シーン5 静かな週末


駅前のケンタッキーのカーネル・サンダースの横。
私はこの間買ったばかりの細くて黒いボーダーラインがすっきりと施されたTシャツと、
真っ黒なフレアスカートに身を包まれた私が店のガラスに映っているのを眺めながら、
「やっぱり鎖骨とか見え過ぎじゃないかな」とか、「いっそのことなら制服を着てきた方が良かったのではないか」と早くも後悔し始めていた。

「こんな貧相な身体見せられても、あの人も困るよね、きっと・・・」

そんな風にマイナス思考が働き始めると、ここ数日の間、私を救い続け、
そしてまるでホッカイロのように私を熱くさせ続けているれーなの言葉を思い出してしまう。
れーなに「好きだ」と言われた私の身体。
そう言ってくれるのがたった一人だったとしても、それでも狭苦しい私の世界では、
それだけでも十分するほどに私のことをキラキラと照らしてくれていた。
あの夜のことは、もちろん誰にも言えないし、言うつもりもない。
子供みたいだけれど、「2人だけの秘密」というものは何となく温かいものだった。

そんな世間一般から見たら、「異常」や「変態」のレッテルを張られるような行為に身を落としてしまった人間が、
今日は女の子らしい服を着て、少し心が惹かれているような気がする男の子と、秋の午後の温かい陽射しの中でデートとは・・・
いつかの何かのドラマで「女は器用な生き物だ」と誰かが言っていたことを思い出す。
納得と反駁の真ん中に立ち尽くし、いや、今はそれどころではないな、と自分に言い聞かせて、またガラスの中の私と向かい合った。
そして、後ろから近づいてくる、今日は黒づくめの恰好をしていない彼の姿をその背景に見つける。


「ごめんね、待たせちゃった?」
「ううん、私も今来たとこ///」
「どうしたの? 顔、赤いよ」
「い、いや・・・なんかこういう挨拶ってベタだなぁ、って思って///」
「そうだね、うん、確かにさゆみちゃんの言う通りだ。ごめんね、オリジナリティの無い男で。退屈してない?w」
「出会って数秒で退屈しちゃうほど、さゆみ、高飛車な女じゃないのw」
「そっかw でも、すぐに退屈しちゃう女の子は高飛車って思うんだ。さゆみちゃんは」
「だって、男の子に常に面白おかしくして欲しいなんて考えてる時点で、相当高飛車でしょ?
 そういうこと言う女に限って、本人が一番退屈でどうしようもない人間なんだよ、大抵」
「あはははw 厳しいんだね、さゆみちゃんはw
 まるで、いくつもの恋を華麗に乗り越えてきたプレイボーイの言葉だよ、憧れちゃうなぁw」

これで会うのは2度目だと言うのに(しかも一度目の出会いのシーンはうらぶれたラブホテルの事務室だ)、
なんだか同じ時間を長いこと過ごしてきた幼馴染みたいな親密さが、私たちの間には流れているような気がした。
そして、必要以上に親しそうな感じが出ていないだろうか、と少し彼から視線を外してみたところで、
私はこの間喋った時は私の方は敬語を使っていたんじゃなかったか、とようやく気が付く。
急にタメ口で話すなんて、何考えてるんだ、さゆみ。
と、浮かれているのがバレバレな愚かな私を悔やみながら彼の方を伺うと、
少なくとも彼の方は急な私の精神的接近に怯んでいるような様子もなかったので、とりあえずほっと胸を撫で下ろす。

「それにしても、本当に来てくれるとは思わなかったなぁ」
「だって・・・メモ用紙に

     <日曜日 14時 駅前のケンタッキーの前で待ってるよ>

 だけなんて・・・黙って行かなかったりして、せっかくの日曜日なのにケンタッキーの前でずっと待たせても嫌だし。
 断りたくても、メアドも何も分からないし、それに電話番号だって書いてなかったじゃん」
「電話番号くらいホテルのがネットで調べられるだろう?w それに、僕、携帯って持ってないんだ」
「ウソっ? 今時そんな人いるんだ」
「心外だなぁw だいたい僕はね、縛られるのが嫌なんだよ、あぁいうわけのわからない電子機器にさ」

私は、彼との会話を楽しみながらどうして私が急にタメ口になってしまったのかを、器用にも頭の片隅で考えていた。
結論として出てきたのは、彼があのときのような大人びた服装(黒いワイシャツに黒いスーツみたいなズボン)をしていなかったことだろう、というわかりやすい理由だった。
臙脂色のパーカーにジーパンといった、どちらかと言えば子供っぽくて至ってシンプルな服装で、
まるで従弟に会っているみたいな感じがする。

