「あれ?」

車に乗った瞬間、絵里は違和感を覚えた。
いつものれいなの車ではないと直感がそう教えていた。
れいなは、もうバレたかと苦笑しながらエンジンを回す。低い音がしたあと、車体が目覚め、唸り声を上げた。

「借りて来たっちゃよ、今日だけ」
「え?」
「こっちの方が、ドライブには相応しいっちゃん」

れいなはそう言いながらなにかを操作する。
慣れない感触に絵里は不安そうな顔をするが、れいなは「だいじょうぶ」と笑い、絵里にシートベルトを着けてやる。
瞬間、ガコンという音がしたかと思うと、聞き慣れない機械音が車内に響く。
ビクッと絵里が反応したのも束の間、ふわりと風が舞い込んできたのが分かった。
窓を開けたにしては直に感じる風の流れに絵里がきょとんとしていると、その理由が分かった。

「オープンカーの方が、ドライブっぽいやろ?」

れいなはそう得意そうに言うと、目的地点までのカーナビをセットし終える。
車好きだったれいなの父親は、母親との最初のデートの時に「ドライブは真っ赤なスポーツカーが良い」と冗談交じりに言われたことがあったらしい。
父親はそれを真に受けたが、とても自分の給料ではそんな高級車は買えなかったと苦笑していた。
れいなが今日、自分の車ではなく、わざわざオープンカーをレンタルしてきた理由は、そういう父親の想いも乗っているからだろうかとなんとなく思う。

そんなことを考えていると、助手席の絵里が咳をした。
ゲホ・ゴホという音にれいなは思わず心配そうな顔をする。

「絵里、風邪?」
「ううん。なんか、昨日くらいから喉が少し痛くて……」

絵里がそう言うので、れいなは胸ポケットに入っていた飴玉の存在を思い出す。
昨日仕事終わりに事務所の机の上にあったものを数個拝借してきたものだ。
本来ならば接客用に使うものだが、別に減ったって文句は言われないだろうと、れいなは包み紙を剥ぐ。

「絵里っ」

明るい声を出すと、絵里は「うん?」と素直にこちらに振り向く。
人を疑うことを知らないような純真な表情に射抜かれながらも、れいなは「あーんして?」と言う。

「……へ?」

そのれいなの声に絵里は戸惑い、思わずそう答えた。

「いや、だから、あーんして」

お構いなしにれいなは言うが、絵里には全く意味が分からない。その上に恥ずかしさはまさに頂点だった。
あ、あ、あーんしてってなに?え、なにご飯?いや違うよね。早いもんね、まだ。うん、そうじゃなくてさ。なに、なに、なに?

絵里がそうひとりで考えているのも束の間、自分の唇に甘い感触が降って来たことに気付く。
それはオレンジの果汁で絵里は思わず口を開けた。ひょいと口内に入ってきたのは丸い飴玉だった。

「それ、喉に良いかもやけん、舐めとって」

そうれいなは言うとシートベルトを着用する。
絵里はきょとんとしながらがらも、れいなに放り込まれた飴玉を舌で転がした。
その甘さは、いままで食べてきた飴玉なんかの比ではない気がした。

「体調悪いんやったら、屋根つけるけん、どうする?」

れいなが心配そうにそう聞いてきた。
今日は初夏を思わせるような天候であり、絶好のドライブ日和とも言える。
オープンカーで走っても暑いくらいの気温だが、もし絵里が体調不良であるならば、あまりムリはさせたくない。
れいながそう提案すると、絵里は慌てて首を振る。

「寒くないし、だいじょーぶだよ」

そうしてニコッと笑顔を見せると、れいなも幾分か安心した表情を見せる。

「じゃあ、行きますかぁ!」

ひとつ景気よく声を上げたれいなはサングラスをかけ、ハンドルを握る。
ゆっくりとブレーキから脚を離し、アクセルへと乗せると、いつもよりも低い視線から車が動き始める。
重低音のエンジンが回って聞こえる唸り声は、さながら、眠りから覚めたライオンのようだった。

乗り慣れない車に戸惑っていた絵里ではあったが、流れ込んできた心地良い風に髪をなびかせ、次第に落ち着いていく。
シートから直に感じるエンジンの声が体全体に響き、まるで離陸さえしてしまいそうな錯覚を覚えた。

