「じゃあ、結果がでるまで暫くお待ちください」

里沙と絵里がその言葉を看護師に言われてからもう2時間が経つ。
絵里が数日前まで苛まれていた吐き気と頭痛は漸くおさまっていた。
今日はそれとは別に、目の検査で大学病院に来ている。

絵里は2ヶ月に1度、自分の目に異常がないかを定期的に診療しに来ていたのだ。
それこそ瞳の表面から裏側、視神経にいたるまで精密に検査するため、結果が出るには数時間かかる。
毎回のことではあるが、この検査結果を待つ時間というのは暇で仕方がない。

「ガキさぁん、飽きたよぉ〜」
「はいはい、ちょっと待ってねー」

ふたりのこのやり取りももう慣れたものだ。
絵里は病院の中庭に設置されたベンチで脚をじたばたと動かして暇だと嘆く。
その様子はさながら子どもで、本当に同い年なのだろうかと苦笑してしまうほどだった。
そのとき、里沙の携帯電話が震える。だれだろうと見てみると、盲学校の職員だった。

「ごめん、ちょっと出てくるね」
「はーい。いってらっしゃ〜い」

里沙がそうして立ち上がり、電話に出ている間、絵里は再び暇を持て余すことになった。
今日は天気は良好で散歩日和とも言えるが、此処は病院内。
入院患者たちしかいない空間で「わーーー」なんて叫ぶわけにも行かず、絵里はつまらなそうに脚をばたつかせた。
陽のあたる空間でのんびりと時間を過ごすのは嫌いじゃない。
光を体中に浴びて、風に髪をなびかせるこの瞬間は好きなのだけれど、いかんせん、暇なのだ。
絵里は手で顔を覆ってあくびをする。
夏の匂いが体中に広がって、なんとなく優しくなれる気がした。

そのとき、絵里は鮮やかな“色”を感じた。
夏らしく爽やかで、そして何処となく気品があり、落ち着いたその色を探した途端、シャッターを切る音がした。
「ふぇ?」とそちらに顔を向けると、その人は「あ…」と返す。

「すみません、あまりにも、綺麗だったんで……」
「へ…?え、絵里が?」
「あ、そうです、あなたです」

その人は困ったように笑って髪をかき上げた。
声から察するに女性だろうか、そういった仕草や話し方が、れいなと重なる気がした。
だが、その人の「綺麗」という言葉を漸く理解しだした絵里は恥ずかしそうに顔を背けた。

「そ、そそそ、そんな絵里は……」

照れるその表情を見て、彼女はまた柔らかく笑い、ベンチに座る絵里に視線を合わせようとしゃがみ込んだ。
しかし、絵里を真正面から見て、絵里の抱える不具合に気付いたのか、「あの…」と声を出す。

「もしかして……目が、悪いんですか?」
「あ…はい、ちょっと…」

そう申し訳なさそうに話す絵里に、彼女も同じように申し訳なさそうに「すみません…」と頭を下げる。
急に自分が悪いことをしたみたいになった絵里は慌てて話を逸らすように声を出した。

「写真、好きなんですか?」
「え、あ…一応、カメラマンやってるんで」
「そうなんですかぁ。私の知り合いにもいますよ、カメラマン」

明るく話す絵里に彼女は嬉しそうに微笑み、話を切り返した。

「そうなんですか!へー…カメラマンが知り合いなんて、珍しいですね」
「あ、やっぱりそうなんですか?」
「アシスタントとかじゃなかったらかなり珍しいですよ。プロとして成功するのは、一握りですから」

そうして彼女はファインダーを覗きこんだ。
自分に成功できるほどの実力があるかはまだ分からない。
それでも、アシスタントとして地道に力をつけていかなければ成功の道はない。
とにかく自分にできるだけのことをやろうと、彼女は空を切り取った。雲が点在する空は、相変わらず綺麗だった。

「じゃあ、だいじょうぶですよ」
「え?」
「だって、明るいから」

絵里にそう言われ、彼女はきょとんとした。
「明るい」とは、なんのことだろう?性格が?それにしても、カメラマンとなんの関係があるのだろう?

