新垣里沙は自らを鼓舞するように静かに深呼吸を繰り返した。
隣に座っている彼女―――亀井絵里は肩を震わせ、ハンカチで目を覆いながら短く息を吐く。
30分前に過呼吸になってから、まだしっかり立ち直ってはいないようだ。

数時間前、夢の中にいた里沙のケータイに着信が入った。不機嫌な顔で確認すると、それが絵里からの電話だと分かり眉を顰めた。
要領を得ない説明と、手に取るように分かる取り乱し方に、なにかがあったことを里沙は把握した。
起き抜けの頭で必死になにかを考えていると、不意に絵里がだれかと代わった。
彼は自ら「警察」だと名乗り、いよいよ事態が急展開していることを悟った。

「だいじょうぶ……だよね。ねぇ、ガキさん……」

絵里はなんども、呪文のようにその言葉を繰り返す。里沙はそれに、うまく答えられない。
震える膝を押さえながら、「手術室」という真っ赤なランプを睨み付ける以外、術はなかった。
そのとき、ドタドタと廊下を走る音がした。
音のする方を見ると、そこにはいつか会ったことのあったカメラマン、光井愛佳が青ざめた顔をして立っていた。
横にはスーツを着崩した、茶髪の男がいっしょに居る。会ったことはないが、関係者のようだ。
愛佳と男は里沙を見ると一礼する。里沙も倣って頭を下げるが、絵里はまったく、動かない。

「容体は……?」
「……まだ分からない。手術が始まって、もう2時間だって」

愛佳の問いに、里沙は看護師から聞いた言葉を返した。
自分だって、完全に状況が把握できているわけではない。知っている情報はただ、彼女―――田中れいなが襲われたというそのことだけだった。

「寺田さん、でしたね。少しお話をお伺いしてもよろしいですか。光井さんは、そのあとで」

廊下にいた警察が、スーツを着た男―――寺田に声をかけたあと、里沙にもういちど頭を下げ、別室へと向かった。
愛佳は深く息を吐き、椅子に座った。再び、静寂が戻る。

「いったいだれがこんなこと…」
「警察は強盗の仕業って考えてるみたいだけど…」
「うちは金品扱ったりしてないですよ。金庫にやってロクに入ってへんのに…」

愛佳はそう言うと拳でなんどか額を叩く。里沙もまた、警察の話す「強盗説」にはどうも納得できなかった。
強盗が小さなカメラマン事務所を襲うのは理に適っていない。なにか目的があったとすれば、被害者となったれいなだ。
だが、殺意を持たれるほど、彼女は恨みを買っていたのか?あの彼女が?
里沙が下唇を噛みながら思考を巡らせていると、再び足音がした。長い黒髪を揺らせながら走ってきた彼女に、里沙は見覚えがあった。
道重さゆみは息を切らし、「手術中」のランプと正対した。

「道重さん……」

愛佳がなにか話しかけようとした途端、彼女は手術室の扉に駆け寄り、思い切りそこを叩いた。

「れいな!れいなっ!」
「道重さん落ち着いて!」
「れいなっ!離して、れいなが!!」

ドン!ドン!と扉を叩くさゆみを、愛佳は咄嗟に羽交い絞めにする。なんとか落ち着かせようとするが、できない。
なおも暴れるさゆみに対し、看護師たちも慌てて駆け寄った。

「鎮静剤を!」「どうした!?」「やだ!やだ!!れいなぁ!!」「早く処置室に!」「先生呼んできて!」「れいなぁー!!」

矢継ぎ早に交わされる言葉は、まるで現実のものとは思えなかった。
絵里にはさゆみの悲痛な叫びさえも届いていないのか、床の一点を見つめガタガタと体を震わせていた。
どうしてこんなことになったのか、いったいなにが起きているのか、里沙にはまだうまく理解できないでいた。


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騒然とする手術室の前の光景を目にし、生田衣梨奈は静かにその場を去った。
そのまま階段を駆け下り、暗い廊下を歩く。病室のネームプレートを確認し、扉に手をかけた。
がらりと開けると、彼女がベッドに横たわっていた。寝ている姿は、本当に子どものようだ。
周囲に派手な機械や生命維持装置はない。口元に呼吸装置も付いていないことから、生命に別状はないようだ。

「心配させんで……」

近くにあった椅子に座り、彼女―――鞘師里保の姿を見た。
彼女は、頭に包帯、瞼と左頬に布ガーゼ、左手はしっかりとギプスで固定され、ぐるぐると白い包帯が巻かれていた。
その姿だけをみると、いくら生命が無事とはいえ、素直に喜ぶことはできない。
目を細め、労わるように前髪を優しく梳いてやると、彼女はふいと頭を動かしてその指先から逃れた。
ああ、やっぱ起きてたっちゃねと衣梨奈は力なく笑いかけた。

