#32 <<< prev





ここ最近のYHの忙しさは異常である。

「はふぅ・・・」
「お疲れさん。あんたもすっかり私の右腕だねえ」
「恐縮です」

吉澤さんの座るアーロンチェアの骨が軋む。
れいなは紅茶、吉澤さんはコーヒーとまるっきり男女逆のチョイスで2人して一仕事終えた後の開放感に浸っていた。
毎日忙しいせいかここ最近の吉澤さんは突発で店を休むようなことはしなくなっている。
れいなが渡米する直前までこっちで経験を積ませてあげようという配慮もあるのだろう。
なにも言わないがなんだかんだでお人好しなのだ、この人は。

「そうそう。あんた、スカリフィケーションは学んだことあるかい?」

吉澤さんが組んだ両手に顎を乗せ、疑問を投げかけてきた。

「名前だけなら知ってますけどあんまり詳しくはないです」
「たぶんアメリカ行ったら嫌が応にもやることになるよ。スキンリムーバルだけは知っといたほうがいいね」
「すきん・・・?」
「タトゥーより高度な技術を必要とするボディアートさ」

吉澤さんの説明によると。
スキンリムーバルとは皮膚にメスで模様を描き、描いた部分の皮膚を剥がし、痕として残す身体装飾方法である。
好奇心で携帯で調べて後悔した。これはなかなかグロテスク・・・。

「日本じゃ極少数の物好きぐらいしかやってないだろうけど、向こうじゃファッションとして嗜好されてるからね。
 いくら天才のあんたでもタトゥーしか能が無いようじゃこの先生き残れないよ」
「ですか」
「ですよ。予習だけはしときなよ。つっても後もう1週間もないか。はぁ〜寂しくなるねえ」

ニヤニヤしながら言われても全く嬉しくないのだがワザとなんだろうなぁ。
この光景とも後少しでオサラバかと思うと少しでも長く目に焼き付けたくなる。

結局帰る頃には時計の針は12時を回っていた。


*****


「お疲れ様でしたー」

本日の業務終了。本日といっても、もう既に日付は変わってしまっているのだが。
カフェインを摂取したせいか疲れているというのに非常に目が冴えている。暇だしさゆビニにでも繰り出すか。
と、

「田中っち」
「わっ、ビックリした。ガキさんか・・・やっぴぃ」

YHから出てすぐ真横に不審者と勘違いされても仕方ない立ち姿のガキさんがいた。
いつものハイな感じとは違って妙に落ち着いている。こんな時間にどうしたんだろう。

「天体観測?屋上に出らんと星見えんっちゃろ」
「違うに決まってんでしょーが。田中っちを待ってたの」
「れいなを?なんか用?」

なぜか悲しそうに俯くガキさん。細くて小さな指がおそるおそるとれいなの服の裾に伸びる。
まるで赤ちゃんのほっぺをつまむようなか弱さで布を掴んだ。

「ねえ?もうすぐアメリカ行っちゃうの?」
「・・・・・・うん」
「私が一緒に行ったら田中っちは迷惑に思う?」

・・・。ガキさんの将来のことを考えたら、多少突き放した言い方をした方がいいのかもしれない。
けど、れいなの服を掴んで離さないガキさんが、宝物を取られまいと必死になる子供そのもので、

「そんなことなかよ」

・・・言えなかった。
酷い野朗だれいなは。この一言で、ガキさんが何を思うかは想像に難くないというのに。
ガキさんは一瞬だけ嬉しそうな顔を見せた後すぐに俯き、独り言のようにポツリポツリと言葉を零し始める。

「愛ちゃんにね、言われたの。ガキさんはおかしいって。田中っちのこと好きすぎるって。
 もっと自分の時間を大切にしろ・・・って。ちょっとお節介が過ぎるよね〜」
「・・・」
「でもちょっと考えた。今までの自分の身振りとか。確かに冷静になって振り返ってみるとちょっと異常かもって。
 田中っちは知らないかもしれないけど、私寝てる田中っちにいつもキスしてたのよ」
「え」
「勝手について行くって暴走してたけど・・・今の田中っちの一言で救われたかも。ありがとね。
 田中っちの迷惑になるようなこと、もうしないから・・・困らせてごめんね」

