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94-06-08「小沢一郎と朝日新聞」

 先月小沢一郎が千葉県の新生党の集まりで、マスコミを批判している挨拶をテレビの報道番組でみました。私は聞いていて、ほとんど小沢のいうことにうなずいていました。そのことを報道した新聞記事を抜き出してみます。一番朝日新聞がこのことを熱心に報道しているようです。

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「今の論調が続くなら国の将来危うくする」 小沢氏がマスコミを批判
94.05.17  朝刊 22頁
 新生党の小沢一郎代表幹事は十六日、千葉市で開かれた同党千葉県連主催の「新生党と歩む千葉県民の集い」で、「今日のマスコミの論調が続くならば、国の将来を危うくする」などとマスコミを批判、そのなかで「朝日新聞というのはアカ新聞かブラックジャーナリズムかと思った」と述べた。衆院の新会派「改新」の結成に反発して社会党が政権離脱を決めた四月二十五日、小沢氏が国会内で「どの女と一緒に寝ようがいいじゃないか」などと語ったと報じた記事(同二十六日付朝刊)を念頭に置いての発言とみられる。
 小沢氏が朝日新聞について触れたのはあいさつの冒頭。会場内で取材にあたる記者団について「彼らは商売で私のことを利用しているだけ」と述べた後で、「この間も朝日新聞にまさに誹謗(ひぼう)、中傷の記事が載った。こうしたマスコミを通じたペンの暴力を断じて許してはならないという信念で私は戦っている」と述べた。
 小沢氏はマスコミ批判の中で戦前の報道を例にあげ、「軍部の手先になって『大東亜共栄圏』を唱えたのはマスコミそのものだ。今日も同じ過ちを犯そうとしている」と主張した。
 ○言論の役割に認識欠き残念 箱島信一朝日新聞東京本社編集局長の話
 本社の報道に対する批判に対しては常に謙虚に耳を傾けるべきだと考えているが、「朝日新聞はアカ新聞かブラックジャーナリズム」という小沢氏の発言は、なにを根拠にしているのか、理解に苦しむ。先日の小沢氏の国会内における発言を報道したことを指しているとすれば、その報道は事実をそのまま伝えたもので、「誹謗、中傷」には当たらない。現代社会における言論、報道機関の役割についても、小沢氏の発言内容は正当な認識と品位を欠き、有力な政党幹部の発言としては残念としかいいようがない。

 ●小沢氏の批判発言<要旨>
 マスメディアを通じ、お騒がせしている。しかし、私が好んでやっているわけではない。彼らは商売のために私のことを利用しているだけで、この間も朝日新聞にまさに誹謗、中傷の記事が載った。この記事を見て、本当に私は、朝日新聞は「アカ新聞」か「ブラックジャーナリズム」かと思った。私はこうしたペンの暴力を断じて許してはならない、こういう信念で戦っている。
 私は個人的な問題で申し上げているのではない。今日のマスコミの論調が続くならば、必ずわが国の将来を危うくする、私はそういう心配をしている。私ども日本の近代史は、満州事変、シナ事変、そして太平洋戦争、三百万同胞の命を犠牲にして、あの悲惨な戦争の結果、歴史をわれわれは体験している。あの時の状況をいま、マスコミを中心にしてあたかも一部の軍人だけが悪かったようなことを言い、自らの責任をのがれている。しかし、戦前のあの新聞の縮刷版を見てください。軍部の手先になって、「鬼畜米英」「一億玉砕」「聖戦完遂」だと、「大東亜共栄圏」を唱えたのはマスコミそのものなのであります。
 そういう意味において、今日も同じ過ちを犯そうとしている。その当時も、一つの正義の小さな枠を決めて、大東亜共栄圏とか、天皇絶対制とか、この枠からはずれた者はみな「非国民」だと。だからみんな戦争に協力して、全員一億死んでも戦え、こういう論調が当時をおおったことは年配の方はご記憶であろうと思います。現在といえどもそうだ。彼らマスコミの正義の枠からはずれたいろいろな意見は、例えば私もそうだが、あれは権力主義者だ、あれは国家主義者だ、あれは反動だ、右翼だ、と、この一言で片づけている。
 私個人は何を言われても構わない。しかし、日米関係も、あるいは世界全体、今非常に難しい時期に来ている。細川―クリントン会談で、細川首相が「ノー」と言った。「初めてノーと言った」とマスコミがワイワイ書き立てた。しかし、その翌日から円が上がったらば「いやこれはいけなかった、失敗だ」と言う。勝手なことをメチャクチャその場その場で言っている。
 朝日新聞社
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 この「小沢氏の批判発言<要旨>」のところを、そのままテレビで私は聞いていました。私は「まったくそのとおり」と叫んでいました。どこが、箱島信一朝日新聞東京本社編集局長がいうように「現代社会における言論、報道機関の役割についても、小沢氏の発言内容は正当な認識と品位を欠き」などといえるのでしょうか。なんら、自らが戦前戦中にはたしてきたことを反省することなく、また戦後の世界でも同じことをやってきたのではないのですか。
 朝日新聞はこの小沢発言に、次のように反論しています。

