まるでだれかの涙のように、雨は静かに街に降りつづけた。
ある病院に入院していた男は、雨音に舌打ちし、トイレに行こうとベッドから降りた。
点滴架台とともに病室を出ると、廊下の先に髪の長い女の姿を見かけた。
男は直感した。あいつだ。オレをこんな体にしたあいつが此処に居る。
重い体を引きずるように走り出す。カラカラと車輪の音が響く。
角を曲がり階段まで向かうが、そこに女の姿はなかった。逃げたのか。
冗談じゃない。あいつはオレのものだ。だれにも渡さない。今度こそ手に入れてやる。邪魔はさせない。

病室に戻ろうと歩き出そうとした瞬間、急に走ったせいか、立ち眩みに襲われた。
舌打ちして点滴架台を掴もうとしたとき、バランスを崩した。
足元がおぼつかなくなり、気付いたときには階段を踏み外していた。
派手な金属音が無機質な病院内に響く。

転がるように、階段から落ちていく。
それはまるで男の人生のようだとふいに感じた。なぜ自分でそんなことを思ったのかは分からないが。

―オレが、間違っていたというのか……?

全身を強打しながら転げ落ち、勢いよく壁に後頭部をぶつけ、漸く体が止まった。
痛みが駆け巡るなか、ふいに思考が明瞭になっていく。
最初はただ、可愛らしい子だと思っていただけだった。
だが、いつの間にか彼女の存在は大きくなり、欲望が際限なく広がった。その欲望に忠実に動いた結果が、このざまだ。
オレは、オレはただ―――

段々と視界は狭くなっていった。
視界の端に、廊下の先にいた女を見た気がした。だが、それが本当に「彼女」であったのか、男は確認できなかった。
人の声が矢継ぎ早に聞こえる中、男は目を閉じる。それが、彼の見た、最後の“世界”だった。


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「イイじゃん、ちょっとくらいさー」

男の声は明瞭に室内に響いた。
聖は困ったように笑い、それでもハッキリと彼の腕を振り解きながら「酔いすぎですよ」と返した。
雨音は屋根を容赦なく叩く。バー「Ninth」では1時間ほど前に入ってきた新規の客がふたり、情緒もなく酒を呷っていた。
まるで1軒目のように呑む男たちに嫌な予感はしていたが、無下に追い払わずにアルコール度を低くして酒を提供する。
そのうち、どうしても水と氷が足りなくなり、香音は申し訳なさそうに買い出しに走った。

「そんなもん持っといてお預けってひどくない?」
「此処はそういうお店ではございませんので」
「減るもんじゃないしさー。てかお姉ちゃん、そういう店で働きなよ。オレ行くからさー」

そして香音がいなくなり、聖がひとりになった途端、男たちは聖に絡んできた。
「こっちは客だ」だの「ちょっとくらい触らせてよ」だの、性の対象として聖を見て、話しかける。
バーは夜の仕事とはいえ、そういうサービス類は一切やっていないことなど見れば分かるだろうにと聖は苦笑せざるを得ない。

「お客様。これ以上そのようなことをするのでしたら―――」
「なに?やんの?追い出すの?オレら、男ふたりに?」

挑発するように男たちは立ち上がる。
卑下た笑みを浮かべたかと思うと、ひとりが大股でバーカウンターへと入ってきた。
うわぁ、こういうタイプかぁ、面倒くさい。と聖は心底思う。

「ねぇ、奥とか部屋あんでしょ?ちょっとでいいからシようよ」
「……お客様、チェックでよろしいですね?カードでのお支払いも可能ですので」
「うっせぇ!大人しくしろってんだよ!!」

