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亀井絵里は起きた瞬間に体のだるさを感じた。
なんだか熱っぽいなあと思いながらも、支度をする。
冬の朝は暗い。絵里はメガネをかけ、洗面台へと向かおうとしたが、ふらふらと膝から崩れ落ちる。
あれー、どうしたー?とおどけてみるが、どうもうまくいかない。
絵里は膝に手をかけて立ち上がり、戸棚から体温計を取り出す。
体温計を脇に挟み、ベッドに腰掛けて天井を見上げる。

昨日、研修会を終えた絵里は、教員たちと軽く打ち上げに行った。
確かに帰りは寒かったが、ちゃんと日を跨ぐ前には帰宅したし、風呂上がりも体を拭いたのになと絵里は昨夜を思い出す。
あと風邪を引く要素はといえば、単純な疲れだろうかと考えていると、体温計が鳴った。

「…37度あるじゃん……」

その表示に絵里はうんざりするが、どうしても今日は学校を休めない。
今日は朝イチで研修会の報告と、午後から授業編成に関する職員会議が入っている。
授業は自分のクラスのひとつだけだが、この報告と会議は出席するしかない。
最悪、授業は自習にするとしても、それ以外はがんばろうと絵里は頭を振り、準備を始めた。


れいなはぼんやりと屋上から空を見上げていた。
結局今日もサボってしまったなと苦笑しながら、変わることのない青空を見る。
こういう惰性は良い習慣ではないなと思いながらも、れいなは此処から動けなかった。

朝のホームルームが終わったあと、れいなは絵里に話しかけようとしたが、絵里は体調が悪いのか、「ごめん、あとで…」と言って足早に教室を去った。
出鼻を挫かれたれいなは、そのまま授業に出ず、なぜか今日も此処で時間を潰している。
良いことじゃないよな、絶対にとは思うが、れいなは溜息交じりに空を見上げた。
今日の放課後までには、ちゃんと絵里と話をしたかった。
出来ることなら、家庭科の授業のある5時限目までにはそうしたいのだが、果たしてなにを話そうか。

目を閉じると、愛佳の言葉が頭をよぎった。
あのときの彼の目は本気だった。このままでは、愛佳は恐らく、絵里に告白をするだろう。
絵里が揺れるとは思わないが、こんなにも不安な気持ちのままで良いわけはない。
れいなはもどかしい気持ちを抱え、頭をかいた。

「やっぱり此処だったの」

降ってきたさゆみの声にれいなは目を開く。
さゆみは苦笑しながられいなの横に腰を下ろしたので、れいなも上体を起こす。

「れいなはホント、此処が好きだね」
「ん…まぁ…」

れいなが曖昧に返事をすると、さゆみはふふっと笑い、れいなと同じように空を見上げる。
そういえば、この間は里沙と一緒に此処で空を見ていたっけと思いだした。
さゆみと一緒にこうしてゆっくりと過ごすのはいつ以来だろう。
先日、教室でエッチをしてから、なんとなく、さゆみの態度が変わったような気がするとれいなは思っていた。
気のせいかもしれないが、何処かよそよそしく、なにかを悩んでいるような感じがして、少し話しかけづらい日が続いていた。
でも、今日はなぜか、自然な空気が流れている。
こんな優しい空気、久しぶりやなとれいなはぼんやりと思った。

「先生、体調悪そうやったやん」

れいなはなんの意図もなく、ぽつりと言葉を吐いた。
さゆみは宙に浮かんだその言葉を優しく受け止め、「そうだね」と返す。

「ホントは話したいことがいっぱいあったと」
「……話したいこと?」

さゆみの言葉にれいなは静かに頷く。
結局あの日から、なにも分かっていなかった。
どうすれば良いのかとか、亀井先生の気持ちとか、光井先生の想いとか、れいなはなにも分かっていなかった。
だけど、たったひとつだけ見えたものがあった。
どんなに詰らとしても、自分の気持ちだけは揺るがなかった。
それがあるならば、行くしかない。
分からなくても、悩んだとしても、迷ったとしても、もう、止まることはできないのだと。