「今日は、なんで病院にいるんですか?」

だが、その答えを聞く前に別の質問をされ、彼女は苦笑した。

「いやー、2か月前に撮影中に階段から落ちちゃって…それで足を打撲したんですよ」
「え、だいじょうぶなんですか?」
「あは。もういまは平気です。ギプスも取れてちゃんと歩けますし。今日は最後の検査だったんですよ」

そうして彼女は「いやー、良かったぁ」と嬉しそうに微笑んだ。
いままで、五体満足でいることがどれほどシアワセなことか、怪我をして漸く気付けたのだ。
ただ歩けること、それがどんなに恵まれていることなのかよく分かる。

それはたぶん、目の前にいる彼女も、同じなのだろうなと思った。
彼女の目の状態や症状は全く知らないけれども、光を映すという自然で当たり前のシアワセを、彼女もまた痛感しているのだろうなと思った。

「そっかぁ、じゃあお祝いしなきゃですね」
「え?」
「完治祝い!おめでとぉ〜って」

そうして絵里はニコッと笑い拍手した。
それは、バカにしているとかそんな要素は一切なかった。
本当に、彼女の怪我が治ったことを素直に祝福し、おめでとうと心の底から叫んでいる。
彼女はまるで、穢れを知らない純粋無垢な少女のようだと思った。
まあ、一種の「天然」かもしれないが。


「……じゃあ、お祝い、くれますか?」

そう話す彼女に、絵里は「ふぇ?」と返す。
彼女は優しく笑い、絵里の手に触れる。
急に触れられたことに絵里はドキッとするが、そんなことは構わずに、彼女は絵里をカメラに触らせた。

「1枚、今度は、正式に撮っても良いですか?」

瞬間、絵里は彼女のいままでとは違った“色”、すなわち「本気」を感じた。
彼女が絵里を見つめるその瞳は、ブレることなく真っ直ぐに輝いている。
その瞳も、瞬間に感じた色も、れいなに少しだけ似ていて、この人はやっぱりカメラマンなんだと絵里は思った。


絵里は少しだけ困ったように笑ったあと、頷いた。
撮影されることの怖さがないわけではない。
あの日、知らないベッドの音で過去のフタはあっさりと開いて絵里に襲いかかった。
叔父の色を感じたことで、つい先日まで、吐き気を催すほどの悪夢に魘されていた。

だが絵里は、「ふぅ」とひと息吐いて天を仰いだ。この青空の下には、確かにれいながいる。
いつだって真っ直ぐな瞳を絵里に向け、変わらぬ優しさを降らせてくれるれいながいる限り、絵里はだいじょうぶだと思った。

「どう、すれば良いですか?」
「あ、だいじょうぶです。そのまま、笑ってくれれば」

絵里から少しだけ距離を置き、彼女は後ろへ下がる。
絵里はベンチに座り直し、髪の毛を整えた。そういう仕草は普通の女の子なんだなと彼女はぼんやり思う。

彼女がファインダーを覗きこんだ瞬間だった。
絵里は柔らかく彼女に微笑みかける。この広い青空の下、太陽の光をめいっぱいに浴び、風に髪を靡かせる絵里に彼女は震えた。
思わず、シャッターを押すことを躊躇ってしまうような破壊力がある。
口の中はカラカラに乾き、指先まで金縛りにあったように動けなくなってしまいそうになる。

「メッチャ…綺麗ですよ……」

ああ、これが、心を奪われることなんやと自覚した彼女は、震えながらもシャッターを切った。
自分で言うのもおこがましいが、これほどに完璧な1枚はなかなか撮れないだろうと、思った。