「ねぇ、こんなところで立ち話するのもなんだからさ。カフェかなんかにでも行かない?
 僕、あんなところで働いてるものだから、この辺りの優良店舗についてはちょっと詳しいんだよ」
「うん、じゃぁ、案内お願いしても良い?」
「よしきた」

彼は軽く手を打って、身体の向きを変えた。そしてにんまりと不穏な笑みを見せると、

「じゃぁ、そろそろ、急に僕にタメ口で話すようになった理由でも聞かせてもらおうかな?w」と言う。

私は顔を真っ赤にしながら、さっき頭の中で整理したことを正直に伝え、
それからケタケタと笑う彼の横でやっぱり顔を赤らめたまま、彼に案内されて、駅前の雑踏の中に足を踏み入れていった。


***


案内された所は私が一回も着たことの無い一角のお洒落な3階建てのビルの2階にあるカフェで、
これまたお洒落なジャズかなんかが店内にはひっそりとかかっていた。
窓際の席に連れられ、そしてさすがに椅子を引かれるようなことまではされなかったけれど、
私が座るのを立ちながら待つ彼に促されて、先に木製の椅子に腰かける。
クッションが思ったよりもずっと柔らかくて、私はあっという間にこのお店が好きになってしまった。

「さゆみちゃん、何飲む?」
「私は・・・コーヒーとかよりも、甘いものがいいです・・・///」
「おいおい、タメ口で良いって言ったじゃないかw」
「でも・・・///」
「悪かったよ、僕が黙って気づかないフリしてればよかったのにさw
 でも、お願いだから、僕にはタメ口を使ってくれ。
 尊敬されるような人物でもないし、それに、僕はさゆみちゃんのタメ口の方が好きだよ。
 一度、あんなに素敵なタメ口を聞かされてから、また敬語に戻されるなんて、地獄だよw」
「じ、じゃぁ・・・タメ口で・・・」
「そうそうw じゃぁ、なんか僕にタメ口で質問してみてよ。練習だと思ってさ」
「えっと・・・じゃぁ・・・趣味とか・・・休みの日とか、何してる・・・の?」
「うーん・・・何してるかなぁ・・・?
 大抵はあそこで働いてるよ。今日はわざわざ休みを取ったんだ」

彼はメニューを一度机の脇に戻しながら言った。

「他には?」
「えっと・・・じゃぁ、あそこで何年働いてるの?」
「だいたい3年くらいかな。高校には入ってないけど、一応これでも義務教育は一通り受けて来たんだよ。信じないかもしれないけど」
「えっ?」
「なに、その「えっ?」ってw 僕、そんなにバカっぽく見える?w」
「いや、あの、そうじゃなくて・・・あの・・・もしかしてまだ十代なの?」
「そうだよ。そんなに老けて見える?」
「ううん、そうじゃなくて。
 その逆で・・・すごい若そうに見えるのに、あぁいうところで働いてるなんて、すごい童顔の人なのかと思ってた」
「あはははw 違うよ。別にホテルは風俗でも何でもないからね。
 年齢制限なんてものはないよ。少なくとも、オーナーはそう思ってるみたい。
 詳しい法律のこととかは僕も知らないけどさ」
「ねぇ、もしかして・・・今、17歳?」
「うん、17」
「すごいっ!」
「すごい、って何が?w 誰でも死ななきゃ17歳にはなるだろう?」
「だって、タメ口であってた、ってことじゃん」
「それは違うね。僕は誕生日が遅いんだ。一応、高校に行ってたら今は3年生ってことになる。さゆみちゃんはまだ高校2年生だろう?」
「でも、高校行ってないんだから、そんなの関係無いの」
「じゃぁ、僕は今年の12月で18歳になるんだけど、そうしたら敬語を使ってくれるんだろうか?」
「1歳くらいで威張られたくないな、さゆみはw」
「あれれ、こんなことならやっぱりタメ口なんてやめてもらえばよかったよw」
「もう遅いのw」

私が満足気に笑うと、彼は机の上に肘をついて表情だけで笑った。
そして、ちょうど私たちの横を通りかかった店員を呼び止め、彼の分のエスプレッソと私の為にオレンジジュースとパフェを頼んでくれた。
子供らしい組み合わせだね、なんて言われてしまったけれど、今、私が食べたいのはまさにパフェとオレンジジュースだったのだ。
仕方がないでしょう?