出来る限り「大人の対応」を取ろうとしていた聖の手首を男が掴んだ。
そのまま強引に捻ったかと思うと、カウンターテーブルに激しく体を押さえ付けた。一瞬、息が詰まって呼吸ができなくなった。
男は聖の体を背中から押し付けると「舐めんなよ、女のくせに」と苦々しく呟く。
香音がもうすぐ帰ってくるというのに、よくこんな後先考えない行動ができるなと聖は何処か冷静に思った。
お酒を扱う夜のお仕事だから、護身術くらい弁えてるって分からないのかな?
さて、これは先に手を挙げたのは向こうだし、やっちゃっても良いよね?と聖は左脚に力を込めた。

すると、カランカランと扉につけた鈴の音が鳴った。
言ってる傍から香音が帰って来たのだろうかと聖は顔をそちらを向ける。
男たちもその音に一瞬息を呑んだ。が、そこにいたのは彼女ではなかった。

「っ……えりぽん?」

そこにいたのは衣梨奈であり、頭から足先まで、まるで濡れ鼠のようだった。
カウンターに組み伏せられた聖と、それをしている男たちの姿を認めると、深くため息をつき、前髪をかき上げた。
その口許が一瞬動いた気がしたが、なにを言っているのか、聖には分からなかった。

「なんだよ、帰りなよ、お嬢さん」
「そうそう。お小遣いあげるから、今日はお家に―――?!」

カウンターに座り、へらへらと笑いながら財布を取り出した男は、言葉を失った。
衣梨奈は一瞬身を屈めたかと思うと、バネのように膝を伸ばし、下から平手で男の顎を砕いた。
男のサイフが宙に舞う。間髪入れずに、剥き出しになった喉を右手で掴み、そのまま勢い良く床にはり倒した。
そういえばこれ、この前知り合った人が好きな技って言ってたっけ。
覚えといたほうが良いッスよーなんて軽く言っとったけど、確か「のど輪」やったっけ?まさか此処で使うって思っとらんかった、と衣梨奈は笑う。

「な、なにしてんだてめえ!」

聖を押さえつけていた男も、ただならぬ雰囲気は感じていたが、此処で引き下がるわけにはいかなかった。
恐らく男としてのプライドがあったのだろう。そんなくだらないもの、どぶに捨ててしまえば良いと衣梨奈は思った。
男は聖の体を解放すると、カウンターから出て衣梨奈へと歩み寄った。

直後、だった。
衣梨奈は男の懐に入り込み、襟首を掴み、背負った。

勝負は一瞬で着いた。
衣梨奈はそのまま男を一本背負いすると、男は即座に気を失った。
先にのど輪をかけられた男が自分たちの形勢を悟ったのか、一本背負いされた男の肩を持ち、すごすごとバーをあとにする。

「忘れもんっちゃ―――」

バーの扉を開けた直後、衣梨奈は男に財布を投げつけた。
しっかりと代金は抜き取られていたが、男は舌打ちすることもなくそれを持ち、足早に立ち去っていった。
再びバー「Ninth」内に静寂が戻った。

「……あ、えりぽん、ありがと。で、なんでそんなに濡れてるの?」

聖は捻りあげられた手首を摩りながら衣梨奈に訊ねるが、彼女は答えなかった。ただ黙って男たちが出て行った扉の方を見ている。
とにかく髪を拭かないとと、聖はすぐに厨房へ走り乾いたタオルを衣梨奈に差し出した。
衣梨奈の前髪からぽたぽたと雫が垂れる。彼女はタオルに手を伸ばしたが、実際に掴んだのは聖の手首だった。

「えっ……?」

衣梨奈は強引に聖を引き寄せ、抱きしめた。聖は突然のことに驚き、抵抗する余裕もなかった。

「聖に触る男なんか、いらん……」

そう呟いた彼女は、聖の頬に右手をかけた。
真っ赤に染まった瞳と、その奥に燃える情念を見た途端、次になにをされるかを聖は悟った。しかし、衣梨奈と距離を取ろうとする前に唇は重なっていた。