れいなは深く息を吐くと、「好きやって」と呟いた。

「亀井せんせぇが好きやって、ちゃんと言いたいっちゃん」

その言葉は確かな意味と色を持ち、爽やかな音符をつけて走り出した。
冬の青空に似合うような羽をつけて舞い上がり、ふわりと風に乗ったかと思うと、すぐに空気に溶け込んだ。
まるでひとつの歌のようなその響きは、さゆみの心にも溶け込んだ。
そこには痛みも哀しみも、寂しさもなかった。ただあるのは、純粋なひとつの想いだけだった。
さゆみはそう呟いたれいなの表情を真っ直ぐに見つめる。彼女の瞳は相変わらず青空を映していた。
その大きな瞳の奥には、ただひとりの、あの人がいるんだろうなとさゆみは納得し、ふっと笑った。

「昼休みさ、先生の所行きなよ」
「え?」
「体調悪そうだったし、早退するかもしれないじゃん」

さゆみの意見を聞き、れいなは確かにと納得する。
朝の体調の悪さは素人のれいなが見ても分かるほどであったし、5時限目の授業もちゃんとやるのかどうか微妙な状況であった。
このままずるずる引きずるよりは、昼休みにでもとにかく伝えることだけした方が良いのかもしれない。

れいなは大きく息を吸い込み、目を瞑る。
校舎中にチャイムが鳴り響いたが、瞼の裏側には、あの優しい笑顔がやっぱり浮かんでいた。
れいなはふっと笑い、「そうするわ」とさゆみに返すと、さゆみも同じように笑った。

そのときだった。勢い良く屋上の扉が開いた音がした。
直後に梯子を登ってきた人物は、れいなもさゆみのよく知る顔だった。

「やっぱ此処にいた!探したのだ!」
「どしたと、ガキさん」

息を荒くして梯子を登りきった風紀委員長の里沙は「よいしょっ」と声を出す。
そういうところが昭和くさいとふたりは同時に思ったが敢えて黙っていると、里沙が口を開いた。

「田中っち探してたよ、生徒指導部の先生が」

れいなはそう言われてきょとんとした。
生徒指導部の先生って誰だっけ?と記憶の底を掘り返した。

「生徒指導室」という場所は、正直嫌いだった。
文字通り、生徒を指導する部屋なのだが、そんな場所を好きな人がいたら、会ってみたいものだとれいなは思う。
れいなはそんな大嫌いな部屋で、たぶん学校でいちばん大嫌いな先生と対峙している。
目の前にいるのは、生徒指導部長であり、英語教諭のヤマモトだ。不機嫌だということは一目で分かる。
その原因をつくっているのは恐らく自分だとも、れいなは分かっている。

「これで何回目だ、田中」

れいなはそう言われても、何回かなど答えられない。いちいち授業をサボった回数など覚えているわけがない。
そんなことを言おうものなら更に怒りを買うことは分かっていたのでれいなは黙っていた。
だが、黙っていることも得策ではなく、ヤマモトは苛立ちを隠せず、激しく机を叩いた。

「やる気がないならもう学校に来るな。迷惑なんだよ」

このセリフも、入学してからなんど言われただろうとれいなはぼんやり思う。
それでも真面目に登校しているのは、あの日屋上で、亀井先生に会ったからだった。
彼女がいなければ、たぶん、学校には来なかったか、来たとしても、無断欠課が多かったかのどちらかだと思う。
そう考えると、自分がいかに亀井先生を中心に物事を考えているかが分かる。

「邪魔なんだよ、お前みたいなのがいると」

その言葉ももう聞き飽きた。なんどもなんども、そうやってれいなは教師たちに言葉を吐かれる。
彼らは絶対に「なぜサボるのか」という理由を聞くことはない。
頭ごなしに決めつけてかかるやり方が嫌いだった。まあ、理解してくれとも思わないけれども。
れいなが黙っていると痺れを切らしたのか、ヤマモトは再び机を叩いた。
脅せば良いと思っているのだろうかとれいなは彼と目を合わせる。
その目つきが気に食わなかったのか、ヤマモトは立ち上がり、机を回ってれいなへと近づいてきた。
殴られるのだろうかとれいなが思っていると扉がノックされた。

