行きたい場所があると絵里から告げられたのは、
れいなが北海道に出張する1週間ほど前のことだった。
今回の出張は、さゆみの何冊目かの写真集の撮影だった。
あの「事件」から、もうすぐ半年が経とうとしていた。
季節は巡り、れいなの傷も癒え、またいつものように、仕事に打ち込む日々が続いている。
愛佳の個展も無事に終了し、少しずつではあるが、彼女も「カメラマン」としての立ち位置を確立してきた。
もうれいなのアシスタントに入ることも、少なくなっている。
それは良いことなのに、何処か寂しくもあった。
さゆみの写真集撮影にも彼女は同行せず、れいなは一人黙々と、秋風に黒髪を靡かせる彼女にフォーカスを合わせた。
「歌ってるさゆも、悪くなかったっちゃけどね」
「れいな、さゆみのことバカにしてるでしょ?」
シャッターを切りながら、ふざけ合うように、笑う。
さゆみがあるテレビの企画で出したCDは、今のところ、あの曲1枚だけだ。
現時点では、2枚目を出しましょうという話は上がっていない。
売り上げは決して悪くなかったのだが、いかんせん、歌唱力に難があったのかもしれないとれいなは勝手に推察している。
「さゆのマネしちゃろか?」
「やめて。無駄に似てるからムカつく」
物まねの鉄則は、本人以上に本人らしく、その癖を強調すること。
そうであるからこそ、れいなはさゆみの「しゃくりあげる」癖を大げさに披露し、周囲のスタッフを笑わせる。
さゆみ自身、似ていると思ってしまうほどのその再現力からするに、れいなはかなり、歌がうまい。
そういえば事務所の忘年会の2次会でカラオケに行ったときは、寺田も何度となく褒めていたっけと思い出した。
「……ごめん」
一通りさゆみをからかい、シャッターを切り終えたところで、れいなは静かに謝った。
急に殊勝な態度を取られて、さゆみは「え?」と返す。
「なに?どうしたの?」
こんな風になるれいなの姿を、さゆみは見たことがなかった。
「……鞘師のこと、手伝えんくて」
ふわりと、風が舞う。
ダンスをするようなその風の行く末を、さゆみは思わず追いかけた。
ああ、なんだ。
ホント、この人って。と、微笑む。
「生田から聞いたよ。れいな、生田にあれこれ頼んでたんだって?」
半年ほど前、鞘師里保の居場所を突き止めた生田衣梨奈は、その後、色々と話をした。
聞いてもいないのに、れいなが必死になって、衣梨奈に頼み込んだことを。
―――「さゆのためにも、見つけてほしいと」
必死になるれいなの姿は目に浮かぶようだった。
仲間のことを思う強さは、この人の優しさだ。
「ずいぶん、手伝ってもらったよ」
その優しさだけで、もう充分だった。
まだ、さゆみの前に里保は現れない。連絡も結局、取れていない。広島でガラス越しのキスを交わしたっきりだ。
それでも良い。彼女がまだ自分自身を赦せないというならば、さゆみはただ、待つだけだ。
「さゆみたちのことより、れいなたちはどうなの?」
カメラを遮るように、右手を伸ばした。
レンズに手の平をべちぃっと被せると、「あー、やめ!」とれいなが焦る。
すぐにレンズを外し、タオルで拭いていく。
「最近どうなの?」
「どうって…」
聞かれても、絵里とれいなの関係に、大した変化はない。
あの事件が起きてから、絵里はまた暗い世界に戻ってしまうのではないかと不安だった。
だが、彼女はこの世界で、光はなくとも生きていくことを誓った。
だかられいなも、その想いに全力で答えようと思った。
自分が彼女の光になれるなんて、烏滸がましいことはもう、考えない。ただ、同じ世界で、同じ目線で、一緒に居たいって、思ったんだ。
絵里はあれから、モデルの勉強を始めた。
「盲目のモデル」と謳えば、マスコミは面白がって飛びつくだろうし、一定の人気は出るかもしれない