「なんがあったと?」

衣梨奈の問いに対し、里保は素直に答えた。

「……私が悪いんだよ。全部」

ゆっくりと瞼を開けた里保は、その瞳に確かに衣梨奈を映した。
だが、その視線は紛れもなく、「あの瞬間」を射抜いていた。
右腕をゆっくりと持ち上げ、翳した。夜の闇の中でも、この右手だけははっきりと見える。
その手を見ながら、里保は確かに「田中さん…」と彼女の名を呼んだ。


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「動かないでっ!」

入口から飛び込んできたその声に、金属バッドを振り上げた叔父はぴたりと動作を止めた。
叔父と、そしてれいなが声の主である彼女に向かって目を向ける。

「やっぱり来たか、裏切り者の姑息な鼠が」

叔父は里保の姿を認めても動揺しなかった。こうなることを予測していたのかもしれない。
だが、さすがにその手の中に握られた鉄の塊を見て、一瞬だけ眉をひそめた。
金属バットで床をコンコンと叩きながら、「脅しのつもりか?」と、叔父は一歩、里保へと近寄る。
れいなは尻ポケットに護身用のナイフを戻し、「鞘師逃げんね!」と叫んだ。

「田中さんから、離れて下さい」
「質問に答えろ。それはなんのつもりだ?」

既に叔父は標的をれいなから里保に移していた。
ずいぶんと暗闇に目が慣れたれいなは、里保と叔父の姿をぼやけながらもその目に映していた。
叔父はれいなに背を向けて、バッドで床をなぞりながら里保に近づく。対する里保は腕を真っ直ぐに伸ばし「なにか」を構えていた。
その「なにか」が、以前れいなも目にした拳銃だと気付いたとき、血の気が引いた。

「あなたはやりすぎです。亀井絵里さんを手に入れるためとはいえ、田中さんを傷付けても、なにも変わらない」
「お前がもう少しイイ働きをしてくれたら結果は変わっていたんだがな」
「……確かに、私は依頼人であるあなたを裏切りました。だから、私が、あなたを止めます」

バッドで殴られた左肩が異常な程に熱かった。
骨が折れたのか、ただの打撲なのかれいなには分からない。分かることは、いま、鞘師里保を止めなくてはいけないということだった。
あの引き鉄を、引かせてはいけない。あの銃がれいなを撃ったときと同様に偽物かどうかはともかく、里保に、叔父を撃たせてはいけない。

「ひとつお聞きします。あの花を贈ったのは、なぜですか」

里保の声を耳にしながら、れいなは震える膝に手をかけて体を起こす。
このまま逃げてしまえと情けない自分が囁くが、どうしても、逃げられない。
理由はどうであれ、自分を助けに来てくれた里保を置いて逃げるなんて、できない。

「お前が絵里に花を贈ったからだよ」

その言葉にれいなも里保も眉を顰めた。
叔父の言う花とは、紛れもなくカンパニュラのことだろう。だが、なぜそのことを叔父は知っている?
里保の銃を持つ手が震える。ガチガチという金属音と、床をずるずる引きずるバッドが不協和音として室内に響いた。

「なるほど……私を探偵に調べさせたときに、そんなことまで知ったんですね」
「なかなか粋なことをするじゃないかと真似してみたんだがね。こいつの葬送の意味を込めて」

ふたりの会話の流れをれいなはゆっくりと読み解く。
あのハナニラの贈り主は、やはり叔父だったようだ。その理由が、里保と同じ花言葉に由来していたことも。
まあそれ以外にも、蛍光塗料を彩色したガラスのオブジェで、暗闇でもれいなの居場所が分かるという利点があったのだろうけど。

「なぜ裏切ったのか気になって調べさせたよ。やはり理由は同情か?両親を失った絵里と自分を重ねて、お前は絵里に」
「憶測でお話しなさるのは賢明じゃないですよ。私に両親がいないことと、あなたの依頼を断ったことは別問題です」

里保は自らを律するように銃を構え直した。
れいなはいよいよ状況が悪化したことを知る。里保に両親がいないことなどどうでも良い。とにかくまだ撃たないでくれと立ち上がった。
だが里保は銃口を真っ直ぐに叔父の頭に向けていた。叔父はそれを単なるパフォーマンスと思っているのか、それとも勝機があるのか、里保に近づく。

