94-07-10「村山政権の成立について」
やはり今回6月29日の政変に関して何か書いておかなければと思いました。もっと早く書きたかったのですが、時間がとれませんでした。まだ今の私には毎日新聞の記事とテレビでの報道しか知りません。そのうちに嫌でもさまざまな雑誌等でいろいろなことを知ることになるでしょうから、今のうちに自分で思ったことを何か書いておこうと思います。
私は29日当日9時すぎに自宅に帰りました。食事しながら、テレビを見ていました。当日私の好きな菅原文太の出ているドラマがあり、それを見て勝手なことを娘と言い合っていました。そうしたら、突然国会中継になりました。
私は「なんで文太を見せないんだ」と叫びましたが、次女が「海部さんが出てるんだよ」と言います。私は、「何?、海部なんか関係ないだろう?」といいましたら、妻も国会の首相指名で海部と村山で争っているといいます。テレビの映像も二人の決戦投票がもうすぐあるとか伝えています。
私は一瞬考えて妻に言いました。
家事に追われていた妻はよくみていなかったようで、「え、そうなの?」と半信半疑です。私は「それにしても、なんでまた海部なんだ」とつぶやきました。
そして結果はあのようになっていったわけです。そこで私はいろいろと言っておくべきかなと思ったのです。
私はこの間の政治家たちの政治のやり方は、かなりな見ものであったと思います。テレビに出てくるさまざまな政治評論家等は、まったくまともな解説はできていなかったと思います。ただ「なんで自社が組むのか」ということを、いろいろと言い合っていただけなように思います。私は、この政治家たちの戦争の仕方を興味深く思って熱心に見ておりました。
今回の政争での主な闘いを象徴させると、「小沢対武村」戦争ということでしょうか。そして武村が勝ちました。私には、さらに今回の政争には、あと二人の人物を思い浮かべます。それは、竹下登と首相になった村山富一です。私には、この4人が今回の政治劇の主役に思えます。海部や中曽根はピエロでしかありません。
自民党旧竹下派の「金竹小」が考えていた、政界再編成はほぼ今回の政変で完了しました。文字どおり「共産党を除いた政権担当可能な二大政党」というような体制になったかと思います。旧連立政権ではまだ不完全でした。まだ社会党が天下3分の計の一翼になるというような傾向がありました、しかし、今回ではっきりしたわけです。これで小沢一郎が考えていた政治体制にほぼなってしまったかと思えます。極端にいいきってしまえば、小沢側政治勢力がもっと規制緩和をしてもっと自由体制というような国を目指すのに対して、自社さきがけ側はすこし国家で規制して福祉に重点をおくいわば平等に主眼をおくという政党というような役割になるのかと思います。それぞれ「自由」と「民主」に主眼をおいた二大政党といえるでしょうか。
しかし小沢の思う形になったとは言っても、あくまで今回も政権を維持できることで、それは完全なものであったはずです。それがどうしてか敗れてしまいました。おそらく小沢は悔しくて堪らなかったはずです。どう考えても、社会党のデモクラッツはこちらにくるはずというのが小沢の戦略の中にあつたと思います。小沢にとって昨年7月に自民党政権を倒し、連立8派で政権をとったのに、どうにもならない分からず屋が社会党でした。こんな政党は潰れてしまうべきだし潰れてしまうはずなのです。それが今回で実現するはずでした。それが何故このような結果になってしまったのでしょうか。
今回村山首班を進めたのは、さきがけの武村ですが、真っ先に「村山で行け!」とGO指令を出したのは、私は竹下だと思います。竹下には、小沢のしうちが許せなかったのだと思います。小沢のやろうとする政治とは、自分たちにたいするしうちに象徴されるようなものだろうという認識なのでしょう。この竹下の動きに敏感に反応したのが中曽根です。本来は自分は竹下よりも先輩であるのに、竹下に政界を牛耳られるのは嫌だと考えたのでしょう。だから、かれは突如海部支持なんて言い出しました。あれは小沢のシナリオにはなかったはずです。小沢が中曽根と話したのは、渡辺派とのまとめ役として話したのであって、あの時点でしゃしゃり出ては迷惑以外の何ものでもありません。考えてみれば、中曽根は政治改革反対派であったはずです。「政治改革にはまず、腐敗防止法が先」だなどと1年前には言っていたはずです。それは簡単にいえば、小選挙区制では自分が選挙に受かる自信がないからでしょう。彼は4月8日の西部邁の「発言者」創刊記念パーティで、同じ日の細川辞任表明を喜んで、これからこそ真正保守勢力の創出などと言っていたはずです。その勢力の敵とは勿論小沢勢力です。だからこそ彼の行動はまさしく風見鶏、ピエロでしかありません。
海部に到っては話になりません。もし、村山と書けないというのなら、もっと早く出馬するべきでしょう。あの日の闘いはかなりな時間との闘いだったのです。だから見事だったのは、自社側です。土井議長を取り込んでしまいました。土井議長が会期延長はないとして、時間を大幅に取るというようなことをしなかったのは、小沢戦略に対する大いなる包囲なのです。