「撮れました?」
「もうバッチリです。ありがとうございました」

そうして彼女は絵里の前にしゃがみ込み、その手を握った。
再びやってきた温もりに絵里は心臓が高鳴った。

「名前、聞いても良いですか?」

彼女の問いに、絵里は素直に答えた。

「亀井、絵里です。あなたは?」
「ああ、自分は…」

返そうとしたそのとき、彼女の携帯電話が震えた。
「すいません」と申し話なさそうに謝り、電話に出る。離しながら時計を確認した彼女は「わあ!」と叫んだ。
どうやら遅刻は確定のようだとなんどか電話口で頭を下げ、通話を終了した。

「すいません亀井さん!自分、行かなきゃなんで!」

慌ただしく荷物をまとめる彼女に絵里は「あ、はい」と返す。
ずいぶん急いでいるようだがだいじょうぶだろうかと心配する絵里をよそに彼女は荷物をまとめ、肩に背負った。

「じゃホントありがとうございました!また逢えたら嬉しいです!」
「あ、はい、気をつけて」

そうして彼女は慌てて走り出した。
なんだか不思議な人だなぁと絵里が微笑むと、再びダッダッダと足音が戻ってくる。
あれ?と思っていると、彼女は息を切らせて絵里の前に膝を立てた。

「名前、光井愛佳です。光る井戸に、愛する……うーんと、にんべんに土ふたつです」

それだけ伝えると、愛佳はまた走り去っていった。
その一連の動きがあまりにもおかしくて、絵里は困ったように笑った。

「愛佳ちゃんかぁ……可愛いな」

そうして絵里は嬉しそうにまた脚をブラブラさせた。
長電話を終えた里沙がその場に戻ってくるのと、看護師から検査結果が出たと告げられるのは、その数分後のことだった。



れいなはバックミラーをなんども確認しながら車を走らせた。
ここ数日間、どうも背後からの視線を感じていた。
その相手が果たして叔父なのかどうかの判別は出来ない。
里沙の話にあった、盲学校の周囲で見かけられる車。車種までは聞いていないが、色は白だった。
よくよく思い返せば、叔父の自宅にも車はあったが、その色は確かグレーだった。
いくらなんでも、グレーと白を見間違えることはないだろう。
そうするならば、目撃された不審車は、叔父のものではないという結論に至るのが普通だった。

「偶然……?もしくは人違い?」

考えられる可能性は、その不審車が叔父ではなく、ただの変質者であること。
もうひとつは、叔父に関係した第三者が盲学校を見張っているということ。

「どっちも、最悪やな」

そうしてれいなはハンドルを切り、事務所の駐車場に頭から突っ込んだ。
考えることは得意ではないけど、この問題はやはり一筋縄ではいかないなと思う。
ただ叔父から絵里を引き離しただけでは問題の根本解決には至らない。
せめて叔父が、もう少し更生してくれればと思うが、それは果てしなく無理なのだろうなとれいなはエンジンを切った。
車から降りようとしたとき、ダッシュボードに目が行った。
れいなは一瞬躊躇したあと、そこを開ける。免許の更新書類の上、折り畳まれた銀色のナイフが光っていた。

「使いたく……なか……」

それはあの日、初めてれいなが叔父に会ったときに持っていたナイフだった。
殺傷力は高くないが、研ぎ澄まされたその刃は護身用にはなる。最も、殺傷力など、始めから必要ないのだが。
れいなはそのナイフをしばらく見つめたあと、ポケットにしまい込んだ。
使いたくないものを、どうして手にしたのだろうと少し後悔しながら車を降り、事務所の階段を駆け上がった。

「ただいま戻りましたー」
「お、お帰り田中ぁー」

事務所の部屋にはいつものように、珈琲片手に雑誌を読んでいる寺田がいた。
今日の仕事の報告をしようと書類を手渡すと、「この前の話なんやけどな」と話を振られた。

「なんでしたっけ?」
「ほら、今日からアシスタントが来るって言うてたやん」

ああ、そういえばそんなことを聞いたようなと思うが、れいなは残念ながら記憶力の良い方ではない。
この仕事を始めてからメモを取る癖はつけているが、そのメモを見返す癖がついていないため、あまり意味がない。
これでよく仕事を失敗しないなと自覚はしている。