しかし、それは一時的なものだ。決して彼女本来の美しさを、世間は知ることはない。
そうであるならば、徹底的に彼女を、「亀井絵里」を切り取りたいとれいなは思った。
絵里はさゆみのモデル事務所に入り、感覚的に、モデルとしてのポージングや表情の作り方を学んでいる。
れいな自ら寺田に直訴し「どうしても絵里を被写体にしたい」と食い下がったら、寺田は快く協力を申し出た。
さゆみのモデル事務所の社長に話を通し、アルバイト以下の薄給で絵里を事務所入りさせたのだ。
―――「オレの目に狂いはない。最初にこの子を撮れって言うたんは、誰やっけ?」
寺田は二カッと笑い、いくつかの書類にサインをした。
そんな権力がこの人にあったのかと、れいなは改めて寺田を見直した。
絵里がモデル事務所に入り数ヶ月が経つが、もちろんそんな短期間で仕事が来るわけもない。
今はまだ見習い中の見習いだ。
そんな絵里をれいなが支える。いつも通りの、日々だ。
「あ。でも、一昨日やったかな、行きたい場所があるって言われた」
「なに。デート?」
「知らんけど……でも、何となく、違うかも」
確証はないが、絵里は時折、言葉を濁すことがあった。
その理由が何か分からなかったが、その小さな声に耳を傾けない理由はない。
さゆみの写真集を撮り終えたら、2日ほど休暇を貰えることになっていた。その期間に、彼女の云う「行きたい場所」に行こうと決める。
れいなはフォーカスを合わせてシャッターを切る。
小さな世界の中で、さゆみを切り取っていく。
何処をどうしても、彼女はやはり、美しい。
レンズ越しの彼女に恋をしていたことに改めて気付かされたが、もう誤魔化すことはしない。
その恋を1冊の写真集にしたためるのは、カメラマンの特権だ。
これ以上ないほどの作品を仕上げるために、れいなは何度もシャッターを切った。
-------
「絵里、雨やけど、ホントにいいと?」
生まれたままの姿で毛布にくるまる彼女の頭を撫でながら、れいなは訊ねる。
北海道から帰ってきた夜から、東京は静かな雨が降り続けていた。
2日間の休みの間に、彼女と出掛けることは決めていたが、せっかくなら天気の良い日のほうが良いのではないかと思う。
だが、絵里は寧ろ首を振り、外に出たがった。
「…シャワー行ってくるね」
絵里は身体を隠すこともせず、ベッドから降りた。
本当はもう少し寝ていたかったのかもしれないが、行くと言った手前、引き返せないのかもしれない。
れいなは半分ほど開けたカーテンの向こうから見える雨空に目をこすりながら、あくびをする。
彼女はいったいどこに行きたいのだろうか。
シャワーを浴び、軽く朝食を済ませ、車のキーを手にした。
絵里はその場所の住所だけ伝えると、助手席で無言を貫いた。
れいなもまた、ムリにあれこれ聞き出すことはせずに、車を発進させる。
カーナビに住所を入力すると、目的地までは30分ほどで到着することが分かった。
だが、地図上で表示されるその場所に、思わず眉を顰めた。
そこは、交差点だ。
彼女が伝えたのはおおよその場所であって、その周囲に目的地があるのかもしれない。
とはいえ、商業施設が立ち並ぶわけでも、公園があるわけでもない。
果たしてこの近くに駐車場があるのかもわからない。
ハンドルを切りながら思考を回転させると、れいなはひとつの仮説を導き出す。
それを絵里に伝えることはできないまま、静かに目的地へと走らせた。
-------
「その手前に、お花屋さんがあるの。裏手が駐車スペースになってるから、そこからは歩かなきゃだけど」
彼女からそう言われ、れいなは素直に従った。
裏手の駐車場に頭から泊め、降りる。
静かな雨が降る中、水色とオレンジの傘をお互いに差した。
絵里はステッキを使いながら、ゆっくりと歩く。
その腕を取ろうかとも思ったが、彼女から感じられる空気が、それをさせなかった。