「んっ―――!」

衣梨奈は聖の唇を貪るように舐める。
しっかりと左手で聖の腰を固定し、右手は脇腹から胸元を何度も往復する。

「んっ、やっ……んん!」

聖は精一杯に体を捩り、衣梨奈の腕の中から逃れようとする。
本気を出せば、衣梨奈の体を振り払うことは造作もなかった。が、聖は衣梨奈を振り払えない。
彼女がなにを求めているのか、なにに怯えているのか、それが分からないからだった。
それを理解しようとする前に、衣梨奈は聖の左胸を揉みし抱き、舌を突き出して歯列をなぞる。
そのまま舌を絡めようと強引に口内に割って入り、蹂躙する。

「ふっ!ん、んっ!んん!」

聖は抵抗を重ねるが、衣梨奈は構わずに行為をつづけた。
衣梨奈の手によって、聖の胸が形を変える。ワイシャツの下に着けている下着がだらしなくずれ、段々と中心が硬くなるのを感じた。
舌が絡み合い、息が上がっていく。
彼女の手がワイシャツの中に入ろうとしたとき、聖は理解を諦めた。左脚で、彼女の右脚を思い切り踏み付ける。

「ったぁ!!」

衣梨奈は思わず唇を離し、顔を歪めた。一瞬の隙をつき、聖は衣梨奈の腕から逃れる。
頬を叩こうと左手を振り上げる。が、衣梨奈の濡れた前髪の奥に浮かんだ瞳を見て、聖はその手を振り下ろすことはできなかった。
先ほどまでの情念が消え去り、残ったのは虚無にも似た愁傷だった。
行き場を失くした手を下ろし、聖は踵を返す。震える声を絞り出すように「やめてよ…」と言い放った。

「新垣さんが好きなくせに、私にこんなことしないで」

聖はそれだけ言うと、衣梨奈を残し、走って厨房へと消えていった。
直後に買い出しから帰って来た香音は、バー店内のただならぬ気配を察し、思わず眉を顰めた。


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カウンターに座る衣梨奈を見ながら香音はため息をついた。
彼女は既にビール2杯とジントニック、ジンバック、それに焼酎「麦銀滴」ロック3杯を飲み切っていた。
酒好きの彼女ならこれくらい普通かもしれないが、それにしてはペースが速すぎる。
こういうとき、理想のバーのマスターなら自然と話を聞くべきかもしれない。だが、香音はそれをせずにグラスを洗い、新たなカクテルをつくろうと考えていた。

「おかわり、ちょーだい」

カタンという音のあと、彼女のそんな声がした。まだ飲むらしい。
香音は空のグラスを受け取り、伝票の「正」の字の第4画目を付け足そうとしたが、やめた。
代わりに大量の氷を放り込み、荒っぽく水道水を入れて「はいどうぞ」と差し出した。

「水やん」
「水で充分でしょ?」
「銀滴が良いっちゃけど」
「うっさいな。世界中の不幸全部背負ってますみたいな顔で飲まれると鬱陶しいんだけど。しかも前髪湿気でうねっておばさんみたいだし」

衣梨奈はその物言いに立ち上がり、香音の胸ぐらを掴もうとした。
が、香音はその手を払い、真っ直ぐに睨み返す。
ただならぬ空気を感じ取ったのか、ずっと厨房に入っていた聖が慌ててカウンターに走ってくる。
3人の間に流れる沈黙が重い。遠くで雷が鳴った。雨は止むことなく降りつづける。

「香音ちゃんに衣梨奈の気持ちなんて分からんやろ」
「分かんないし分かりたくもないです」

ばっさりと切り捨てる香音を衣梨奈は睨み付ける。
なにかを怒鳴ろうとしたが、結局言葉はへばり付いたままでなにも出て来なかった。
前髪をかき上げて舌打ちし、衣梨奈はどかっと椅子に座り直す。カバンに入っていたタブレットを取り出し、カウンターに置いた。
香音はそれを黙って手に取り、表示されたページを読んでいく。
それはインターネットに掲載されたある新聞記事の一部だった。ある病院で患者が階段から転落し、重傷を負ったというものだった。
記事には患者名は書かれておらず、ただ病院名と患者の年齢、そして医療ミス等ではなく、純粋な事故として扱われていることが書かれている。