「おおぅ!」

れいながスピードを上げ、風の強さが変わったのを感じた絵里は素直に声を上げた。

「わーーー!」
「ちょ、声大きすぎ!」
「うへへぇ、だってぇー」

初めての感覚に絵里は笑った。
心地良い風の匂いが鼻をくすぐり、全身を駆け巡るエンジン音に体を震わせる。
なんだか無性に大きな声を出したくなった絵里は、空を見上げ、「わーーー」と叫ぶ。
此処はまだ都内の住宅街。
せめて人気のない場所で叫んでくれ。ジェットコースターじゃないんだからとれいなは苦笑する。
だが、そんな子どものようにはしゃぐ絵里を見て、れいなもなんだか調子に乗り、スピードを上げる。
制限速度なんてあっさり無視して走ると、隣の車から不審な目で見られる。運転しているのが女であると分かるとさらに驚愕される。

「れーなぁ!」
「うん?」
「今日は何処行くのー?」

高速道路に入る前に何処かで屋根をしまわなきゃなと考えながらハンドルを右に切る。
絵里の質問には「内緒」と答えてはぐらかすと、絵里は「むぅ」と子どものように顔を膨らませた。
本当にこれでれいなのひとつ年上なのだろうかとなんとなく、思った。

「どうしても、連れて行きたいと」

少しだけその場所のヒントを伝えると、絵里はなにかを考えるような仕草を見せる。
だが結局なにも分からなかったのか、唇をタコのように突き出した。
そんなひとつひとつの動作も可愛くて、もうどうしようもなく彼女にハマっていることをれいなは自覚した。
高速に入る手前、コンビニを見つけたれいなは駐車場に頭から入っていく。
レジの奥にいた店員に二度見されたが、そんなに珍しいのだろうか、この車……と苦笑した。
それとも、オープンカーに乗ったサングラスをかけた2人組の女が珍しいのだろうかと思いながら、れいなは絵里に声をかけた。

「お昼買ってくるけん、なんがいい?」

高速を降り、再び屋根を開けて走ること1時間程度、目的地へと近付いてきた。
そのことに最初に気付いたのは絵里の嗅覚だった。
潮風が鼻をくすぐり、絵里は運転席にいるれいなの方を思わず向く。れいなもそれに気付いたのか、左手で軽く頭を撫でた。

「海!」
「そう。海!」
「海だぁーー!!」

海岸線沿いを走るオープンカーから再び可愛い女の子の声が響いた。
後続の車の運転手が、何事かと窓を開けた気がしたが、もういちいち気にしないことにする。

「ここ、そんなに人多くないけん、よく撮影に使うと」
「じゃあれーな、よく来るの?」
「んー…よくってほどでもないけん、たまに……前にさゆの撮影で来たとよ」
「……そっかぁ」

あ、あれ?海って気づいたときは凄く嬉しそうやったんに…と、少しだけ声のトーンの落ちた絵里をれいなはチラリと見つめる。
だが、次の瞬間には絵里は顔を上げ、「久しぶりだから楽しみー」と笑った。
なんだったのだろう、いまの間は…とれいなは気にしながらもアクセルを踏んだ。

太陽が天高く居座る午後、絵里とれいなは手を繋いでゆっくりと浜辺を歩いた。
手を繋ぐことは自然になって来たが、それでもまだ慣れない。絡み付く細い指先がか弱くて、れいなは不意に胸が締め付けられた。
絵里は最初、サンダルを履いていたが、波打ち際に来たら、久しぶりの海水に触れたくなったのか、すぐに裸足になった。

「つめたっ!」

やってくる静かな波が脚をくすぐり、冷たい温度を感じた。
白のワンピース姿で海辺をはしゃぐ絵里を見て、れいなは自然と笑顔になった。
本当なら、カメラを構えて、子どものような彼女の姿を収めたいのだが、さすがにそんな野暮なことはしない。
彼女の、いまも彼女の姿を、れいなはひとつも逃さないように、心に焼き付けた。

「海来るの久しぶりだなー」

そうしてふと言葉にした彼女に、れいなは優しく返した。

「子どもン頃以来とか?」
「うーん、たぶん、それくらい。お父さんとお母さんと、絵里が小さい頃に来たのは覚えてるよ」

そう言うと、絵里はぽつりぽつりと過去を思い出すように話し始めた。

「海怖かったんだけど、お父さんがだいじょうぶだから、って笑って手を引いてくれて、絵里と一緒に海に入ったの。
 ぷかぷかってお父さんと海に浮かんだとき、わー凄い、浮かんだぁ!って覚えてる。でもそのあと、私水飲んじゃってしょっぱくて泣いちゃったの」

