創造論とインテリジェントデザインをめぐる米国を中心とする論争・情勢など

批判サイド>否定論・陰謀論を信じる理由, 懐疑論と否定論

Rationalwikiの疑似懐疑主義


以下はRationalWikiのPseudoskepticism(2018/05/21)の訳


Rationalwiki:Pseudoskepticism


疑似懐疑主義には2つの異なる用法がある。一つは正しい用法で、もう一つは土足で踏み込んでくる懐疑論者を追い払うためにニセ科学宣伝者が使い用法である。
正しい用法
あまり一般的ではないが、この用語の正しい用法では「ある概念について懐疑的だと自称するが、実際には、いかなる証拠でも納得しない者」のことを指す。この種の疑似懐疑主義の標的には、地球温暖化[ 1 ]や、進化論やAIDSやGMOや宗教などがある。これは本質的には偽装された否定論であり、疑似懐疑論者によって意図的に無視された大量の本物の証拠がある。「私はXについて懐疑的である」と言うのは「私は証拠の如何にかかわらずXを認めない」と言うより理性的に見えるが、実際は後者の方が正確な描写である。

本物の懐疑論者は、科学の方法に従った新たな証拠により、立場を変える用意がある。たとえば、アインシュタインの宇宙定数であり、その適用について多くの改訂がなされ[ 2 ]、科学的コンセンサスが変わったとき、その立場を変えた懐疑論者が、本当の懐疑論者である。
懐疑論者Marcello Truzziによる用法

CSICOPの共同設立者の一人である懐疑論者Marcello Truzziにより、1987年に再生された用法で、「科学的に正しい記述で、信条や理論や主張を非難あるいは論破しているが、実際には通常の科学的懐疑論の原則に従っていない論」を指す。

彼の見方では、本当の科学的懐疑主義は新しい考えに対して不可知論的であり、その考えに対して何らの主張もせず、立証責任が果たされれば、それを有効だと認める。これに対して、彼の定義する疑似懐疑は、「ある種の信条や理論や主張が事実上間違っている」という否定仮説を含み、その否定仮説に求められる立証責任を果たさない。

Truzziの疑似懐疑主義についての記述は1987年に(彼自身が創刊した)Zetetic Scholar誌に掲載された:
In science, the burden of proof falls upon the claimant; and the more extraordinary a claim, the heavier is the burden of proof demanded. The true skeptic takes an agnostic position, one that says the claim is not proved rather than disproved. He asserts that the claimant has not borne the burden of proof and that science must continue to build its cognitive map of reality without incorporating the extraordinary claim as a new "fact." Since the true skeptic does not assert a claim, he has no burden to prove anything. He just goes on using the established theories of "conventional science" as usual. But if a critic asserts that there is evidence for disproof, that he has a negative hypothesis—saying, for instance, that a seeming psi result was actually due to an artifact—he is making a claim and therefore also has to bear a burden of proof...
Both critics and proponents need to learn to think of adjudication in science as more like that found in the law courts, imperfect and with varying degrees of proof and evidence. Absolute truth, like absolute justice, is seldom obtainable. We can only do our best to approximate them.

科学では立証責任は主張者が負う。そして途方もない主張には、より重い立証責任が課せられる。本当の懐疑論者は不可知論の立場をとり、「主張が否定された」ではなく「主張は証明されていない」と言う。主張者が立証責任を果たしていないのであれば、懐疑論者は「途方もない主張を新事実として取り入れずに、現実の現実の認知マップを構築し続けなければならない」と述べる。本当の懐疑論者は主張を掲げないので、立証責任を持たない。懐疑論者はいつもどおり「通常科学」の確立された理論を使って話を進める。しかし、否定する証拠があると述べるなら、それは否定仮説があるということであり、たとえば、超能力は作為的な結果であると主張するのであれば、立証責任を負う。
批判者と支持者は、法廷での裁決の方法同様に、証明と証拠は不完全で程度が変化するという科学における裁決の方法を、学ぶ必要がある。絶対的正義のような絶対的真理が得られることは、ほとんどない。我々は、それを近似するために最善を尽くす以外にできることはない。