「じゃぁ、今度は僕が質問する番。もちろん、敬語を使いたければ、使っても良いんだよ」
「ううん、大丈夫。同い年なのに敬語なんて変だよ」
「はぁ、女の子ってすぐに態度が変わるんだから。
 ここでもし僕が、社長の息子だって暴露したら、きっと敬語に戻すんだろう?」
「え? 社長の息子さんなんですか?」
「あははw 真顔で冗談言わないでくれる?」

彼は少しのけ反りながら笑う。

「そんなことよりさ、さゆみちゃんはせっかくの日曜日に、見るからに如何わしいホテルボーイと喫茶店でお喋りしてて大丈夫なの?
 先週末はB組の吉田君とデートしたから、今週末はA組の渡辺君とデートしなきゃいけないわ、
 っていうんだったら、僕は引き止めはしないよ」
「さゆみ、そんな2股とかする人間じゃないの。
 先週がB組の吉田君なら、今週もB組の吉田君とデートするし、
 それに、さゆみの学校、A組、B組とかじゃなくて、普通に1組、2組とかだから」
「でも、君にはB組の吉田君みたいな人がいるんだろう?」
「さぁ、どうでしょうね。少なくとも、今日はたまたま暇してたわけだけど」
「そっかぁ、残念だなぁ。さゆみちゃんさえ良ければ、来週もまた日曜日に会いたいな、って思ってたんだけど」

彼は窓の方に首を向けて、残念そうに外の景色を眺める振りをしてたけれど、ちらちらとこっちを見て、
早く「まぁ、来週もまだ予定は未定だけど」って言ったら?とでも言いたげな顔をしている。
私はできるだけもったいぶるように、毛先をいじったりしながら視線を泳がせたりして、
彼の言いなりにはなるまい、と小さな反抗をしてみせた。
私たちの間には、店内の物静かなざわめきと、私には不釣り合いなほどお洒落なジャズの音色が流れている。

「ねぇ、B組の吉田君なんかよりも、僕はずっと面白い人間だと思うけど?」
「へぇ、そうなの。全然、知らなかった」

私はそっけなく返す。

「まぁ、僕が面白いかどうか、ということはあまり追及してほしくはないところだけど、少なくとも、吉田君はつまらない人間だよ。
 だって、彼、一日中数学の公式集読みながら、ラジオ体操の伴奏を部屋に流しているんだ。
 たまに公式集を置いたと思ったら、足の指の毛の本数を数えるくらいしかすることがないんだもの。
 あんなののどこが良いんだい?」
「彼は少なくとも、他人の悪口は言わないわ。
 それに、如何わしいホテルとかで働いてないし、携帯電話だって持ってるし、髪の毛も真っ黒。
 女の子を一方的にメモ用紙一つなんかで呼び出したりしないし、高校に通ってるの」
「ここの辺りにグサリとくるね」

彼は苦笑いをしながら、胸の辺りを掌で撫でた。

「でも、吉田君は、自分より大きな人間を背負い投げしたり、さゆみちゃんの泣いてグシャグシャになった顔を見たり、
 金髪ヤンキーの女の子を助けたりはできないだろう?それにきっとこんなお洒落な喫茶店だって知らない」
「人間の価値はどれだけお洒落な喫茶店を知ってるかでは決まらないと思うけど」
「うぅむ・・・そのとおりだね。じゃぁさ、こんなのはどうかな?」

彼は机の上にあげていた手をさっと私の方に伸ばすと、両手で私の左手を包み込んだ。
冷え症なのか、少し冷たい指先。
私は自分の心臓から伸びる大動脈かなんかが、きゅっと縮み上がるのを感じた。

「吉田君と僕の手、さゆみちゃんはどっちが好き?
 僕はちょっと冷え症気味だから、手を繋いでも吉田君みたいにビチャビチャになったりはしないよ?」

私は彼の手にもっと触れていたいと感じながらも、身体に染み付いた「お上品」が私の手を引っ込ませた。
それから、手を握られたくらいで少し取り乱してしまった焦りと、
それから単純に男の人に手を触られたということのせいで、少し顔が赤くなってしまった。
できるだけ平静を保っているように演技をしながら

「まぁ、残念だけど、来週末も吉田君は数学の公式集読むので忙しいみたいだから、
 あなたが誘うなら、さゆみはまたノコノコ駅前まで出て来てもいいけど」

と返した。思ったよりもツンとした感じが出なかったのが少し悔しい。


「そっか、嬉しいな」


ご機嫌な彼に私が何かを言おうとしたところで、店員がパフェと飲み物を持ってきた。
さりげなく「どうも」と店員に愛想の良い笑顔を向ける彼にちょっと惹かれてしまうような、
素敵な笑顔を向けられた店員にちょっと嫉妬してしまうような、どちらにしても口には出せない感情をパフェと一緒に胃に流し込んだ。