あの時の海水は本当にしょっぱかったなぁと絵里はおどけるように笑った。
絵里は、確かに過去を懐かしむように笑っていたのだけれど、何処か寂しそうにも、見えた。
それでも絵里は話を続ける。れいなも止めることなく、だまって彼女を見つめた。

「絵里がワンワン泣いてるのに、お母さんもお父さんも笑っててさ。小さいながらに理不尽だって思ったよ。
 でも、少ししたらケロッと忘れてまた泳ぎに行ったよ。やっぱり海水はしょっぱいし、クラゲにも刺されていたいんだけど、楽しかったなあ…」

そうして絵里はふと立ち止まる。
れいなも釣られて立ち止まると、絵里はその膝を折って、右手に持っていたサンダルをその場に置いた。
絵里は海水にそっと触れたあと、両手でそれを掬いあげる。
手の平に掬われた僅かな海水をじっと感じたあと、すっと手首の方へと流した。水は掌から手首、腕、肘へと流れて消えた。

絵里は寂しそうに笑ったあと、もう一度、その動作を繰り返す。
家族で海へと行ったあの懐かしい記憶を思い出すように、絵里は海水を掬っては流した。
その記憶は海水とともに、絵里の体へと浸透していくようだった。
そんな彼女の姿が、堪らなく切なく、どうしようもなく愛おしく想った。

れいなは絵里の横に膝を折り、再び水を掬おうとした絵里の手をそっと取った。
絵里は一瞬きょとんとするが、そんな彼女にれいなはそっと笑いかけてやる。
頭を数回撫でたあと、近くに落ちていた白い貝殻を彼女の手に乗せた。
絵里はそれがなんなのかを確認するように、細い指先で貝殻を丁寧になぞる。

「可愛いね、この貝殻」

なにかを慈しむようなその仕草が堪らなく愛しく、れいなは無性に抱きしめたい欲望に駆られるが、ぐっと堪える。

「貝殻のネックレスとか、絵里似合いそうやね」
「…そう?」
「うん。白とかピンクとか、そういうの」

れいなが優しくそう伝えると、絵里は水を掬うことをやめ、柔らかく笑った。
代わりに、れいなからもらった貝殻を大事そうに胸に抱えて立ち上がる。
絵里は一瞬だけ躊躇したあと、小声でれいなに聞いた。

「……そういうの、さゆも、してた?」
「へ?」
「撮影のとき、さゆも、貝殻のネックレスとかしてたの?」

絵里の言葉にれいなは「うーん」と声を上げて悩んだ。
撮影のとき、彼女はどういう格好をしていたっけ?そもそも海に撮影行ったのいつだっけと記憶を掘り起こす。

記憶を辿っていくと、れいなは漸く、ひとつの過去に思い当たった。
いつだったか、さゆみの写真集の撮影のためにこの海にきたことがあった。
あのときは綺麗に晴れていて、絶好の撮影日和だったっけとれいなは目を細めた。



そうそう、さゆは赤の水着やったっけと頷く。
どちらかといえば、彼女は赤よりも、黒のような大人っぽい水着の方が似合っている気がするが、さすがにそれは口に出さない。

「さゆはつけとらんかったよ、そういうの」

とりあえずいまは質問に答えようと、れいなは絵里に返した。
すると絵里は少しだけ顔を上げ、「……ホントに?」と聞き返してきた。
れいなは大きくひとつ頷いたあとに、「ホントに」と絵里の言葉を復唱した。

だが、れいなは疑問に思ったことがある。
先ほどから絵里は、さゆみのことを何処か気にしている節がある。
思い起こせば、この海に来る車の中でも、さゆみの話をした。
あのときは、れいなが先に彼女の名前を出したが、そのとき絵里は、一瞬の「間」を空けた。しかも少しだけその声のトーンは落ちていた。
いったいなんだったのだろう、あの「間」は。

それに加えていまの発言。
貝殻を渡し、絵里に似合うと言っているのに、どうしてそこで道重さゆみの話が出てくるのだろう?

考えても考えても、れいなには分からなかった。
まさか、と一瞬だけ浮かんだ嫌な答えに行きついたれいなは、確認するように「絵里さぁ…」と口を開く。
果たしてそれを聞くべきか否かは判別できなかった。
だが、少しでも頭を掠めたこの疑惑を、れいなはそのままにしていられるほど、大人ではなかった。

「……さゆが、好きやと?」

その言葉を受けた絵里は瞬時に眉を顰めた。
なにも言わなくても分かる。それはもう、「はぁ?!」と言わんばかりの表情だった。
おいおい、怒ってない?いや、呆れてる?いやいや、それとも、なんで分かったの?って顔?どれよ、絵里?!