「すみません、失礼します」

ヤマモトが返事をする前に先に、絵里は生徒指導室へと入った。
その顔色は悪く、風邪が悪化していることは一目瞭然だった。
れいながなにか言う前に、絵里はヤマモトに対して口を開く。

「どういうことですか、ヤマモト先生…」

絵里はマスクを外し、ヤマモトと対峙する。
熱があるのかその頬は赤く染まり、時折鼻をすすっている。
息が上がっているようにもみえるが、走ってきたのか、体調が悪いせいかは判別できない。
とにかく絵里の体調が最悪だということはれいなにも理解できた。

「彼女の欠課数の話はしたはずです。あなたが注意しないので、私から直接指導しているだけですよ」

ヤマモトは絵里の言葉を額面通りに受け取って返した。
生徒指導室の空気が凍っていくのが分かる。れいなが言い返そうとする前に、絵里が一歩踏み出し、反論した。

「田中さんは私の生徒です」

れいなの真横に並んでそう返した絵里を、れいなは真っ直ぐに見つめた。
ふらふらになりながらも、絵里は逃げることなくヤマモトにぶつかっている。

「私が責任を持って、田中さんのことは…」

次の言葉を繋ごうとしたとき、絵里は激しく咳き込み、机に左手を付いた。
明らかに風邪を引いた咳の仕方に、れいなは思わず立ち上がり、絵里の背中をさする。

「あなたのその“指導”が甘いから、田中さんの欠課数も増えているんじゃないですかね」

それでも絵里の咳が止まらないでいると、目の前にいるヤマモトは容赦なく畳み込む。

「甘いんですよ、あなたの指導は」

れいなはその言葉に顔を上げ、ヤマモトを睨みつける。
だが、そのれいなの視線など意に介すことなく、彼は言葉を投げつけた。

「これだから、若い女の先生は嫌なんですよ」

その言葉にれいなは遂に叫んだ。

「先生は悪くなか!れなが勝手にサボっとぉだけっちゃ」

れいなの発した言葉にヤマモトは初めて目を合わせた。
絵里はまずいと思い、れいなの手を取ろうとするが、頭に血が上ったれいなは言葉を止める術がない。
胸にしまいこんでいた痛みや、理不尽、そして単純に男女という性別で差別するこの男の考え方に対する反感が溢れ出してくる。
いまどき男女差別なんて流行らないぞこのバカと叫びたくなった。

「女とか男とか関係なか!」

その言葉は、教師という立場において、という意味だけではなかった。
自分の中で揺るがなかったただひとつの想い。
心を捉えて離さず、頭で考えるよりも先に、ただ純粋にその温もりに触れたいと生まれた願い。
それを「恋」だと言いきるのは単純で、だけど複雑で、それでもれいなは絵里を想った。

「あんたのそのハゲ頭じゃ理解できんちゃん!」

ただし、そればかりは失言だった。
絵里は最悪だと言わんばかりに目をつむり、思わずれいなを脚で蹴り飛ばそうかと思ったが手遅れだった。
ヤマモトは、挑発に乗ったれいなに感謝しながらも、あまりにもストレートな暴言にその怒りは頂点に達していた。

「だれに向かって口を聞いているんだ!」

拳で机を叩いたあと、れいなの胸倉を掴まんと左腕を伸ばすが、絵里は必死にその手首を掴み阻止する。

「体罰ですよ、それ以上は…」
「目上の人間への敬語も態度もなっていない生徒への指導だと言っているだろうが。それより…」

ヤマモトは絵里から腕を引き剥がすと、彼女の目を真っ直ぐに見る。

「あなたも考えた方が良い。自分の立場を」

その言葉に絵里はあからさまに顔を歪める。
分かっている。学校という組織における生徒指導部長の持つ権力性も、家庭科教師の持つ不遇さも、見えないレッテルも、女性という立場の低さも。
だが、それを肯定してこのまま引き下がるわけにはいかない。
れいなは絵里の生徒だった。この子を、学校のヒエラルキーの中の諍いに巻き込むわけにはいかない。