「その事故の患者、里保が調査しよった亀井絵里さんの叔父やとよ」

見ず知らずの患者の事故など興味がないと香音が言おうとした瞬間に発せられた衣梨奈の言葉に、彼女は眉を顰めた。
聖もまたその名前を聞き、香音の横からタブレットを覗き込む。

「あの人、田中さん殺そうとして、でも結局里保が止めて、その病院に入院しとったと」
「それで……?」
「里保が病院からおらんごなったのが5日前。そして、その事故が起きたのが、3日前」

衣梨奈の言葉に、ふたりは息を呑む。
彼女がなにを言いたいのか、察した。

「防犯カメラに里保の姿は映っとらんけど、里保やったらそんくらい―――」

瞬間、香音が衣梨奈の胸倉を掴んだ。
衣梨奈は強引に立ち上がらされ、カウンターに上体を乗せられる。ガシャンとグラスが床に落ちて割れる。
聖が慌てて「香音ちゃんやめて!」と止めに入るが、香音は怒りに手を震わせてその静止を聞かない。

「本気で言ってんの?」
「衣梨奈やって信じたくないけど!信じたくないけど……」
「信じなよ!何年里保ちゃんといっしょに仕事してきたんだよ!」

衣梨奈の中に浮かんだ疑念はたちまち広がり、胸の中を闇が巣食ってしまっていた。
なんの言葉もなく去っていった里保が、もしかしたら叔父を殺害しに行ったのではないかと。
信じたくないけど、可能性が、消えない。里保は実際、銃で撃ってしまったから。そして、その銃を渡したのは、自分だ。

「里保ちゃん……5日前に此処に来たんだよ……?」

失意の中の衣梨奈は、そのときの聖の言葉に顔を上げた。
香音も彼女を振り返り、「聖ちゃんそれは…」と言いかけるが、聖は首を振った。
その姿に香音はため息を吐いて衣梨奈を解放する。聖はいちど厨房へ戻ると、一通の手紙を持ち、衣梨奈と正対した。

「えりぽんに、たくさん迷惑かけたって。だけど、自分はもう行かなきゃって」

微かに目尻に浮かんだ涙を拭いながら聖は話す。衣梨奈は短くなった息を吐き、先を急かそうとするがなにも言葉にならない。
香音はカウンターから外に出て、箒を持ち、地面に散ったグラスを集め始めた。破片に映る自分の顔が、あまりにも情けなかった。

「道重さんたちのこと、宜しくお願いしますって伝えてって。これ、渡してって……」

聖は震える手で、「道重さゆみ様」と宛名の書かれた手紙を渡してきた。衣梨奈もまた、震える手で受け取る。

「その人を突き落す前に、わざわざ此処に来る?泣きそうな顔して、ごめんってなんども繰り返して」

香音の声を背中に受ける。ざくざくと容赦なく突き刺さる言葉のひとつひとつが、重くて痛い。
自分は里保のなにを見てきたのだろうと自問した。だけど答えは到底、返ってこない。衣梨奈は深く息を吐きながら再び座った。

分かっていた。これは責任転嫁だ。
実際に叔父を撃ったのは里保でも、その銃をつくったのは自分で、銃を渡したのも自分だ。
いくら殺せない武器とはいえ、傷害の罪は逃れられない。現実を見るのが、あまりにも怖かった。
もし、病院での転落事故が里保の起こしたものだとしたら、自分の罪は軽くなるのではないかなんて、あまりにも身勝手な想いが衣梨奈を包み込んでいた。
そしてなにより、里保がいなくなったその日、衣梨奈のカバンから「それ」は失くなっていた。
間違いなく彼女は、あの銃を持って姿を消した。
だからその銃を叔父に向けたのではないかと、勝手な想像が衣梨奈を支配した。