「……なんで?」
「いや、なんでって…」

絵里の声のトーンはさらに落ちていく。
あ、やっぱり怒っとぉ?いや、これはバレてしまったことへの動揺?どちらともとれるよ亀井さん……
焦りながらもロジックを構築させようと、れいなは言葉を返す。

「さっきから、さゆの話、するけん」
「……して、ないよ」
「いや、したやん。貝殻のこととか」
「それはっ…」

そう、なにかを言いかけて絵里は口を噤んだ。
確かに絵里はれいなに貝殻のことを聞いた。さゆみもそんなネックレスをしていたのかと。
だが、それは別にさゆみが好きだからとかそういう理由じゃない。

―じゃあ、どういう理由で?

そうして自分に問いかけて絵里は答えられなくなる。
なぜいま、絵里はさゆみの話をしたのだろう。好きではなく、単純に気になっているからだろうか?
気になっているというのはどういう意味で?

考えても、納得のいく答えは絞りだせない。
だいたい、なぜ急に「道重さゆみ」が出て来たのか、本当に理解できなかった。
れいなが絵里に貝殻を渡したというだけで、絵里はふと、さゆみのことが気になった。

「車ン中でも、なんか、気にしてたやん、さゆのこと」

絵里が答えを出す前にれいなから新たな質問をされ、絵里は戸惑う。
此処へ来る車中でさゆみを気にしていた?いったいいつのことだろう?

「それ、いつ?」
「れなが、さゆの撮影で来たって言ったとき」

絵里はれいなの言葉を反芻し、記憶を掘り起こす。
ああ、確かにそんな話をしたが、自分はそんなにさゆみのことを気にしていただろうか。
絵里はそんな自覚がまったくない。いったいいつ、なんの根拠があってそう解釈したのだろうかれいなは。

「……してないもん」
「いやしとったって。声のトーン落ちたし、なんか変な間があったし」
「間なんてないもん!」

れいなの言葉に被せるようにして絵里は叫んだ。
そこでれいなは漸く、いまの絵里が妙であることに気付いた。
いつもの彼女であるなら、こんなに必死に言い返したりすることはしない。
ゆっくりとしたテンポで会話が進んでいくのに、いまの彼女は、何処かムキになっている。それこそ、怒っているようだった。
なにに対しての怒りかは、れいなには、判別できない。

「……絵里?」

彼女がこんなに感情を表に出すことなんて珍しかった。
それは心を閉じかけていた絵里にとっては良い傾向なのかもしれないけれど、なにも怒りの感情を出すことはないだろうと思う。
れいなは絵里の腕にそっと触れようとするが、絵里はそれを一足先に感じ取ったのか、すっと体を下げる。

「っ……れーなが、するから」

小さく囁かれた言葉に、れいなは耳を傾けた。
する?なにを?と、れいなは絵里の次の言葉を待った。

「れーなだって、さゆの話したじゃん!」

今度は囁きではなく叫びだった。
急に出てきた大声にれいなは驚くが、それ以上に、どうして彼女がこんなに怒っているのかが理解できなかった。
なんだ、どうして絵里はこんなに怒っている?なにか怒らせるようなことを言ったのだろうか?
必死に理解しようとするが、れいなの思考回路はショート寸前だった。
確かな答えが導き出される前に、売り言葉に買い言葉で、れいなは別の言葉を吐いた。

「したって言っても1回だけやん!それがなんやっていうっちゃよ!」
「絵里だって1回だけだもん!変わらないよ!」
「絵里はれなが話した時もなんか気にしとったやん、さゆのこと!」
「だからしてないって!」

おかしな方向に話が進んでいる事にれいなも絵里も気付いていた。
どうしてふたりはこんなに言い合いをしているのだろう、しかも原因が、この場にいない道重さゆみのことで。
れいなは苛立ちを覚えながらも首の後ろをかいた。なんでこんなに面倒なことになっているのだろう。

そんなれいなの気配を、絵里は敏感に感じ取った。
れいなの纏っていた「色」が、鮮やかな水色から鈍い灰色へと変化していくのが分かる。
この灰色は、れいなが仕事でうまくいかない日や、なにかに腹を立てている日によく感じる色であった。