「で、そのアシスタントの子は?」
「うん、なんか病院に行っとってちょっと遅刻するみたいなんや。もう来るみたいやけど…」

そう寺田が話していると盛大な足音が聞こえた。
これはそのアシスタントだろうかとれいなが振り返ると、勢い良く事務所の扉が開いた。

「遅くなりましたっ!」
「お、待ってたでー」
「今日からお世話になります、光井愛佳です、宜しくお願いします!」

そうして入ってきたアシスタントを、れいなはよく知っていた。

「うぉ、愛佳やん!」

記憶力の悪いれいなでも、高校時代に仲が良かった後輩の顔は忘れていなかった。

「え、田中さんですか?うわー、お久しぶりです!」

愛佳もれいなのことを覚えていたのか、すぐに緊張は解け、笑顔でれいなと話し始めた。
知り合いだったことで話が早くて幸運だと寺田は感じたのか、「じゃあ、早速この撮影よろしくな」とふたりに資料を渡した。

「大型新人を売り出すとかで、田中にご指名でーす」

期待されているのは嬉しいが、それを顔には出さず、れいなは書類をめくった。
まだ少しだけ時間があったれいなは愛佳に向き直り、「最近の写真ある?」と聞いた。


愛佳に見せられた写真を見て、れいなと寺田は思わず唸った。
れいなは高校時代、寺田はアシスタントを雇う時点で愛佳の撮影技術の高さは知っていたが、改めて見ると、やはりその技術は高い。
被写体をただの「物」として見るのではなく、そこにある空間との関係を知り尽くした愛佳の写真は、ひとつの「時間」でもあった。
単純に一瞬を切り取らない写真は、生きている空間そのものだった。

「これはうかうかしてられんなぁ、田中」

そうして寺田がからかうように話すが、れいなも確かに愛想笑いを返すしかなかった。
久しぶりに見る愛佳の写真に、息を呑む以外にない。
本当にこのままでは、彼女に仕事を取られるなと苦笑した。

「今日の写真はないと?」
「今日のは……あるけど、内緒です」
「は?なんでよ」

れいなの問いに愛佳は意味深に笑い、「なんででもですよー」と返した。
生意気な後輩だと思いながらも、れいなは「教えーよー」と追及する。

「ちょっと……可愛い子に逢ったんです」
「可愛い子?」
「その子の写真、ひとり占めしたいんです」

可愛い子ねぇとれいなは肩を竦めた。
愛佳のタイプをれいなは聞いたことがなかったが、彼女はどういう人が好みなのだろう。
愛佳自身が少し口うるさいしっかり者だから、里沙みたいな感じじゃないなと勝手に除外した。
絵里みたいな天然なアホが好きだったらどうしよう、いや、接点ないしだいじょうぶかと、勝手に納得したが、
その「まさか」が当たっていることを、れいなは知る由もなかった。

「ま、とにかく現場行くけん、車出して」

そうしてふたりは、次の仕事現場へと向かうことにした。

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「……分かりました」

電話を切ったあと、ふぅと深く息を吐いた。
探偵は頭をガシガシとかきながら狭い車内でぐっと伸びをした。

依頼とはいえ、こういう仕事まではしたくないなとハンドルに顔を乗せる。
向いている・向いていないの問題以前に、人として、此処まではやりたくなかった。

「……」

だが、断れないのもまた事実だった。
それを仕事としている以上、探偵は依頼人の利益を最優先して動くしかない。
たとえそれが、反社会的な行動であったとしても。

「そんなん、意味ないって……」

探偵は、自分が此処まで仕事を躊躇するのはなぜだろうとボンヤリ思った。
頼まれたことは黙って遂行するのが「探偵」という職業なのに、どうして今回に限って思いとどまるのだろうと深く息を吐いた。

探偵は黙って、手元にある2枚の写真―――亀井絵里と田中れいなの写真を見ながらエンジンをかけた。
車はれいなの事務所をゆっくりと離れていった。





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