だけど、そんなことはあり得ないと衣梨奈は確信した。
里保はこの手紙に、衣梨奈に、「希望」を託しているのだから。

「………失明、するかもしらんって、聞いたと」
「え?」
「この人。落ちた衝撃で脳内の視神経が傷ついて……」

衣梨奈の言葉に、香音も、そして聖も眉を顰める。衣梨奈はカウンターを指でなんどか叩きながら思考を巡らせていた。
亀井絵里が光を失った原因は恐らく心因性のもので、治療の余地もある。
今回の叔父の場合、転落の際に前額部を強打し、それが視神経を傷付けたことによって失明の危機に陥っているらしい。
まだ治療は始まったばかりで断定はできないが、かなり厳しい状況のようだ。

「“天罰”って、こういうことを云うっちゃろうか―――」

雨の降るなか、衣梨奈の言葉はバー内に静かに浮かんだ。
叔父に与えられたのは、犯した罪に呼応するような罰なのか、衣梨奈には分からない。
だが、少なくともこれで今後亀井絵里に彼が関わる可能性は一気に低くなった。それを喜んでいる自分がいるのは事実だった。
それを汚いというならばそれでも構わない。里保が護りたかったものを、私も護りたかっただけなんだと自覚した。

衣梨奈は里保の残した手紙を見つめる。ああ、早くこの人に会わなくてはと、ぼんやり思った。
サイフから乱雑に紙幣を取り出して立ち上がる。カウンター奥の香音に渡そうとすると、彼女は「いらないよ」と言った。

「なんで?」
「ん、出世払いかな」
「なんそれ」

衣梨奈は苦笑すると、そのまま紙幣をサイフに戻し、立ち去ろうとした。
が、扉の前で立ち止まり「聖」と名を呼んだ。
香音とともにグラスを片付けようとしていた聖は顔を上げ、背を向けたままの衣梨奈を見る。

「……さっきは、ごめん」
「いいよもう。えりぽんのそういう刹那っぽいところ、慣れてるから」

なんの許しにも、慰めにもならない言葉を受け、衣梨奈は肩を竦めて外に出た。
夜明けの街には霧雨が降り、まるで幻想的だった。今日はどんな朝陽が昇るのだろうと、雲の立ち込めた空を、衣梨奈は睨む。
彼女が叔父に銃を向けていないとしたら、その銃口の先にいるのはだれなのだと衣梨奈は乱暴に頭を掻き毟った。


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コンコンという音に、絵里は「はい」と返した。
扉が開き、「こんにちは」と声がした。知らない声と、感じたことのない“色”に絵里は少し、怯える。
ただその人が女性ということしか、分からない。

「初めまして、亀井さん。今日は、同僚の代理で参りました」

彼女の声は柔らかくて、なぜかその言葉尻かられいなを想像させた。
ああもしかしてこの人、れーなと同じ福岡県出身なのかなと絵里は思った。
彼女は室内に入り、「あなたにカンパニュラを送った、鞘師里保の代理です」と頭を下げた。
絵里はその彼女の名前に柔らかく笑った。

「鞘師さんの…お仕事仲間さんですか?」
「ええ。まあ、そんなところです」
「あの花…カンパニュラ、凄く、好きです。良い香りで、なんだか、優しくなれるから」
「それは良かった。里保もきっと、喜びます」

彼女はそう話しながら、自らが持ってきた花を活けていく。
絵里は彼女がいるであろう場所を見ながら「良い、匂いですね」と呟いた。

「この花も、里保からなんです。お見舞いに、と」
「そうなんですか。これ、なんのお花、ですか?」

彼女は根元を洗い、それを小さな花瓶に挿した。
淡い紫色の花弁が無機質な病室に映えて綺麗だった。心を落ち着けるような淡い香りが病室に浮かぶ。

「この花は、ラベンダーですよ」
「ラベンダー……」
「その花言葉は、清潔、期待、そして……」

彼女はいちど言葉を切った。
そして、自分に対し、絵里に対し、優しく歌いかけるように呟いた。

「あなたを待っています―――」

絵里はその言葉に思わず息を呑んだ。
淡い紫色のラベンダーが纏った祈りのような花言葉に、絵里は寂しそうに笑った。
それでも、「きっと、伝わってます」と、涙を零さずに言い切ったのは、信じているからなのだと思う。
私は、もう、世界を諦めない。真っ暗で光の射さない世界でも生きていけると教えてくれたのは、あなただったから。