れいなはいま、絵里に対して怒っていると解釈した絵里は、同じように腹立たしくなった。
なぜ海に来てこんなケンカのようなことをしているのだろう。
れいなが連れて行きたいからと言っていたのに、なぜこんなことになってしまったのだろうと絵里は頭をかいた。

分かっている。
れいなが悪いわけじゃない。
絵里がさゆみの話をしたのは事実だし、なんらかの理由で変な間が空いてしまったのも分かっている。
だけど、その明確な理由が分からなかった。
どうしてれいなと一緒にいるのに、急にさゆみの話をしてしまったのか。
なぜ、れいながさゆみと海に来たことがあるのかを気にしてしまったのか、絵里には分からなかった。

そんな分からないことだらけのまま、れいなに理不尽な言いがかりをしてしまった自分が、腹立たしかった。

体の奥底からなにかか湧き上がってくるのが分かった。
絵里の目頭が急に熱くなる。
絵里はそのこぼれ落ちそうになった雫を見せないように、くるりとれいなに背を向けた。

瞬間、絵里は走り出した。
真っ暗な闇の中、目の前になにがあるかも分からないままに、絵里は走り出した。

「ちょ、絵里!」

突然背を向けて走り出した絵里を、れいなは慌てて追いかけた。
なんでこうなっているのか、れいなにはサッパリ理解できなかった。
なにが彼女をあそこまで苛立たせるのだろう。
なにに対して、彼女は怒り、そして哀しんでいるのだろう。

れいなはなにひとつ、彼女の気持ちを理解することは出来なかった。
だが、その足を止めるわけにはいかなかった。
こんな妙な勘違いをしたまま、暗い闇の中を、彼女ひとりで走らせることなんてできなかった。

「…りっ……絵里!……絵里っ!!」

れいなは漸く絵里の右手首を掴み、彼女を止めさせた。
そんなに走っていないのに妙に息が上がっていた。
絵里は相変わらず進行方向を向いたまま、れいなに振り返ろうとはしなかった。
だが、その手を振り払ってまで先に進もうとしてないことに気付いたれいなは、そっと彼女の前に歩み寄った。

「絵里……?」

れいなが優しくその名を呼ぶと、絵里は困ったように泣き始めた。
透明で綺麗な雫が絵里の頬を伝い、砂へと落ちていく。
ポタポタと落ちていくその雫は確かに美しいのだけれど、こんな姿、見たくなかった。
また彼女を泣かせてしまったのだとれいなは途方もない罪悪感に襲われる。
絵里にはいつだって、笑っていてほしいのにと、れいなは絵里の右手を優しく握り締めた。

「ごめん……絵里」
「っ…ち、がうの……絵里が……絵里が……」

絵里は泣きじゃくりながら必死になにかを伝えようとしていた。
なにが言いたいのか、なにを思っているのか、れいなはひとつだけでも良いから、分かりたかった。
もっと、もっと絵里のことを知りたかった。
絵里がなにを考えて、どんなことを思って、どういう風な感情を持っているのか。
微かでも良い、ほんの僅かでも良いから、理解したかった。

「分かん、ないの……絵里にも」
「うん」
「なんで、さゆのこと、気に、なっちゃったのか……」

れいながさゆみの話をしたとき、絵里は確かに心になにかが掠めた。
その「なにか」というのが明確な形を成していないために、絵里はそれを捉えることが出来なかった。
だけど、だけどこれだけは分かってほしかった。

「さゆのこと、好きとか、そんなんじゃ、ないから……」
「うん」
「それ、だけはっ…分かってほしいの……」

そんな風に誤解されたことが哀しかった。
さゆみのことは、とても良い友人だと思っている。だけど、「好き」という恋愛感情は持っていない。
もし、それが無自覚の恋であるとしたら話は別だが、それにしては、なぜ、こんなにも胸が痛むのか、説明ができなかった。
れいなに誤解されるのは、哀しい。
れいなに「さゆが好きやと?」と聞かれるのは寂しい。

―………なんで?