ガキさんが顔をあげる。憑き物が取れたような晴れ晴れとした表情でにこやかに笑んでいた。
れいなもつられて笑う。少しの寂寥感は笑顔で隠した。

「ありがとうガキさん・・・。れいなも・・・気持ちに応えれんでごめん」
「いいのよ。しょうがないからそれは。勝手に田中っちのこと好きでいるけど・・・私のことは気にしないで」

れいなじゃなくもっと身近にガキさんのこと大切に想ってるバカがいるだろうに・・・。
あいつを勧めてやるほどれいなの心は広くはないのであえてなにも言わなかった。
ガキさんの手が離れる。それを皮切りに足が自分の部屋の方向へと向いた。

「じゃ・・・」
「うん。おやすみ田中っち・・・」

背を向ける。
これ以上ガキさんと話すと自分の渡米の決意が揺らぎそうで怖かった。
1歩、2歩。職場が自分の部屋の隣にあるって便利だ。
こういう時、背中に感じる縋るような視線からすぐに逃げ出すことができるのだから。
早く部屋に入りたい。早く。ドアノブに手をかけ、回す。

「田中っち!」

どんっ!と背中になにかがぶつかる衝撃を受け、慣性の法則に従い当然のようにれいなは扉にしたたかに頭を打つ。
デコをさすりながら振り返ると、

「アメリカ行かないでよ!」
「・・・ガキさん・・・」
「田中っちのいない日常なんてやだよぉーーー!!ぅぅう・・・・・・っ!」
「・・・」
「う゛ぁああああああんやだあああああああああ」

ガキさんの目から流水のように涙が流れていた。
マンション中に響き渡るような大声をあげながら恥も外聞も忘れ、子供みたいに泣くガキさん。
れいなの背中にペッタリと顔を引っ付けて泣いているため、服が彼女の涙やら鼻水やらで湿っている。
しかし嫌悪感は1ピコグラムも沸かなかった。振り返り抱きしめたいという衝動を歯を食いしばって耐える。

「ご、めん!ごめんガキさん・・・!ごめん・・・!」
「う゛ぁああああああああんう゛ああああああああああああ」
「ごめんよ・・・!」

ただごめんごめんとバカの一つ覚えみたいに繰り返すことしかできない自分が心底不甲斐なくて申し訳なかった。
テメーの勝手を悪いと思うなら、今すぐ全裸になって路上でルンバ踊ってこいと言われたらすぐ踊りに行くつもりだ。
ガキさんには、たくさん世話になったしたくさん迷惑かけた。こんな風に泣かせたくなんてなかったのに・・・。

「私も連れてってよぉーーーっ!田中っちぃ・・・っ」
「・・・ごめん・・・」
「うっうぅ・・・やだよぉ・・・ぶええええええええん」
「ごめん・・・」

ガキさんも絵里もさゆも。みんな一緒に連れて行くことができたらな。
なんて、バカな考えが脳裏をよぎった。


 **********


「なぬっ!彼氏と別れた!?」
「はい」

昼休み。カロリーメイトでお腹を満たしながられいなとの喧嘩の顛末を保田先輩に報告。
こんなこと他人にホイホイ言うものじゃないとは思うが、
この人は絵里たちのことを気にかけてくださっていたので言わなきゃこっちが心苦しかった。
先輩は男みたいに惣菜の天丼をかっこみ、口元に飯粒をつけながらズバっと、

「よし忘れよう!」
「・・・へ?」
「そいつのことは忘れよう!大丈夫。男なんて星の数ほどいるから。その元彼よりいい男なんてうじゃうじゃいるよ。
 結婚寸前までいって別れたのは辛いだろうけど出会いのチャンスはまだまだある。なんせあんた美人だし」
「・・・そう、ですかねぇ?」
「というわけで今夜T大生と合コンあるんだけどメンツ1人足りないんだ。参加してくれない?」
「・・・」
「頼むーーーっ!亀井に参加してほしいって言ってるんだよー!後生だから!土下座するから!」

本当に土下座して頼み込んでくる先輩に断る!とも言えず勢いに流されるまま頷いてしまう。
新しい彼氏とかまだそんなのは全く考えていなかったけど、脳にこびりついて離れないれいなの思い出を忘れることができるなら・・・。

「ありがとう亀井っ!じゃあ今夜7時に繁華街ね!亀井の分の金はあたしが出すから」
「はぁ。ごちです」
「それじゃ、後でメールするから。あんまおめかしして男全員かっさらうなよー!」