恐らく彼女は、此処を知っている。
何度か来たことがある。
その証拠に、駐車場を出ると、拙い足取りながらも、花屋の入口を開けた。
「こんにちは」
彼女が声を出すと、奥から店主らしき女性が顔を出す。
「絵里ちゃん?久し振り!元気してた?」
やはり顔見知りだったのかと思いながら、店先の花を眺める。
ラベンダー、向日葵、百合、チューリップ、バラ…東京は季節を問わず、さまざまな花が咲いている。
絵里とその女性は、いくつか言葉を交わしている。
詮索したくなるが、やめておく。
れいなもそこまで、バカではない。
交差点、雨、花屋。この状況から、大まかなことを察する力はある。
10分ほど経ち、絵里は花を携えてきた。
花を抱え、絵里の横を歩く。
彼女は、自分が何処へ向かうべきかをしっかりと把握していた。
先ほどの花屋の店主との会話から、此処には何度か訪れていたのだと分かる。
だが、最近は自分の視力のこともあり、なかなか訪ねる機会はなかった。
絵里が選んだ花は、百合。
死者に手向けられる花として有名だ。
交差点の点字ブロックの近くで、絵里はそっと足を止める。
人通りの少ない交差点だ。休日にもかかわらず、車も往来しない。
見通しが良いわけではないが、此処で事故が起きたと言われて、俄には信じがたい。
「れーな……」
絵里が、呼ぶ。
れいなは手にした花を、そっとガードレールの脇に供えた。
「ここ……お父さんとお母さんが」
「うん、分かってる…分かっとーよ」
思わず、絵里の手を握った。彼女は強く握り返してくる。
痛々しいほどに力を込め、もう離さないでと叫ぶように。
れいなは改めて、交差点を見つめる。
「その時」の状況を、詳しく聞いたことはない。
ただ、絵里の家族を乗せた車が、信号無視したトラックと衝突したという断片的な事実しか、知らない。
その事故が、彼女から家族と、光を奪ったということしか。
絵里が震えている。
何か声をかけるべきなのかもしれないが、一つも言葉が出てこない。
大丈夫。なんて軽く口にしたら、あまりにも薄っぺらくて、風に浚われそうだ。
「お父さん……お母さん……」
絵里が、呼びかける。花に向かって、交差点の真ん中にいた、家族に対して。
れいなも同じように膝を曲げた。花はなにも語らず、綺麗に咲き誇る。
「………っ、え、り…絵里、ね」
ぽろぽろと、涙がこぼれた。
何ひとつできない、無力な自分に。
「絵里、好きな人が…できたよ」
彼女が語る言葉は、あまりにも真っ直ぐだった。
嘘や偽り、虚栄を纏うのではなく、ただそこにある想いを音に乗せ、伝えた。
もう、そこにはいない、自分の最愛の人へ。
「…ずっと、絵里のこと、支えてくれてる……絵里っ、絵里もっ…その人を、支えたい、です」
絵里の繋ぐ手に力が入る。爪が皮膚に食い込んでくるが、構うことはない。
傘の外にある手が、雨に濡れる。冷たい。けれど、温かい。
「れーなと、一緒に…生きていきたいです……だからっ…」
彼女は、奪われてばかりだった。
両親を奪われ、光を奪われ、叔父に処女を奪われ、そしてボロボロになって雨中に逃げ出した。
何も信じられず、がむしゃらに走り、そしてたまたま、れいなと出逢った。
ひどく、傷つけてきた。
たくさん、泣かせてしまった。
自分の想いが正しいと思い込み、護らなければいけないと決めつけ、彼女の人生を縛りかけた。
でも、そうじゃない。
そうじゃないんだ。
絵里は一人の女の子で、れいなより年上で、可愛くて、優しくて、それだけなんだ。
お姫様でも、囚われの身でもない。
何処にでもいる、普通の女の子なんだ。
「れいなも、生きていきたいです」
泣きじゃくり、言葉が続かなくなった絵里の傍で、れいなもはっきりと告げた。
絵里ははっとしたように顔を上げる。視線は、絡まない。それでも絵里は、しっかりと、れいなを見ようとする。