「うん、分かった。ごめん、絵里」

絵里が自分の疑問に答えられないでいると、れいなが素直に謝った。
れいなは絵里の手をぎゅうと握り、そのまま自分の額へと持っていく。
両手で包み込まれた右手が温かく、なぜだか凄く、ドキドキしている自分がいた。

「れなが言いすぎた。ごめん…」

なんどもそう謝るれいなに絵里は首を振る。
れいなの色が、鈍い灰色から薄い白色へと変わっていくのが分かる。そのまま透明になってしまいそうで絵里は少し怖かった。

「絵里こそ…ごめんなさい。急に、走ったりして」

そうして絵里が優しく笑うと、れいなも困ったように笑う。

「うん、ちょっとびっくりしたと。絵里、脚速いっちゃもん」
「えへ。実は絵里、短距離得意なんですよ」
「れなは苦手っちゃん。久しぶりに走って疲れたっちゃん」

そうやって苦笑したときだった。

バシャァッ!!という音とともに冷たい水を頭からかぶった。

なにが起きたのか一瞬判別できなかったが、れいなはその濡れた己の姿を見て現実を把握した。
風が強く吹き、波が一瞬だけ高くなった。
砂浜に叩きつけられた波は、白くて細かい砂と、不規則に並んだ小さな石にぶつかり、跳ねた。
大きく跳ねた波は再び高く舞ったかと思うと、その勢いそのままに、れいなと絵里の全身に降り注いだのだ。

「うぉぉぉっ!」
「きゃぁっ!」

一応瞬間的に避けてはみたものの、反応が遅れたため、ふたり揃って濡れ鼠のようだった。
れいながせっかく気にいっていた帽子もだらしなく垂れ下がり、服も肌にべったりついている。

「もーー、なんやっちゃん!!」

れいなは思わず、海に向かってそう叫んだ。
なぜこのタイミングで波をかぶらなければならないのだ。理不尽にも程がある。
れいなは濡れた服を「あーぁ……」と見つめた。

「………ぷっ…」

再びれいなが恨めしく海を睨んでいると、目の前の絵里が肩を震わせた。

「あははははっ!すごぉい!」

そうして絵里は海の方向を見つめ、なにが楽しいのか、波をばしゃばしゃと蹴り始めた。
れいなはきょとんとしながら、なおも服を濡らす絵里を見つめる。

「このこのっ!海のばかぁぁ!濡れちゃったじゃんかぁ!!」

笑いながら、濡れるのももうお構いなしに水を蹴り返すその姿が、れいなには滑稽で、だけど愛しくて、そして優しくさせた。
なんだかもう、どうでも良くなってしまった。

「ははははっ。れなと絵里揃ってびしょ濡れにしやがってぇ〜!」

彼女の笑いに釣られたのか、れいなも腹の底から笑い出した。
そして波打ち際に立ったかと思うと、サッカーのPKの要領で思いっきり砂とともに水を蹴った。
バシャッという音のあと、波が綺麗に跳ね、再び海へと戻っていった。

「れーな!れーな、すっごい濡れたぁ?」
「あー、もう、バリ濡れとお!最悪っちゃん!!」

そう返した途端だった。
自分の右側、つまりは絵里が居る方向から思いっきり水をかけられた。
「はぁ?」と思わず声に出してそちらを向くと、絵里はしてやったりの表情で再び水を弾いてきた。

「こーのぉぉぉ!」

やられたれいなは前屈みになって波を掬い、絵里の全身に降り注がせた。

「うわっ!れーな、しょっぱい!」
「先に絵里がしたんやろぉがぁ」
「だからってかけすぎぃ!」

タオルは持っているものの、もちろん水着は持っていないし、替えの服すら用意していない。
それなのにふたりは、まるで子どものように水をかけあった。
自分の服が濡れてしまう心配なんてせずに、ひたすらに波とともに遊んだ。
くだらないことで笑いあっていると、つい数分前まで泣いてしまっていたことすら忘れてしまう。

自分は瞬間瞬間を生きているのだと絵里は自覚する。
いまという、この一瞬を、精一杯に生きて笑っているんだと絵里は理解した。
光りの射さない暗い闇の世界だったのに、絵里はこんなにも嬉しく、シアワセを感じて生きている。

「れーなぁっ!」

この世界にれいながいるというだけで、こんなにも輝きは増すのだと、絵里は知っている。

「うぉぉっ!?」

絵里は助走をつけてれいなの胸に飛び込んできた。
予想外の行動に受け止めきれなかったれいなは、必死に腰を反らし彼女の全体重を支えるが、あっさりと膝が折れた。
そのままれいなは背中から倒れ込む形になり、今日いちばんの波の音が海辺に響いた。