「とにかくお前は邪魔だ。消えろ」

即座に叔父はバッドを振り上げた。
里保もれいなも目を見開く。里保は銃のスライドを引いた。れいなは咄嗟に叔父に飛び掛かる。

「放せ貴様ぁ!」

叔父の両腕を羽交い絞めにするが、相手も体を大きく揺さぶり、れいなを振り払おうとする。
里保は狙いをうまく定められないのか、銃身をずらしながら「田中さん退いて下さい!」と叫ぶ。
だがれいなには信念があった。絶対に、絶対に彼女にその引き金を引かせてはならないと。

「鞘師、撃つな!」
「放せぇ!!」
「田中さんっ!!」

三者の声が響き合う中、叔父がぐんと身体を捻り、れいなの体は勢い良く吹き飛ばされた。派手な音とともに、れいなは机に叩きつけられる。
鋭い風切り音がした直後、バン!という銃声は響いた。「あああああ!」という呻き声とともに叔父が蹲った。
れいなはその音と声で状況を把握した。全身の痛みを堪えながら、天を仰ぐ。なぜ、なぜ撃った、鞘師。と下唇を噛む。
もうやめろ、やめてくれ。お願いだから、こんなことするな。やめて、やめて、鞘師―――

「次は、頭を、狙います……だから、もう、やめて下さい」

撃った本人である里保は、発砲の反動により尻餅をついていた。銃を持つ手は震え、いまにもその手から落としてしまいそうだった。
それでも必死に立ち上がり、銃口で叔父の眉間を狙う。撃った。撃った。撃ってしまった。と、頭の中でぐるぐる言葉が回る。

「貴様っ……」

叔父の左の肩口を抉った弾は肉を突き破ったが貫通することなく体内に留まっていた。ジャケットにどす黒く血が滲み始める。
奥歯を噛みしめながら右手一本でバッドを振り翳す。鋭く振りぬかれたバッドは、引き金を引く前に銃口に当たり、銃が弾かれた。
しまった、と里保が丸腰になった途端にバッドが振り下ろされた。咄嗟に里保は両腕をクロスさせて頭を守る。

「っ―――!」

激しい衝撃音の直後、燃えるような痛みが左腕を襲ってきた。即座に膝を折る。バッドが直撃した左腕は、完全に、折れてしまったらしい。
叔父はバッドが骨に当たった振動で手が痺れたのか、それを床に落とす。
しかし、左手で里保の髪を鷲掴みにすると、そのまま彼女を机に叩きつけた。
ガン!ガン!という連続した鈍い音を響かせながら、里保は額を机に打ち付けられる。

「このっ、舐めるなよ、クソガキが!」

叔父はそのまま里保を強引に振り向かせ、今度は右の拳で頬を殴った。唇が切れ、頬が腫れあがる。血の匂いが事務所内に充満する。
里保は痛みより先に、体中が煮え滾るような不快感と憤怒に襲われた。それ以上汚い手で触れるなと、頭の中で別の自分が呟いていた。
3回ほど殴られ、叔父が次の拳を振り上げた瞬間、里保は腰を浮かせ、両足で叔父の腹部を蹴り上げた。
叔父は獣のような声を上げて後退する。里保は机から降り、床を転がるように逃げた。
ガゴンという鈍い音のあと、机の脚が凹む。またバッドを手にしたようだ。里保は机の下に弾き飛ばされた銃を手にする。
膝をつき、改めて引き鉄に手をかけた。右手一本で構える。
殴られたためか、視界ははっきりしないが、それでも真正面でバッドが振り翳されるのは分かった。次にあのバッドが振り下ろされたら間違いなく死ぬと直感した。
里保は眉間に照準を合わせる。ああ、もう、殺すしか、ない―――!


「撃つなああああ!」

里保の指が引き金にかかったその瞬間、腕が上から激しく抑え付けられた。抑えたのは、れいなだった。
まるで里保を庇うように体を投げ出した彼女の右側頭部に、叔父のバッドが真っ直ぐに振り下ろされた。
聞いたことのないような鈍い音のあと、れいなは呻くような声を漏らし、里保に体を預けるように倒れてきた。

「っ、た、田中さん!田中さんっ!!」

里保は一瞬、なにが起きたか把握できなかった。しかし、目の前に倒れた彼女の重みを腕が感じ取った瞬間、弾かれたようにれいなの名を呼んだ。
だが、れいなは小刻みに震えるだけで、その呼びかけに応えない。
れいなの頭を抱えていた里保の左手にべったりとついた鮮血が、暗闇の中でもはっきりと分かる。
彼女の置かれている状況がいかにひどいものか、里保は即座に理解する。