「先生は関係ないって言いよろうが!」

あーもう、れーなお願い!
とても優しい言葉だし、ホントに泣くほど嬉しいんだけど、いまは!いまだけは我慢して!挑発に乗らないで!
絵里はなんども咳をしながらそう思うが、もう言葉にならない。声を出そうにも、喉をひゅうひゅうと風が通り抜けるだけだ。
想いが音にならないもどかしさに唇を噛みしめる。

そのときだった。

「ヤマモト先生、ヤマモト先生」

実に間抜けた「ぴんぽんぱんぽん」という音のあと、校内放送が響いた。

「教育委員会よりお電話が入っております。至急職員室までお戻りください。繰り返します」

その声に絵里は聞き覚えがあった。
ヤマモトもその声の主を知っているはずだが、「教育委員会」という言葉に反応したのか、その目が泳いだ。
絵里とれいなを睨んだあと、「すぐ戻りますから」と生徒指導室をあとにした。
彼が部屋を出た瞬間、絵里は一気に緊張の糸が切れ、膝から崩れ落ちた。れいなは慌てて絵里の体を支える。

「だ、だいじょうぶと?!」
「はは……へーき…」

絵里はそう言うが、正直、体はもう限界だった。
ヤマモトと言い合いをしたせいか、声はほとんど出ず、熱があるくせに体はなぜか寒かった。
頭を突き刺すような痛みは断続的に続き、視界も揺れて立っていることも叶わない。

れいなが絵里の肩に腕を滑り込ませ、いちど立たせようとしたときだった。扉がノックされた後、光井先生が入ってきた。

「だいじょうぶですか、亀井先生」

どうしてこの人はこうも良いタイミングで入ってくるのだろうとれいなが思うのをよそに、愛佳は絵里の額に手を当てる。

「ひどい熱ですね…もう帰った方が良い。僕が車で送りますよ」

そう言うと愛佳はれいなにひょいと絵里の鞄とコートを手渡し、絵里の肩を抱いて立たせた。
そのまま生徒指導室を出ていこうとする愛佳のあとを慌ててれいなも追いかける。
先ほどの校内放送、あの声は光井先生だったような気がするとれいなは思った。
最初からこの人は、絵里と自分をここから連れ出すために、あの放送を入れたのだろうか。
そうであるならば、鞄とコートを持ってきた理由も分かる。
まったく、敵う気がしないなと、れいなも絵里の体を支えていると、後方から男の声が追いかけてきた。

「光井先生!」

最悪のタイミングだと思うが、愛佳は振り返らずに歩を進める。
その態度が気に食わなかったのか、ヤマモトは3人に走り寄ってきた。
愛佳はれいなに「先に玄関に行ってて下さい」と声をかけると、ヤマモトに向き直った。

「どういうことですか、これは」
「……亀井先生の容体が悪化しているので、病院へお送りする次第です」

愛佳とヤマモトの言い合いを背中で感じながら、れいなは玄関へと向かう。
絵里もなにか言おうとするが、れいなは「だいじょうぶやけん」と彼女の靴を出してやる。
果たして、なにがだいじょうぶなのかも、分かっていないのだが。


「…先ほどの放送の件は?」
「なんのことですか?」
「シラを切るおつもりですか?教育委員会からの電話などありませんでしたよ。あなたが放送したことも分かっている」

愛佳は困ったように笑いながら「あー」と頭をかく。
嘘のばれた少年のように言い訳を探しているようにも、最初からバレることを想定していたようにも見える。
れいなは自分の靴をはき、ふたりの言い合いを見つめる。

「まあ、亀井先生の送迎が先ですので。この話はあとで」

そうして愛佳はニコッと片手を上げるとヤマモトに背を向けた。
ヤマモトはなにかを言いかけて口を噤んだあと、その背中に叫んだ。

「あなたの前の学校での話は聞いていますよ!」

瞬間、愛佳の顔から笑顔が消え、その足が止まる。
前の学校?なんのことだ?とれいなと絵里は同時に思う。
愛佳は再び困ったように頭をかき、ヤマモトに向き直る。
彼は自分が優位に立ったことを確認しながら鼻の穴を膨らませ言葉を繋いだ。