れいなもまた、絵里を見つめ返す。その瞳が重ならないことは分かっている。
一生、重ならないかもしれない。
それでも、良い。
「絵里と一緒に、生きていきたいです。不安も、苦労もあると思います」
すぅっと息を吸う。
そんなに難しいことじゃないはずだ。希望的観測だとは分かっているし、見通しの甘さも覚悟の上だ。
でも、中途半端な気持ちで、あの日、絵里に手を差し伸べたわけじゃない。
「絵里が、好きです。だから、何があっても、大丈夫です」
お互いに、この手を離さなければ、きっと大丈夫だと信じていた。
甘っちょろい、若さ故の危うさを孕んだ決意。
それでもふたりが重ねたのは、そんな優しくて切ない想いだった。
絵里の両親を奪った交差点には、相変わらず車も通らない。何も語らない無音な空間で、絵里はひぐっと涙をこぼす。
ぽつぽつと傘を叩いていた雨音がふいに止んだ。
れいなは絵里を促しながら、交差点に再度手を合わせる。
傘を閉じると、急に空が開けた。
黒雲の隙間から淡い光が射し込んでくる。まるで天へと続く階段のその先に、それが見えた。
あ。と思わず口をつく。
カメラを構えたくなる。
「………虹………?」
そう、雨上がりの東の空に、大きな虹がかかっていた。
だが、その言葉に、れいなは思わず目を見開いた。
今、なんて言った?
絵里は、今、なんて言った?
れいなは逸る気持ちを抑えながら、絵里を見つめる。
彼女は顔を上げ、空を真っ直ぐに見つめていた。虹のかかっている、東の空を。
「え……りっ……」
声が震える。
確証がないのに、ばくばくと心臓が鳴り響く。
うるさい。うるさい。これでは絵里の声が、聞こえない。
「れー…な……?」
絵里が、振り向く。
絵里は確かに、れいなを捉えていた。
たまたま瞳が重なったわけではない。
その茶色がかった瞳は、れいなを、真っ直ぐに見つめている。
絵里は震えながら、その手を伸ばした。
れいなはすぐには、彼女の手を掴むことができない。そんな考えも思い浮かばないほどに、混乱している。
なぜ絵里は、空に虹がかかったことが分かったのか―――?
答えは、すぐそこにあった。
「れーな…?」
絵里の手が、れいなの頬を包み込む。
感触を確かめるように、手で触れているものが、自分の瞳に映るものと同じか、確認するように。
「あなたが……れーな……?」
れいなは、確信した。
絵里には、“見えている”。
今、この瞬間、絵里の瞳はれいなを捉えている。
それが一瞬のことなのか、永遠のことなのかはわからない。
「絵里……」
心臓が破裂しそうになる。
視界が歪み、ああ、自分はまだ泣いているのかと気づいた。
その雫を拭うこともせず、れいなは必死に微笑みかける。
ぐしゃぐしゃで、無様で、滑稽で、まるでピエロだ。
れいなは絵里の手に、自らの手を重ねる。絵里の手は、ああ、やっぱり温かい。
「田中、れいなです。よろしく」
それは、最初の挨拶だ。
あの雨の夜、絵里と初めて出逢ったときに交わした、ふたりの言葉。
此処から物語を紡いでいくための、始まりの、挨拶。
「っ…か、亀井…えり、ですっ……」
大きな瞳からボロボロと涙をこぼした絵里は、耐えられなくなり、れいなの胸へと飛び込んだ。
「れーなっ……れーな、れーなっ!」
その場にある温もりを、此処に芽生えた奇蹟を、絵里は何度も呼んだ。
れいなはその重みを、確かに受け止める。
雨上がりの空に浮かんだ虹の横には、天へと続く光の階段が射し込んでいる。
それが彼女の瞳にも光を呼び寄せたのかは、分からない。
分からないけれど、今この瞬間に起きた出来事は、夢ではなかった。
その事実を受け入れながら、れいなと絵里は抱きしめ合う。
東の空の虹が薄れ、風が雲を押し流す。
光の階段はまだ、空と地上を淡く、繋いでいた。
第49話へ...