[Marcello Truzzi, "On Pseudo-Skepticism", Zetetic Scholar, 12/13, pp3-4, 1987]}

Truzziは疑似懐疑主義の特徴を以下に上げた。
  • 疑義が確立されたときのみ否定する
  • 批判の適用におけるダブルスタンダード
  • 調査するより、評判を落とす傾向がある
  • 不十分な証拠や証明を提示する
  • 批判に立証責任は不要だと仮定する
  • 根拠なき反対主張をつくる
  • 反対主張は、経験的証拠よりも尤もらしさに基づく
  • 説得力のない証拠は、主張を完全否定する根拠となると示唆する

彼に見方では、本当の懐疑主義は以下のような特徴を持つ。
  • 主張も否定も確立されていないときは、疑義を認める
  • 不可知論の立場に立証責任はない
  • 何かの証明には確立された知識コーパスが基礎となるが、それが不完全であることは認めている
  • それが何をを意味する場合でも、証明には必要性には公平
  • 証明の失敗は、何も証明しない
  • 誤りが見つかったときでも、実験結果の調査を続ける

Truzziの定義は、偽装された否定論より少し広い。彼に定義には、「表面的には本当の懐疑論者に見えて、自らも本当の懐疑論者だと思っているが、本当の懐疑主義の原則を適用できていない」者も含まれる。たとえば、「エイリアン(地球外生命)が存在しないことが証明されていないのに、エイリアンの存在について、中立的立場ではなく否定の立場をとる者」は、「化石燃料産業の利益擁護のために、気候変動は起きないのだと意図的に主張する企業の広報担当」と同様に、疑似懐疑論者ということになる。

ニセ科学宣伝者による用法

「疑似懐疑主義」は、印象操作的な用語として、根拠なき主張に対する懐疑論的批判を追い払うために、ニセ科学宣伝者がもっともよく用いられる。ニセ科学宣伝者の中には、「考えを受けいれるために証拠を求めるのは極端な立場だ」という考えており、ほぼすべてについて不可知論の立場を取るべきだと感じる者もいる。最もアフォな仮説でさえも絶対的に否定することが困難であることから、「証拠を求める者を疑似懐疑論者だ」と考える。

そして、ニセ科学宣伝者たちは自らを「オープンマインド」と呼んで、高い立場に置こうとする。その意図は、実際の証拠を求める科学界を「クローズマインド」という対照的なものとして描写することである。

たとえば、SCEPCOPは「疑似懐疑論者は、それはありえないと信じているので、超越次元を含む超常的説明を決して受け入れない」と主張している[ 3 ]。彼らが科学的方法や方法論的自然主義についてどう考えているかを見てみるのは面白いだろう。それらは超常的説明を信じない信じないことに、必ずしもつながるわけではない。ひとたび、超常現象や超越的現象が説明できてしまえば、その現象は超常でも超越的でもなくなり、通常の自然主義的現実の一部になる。

検証可能な仮説が尤もらしくないという理由だけでは、完全否定するには十分ではない。しかし、ホメオパシーやダウジングなど多くの仮設が、科学的に検証され否定されてきた。確立された科学に反していることとは別に、たとえばホメオパシーが機能しないと述べる論理的理由はない。というのは、水に記憶があったり、ホメオパシーが機能する世界は、論理的にはありうるからだ。しかし、二重盲検によって、ホメオパシーを否定する化学的議論は有効だと示されている。この意味で、「懐疑主義」あるいは「疑似懐疑主義」の問題は、現実的には意味がなくなる。

懐疑論と不可知論

いかなる場合においても、懐疑論と不可知論は必ずしも排他的立場ではない。「眼に見えない検出不可能な妖精が庭のはずれにいる」という主張を否定する方法はない。同じく、支持する証拠もなく、検出不可能なので本質的には存在しない。(「存在」という言葉の定義によっては)そのようなものが存在する可能性はあり、したがって、そのような主張に対する「不可知論」は議論の対象となる。しかし、ある信条に対して不可知の立場をとることは、その正否に対して50/50の可能性があることを意味しない。可能性があるという意味しかない。この場合、主張の可能性が小さいことと、証拠がないことから、そのような主張に対する極端な不可知的立場は正当化される。実際、そのような極端な不可知論の立場は、意図や目的などを含め、信じないことと区別がつかない。

このような特別な場合は、自分たちを非常に懐疑的だと言うのと等価である。実質的に違いはない。

コメントをかく


「http://」を含む投稿は禁止されています。

利用規約をご確認のうえご記入下さい

Menu

サブメニュー

kumicit Transact


管理人/副管理人のみ編集できます