「あの話が本当なら、あなたの教職員としての立場は…」

ヤマモトがすべてを言いきる前に、愛佳は「僕には」と言葉を切り出す。

「僕には、護りたいものがあります。生徒も、同僚の先生も……」

重苦しい言葉が廊下を駆け抜けた。
いったいどういう意味だろうと理解しようとしたのも束の間、愛佳はこちらに走り寄り、絵里の肩を抱いた。
絵里は愛佳に支えられるように玄関から外へと歩き出す。その後方から再びヤマモトの声が追ってきたが、愛佳は振り返らなかった。
ただ小さく「護りたかったんです…」と呟いたその低い声は、熱にうなされて意識が朦朧としている絵里の頭に焼きついて離れなかった。

愛佳が絵里を助手席に乗せると、れいなも当然のように後部座席に乗ろうとしたので、愛佳は止めた。

「5時限目授業でしょ?ちゃんと出て下さい、欠課数多いんですから」
「でも、亀井先生が…」
「僕がちゃんと自宅までお送りしますから大丈夫です。あなたは授業に出て下さい」
「……れなのせいやっちゃん」

震えるその言葉に、愛佳は眉を顰める。
れいなはぎゅっとスカートを握り締め、言葉を吐いた。
授業をサボっていたのも、言い訳をつけて絵里に逢わなかったのも、ヤマモト先生に怒られる原因をつくったのも、みんな自分のせいだった。
亀井先生を追い込んで苦しめたのは自分だと責めるれいなに、愛佳はそっと肩を叩く。

「6時限目の僕の授業は休んで構いません…せやけど、次は絶対出て下さい」

いちど言葉を切り、一呼吸置いて続けた。

「それが、先生のためになるんです」

そう言うと愛佳は運転席にドアを開けて乗り込んだ。
れいなは口を真一文字に結び、必死に自分を奮い立たせているのか、その脚は少しだけ、震えていた。
車のエンジンを回すと、れいなは一礼した後、玄関へと戻っていった。れいなの背中は確かに、決意という名の責任を背負っていた。

「……良い子ですよね、田中さん」

愛佳がシートベルトを締めて呟くが、絵里からはなんの返事もなかった。
ただ、横目で見た彼女の肩は少しだけ震えていたような気がした。
とにかく急ごうと、愛佳はゆっくりとアクセルを踏み込んだ。
絵里の意識は、そこで一度途絶えた。



ふと目を覚ますと、見慣れた天井が飛び込んできた。
私、どうしたんだっけ?と理解しようとふと顔を横に向けると、そこにはれいながいた。

「先生…起きた?」

れいなの声をぼんやり聴きながら絵里はひとつ頷いて起き上がろうとする。
しかし、まだ体が熱く、頭も重かったため、思ったように力が入らない。
れいなは慌てて「起きたらダメやって」と絵里の体を支え、ゆっくりとベッドへと横にさせた。
絵里はそこで漸く、自分の額に濡れたタオルが乗っていたこと、Tシャツとジャージに着替えていたことに気付く。
じっと目を凝らすと、奥にあったテーブルには市販の風邪薬が置いてあった。

「光井先生が、買ってくれたみたい。薬と、ポカリ」

れいなはそう言うと、絵里の額のタオルを取り替えてやった。
冷気が頭に沁み込んでいき、頭痛が引いていく気がした。

「れーなが…着替えさせてくれたの?」
「うん。汗、メッチャかいてたし」

そうしてれいなは頭をかきながら目を逸らした。


れいなは愛佳との約束通り、5時限目の授業には出席した。
本来の授業を担当する予定だった絵里の代わりに、別の教師が家庭科の授業を行った。
正直、絵里のことを考えると気が気ではなく、授業の内容はほとんど覚えていない。
終了のチャイムが鳴り、挨拶が終わると同時にれいなは走り出していた。
薄っぺらいカバンとコートを持ち、冬の寒空の中、途中息がなんども切れながらも、絵里の家までひたすらに走った。

絵里の部屋に入ると、彼女は既にベッドに寝ていた。
額には濡れたタオルが敷いてあり、机上にはコップと風邪薬、そして1枚の紙が置いてある。
れいなは息を整えながらその紙を見た。