「うへへぇ〜、絵里の勝ちぃ」

背中からもろに海へダイブし、完全にびしょ濡れになったれいなは、空をバックにした絵里を見上げた。
絵里は腕を立てて少しだけ上体を起こしてはいるものの、その距離は実に数十センチしかなかった。
太陽を背にし、水で濡れた髪はキラキラと輝き、亀井絵里の美しさをさらに際立たせた。
単純に彼女は美しく、どうしようもなく、キスしたくなった。

「っ……勝ち負けとかないやろ、こんなびしょびしょで…」

れいなはその欲求に耳を塞ぎ、ぐっと力を込めて上体を起こした。
全身に滴る海水を見て、このままでは車の運転は無理だろうなと笑う以外なかった。

「あ……」

ひとしきり笑った絵里はそう呟き、ふと立ちあがった。
れいなも釣られて立ち上がると、絵里は「いまさ……」と呟いた。

「……夕陽、出てる?」

その言葉にれいなは慌てて絵里を見つめる。だが、その焦点は相変わらず、合ってはいない。

「絵里……まさか…」
「ううん、見えない、けど。でも……分かるの」
「え?」
「……あったかいんだぁ、凄く」

れいなの切なる願いは聞き入れられなかったが、それでも絵里は「温かい」と言った。
絵里にはやはり、光は見えていない。絵里の世界はまだ、暗闇のままでしかない。
それでも絵里は、確かに温もりを感じていた。冷たかった闇の世界に存在する、確かな温もりを感じていた。

れいなは絵里の左手を改めて握る。
自然と絡み合う指先の温度が愛しかった。

「………海に、連れてきたかったんは、夕陽が綺麗やからやと」

れいなはそうぽつりと呟いた。
なぜ、れいなが此処に来たのかを、絵里に正直に告げた。

「1日の終わりを告げる太陽って、温かいオレンジ色やけん」

出来ることなら、絵里に見せたかった。
太陽の断末魔ではなく、明日もまた逢えるよねと告げる、この優しいオレンジ色を。
れいなの願いすべては叶わなくとも、ひとつだけ、絵里に叶えられた。
絵里は確かに、この色と温もりを感じていた。明日も生きていこうという勇気を、その心に感じていた。

「……れーなは、優しいね」

柔らかい言葉は宙に舞い、れいなへと響いた。
絵里の声こそが甘くて優しく、どうしようもなく切なくなる。

「そんなこと、なかよ」
「ありがとうね、れーな」

絵里は頭をコテッと傾け、れいなに寄り添った。
見えなくても、ただ真っ直ぐに感じることはできた。
世界はいつだって、そこに広がっている。光を映すことはできなくても、その肌に優しさを感じることはできた。
だから絵里は、思った。

「生きていくから、私…」

もう、逃げることはしない。
見えないことを、否定しない。
光がないことに脅えるのではなく、光がないからこそ、感じるものがあるはずだから。
たとえなにも見えなくても、分かることだって、たくさんあるのだから。


絵里とれいなは暫く夕陽を見ていた。
沈みゆく太陽のオレンジは、また明日、此処で逢おうという約束を叫びながら、地平線の彼方へと消えていった。

「とにかく、着替えんことには風邪引くけんね」

れいなはタオルで頭を拭きながら携帯を操作し始めた。

「着替え、あるの?」
「この近くにスタジオあるけん、そこでシャワーとか貸してもらえんか聞いてみる」

確かに、この濡れ鼠の格好では確実に風邪を引いてしまう。喉を少し痛めているというのならなおさらだった。
絵里はれいなから貰ったタオルで体を拭きながら、風邪引かないと良いなぁと笑った。

「あ、もしもし?はい、田中です。すみません、突然なんですが……」

れいながそのスタジオに電話をし始めたときだった。

絵里はその全身で、「闇」を感じた。
確かな温もりと優しさを持ったオレンジ色は一瞬で消え去り、絵里の体は闇を感じた。
その闇の色は、まさしく“黒”そのものだった。

絵里は思わず振り返るが、その闇の正体など、追えるわけもなかった。
だが、その闇の色を持つ人物など、絵里の脳裏にはたったひとりしか浮かばなかった。

「貸してくれるってー。良かったっちゃ絵里」

その声に絵里は我に返る。
絵里は再び暗闇の世界から抜け出すことになった。
短くなった息を悟られないように、絵里はれいなにそっと頷いた。

「どしたと絵里?寒い?」
「あ…ううん、平気、だから……」

絵里の変化をれいなは確かに感じ取っていた。
だが、その原因が分からない。いまの短時間でなにがあったというのだろうと、れいなは周囲を見渡す。
それでも辺りには人影もなく、れいなはそれ以上は追及せず、スタジオへと向かうことにした。
絵里はその全身でとてつもない寒気を覚えながらも、すぐ傍にある鮮やかな水色を頼りに一歩ずつ歩き始めた。

