特に兄の遥クンがお気に入りらしく、遥クンが朱音の顔を覗き込むだけで、みょ〜ん・みょ〜ん♪ とご機嫌だった。

こうして。
生田家に新しい命が誕生し、マンションがさらに賑やかになりそうであった。





birth 終わり。
 

ノノ*^ー^) 検索

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