『薬は飲ませましたので安静にお願いします。一応、体の汗は拭きましたが着替えをお願いします』

起き手紙の内容を反芻しながら、れいなは愛佳の顔を思い浮かべていた。
れいなに気を遣ったのか、着替えはさせていないらしい。彼なりの優しさなのか、それとも……
ひとまずれいなは、心の中で愛佳に礼を言いながらジャージとTシャツを引っ張り出した。

「先生…?」

声をかけるが、絵里は起きる気配がなかった。
無理に起こすことは憚られ、れいなは絵里の首の後ろに腕を回し、力を込める。
思いの外に、絵里はひょいと持ち上がった。
こんなに先生、軽かったっけ?と不安になりながらも、眠る絵里の上体を起こし、れいなは絵里のシャツのボタンに手をかける。
急に高鳴り始めた心臓を意識したが、れいなは頭を振り、その音を無視する。
シャツをするりと脱がせると、汗をかいたキャミソールが現れる。
れいなはひと息吐いて、キャミソール、そしてブラジャーを脱がせる。
久しぶりに見る絵里の上半身は真っ白で、だけど熱に冒されて汗をかき、苦しそうに息をしている。

冷えたタオルで丁寧に拭いていくと、絵里は時折声を上げる。
胸元に触れたとき、絵里は「んっ…」と声を漏らしたので、れいなは絵里の顔を見た。絵里はまだ起きる様子はなかった。
欲情しそうになるのを堪え、体が冷えない内にシャツを着せてやった。

―下も……よね…

れいなは絵里をいちど寝かせた後、布団をめくり、絵里のスカートに手をかけた。
なんどもごめんと呟きながら、下着とともに一気に下ろす。
だれにともなく「看病やから」と言い訳がましく呟くところがヘタレなのだろうかと自問自答しながら、れいなは丁寧に汗を拭く。
新しい下着とジャージを足首に通し、するすると膝まで着せると、程良く筋肉のついた太股に目が止まる。

―アホやん、マジ……

れいなはそう思いながらも、その太股にそっとキスを落とし、ジャージを着せてやった。
絵里は相変わらず短く息をしながら眠っている。れいなは新しいタオルを額に乗せ、絵里の手を握った。

話したいことがあった。
伝えたいことがあった。
聴いてほしいことがあった。

でも、たぶん、100の言葉をもってしても、この気持ちは伝えられない気がした。
悩みも、哀しみも、どうしようもないもどかしさも、これ以上ないほどの、先生への想いも。

だかられいなは、決めていた―――

「ありがとね、れーな……」

熱にうなされながら、絵里はふっと笑いかけた。
全部れなのせいなのに、亀井先生はそうやって、いつでもれなに笑ってくれる。
今日だって、散々迷惑かけていたのに、先生はなにも言わずに、れなを庇ってくれた。
その優しさに、応えたかった。
たとえ破滅的な恋だったとしても、れいなは絵里に、伝えたかった。

れいなは体を乗り出し、ベッドに横になる絵里をふわりと包み込む。
熱を帯びた絵里の体はとても熱いが、それでもれいなは絵里を離さない。
絵里は急に抱きしめられて驚くが、久しぶりに感じるれいなの体温が愛しく、れいなの背中にそっと腕を回した。

「治ったらさ…」

れいなの声が耳元で聞こえる。
優しくて温かくて、それでいて心地良い。

「先生が、風邪、治ったら、たくさん話したいことあるっちゃん」
「話したい……こと?」

絵里がそう聞き返すと、れいなは頷く。
その顔は見えないけれど、きっと眉を顰めて、これ以上ないくらいの真剣な眼差しなんだろうなと思う。

「れなは、先生が、好き」

その声に絵里はハッとする。
なにかを言いたかったのに、言葉にならない。

「好き……せんせぇ……」

甘い甘い言葉だった。
ずっと聞きたくて、信じていて、待っていた、れいなの言葉。
感じるれいなの体温と、時折伝わる心音が、絵里に安心感を与え、これ以上ないほどのシアワセを感じる。
遠く感じていたあの距離が、一気になくなっていくのが分かる。
こうやって、追い込まれないとちゃんと伝えられないなんて、鈍感というより他ないのかもしれないけれど。