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車内にはふたりの男がいた。
助手席に乗った男は報告書を読み上げる。

「佐藤恵美……本名は田中れいな。私立福岡第六高校卒業後、上京。
バイトの傍ら、カメラマンのアシスタントを行い、現在の事務所でカメラマンとして働くようになっています」

報告を聞いた運転席の男は満足そうに頷きながら資料をめくった。

「こちらが現在の住所です。やはり前のマンションを引き払い、こちらに引越したようですね」
「……素晴らしいです。本当に、ありがとうございます」

その言葉に助手席にいる男がぺこりと頭を下げた。
「私立探偵」という職業を始めてもう7年にもなるが、どうしても男はこの職業が天職だとは思えなかった。
浮気調査や身辺調査、ときには家出人の調査もする仕事だが、これはただの「荒探し」にしか感じられない。
それでも、自分の特性を生かせるものがこれしかなかったので、男は仕方なしに、探偵をやっている。

「それで、田中れいなの事務所は分かりますか?」

運転席の男にそう訊ねられ、探偵は手元の書類を渡した。

「“U-ACT”という小さな事務所ですね。いくつかの芸能事務所とコンスタントに仕事はしていますので、食いぶちには困らないかと…」

その説明を聞き、男は再び満足そうに頷いた。
探偵は、報告書をカバンに仕舞いながら、ちらりと運転席に座る男を見る。
40代半ば、中背中肉の至って普通の男だが、探偵にはどうしても、気になることがあった。

「……これは知的好奇心、というやつからくるものなのですが…」
「はい、なんでしょう」
「…彼女とはどういう関係なのですか?」

依頼人の依頼理由など、探偵にはほとんど関係なかった。
ただ名前と写真を渡され、その人物がだれなのかを特定し、身辺調査をするのが一般的な仕事だった。
だが、探偵はなぜか、この依頼に微かな興味と疑問を持った。

探偵が調べたのは、亀井絵里という女性と、その身辺にいる田中れいなという女性のことだった。
亀井絵里の情報は、依頼主から充分に聞いていたが、田中れいなに関してはことなにも知らされていなかった。
正確に言えば、探偵に与えられた情報は、「佐藤恵美」という名前と、「鈴木法律事務所」という肩書、すぐに破棄された口座だけだった。
佐藤と鈴木という安直な名前から、偽名だということは想像していたが、捜査はさほど難航せず、「田中れいな」に行きついた。
まさか本名も「田中」という安直な名前だとは想定していなかったが。

「絵里はね……私の姪なんですよ」
「ほう、姪っ子さんですか」
「ちょっと家出してしまったね。心配だったので探していたんです」

その言葉に、探偵はいくつかの嘘を見抜いていた。
本当に心配なら、すぐ数十メートル先の海辺で遊んでいた彼女に、なぜ声をかけなかったのか。
調べによると、亀井絵里は中途失明の状態にいる。そんな女の子が、なんの理由もなしに家出をするだろうか。
また、亀井絵里と田中れいなの関係性は今回の調査でも詳しくは明らかになっていない。
依頼人は、特に田中れいなの方を調査させた。そこに、ただの「家出」では片付けられない問題が存在しているのは明らかだった。

「大変ですね、お年頃ですから」

だが、探偵は依頼人にそのようなことは言わない。
探偵という仕事は、依頼を受け、それをそつなくこなし、その報酬を受け取るだけのものだ。
それ以上、依頼人や調査対象者に肩入れする必要はないし、そうすることは規約違反になる。
だから探偵はなにも言わず、荷物をまとめて、亀井絵里の叔父と名乗る依頼人の車から降りようとした。

「では、私の今日の仕事は終わりですので…」
「ああ、ありがとうございました。お礼は改めて口座に振り込みますので」

冷たい依頼人の笑顔を受け、探偵は一礼し、車から降りた。
仕事とはいえ、やりたくないものだなと探偵はカバンを片手に歩き出す。
やはり私には、探偵なんて仕事は向いていないのだろうかと思う。

「やっと……見つけた」

依頼人がそう呟いたことなど、探偵はもちろん、絵里もれいなも、知る由もなかった。





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