口元に飯粒をつけたまま先輩が売り場に戻る。
T大生ってことはゲットすれば将来玉の輿間違いないわけで、先輩が必死になるのも頷けるスペックだ。
絵里はそれほど興味があるわけじゃないけど・・・

「・・・合コンか」

タダ飯食べれるしまぁいっか。
なんて、この時は軽く考えていた。


 **********


「亀井〜!こっちこっちー!」

遠目からでもわかる洒落たインテリ集団と今だけは清楚なフリしたギャルたちが店のど真ん中のテーブルに陣取っていた。
絵里でメンツが全員揃ったらしい。先輩が自ら幹事役に躍り出てさっそくとばかりに乾杯の音頭をとる。

「それでは全員集まったということで、仲良く飲んでいきましょう!かんぱーい!」

かんぱ〜い!と全員がジョッキになみなみと注がれたビールを喉に流し込んでいく。
肉食獣と化した女性陣が我先にと捕食対象であるT大生側に突っ込んでいった。
勢いについていけずちびちびと飲むだけの絵里。つまみまだ?

「みなさんガツガツしてて逞しいですね」
「・・・へ?あ、そうですね」
「亀井さんは飲んでるだけで参加しなくていいんですか?」
「絵里はまぁいいです」

面倒そうだし・・・。
じゃあ何しにこんなところ来たんだと聞かれればタダ酒タダ飯をかっくらうためだけである。

「僕もどっちかというとこういう集まり苦手なんですよね。2人で大人しく飲んでません?ぼかぁウーロン茶ですけど」
「・・・そうですね」

誘っているのは丸わかりだったが1人で寂しく飲むより2人の方がまだ楽しいかもしれない。
1人でいると嫌なことばかり思い出してしまうから。

その人は丁寧に名前だけでなく誕生日や血液型までわざわざ教えてくれたのだが
半分酔っていた絵里の脳は記憶することを放棄していた。


 **********


・・・なんか、こそばゆい。
それに寒い。クーラーききすぎ・・・

「・・・ん・・・?」
「あ、起きちゃった」
「・・・?」
「おはようございます」
「なに・・・?」

寝ぼけた頭で周りを見るとどうやら絵里は車の後部座席で横になって寝ていたみたいだ。
誰かが絵里の顔をのぞきこんでいる・・・誰?れいな?

「って、え!な、なんで服はだけてんの!?」
「・・・」
「なにこれ・・・それに君誰・・・?なんで絵里車で寝て・・・」

合コンしててそれからどうしたんだっけ?お酒たっくさん飲んで酔い潰れて・・・それから記憶がない。
知らない男の人が顔を近づけてくる。お酒臭い・・・。

「誰って・・・絵里ちゃん酷いな。今日仲良くお酒飲んだじゃない。もう忘れちゃったの?」
「え・・・」
「酔ってたからわざわざここまで送ってあげたんだよ。ノコノコついてきちゃうんだから絵里ちゃんもその気だったんでしょ」
「なんの・・・話・・・」
「こういうことだよ」

男の人の手が絵里の体に伸び・・・胸を掴んだ。

「きゃあっ!なにすんのやめて!」
「いやよいやよも好きの内」
「そんなわけないでしょ!なにすんの、ちょっ」

助けてと叫ぶもこんな夜中に、しかも密閉された空間じゃ誰も気付くはずがない。
行為はどんどんエスカレートしていく。下着を脱がされ直に触られ、いよいよ本格的な身の危険を感じた。
いくら絵里が力自慢とはいっても所詮女の力じゃ男性に叶うはずがない。
助けて誰か・・・れいな助けて・・・!