れいなが北海道に出張する1週間ほど前のことだった。
今回の出張は、さゆみの何冊目かの写真集の撮影だった。
あの「事件」から、もうすぐ半年が経とうとしていた。
季節は巡り、れいなの傷も癒え、またいつものように、仕事に打ち込む日々が続いている。
愛佳の個展も無事に終了し、少しずつではあるが、彼女も「カメラマン」としての立ち位置を確立してきた。
もうれいなのアシスタントに入ることも、少なくなっている。
それは良いことなのに、何処か寂しくもあった。
さゆみの写真集撮影にも彼女は同行せず、れいなは一人黙々と、秋風に黒髪を靡かせる彼女にフォーカスを合わせた。
「歌ってるさゆも、悪くなかったっちゃけどね」
「れいな、さゆみのことバカにしてるでしょ?」
シャッターを切りながら、ふざけ合うように、笑う。
さゆみがあるテレビの企画で出したCDは、今のところ、あの曲1枚だけだ。
現時点では、2枚目を出しましょうという話は上がっていない。
売り上げは決して悪くなかったのだが、いかんせん、歌唱力に難があったのかもしれないとれいなは勝手に推察している。
「さゆのマネしちゃろか?」
「やめて。無駄に似てるからムカつく」
物まねの鉄則は、本人以上に本人らしく、その癖を強調すること。
そうであるからこそ、れいなはさゆみの「しゃくりあげる」癖を大げさに披露し、周囲のスタッフを笑わせる。
さゆみ自身、似ていると思ってしまうほどのその再現力からするに、れいなはかなり、歌がうまい。
そういえば事務所の忘年会の2次会でカラオケに行ったときは、寺田も何度となく褒めていたっけと思い出した。
「……ごめん」
一通りさゆみをからかい、シャッターを切り終えたところで、れいなは静かに謝った。
急に殊勝な態度を取られて、さゆみは「え?」と返す。
「なに?どうしたの?」
こんな風になるれいなの姿を、さゆみは見たことがなかった。
「……鞘師のこと、手伝えんくて」
ふわりと、風が舞う。
ダンスをするようなその風の行く末を、さゆみは思わず追いかけた。
ああ、なんだ。
ホント、この人って。と、微笑む。
「生田から聞いたよ。れいな、生田にあれこれ頼んでたんだって?」
半年ほど前、鞘師里保の居場所を突き止めた生田衣梨奈は、その後、色々と話をした。
聞いてもいないのに、れいなが必死になって、衣梨奈に頼み込んだことを。
―――「さゆのためにも、見つけてほしいと」
必死になるれいなの姿は目に浮かぶようだった。
仲間のことを思う強さは、この人の優しさだ。
「ずいぶん、手伝ってもらったよ」
その優しさだけで、もう充分だった。
まだ、さゆみの前に里保は現れない。連絡も結局、取れていない。広島でガラス越しのキスを交わしたっきりだ。
それでも良い。彼女がまだ自分自身を赦せないというならば、さゆみはただ、待つだけだ。
「さゆみたちのことより、れいなたちはどうなの?」
カメラを遮るように、右手を伸ばした。
レンズに手の平をべちぃっと被せると、「あー、やめ!」とれいなが焦る。
すぐにレンズを外し、タオルで拭いていく。
「最近どうなの?」
「どうって…」
聞かれても、絵里とれいなの関係に、大した変化はない。
あの事件が起きてから、絵里はまた暗い世界に戻ってしまうのではないかと不安だった。
だが、彼女はこの世界で、光はなくとも生きていくことを誓った。
だかられいなも、その想いに全力で答えようと思った。
自分が彼女の光になれるなんて、烏滸がましいことはもう、考えない。ただ、同じ世界で、同じ目線で、一緒に居たいって、思ったんだ。
絵里はあれから、モデルの勉強を始めた。
「盲目のモデル」と謳えば、マスコミは面白がって飛びつくだろうし、一定の人気は出るかもしれない
しかし、それは一時的なものだ。決して彼女本来の美しさを、世間は知ることはない。