「パフェ、おいしい?」
「うん、おいしいよ」
「でしょ? でも、たまにしか食べちゃダメだよ? カロリーとかすごいんだから」
「さゆみ、そういうの気にしないから」
「そう、ならいいけど」
「・・・ねぇ、太ってる人は嫌い?」
「どうだろう・・・僕より軽ければ別に気にしないとは思うけど・・・でも、究極、可愛ければなんでもいいよ」
「可愛ければなんでもいいって・・・ゆーか、あなた、今、彼女とかいないの?
 さゆみとこんなところでお茶してるの見つかったらやばいんじゃない?」
「あのさ、そんなことよりもさ、僕のこと「あなた」って呼ぶのやめてくれない?
 ちゃんと「絵里」っていう名前があるんだから、「絵里」って呼んでよ」
「「絵里」って、もろ女の子の名前じゃん・・・」
「仕方ないだろ、本当にそうなんだから。文句があるなら親に言ってよ」
「・・・まぁ、別に文句があるわけじゃないけど・・・
 ねぇ、嫌じゃなかったら教えて欲しいんだけど・・・あなた・・・絵里のご両親って何してる人?」
「僕の親は、真面目に働いてるよ。普通のサラリーマンで、普通の主婦。そして僕の親」
「今は一緒に住んでるの? それとも絵里は独り暮らし・・・?」

私の質問に彼は黙り込む。
普通だったら高校生の年齢なのに、ラブホテルで働いてるなんて色々と「訳あり」なんだとは思っていたけれど、
どうやらそれなりに深い根があるようだった。
私は「ごめん、色々聞きすぎだよね、さゆみ」と、小さく詫びを入れ、それからオレンジジュースを啜った。
ストローがジュースを吸い上げる音がいつもよりも大きく感じられる。

「悪いけど、今はまだあまり僕の生い立ちみたいなものは話したくないんだ」
「ううん、いいの。さゆみこそ、色々と変なこと聞いちゃってごめんなさい」
「謝らくていいよ。ただ、さゆみちゃんには僕の過去よりも、今現在の姿を見て欲しいんだ。
 あまり人に見せられるようなちゃんとした姿じゃないとは思うけど、それでも今のちゃんとしてない僕を見て欲しいんだ」
「わかった。今の絵里だけを見るの」

私はじっと彼の目を見つめてみた。自分で見つめておきながら吸い込まれそうになる。

「じゃぁ、さゆみのことも今のさゆみだけを見て。
 友達がいなくて、ダンゴ虫としか話せなかった小学生の頃のさゆみのことなんて見ないでね」
「あははw わかったよ。僕は、金髪のヤンキーと金髪のラブホテル従業員と親交がある今のさゆみちゃんだけを見るよw」
「ふふふw さゆみって、なかなか変な人間なのかもねw」
「今気づいたの?w」
「ひっどーいw ねぇ、それよりも、さゆみのこと「ちゃん」づけで呼ぶのはやめてよね。
 さゆみだって恥ずかしいけど、目の前の胡散臭い男のことを「絵里」って呼び捨てにしてるんだから」
「そうだね。じゃぁ、僕もれーなちゃんみたいに「さゆ」って呼んでいいかな?」
「うん、いいよ」
「じゃぁ、さゆ」
「何?」
「あんまり僕の顔ばっかり見て喋ってると、パフェのアイスが溶けちゃうよ」

彼はゆっくりとエスプレッソを飲みながら、私がパフェを食べる様子をずっと眺めていた。
私はなんだか恥ずかしかったけれど、ちょこちょこと彼に話を振りながら、
できるだけ彼の気を逸らしているうちにさっさとパフェを平らげた。
胃の中が甘い塊で満たされているのが感覚でわかる。

カフェの勘定は、一通りのやり取りがあった末、結局彼が払ってくれることになった。
私は申し訳ないとは思いつつも、今日着ているこの服を買ったせいですっかり痩せてしまった財布を思い、一人安堵の息を吐いた。
これじゃぁ、れーなじゃないけれど、売春に手を出してしまいそうな気分だ。


彼に連れられて店を後にする。
そんな感覚など全くないのだけれど、さっきまで14時30分を示していた時計が、店を出るころにはもう16時近くになっていた。
黄色味がかった光が駅前の狭い路地を包み込み、行き交う人々は、だらしない高校生も、忙しないサラリーマンも皆幸せそうに見えた。
私はさりげなく差し出された彼の右手に自分の左手を重ねあわせ、
初めての「手繋ぎ」に心臓がはち切れそうな思いをしながら、彼に連れられ近くの公園まで歩いて行った。

