95-11-09「米兵による沖縄女児暴行事件のことで」
3人の被告米兵の家族の記者会見を見ました。驚きました。そしてこのことで人種差別問題だなどと言い出されるのには非常に怒りを感じます。「話にならない」という感じです。
私たちは沖縄の女児を暴行したのが米国の海兵隊だということしか知らず、今回の最初の公判でそれが黒人兵だったのかということが判った段階ではないでしょうか。
間違いなくいうべきなのです。米国人だろうが、日本人だろうが、黒人だろうが白人だろうがメキシカンだろうが、日本で日本の法律を犯した人間は日本で裁かれるのです。そして、今回の犯罪には誰も当然に怒りを持っているのです。そして犯人が米兵であり、米軍基地がずっと大量に存在している沖縄だからこそ、それを認めている日本政府の態度も問題なのです。米国が謝罪したのは当然ですが、日本政府も被害者ならびに沖縄県民に謝罪すべきではないのですか。
ところで私がもっと言いたいのは、マスコミでどうしてかこのことで、O.J.シンプソンの裁判を持ちだし、「また人種問題にしようとしている」などと論評することです。もう馬鹿まるだしです。
シンプソンの裁判は人種裁判でも人種問題でもありません。あの陪審員たちは正しい選択をしました。シンプソンが無罪になったのは、陪審員によっては、彼が無実だと考えた人もいたろうし、検察側が出した証拠が犯罪の成立を証明できないと考えた人もいたからです。どちらにしても被告は無罪になるのです、無罪になったのです。はっきりしているのは、シンプソンが黒人だから無罪になったのではありません。あの裁判は人種問題ではないのです。
(参照)95-10-15「O.J.シンプソンの判決について少々」
あの陪審員ならびにイトウ判事も適格で公正な判断をしたように、我が日本も公正な裁判を米兵に対しても行なうのです。公正な裁判を行なうということは、この犯罪者である米兵に厳格な量刑を行なうだろうということです。
ジョン・グリシャム「評決のとき」という小説は、人種差別主義者の白人に娘を暴行された黒人の父親がその2人の犯人を裁判所で銃で撃ち殺し、その父親の裁判の内容です。この父親は殺人者です。でもこの小説の中で白人を含めた陪審員はこの父親に無罪判決を出すのです。そこの過程が克明に書かれています。
いま日本の父親なりが同じことをしたら、いったい米国のたくさんの娘たちの親たちはどう判断するのでしょうか。
情況への発言
私たちは沖縄の女児を暴行したのが米国の海兵隊だということしか知らず、今回の最初の公判でそれが黒人兵だったのかということが判った段階ではないでしょうか。
間違いなくいうべきなのです。米国人だろうが、日本人だろうが、黒人だろうが白人だろうがメキシカンだろうが、日本で日本の法律を犯した人間は日本で裁かれるのです。そして、今回の犯罪には誰も当然に怒りを持っているのです。そして犯人が米兵であり、米軍基地がずっと大量に存在している沖縄だからこそ、それを認めている日本政府の態度も問題なのです。米国が謝罪したのは当然ですが、日本政府も被害者ならびに沖縄県民に謝罪すべきではないのですか。
ところで私がもっと言いたいのは、マスコミでどうしてかこのことで、O.J.シンプソンの裁判を持ちだし、「また人種問題にしようとしている」などと論評することです。もう馬鹿まるだしです。
シンプソンの裁判は人種裁判でも人種問題でもありません。あの陪審員たちは正しい選択をしました。シンプソンが無罪になったのは、陪審員によっては、彼が無実だと考えた人もいたろうし、検察側が出した証拠が犯罪の成立を証明できないと考えた人もいたからです。どちらにしても被告は無罪になるのです、無罪になったのです。はっきりしているのは、シンプソンが黒人だから無罪になったのではありません。あの裁判は人種問題ではないのです。
(参照)95-10-15「O.J.シンプソンの判決について少々」
あの陪審員ならびにイトウ判事も適格で公正な判断をしたように、我が日本も公正な裁判を米兵に対しても行なうのです。公正な裁判を行なうということは、この犯罪者である米兵に厳格な量刑を行なうだろうということです。
ジョン・グリシャム「評決のとき」という小説は、人種差別主義者の白人に娘を暴行された黒人の父親がその2人の犯人を裁判所で銃で撃ち殺し、その父親の裁判の内容です。この父親は殺人者です。でもこの小説の中で白人を含めた陪審員はこの父親に無罪判決を出すのです。そこの過程が克明に書かれています。
いま日本の父親なりが同じことをしたら、いったい米国のたくさんの娘たちの親たちはどう判断するのでしょうか。
情況への発言
2007年01月21日(日) 09:49:15 Modified by shomon