「邪魔…しやがって……」

そのとき遠くでサイレンが鳴った。里保が通報していた警察と救急車が漸く到着するようだった。
叔父は舌打ちし、ふたりに踵を向けて走り出した。反射的に「待てっ!」と追おうとした里保だったが、その身体はぐんと引き戻された。
力の加わった右腕を見ると、れいなが震えながらも里保の手を掴み、なにか口を動かしていた。

「そんな……手じゃ、ないやろ……」
「えっ……?」
「鞘師の、手は……そんな手や、ない」

れいなはうわ言のようになにかを呟きながら、里保の右手を包み込んだ。
直に伝わって来る温もりに混ざり、部屋中に蔓延した血の匂いが鼻をつく。
べったりと血液が付着した手だったのに、どうしても里保はそれを振り払えなかった。

「鞘師の、手は……さゆの、ために、あるっちゃろ?」
「田中さん……なにを……」
「さゆの…ための……」

里保は知らないが、それは以前、れいなが絵里から受け取った想いと同じだった。
それは、絵里を壊した叔父に真っ黒な殺意を向け、ナイフを振り翳そうとしたれいなを制した、絵里の優しさだった。
その想いを、れいなは無意識のうちに里保に伝えていた。
たとえ最初は利用しようとしていたのかもしれない。さゆみを使ってれいなに銃口を向けたのは確かに里保だ。
それでも、自分の信念を貫こうと、さゆみの傍にいて、さゆみを、そして絵里やれいなを護ろうとしたのも、紛れもなく、里保だった。

「鞘師の手は、さゆを護る、優しい、手で……だれかを、傷、つける、手やないやろ……」

れいなは包み込んだ里保の手を額に当てると、これまで見たことのないような優しい瞳で、笑った。
その笑顔はまるで、太陽のようだった。
暗い雲の上、天の中心に座し、旅人が迷わぬ道しるべとなるような、柔らかくて強い、“光”だった。
イカロスのようにその翼を燃やされようとも、里保は眩しいほどの光がほしかった。
里保が夢中で求めたもの。それは、自分の信念を貫けるよう、暗闇の中でも真っ直ぐに道を照らしてくれる光だった―――

「田中…さんっ……」

れいなはその呼びかけには答えず、ずるりと両手を解放した。
ぺたりと床に落ちた手は全く動かなくなる。里保は息を短く吐き出す。震え出す体を抑えることができなかった。
声にならない叫びの中、事務所に里保の通報した警官隊と救急隊員が突入してきたのは、その数分後のことだった。


 -------


里保は話を終えると、怪我をしていない右手を翳した。
拳銃を持っていたこの手を、あの人が止めた。そしてあの人は、私を庇って、いまは手術中で生死を彷徨ってる。
私はいったい、なにをしているのだろう―――

「……その、撃った銃は?」
「警察突入の直前にカバンに入れといたよ……」

里保が右腕で目を覆った。泣いているのかもしれないが、衣梨奈はなにも言わなかった。
彼女のカバンを開けると、自分が改造した銃が出てきた。血がべったりと付着し、スライドの部分に詰まっていた。
発射された弾丸は1発のみだと確認すると、衣梨奈は何処か安堵した。銃はそのまま自分のカバンにしまった。

「で、これからどうすると?」

衣梨奈が手に付いた血を水道で洗い流しながら訊ねる。シンクにピンク色の水が貯まっていく。
里保は静かに息を吐いたが、なにも答えなかった。その沈黙が妙に気になったが、衣梨奈もまたこれ以上は聞かなかった。
俄かに上階が騒がしくなるのに気付いた。どうやられいなの手術に動きがあったらしい。
衣梨奈は「ちょっと行ってくるけん」とハンカチで手を拭き、入口まで歩く。

「えりぽん―――」

病室を出て行こうとした衣梨奈は、その声に立ち止った。
それは自分の名前であるはずなのに、なぜかあまりにも遠い存在のようなものに聞こえた。
唐突に、脚が竦んだ。振り返っても、このまま先に進んでも、どちらも不正解のような気がする。
それでも衣梨奈は振り返った。ベッドに横たわる里保を真っ直ぐに見つめる。彼女は腕を覆ったままそこにいた。ずいぶんと彼女は、小さく見えた。

「ごめん……」
「なんが?」
「……いろいろ」
「そう思うっちゃったら、早く治せば良いと。ゆっくり寝てるっちゃよ」

衣梨奈はそう言うと後ろ髪を引かれながらも今度こそ一歩踏み出し、病室をあとにした。
上階の動きを把握して、20分後、再び里保のいるはずの病室に戻ると、そこは既にもぬけの殻となっていた。

たった1枚の「すみませんでした」という走り書きを残し、鞘師里保は、夜の闇へと消えていった。





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