歩いている間、会話はほとんど無くて、閉じた唇は太陽に黄色に染められる。
ふと信号で立ち止まった時に、自分の手が少し汗ばんでいることに気が付いて、
私はほとんど俯くようにしてすれ違う人々の視線から私の赤い頬を守らなければならなかった。
少し高めのヒールを履いて来たことを恥ずかしく思いながら、コンクリートの地面をカツカツと音を立てて歩く。
左足の小指が擦れ、ちょっぴり歩くスピードが遅くなってしまう。
察しの良い彼が、何てこと無さそうに歩調を遅らせてくれ、私の掌はまた汗ばんだ。


公園には小さめの噴水があって、それを取り囲むように、石造りのベンチがあった。
腰を下ろす時、そこにそっと手を触れると、太陽の光を吸い込んでいて少し暖かい。

「秋だね」と彼が言う。

「うん。秋が終わったら、もうすぐ冬だ」
「僕と同い年の人は、今頃受験勉強で大忙しなんだろうね」
「絵里もしてみたら、受験勉強?」
「僕? 僕はいいよ。昔っから勉強って苦手なんだ。さゆは得意そうだよね」
「勉強なんてできたって、何にもいいことないの。ただ周りにちやほやされて、それでお終い。
 夢とかがあれば、きっと勉強して良い大学に行くことも意味があるのかもしれないけど、
 少なくともさゆみにはそんな夢なんてものないし」
「さゆは夢ないの?」
「絵里はあるの?」
「僕はあるよ」
「何、聞かせて?」

私が彼の瞳を覗き込もうとすると、彼は眼を逸らし、それから足元の枯れ葉を踏んだり蹴ったりしながら、ぼそぼそと口を開いた。
その口調とはうって変わって、目の奥の方にはきらりとした光が見えたような気がした。

「僕は好きになった女の子と誰もいないような、ずっと田舎の方へ行って、そこでのんびりと畑でも耕しながら暮らしたい。
 できれば、畑よりも果樹園みたいなのが良いな。
 それで、夏は近くの湖で泳いで、冬は山に降る雪に囲まれて、それで子供を2人か3人、自然に囲まれながら育てるんだ。
 たくさん本を読ませて、それで運動もさせて、それからいつか都会へ出て行ってしまう子供が傷ついた時にはいつでも戻って来れるように、
 僕たちはいつまでも畑を耕しながら、のんびりと暮らすんだ。
 バカらしいと思う?」
「そんなことない。素敵なの」
「あははw まぁ、でもこんなのはあくまで夢であって、現実的じゃないよ、全然。
 所詮子供の考える浅はかな幻想にしか過ぎないんだよ。現実はそんなに甘くはない」
「そうかもしれないけど・・・でも、さゆみ、その絵里の夢、好きだよ。さゆみも連れて行ってもらいたい」

私は石造りのベンチの上に置かれた彼の右手に自分の左手を重ねる。
太陽に照らされた彼の横顔を見つめながら、私は本当に彼が誘ってさえくれすれば、
親も学校も捨てて彼と一緒にどこかへ行っても良いような気がしていた。
彼は私の方を向くと悲しそうにほほ笑んで、「僕はさゆを犠牲にしたくはないよ」と言った。
それから彼は私の方に身体を向け、それから空いている左手で、私の後ろ頭を撫でた。
ドキドキという細やかな鼓動が、感情の単純な象徴として私の耳元で鳴り響く。

「でも、ありがとう。とっても嬉しいよ」

彼が言うと、強い風が吹き寄せ、私の前髪が乱れる。
 彼は私の頭から手を離すと、その手を私の額に当て、それから前髪を整えて、そのまま私の頬を包み込んだ。

「ねぇ、また来週もあってくれるかな?」
「待ってる。また、ケンタッキーの前で14時に」
「うん。けど、来週はゆっくりおいで。今度は僕がカーネル・サンダースとお喋りする番だからさ」


***


まだ17時にもなってないのに。そんなことを思いながら、私は彼に見送られながら駅の改札を潜った。
月、火、水、木、金、土という長い未来に思いを馳せ、電車に揺られながら、彼の温もりを頼りに短い眠りに誘われていく。
私の家の最寄駅のアナウンスを聞いた時には、見知らぬ土地の見知らぬ湖と、
それから果物と山の匂いが漂う夢の中に片足を突っ込んだままで、ふらふらと立ち上がって人にぶつかりながら電車を降りた。
靴擦れした左足の小指がヒリヒリと痛んだ。





(66.2-193)なん恋 Scene06
 

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