それでも、ちゃんと分かっている。
れいなが必死に伝えた想いを、絵里は心に刻むように、なんどもその腕に力を込める。

「絵里も、れーなが、大好きですよ」

顔が赤い。
頭も痛い。
相変わらず熱は高いし、咳も出る。
でも、絵里は笑っている。ずっと荒れていた心が、落ち着いていくのが分かった。

「好き…」

そうしてれいながもう一度呟くと、彼女としっかりと目を合わせる。
れいなは目を瞑り、顔を近づけてきたので、絵里も自然と目を閉じる。落ちてきた甘い唇に、久しぶりのキスの味を確かめる。
風邪がうつっちゃうと思ったが、拒否なんてできなかった。
絵里とれいなはどちらからともなく舌を絡み合わせ、なんどもなんども、確かめるようにキスを交わした。
熱いのはきっと、風邪のせいだけじゃない気がした。

「れーなぁ……」

長いキスのあと、絵里がそう呟いたので、「うん?」と優しく返した。

「治ったらさ、絵里も話したいこと、たくさんあるから」

そうして絵里が笑うと、れいなも釣られて笑った。
進みたかった。なにも分からないかもしれないけれど。たくさんの人を傷つけていたとしても。
この気持ちに嘘を、つきたくなかったから。


「れいなぁー、買ってきたよー」


そのときだった。
玄関先で聞こえた声に、れいなは応えた。絵里はその声の持ち主を知っていて、思わず体を起こそうとする。
れいなはそれを慌てて制し、「さゆがお粥作ってくれるって」と立ち上がった。

「冬は寒いのー。ほら、れいなも手伝って」

さゆみはスーパーで買ってきた荷物を下ろし、れいなにそう言った。

「え、れな料理できん」
「さゆみが寒い中買って来たんだからちょっとは手伝いなさいよ。どうせ片付けもしてないんでしょ。ご飯炊いて、早く」

さゆみが早口にそうまくし立てるので、れいなも渋々頭をかきながらキッチンへと向かった。
絵里が呆気にとられていると、さゆみはふっと絵里に向き直る。その表情はあまりにも大人びていて、絵里は思わずドキッとする。
さゆみは「具合、だいじょうぶ?」と聞くので、絵里は戸惑いながらも「うん」と笑い、上体を起こした。

「さゆみは、やっぱりれいなが好き」

その言葉はふわりと宙に舞い、絵里の心に届く。
彼女の目は真剣で、嘘偽りない想いが込められていることに気付く。

「でも……先生も好きなの」

絵里はさゆみの言葉の奥にある想いや痛みをひとつひとつ、感じ取る。
さゆみの揺れる心に、寄り添うことしかできないけれど、それでも絵里は彼女を見つめた。

「だからね、先生…」
「うん?」
「……一緒に、いていい?」

さゆみには、選べなかった。
れいなも絵里も、さゆみにとっては大切な人で、どちらかを選ぶことはできなかった。
確かにれいなは好きだったが、今日、屋上で、れいなの瞳を見たときに、さゆみはなんとなく確信した。
れいなは自分でも知らない内に、その瞳に亀井先生を深く映しているのだと。

絵里はすっと両腕を伸ばし、さゆみを抱きしめた。
冬の寒空を歩いたさゆみの体は冷たい。それでも震えることなく自分の想いを伝えた彼女は、強いと思った。
なにも言うことはできなかった。「ごめんね」も「ありがとう」も、絵里には言えない。

「一緒だよ、絵里たち」

出てきた言葉は、たったのそれだけだった。
それでも、絵里の心の痛みも哀しみも、そして想いも分かっていたさゆみは、やはり何も言うことなく、絵里を抱きしめた。
ふたりはそうして、キッチンから「あっつぃ!」と火傷したようなれいなの声が聞こえるまで、抱きしめ合っていた。


その後、さゆみの協力もあり、不格好ではあるがお粥は完成した。
3人で食べたお粥はずいぶん塩が多めだったが、それでもずいぶん美味しかった。





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