「衣梨奈も、そう、思います。きっと、伝わりますよ」

彼女―――衣梨奈と名乗ったその人の言葉に、絵里はまた笑って頷いた。
衣梨奈が「では、私はこれで」と頭を下げて病室を出て行こうとする。
絵里はその背中に「あのっ」と声をかけた。

「鞘師さんは……?」

その言葉に、衣梨奈はぴたりと脚を止めた。
一瞬の静寂のなかで、衣梨奈の纏った“色”が変わったことに絵里は気付いた。
鎮静作用のある濃い紫が段々と薄くなり、消えていく。
それが彼女の迷いなのか、それとも別のなにかなのか、絵里には分からない。
衣梨奈は聖から預かった手紙を入れた胸ポケットに手を翳した。
傷口の塞がっていない彼女から滲んだであろう血の匂いがそこにはまだ残っている気がした。
この手紙も、早く彼女に渡さなければと天井を仰ぐ。

「里保は……」

衣梨奈は踵を返し、絵里の手を握った。
確かな温もりに絵里はドキッとするが、衣梨奈は構わずにつづけた。

「もう、あなたがあの闇に怯えることはありません」
「えっ……?」
「あなたにとって、田中さんが光であるように、里保は、私にとっても道重さんにとっても、光なんです」

衣梨奈はそう言うと絵里の手を離し、「失礼します」と一礼して去っていった。

なぜ、彼女の口から急にさゆみの名前が出たのかは、絵里には分からなかった。
だが、衣梨奈から伝えられた想いは、真っ直ぐに絵里へと届き、心を確かに温かくする。
絵里だってもう子どもではない。衣梨奈の言葉尻から、里保がなにかを抱えていることくらい推察できた。

だけどもう、絵里はそれ以上追及しない。
衣梨奈やさゆみにとって里保が光であるならば、必ず彼女はだいじょうぶだと、信じることができる。
絵里もまた、自分にとっての光である彼女を信じているから。

「そうだよね、れーな……?」

窓辺に活けられた紫色のラベンダーは、淡い木漏れ日を背に受ける。
その香りは風に乗り、ベッドに横たわる少女を優しく包み込んでいた。


―――――――


「本日の撮影終了でーす!」
「お疲れ様でしたー」

アシスタントである光井愛佳の掛け声のあと、スタジオ内の緊張が一気に緩んだ。
スタッフは撤収作業に入り、モデルも一礼して別室へと向かう。
カメラを構えていた彼女ははふうと額の汗を拭い、撮ったばかりの写真を確認した。
今日も良好。なかなか良い写真が撮れたなと満足げに笑った。
ふと、腰ポケットに入れていたケータイが震えた。画面を確認すると、彼女の名前がある。

「いま仕事終わったけん、あと1時間くらいでそっち行けると思う」

カメラを片手に足早にスタジオを歩く。
愛佳が「すみません。これの確認を」と小声で話しかけてきた。れいなはいちど立ち止まり、ボードにペンを走らせる。

「はいはい、分かっとーよ。じゃああとで家行くけん……じゃあね、さゆ」

そうして電話を切った田中れいなは「明日って午後からやっけ?」と愛佳に声をかけた。

「ええ。15時に打ち合わせ……って田中さん、今夜デートですか?」

意味ありげに笑う愛佳に対し、れいなは否定も肯定もせずに「まあ、そんなとこ」と返した。
その表情は仕事の時には滅多に見せないほどに緩んでいて、だれがどう見てもデートなのだなと分かるものであった。
れいなは鼻歌交じりにカメラ片手にスタジオを後にする。さっさと仕事を終わらせようと、張り切っていた。





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