「いやっ!やめてーーっ!!」
「黙れ!」
「うぐっ!」

お腹を殴られ息がつまる。
だんだんと視界がぼやけ、頭が霞がかってきた。
ああ・・・もうだめだぁ。
れいなに酷いこと言ったバチがあたったのかな・・・。
ごめんねれいな・・・。


・・・


意識を失う直前、
誰かがドアを開ける音が聞こえた・・・・・・気がした。


 **********


「・・・ん・・・」

目を開けると白い天井と蛍光灯の淡く白い光が見えた。
車内じゃない。誰かの部屋だ。
ベッドから上半身を起こし、辺りを見渡す。ここは・・・

「あ、起きた?」
「さゆ・・・」
「どっか痛いところとかない?大丈夫?」
「うん・・・」

キッチンにいたさゆがマグカップをお盆に載せ、どうぞと絵里に手渡す。中身はホットミルクだった。
口をつける。暖かくて優しい味が心に沁み、涙がこぼれた。

「・・・さゆが助けてくれたの?」
「ん・・・まぁ、うん」
「ありがと・・・迷惑かけてごめんね・・・」
「何があったかは知らないけどあんま変な男に引っかかっちゃだめだよ」
「・・・・・・ごめん・・・」

さゆがベッドに腰かけ、腕組みをし溜息を吐く。呆れやら怒りやら安心やらいろいろな感情が詰まってそうだった。
自分が無事だったことにようやく安堵できたおかげで絵里の両の目は先ほどから涙が流れっぱなし。
それでも何も聞かず黙って側にいてくれるさゆは間違いなく絵里の唯一無二の親友だった。

「絵里・・・あの男が誰かは聞かないけどさ・・・・・・。本当にれいなと別れる気でいたんだね」
「・・・別れる、っていうか・・・絵里は別れたつもりだったよ」
「・・・そうなんだ。・・・理由聞いていい?」

理由?そんなの決まってる。

「怖いから・・・」
「怖い?なにが怖いの」
「離れると・・・相手のことがわからなくなるから。絵里に飽きたんじゃないか、とか他の子を好きになっちゃったんじゃないか、とか
 不安で心が押し潰されそうになるんだよ・・・」
「ふーん・・・あいつが浮気とか考えるようなタマだとは思わないけど・・・」
「もうあの時と同じような苦しみを味わうは嫌なの・・・」

たくさん我慢してたくさん耐えた日々。あれを二度経験するほど絵里の心は強くない。
またあんな思いするくらいなら・・・ここで綺麗さっぱりれいなとの関係を白紙に戻したかった。
れいな以上に素敵な男の人に恋をすればれいながどこで何をしようが絵里には関係ない・・・

「絵里」
「なに?」
「バカ」
「な・・・」

予想外のさゆの言葉に呆気に取られる。
しかし言葉少なでもさゆの表情には絵里に対する様々な思いが浮かび上がっていた。
さゆのこんな怒った顔を見るのは久しぶりだ。だってさゆはいつでも絵里の味方をしてくれていつでも絵里のことを慰めてくれた。
れいなと喧嘩してもなんだかんだでさゆはいつも絵里側についてくれたのに・・・

「どうしてそんな卑屈な考えしかできないの」
「ひ、くつって」
「どうしてれいなのこと信じてあげられないの」
「・・・」

最近聞いたばかりの言葉だ。"信じる"。そんな簡単にできたらこんなに悩まない。
そんなもの・・・口だけならなんとでも言える。

「さゆは当事者じゃないからっ・・・信じてなんて簡単に言えるんだよ!
 絵里は・・・絵里はれいなの彼女だもん!さゆの立場だったら絵里だって!」
「さゆみは絵里よりもっと長い間れいなのこと待ってたよ!」

さゆの瞳から涙の粒が落ち、ベッドに点々と染みを作る。
長い間・・・って?さゆの言ってる意味がよくわからない。

「叶わぬ恋だと知ってても、ずっとずっと待ってた!さゆみの方こそ絵里の立場だったらどんなに・・・!」
「え・・・?」
「4、5年くらいで弱音を吐くなんて・・・さゆみからしたらそんなの全然大したことないね」
「どういう・・・」
「さゆみが惚れた男なんだから信じてやれよっ!」

絶句する。嘘。嘘でしょ・・・?
惚れたって・・・?だってさゆはずっと絵里の親友で、いつも絵里とれいなのこと応援してくれて・・・
いつから?いつからさゆはれいなのこと、

「さっき、さゆみがレイプ野朗から絵里のこと助けたって言ったけど・・・」
「・・・」
「本当は絵里を助けたのはれいななんだよ・・・?」
「・・・!」
「少しでも多くれいなの側にいてあげてよ・・・さゆみじゃ・・・役不足だから」

さゆの言葉で足が勝手にベッドから滑り出る。
気付けばさゆの部屋を飛び出しれいなの元へと駆けていた。





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