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小沢氏発言は論理のすりかえ マスコミ批判に3紙が反論(メディア)
94.05.19  朝刊 33頁
 新生党の小沢一郎代表幹事が「朝日新聞はアカ新聞かブラックジャーナリズムかと思った」「今日のマスコミ論調が続くならば、国の将来を危うくする」などと発言したことに、東京で発行されている全国紙、ブロック紙六紙のうち三紙は、十八日付の社説で「小沢氏には論理のすりかえがある」などと反論、一紙が一面コラムで批判的な見方を載せた。
 社説でとりあげたのは、毎日、東京、朝日の三紙。
 小沢氏が自分についての論調を戦前の報道になぞらえたことに、東京は「報道機関は軍部の独走を止めることができなかった。その反省があるからこそ、私たちは政治と政治家を厳しくチェックしようとしている。権力に追随した過去のマスメディアと、小沢氏をはじめとする権力者、権力機関を監視し批判する現代のマスメディアを同一視して非難するのは、聴衆受けを狙ったとはいえ、こじつけが過ぎる」と述べた。
 毎日は、「発言には明らかな論理のすり替えがある」としたうえで、「確かによくも悪くも『すべてが小沢』のような小沢神話づくりは危険である。しかし小沢氏が実力者の一人である以上、同氏の言動を追うのはマスコミとして当然である。そのことによって、氏の不用意な発言が取り上げられたとしても、それは自業自得ではないか」。
 朝日は、「軍部などの言論統制下で戦争に協力した戦前の新聞と、権力の座にある政治家を自由に批判する現在の新聞が、どうして同じだといえるのか。論理のすりかえである」とした。
「アカ新聞」発言について毎日は、「新聞の同人として看過することができない……朝日新聞の何をもって“アカ新聞”と呼んだのか不明で、そのことによってマスコミ全体を攻撃している」と分析。見出しで毎日は「小沢氏の新聞批判に応える」、東京は「ゆがんだ小沢氏のマスコミ観」とし、いずれも報道機関全体の問題として論じている。
   ◇
 産経は一面コラム「産経抄」で「小欄などは朝日新聞の論調や主張に共鳴できないことがあり、むしろ正反対であることも多い」としつつ、小沢氏の発言について「こうした言論認識や新聞感覚は黙過できない」と述べた。
   ◇
 読売と日経は、小沢氏の発言について社説やコラムで触れなかった。メディア取材班は両紙に、(1)論評しなかった理由(2)小沢氏の発言への評価、を尋ねた。

 日本経済新聞社の山田登広報担当部長は、「マスコミに対する批判は自由であり、あって当然と考える。だが、今回の小沢氏の批判は的はずれであり、品格にも欠けるところがあると思う。より根本的な問題は、特定のマスコミを公人である小沢氏が記者会見から排除しようとしたり、記者会見を拒否したりすることで、この点については、社説をはじめ、紙面で厳しく批判してきた」と話す。
 読売新聞社は論説委員会名で次のような回答を寄せた。
「小沢氏の発言を、『報道機関一般を批判したもの』であるとは受け取っておらず、現時点では論評に値するとは考えていない」「一部のマスコミを批判した発言と受け取っているが、どのような事実を念頭に置いて発言したのかなど不明な部分もあり、現時点では評価はできない。今回の場合、個々の言葉遣いなど公党の責任者として品位に欠けている部分はあるが、基本的には、マスコミのあり方を個人的に批判することは論評の自由に属すると考えている」
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 朝日新聞もよほど頭にきているのか、たいへんな勢いですが、その実、

 軍部などの言論統制下で戦争に協力した戦前の新聞と、権力の座にある政治家を自由に批判する現在の新聞が、どうして同じだといえるのか。論理のすりかえである

ということしか言っていません。もうちょっと、戦前の新聞といまはどのように違うというのかはっきりさせられないのですかね。
 私は小沢一郎にただただ当り前のことをいってほしいだけです。朝日新聞のような品位のないマスコミには腹がたつだけです。私は朝日新聞をとっているわけでなく、よく読む機会もないのですが、多分今後この新聞のいうことには、さまざまみていかないといけないなと思っています。なにか言うべきときにはいおうと思いました。


 


情況への発言







2007年01月19日(金) 12:36:39 Modified by shomon




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