そうであるならば、徹底的に彼女を、「亀井絵里」を切り取りたいとれいなは思った。
絵里はさゆみのモデル事務所に入り、感覚的に、モデルとしてのポージングや表情の作り方を学んでいる。
れいな自ら寺田に直訴し「どうしても絵里を被写体にしたい」と食い下がったら、寺田は快く協力を申し出た。
さゆみのモデル事務所の社長に話を通し、アルバイト以下の薄給で絵里を事務所入りさせたのだ。
―――「オレの目に狂いはない。最初にこの子を撮れって言うたんは、誰やっけ?」
寺田は二カッと笑い、いくつかの書類にサインをした。
そんな権力がこの人にあったのかと、れいなは改めて寺田を見直した。
絵里がモデル事務所に入り数ヶ月が経つが、もちろんそんな短期間で仕事が来るわけもない。
今はまだ見習い中の見習いだ。
そんな絵里をれいなが支える。いつも通りの、日々だ。
「あ。でも、一昨日やったかな、行きたい場所があるって言われた」
「なに。デート?」
「知らんけど……でも、何となく、違うかも」
確証はないが、絵里は時折、言葉を濁すことがあった。
その理由が何か分からなかったが、その小さな声に耳を傾けない理由はない。
さゆみの写真集を撮り終えたら、2日ほど休暇を貰えることになっていた。その期間に、彼女の云う「行きたい場所」に行こうと決める。
れいなはフォーカスを合わせてシャッターを切る。
小さな世界の中で、さゆみを切り取っていく。
何処をどうしても、彼女はやはり、美しい。
レンズ越しの彼女に恋をしていたことに改めて気付かされたが、もう誤魔化すことはしない。
その恋を1冊の写真集にしたためるのは、カメラマンの特権だ。
これ以上ないほどの作品を仕上げるために、れいなは何度もシャッターを切った。
-------
「絵里、雨やけど、ホントにいいと?」
生まれたままの姿で毛布にくるまる彼女の頭を撫でながら、れいなは訊ねる。
北海道から帰ってきた夜から、東京は静かな雨が降り続けていた。
2日間の休みの間に、彼女と出掛けることは決めていたが、せっかくなら天気の良い日のほうが良いのではないかと思う。
だが、絵里は寧ろ首を振り、外に出たがった。
「…シャワー行ってくるね」
絵里は身体を隠すこともせず、ベッドから降りた。
本当はもう少し寝ていたかったのかもしれないが、行くと言った手前、引き返せないのかもしれない。
れいなは半分ほど開けたカーテンの向こうから見える雨空に目をこすりながら、あくびをする。
彼女はいったいどこに行きたいのだろうか。
シャワーを浴び、軽く朝食を済ませ、車のキーを手にした。
絵里はその場所の住所だけ伝えると、助手席で無言を貫いた。
れいなもまた、ムリにあれこれ聞き出すことはせずに、車を発進させる。
カーナビに住所を入力すると、目的地までは30分ほどで到着することが分かった。
だが、地図上で表示されるその場所に、思わず眉を顰めた。
そこは、交差点だ。
彼女が伝えたのはおおよその場所であって、その周囲に目的地があるのかもしれない。
とはいえ、商業施設が立ち並ぶわけでも、公園があるわけでもない。
果たしてこの近くに駐車場があるのかもわからない。
ハンドルを切りながら思考を回転させると、れいなはひとつの仮説を導き出す。
それを絵里に伝えることはできないまま、静かに目的地へと走らせた。
-------
「その手前に、お花屋さんがあるの。裏手が駐車スペースになってるから、そこからは歩かなきゃだけど」
彼女からそう言われ、れいなは素直に従った。
裏手の駐車場に頭から泊め、降りる。
静かな雨が降る中、水色とオレンジの傘をお互いに差した。
絵里はステッキを使いながら、ゆっくりと歩く。
その腕を取ろうかとも思ったが、彼女から感じられる空気が、それをさせなかった。
恐らく彼女は、此処を知っている。
何度か来たことがある。
その証拠に、駐車場を出ると、拙い足取りながらも、花屋の入口を開けた。
「こんにちは」
彼女が声を出すと、奥から店主らしき女性が顔を出す。
「絵里ちゃん?久し振り!元気してた?」
やはり顔見知りだったのかと思いながら、店先の花を眺める。
ラベンダー、向日葵、百合、チューリップ、バラ…東京は季節を問わず、さまざまな花が咲いている。
絵里とその女性は、いくつか言葉を交わしている。
詮索したくなるが、やめておく。
れいなもそこまで、バカではない。
交差点、雨、花屋。この状況から、大まかなことを察する力はある。
10分ほど経ち、絵里は花を携えてきた。
花を抱え、絵里の横を歩く。
彼女は、自分が何処へ向かうべきかをしっかりと把握していた。
先ほどの花屋の店主との会話から、此処には何度か訪れていたのだと分かる。
だが、最近は自分の視力のこともあり、なかなか訪ねる機会はなかった。
絵里が選んだ花は、百合。
死者に手向けられる花として有名だ。
交差点の点字ブロックの近くで、絵里はそっと足を止める。
人通りの少ない交差点だ。休日にもかかわらず、車も往来しない。
見通しが良いわけではないが、此処で事故が起きたと言われて、俄には信じがたい。
「れーな……」
絵里が、呼ぶ。
れいなは手にした花を、そっとガードレールの脇に供えた。
「ここ……お父さんとお母さんが」
「うん、分かってる…分かっとーよ」
思わず、絵里の手を握った。彼女は強く握り返してくる。
痛々しいほどに力を込め、もう離さないでと叫ぶように。
れいなは改めて、交差点を見つめる。
「その時」の状況を、詳しく聞いたことはない。
ただ、絵里の家族を乗せた車が、信号無視したトラックと衝突したという断片的な事実しか、知らない。
その事故が、彼女から家族と、光を奪ったということしか。
絵里が震えている。
何か声をかけるべきなのかもしれないが、一つも言葉が出てこない。
大丈夫。なんて軽く口にしたら、あまりにも薄っぺらくて、風に浚われそうだ。
「お父さん……お母さん……」
絵里が、呼びかける。花に向かって、交差点の真ん中にいた、家族に対して。
れいなも同じように膝を曲げた。花はなにも語らず、綺麗に咲き誇る。
「………っ、え、り…絵里、ね」
ぽろぽろと、涙がこぼれた。
何ひとつできない、無力な自分に。
「絵里、好きな人が…できたよ」
彼女が語る言葉は、あまりにも真っ直ぐだった。
嘘や偽り、虚栄を纏うのではなく、ただそこにある想いを音に乗せ、伝えた。
もう、そこにはいない、自分の最愛の人へ。
「…ずっと、絵里のこと、支えてくれてる……絵里っ、絵里もっ…その人を、支えたい、です」
絵里の繋ぐ手に力が入る。爪が皮膚に食い込んでくるが、構うことはない。
傘の外にある手が、雨に濡れる。冷たい。けれど、温かい。
「れーなと、一緒に…生きていきたいです……だからっ…」
彼女は、奪われてばかりだった。
両親を奪われ、光を奪われ、叔父に処女を奪われ、そしてボロボロになって雨中に逃げ出した。
何も信じられず、がむしゃらに走り、そしてたまたま、れいなと出逢った。
ひどく、傷つけてきた。
たくさん、泣かせてしまった。
自分の想いが正しいと思い込み、護らなければいけないと決めつけ、彼女の人生を縛りかけた。
でも、そうじゃない。
そうじゃないんだ。
絵里は一人の女の子で、れいなより年上で、可愛くて、優しくて、それだけなんだ。
お姫様でも、囚われの身でもない。
何処にでもいる、普通の女の子なんだ。
「れいなも、生きていきたいです」
泣きじゃくり、言葉が続かなくなった絵里の傍で、れいなもはっきりと告げた。
絵里ははっとしたように顔を上げる。視線は、絡まない。それでも絵里は、しっかりと、れいなを見ようとする。
れいなもまた、絵里を見つめ返す。その瞳が重ならないことは分かっている。
一生、重ならないかもしれない。
それでも、良い。
「絵里と一緒に、生きていきたいです。不安も、苦労もあると思います」
すぅっと息を吸う。
そんなに難しいことじゃないはずだ。希望的観測だとは分かっているし、見通しの甘さも覚悟の上だ。
でも、中途半端な気持ちで、あの日、絵里に手を差し伸べたわけじゃない。
「絵里が、好きです。だから、何があっても、大丈夫です」
お互いに、この手を離さなければ、きっと大丈夫だと信じていた。
甘っちょろい、若さ故の危うさを孕んだ決意。
それでもふたりが重ねたのは、そんな優しくて切ない想いだった。
絵里の両親を奪った交差点には、相変わらず車も通らない。何も語らない無音な空間で、絵里はひぐっと涙をこぼす。
ぽつぽつと傘を叩いていた雨音がふいに止んだ。
れいなは絵里を促しながら、交差点に再度手を合わせる。
傘を閉じると、急に空が開けた。
黒雲の隙間から淡い光が射し込んでくる。まるで天へと続く階段のその先に、それが見えた。
あ。と思わず口をつく。
カメラを構えたくなる。
「………虹………?」
そう、雨上がりの東の空に、大きな虹がかかっていた。
だが、その言葉に、れいなは思わず目を見開いた。
今、なんて言った?
絵里は、今、なんて言った?
れいなは逸る気持ちを抑えながら、絵里を見つめる。
彼女は顔を上げ、空を真っ直ぐに見つめていた。虹のかかっている、東の空を。
「え……りっ……」
声が震える。
確証がないのに、ばくばくと心臓が鳴り響く。
うるさい。うるさい。これでは絵里の声が、聞こえない。
「れー…な……?」
絵里が、振り向く。
絵里は確かに、れいなを捉えていた。
たまたま瞳が重なったわけではない。
その茶色がかった瞳は、れいなを、真っ直ぐに見つめている。
絵里は震えながら、その手を伸ばした。
れいなはすぐには、彼女の手を掴むことができない。そんな考えも思い浮かばないほどに、混乱している。
なぜ絵里は、空に虹がかかったことが分かったのか―――?
答えは、すぐそこにあった。
「れーな…?」
絵里の手が、れいなの頬を包み込む。
感触を確かめるように、手で触れているものが、自分の瞳に映るものと同じか、確認するように。
「あなたが……れーな……?」
れいなは、確信した。
絵里には、“見えている”。
今、この瞬間、絵里の瞳はれいなを捉えている。
それが一瞬のことなのか、永遠のことなのかはわからない。
「絵里……」
心臓が破裂しそうになる。
視界が歪み、ああ、自分はまだ泣いているのかと気づいた。
その雫を拭うこともせず、れいなは必死に微笑みかける。
ぐしゃぐしゃで、無様で、滑稽で、まるでピエロだ。
れいなは絵里の手に、自らの手を重ねる。絵里の手は、ああ、やっぱり温かい。
「田中、れいなです。よろしく」
それは、最初の挨拶だ。
あの雨の夜、絵里と初めて出逢ったときに交わした、ふたりの言葉。
此処から物語を紡いでいくための、始まりの、挨拶。
「っ…か、亀井…えり、ですっ……」
大きな瞳からボロボロと涙をこぼした絵里は、耐えられなくなり、れいなの胸へと飛び込んだ。
「れーなっ……れーな、れーなっ!」
その場にある温もりを、此処に芽生えた奇蹟を、絵里は何度も呼んだ。
れいなはその重みを、確かに受け止める。
雨上がりの空に浮かんだ虹の横には、天へと続く光の階段が射し込んでいる。
それが彼女の瞳にも光を呼び寄せたのかは、分からない。
分からないけれど、今この瞬間に起きた出来事は、夢ではなかった。
その事実を受け入れながら、れいなと絵里は抱きしめ合う。
東の空の虹が薄れ、風が雲を押し流す。
光の階段はまだ、空と地上を淡く、繋いでいた。
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