小沢はもうほぼ戦略の時点で戦争には負けていました。それをなんとか、実際の戦闘の場面で逆転を考えていたかと思います。しかし周到に用意した包囲網の中ではもうどうにもなりませんでした。
しかしここでもう一人思うのは、首相になった当の村山です。彼は昨年社会党の委員長になってからは、政治の闘いの局面ではほぼ勝ちっぱなしです。とくに小沢との闘いでは勝ち続けています。これはかなり不思議な政治センスを持っているのではと思ってしまいます。国民福祉税を廃案にしたとき、「改新」が出来たときなどにいつも、小沢は自分の戦略を壊されてしまいました。今回も、旧連立側と自民さきがけの側で両方をいったりきたりしているふりをして、その実はじめから自民との連立でいこうと決めていたように思います。ああした行動は社会党の統一を保つためのやりかただったと思います。これにはデモクラッツの面々ものせられ、かつ連合の山岸などにはどうにも見えないところでした。はっきりいって、あれだけの議席しかない、しかも一枚岩とはいえない社会党を率いてよくまあ、政権の首班にたどりつたものです。いやかえって、内部的に対立してしまう社会党だからこそうまくいけたのだといえるかと思います。
私は、現在の政治家の中では小沢一郎はかなりまともないいことを言っているように思いますが、なんにしても彼はどうしてあのように敵を作ってしまうのでしょうか。どうしても彼のやり方では何事にも強引に見えるのでしょうか。事実彼は何事も強引です。だから最後に手から成果がこぼれてしまうのです。彼にとってはどうみても自分の言っていることが正しく、悪いのは社会党のような分からず屋であり、しかもその社会党はまともに話し合おうとなんかしない、できない、ということなのでしょうが、しかし、それが社会党なのです。それをもう潰してしまおうというなら、もっと周到にやるべきでした。むしろ社会党のいうことをのんで、そのまま連立にひきいれたほうが、むしろ社会党は分裂できたでしょう。この場合社会党左派は二大政党の枠からははじきだされていたかと思います。しかし、こうしたことを村山というしたたかになりえる政治家はみんな見越していたかと思います。
私は今回の政争をこのように見ていました。従ってよくテレビで誰かが言っていたように、今回のことには国民は関係ありませんでしたが、それはあまりどうでもよかったのです。これでは国民不在だ、だから選挙で民意を問えという言い方もありました。だが私は、政治なんてこんなものだと思います。昨年7月に総選挙はやったではないですか。それで、その結果がまわりまわって、今の事態になっただけなのです。
情況への発言
私は29日当日9時すぎに自宅に帰りました。食事しながら、テレビを見ていました。当日私の好きな菅原文太の出ているドラマがあり、それを見て勝手なことを娘と言い合っていました。そうしたら、突然国会中継になりました。
私は「なんで文太を見せないんだ」と叫びましたが、次女が「海部さんが出てるんだよ」と言います。私は、「何?、海部なんか関係ないだろう?」といいましたら、妻も国会の首相指名で海部と村山で争っているといいます。テレビの映像も二人の決戦投票がもうすぐあるとか伝えています。
私は一瞬考えて妻に言いました。
- おい、これは海部を立てているのが連立側で、村山を自民党が推しているんだろう。
家事に追われていた妻はよくみていなかったようで、「え、そうなの?」と半信半疑です。私は「それにしても、なんでまた海部なんだ」とつぶやきました。
そして結果はあのようになっていったわけです。そこで私はいろいろと言っておくべきかなと思ったのです。
私はこの間の政治家たちの政治のやり方は、かなりな見ものであったと思います。テレビに出てくるさまざまな政治評論家等は、まったくまともな解説はできていなかったと思います。ただ「なんで自社が組むのか」ということを、いろいろと言い合っていただけなように思います。私は、この政治家たちの戦争の仕方を興味深く思って熱心に見ておりました。
今回の政争での主な闘いを象徴させると、「小沢対武村」戦争ということでしょうか。そして武村が勝ちました。私には、さらに今回の政争には、あと二人の人物を思い浮かべます。それは、竹下登と首相になった村山富一です。私には、この4人が今回の政治劇の主役に思えます。海部や中曽根はピエロでしかありません。
自民党旧竹下派の「金竹小」が考えていた、政界再編成はほぼ今回の政変で完了しました。文字どおり「共産党を除いた政権担当可能な二大政党」というような体制になったかと思います。旧連立政権ではまだ不完全でした。まだ社会党が天下3分の計の一翼になるというような傾向がありました、しかし、今回ではっきりしたわけです。これで小沢一郎が考えていた政治体制にほぼなってしまったかと思えます。極端にいいきってしまえば、小沢側政治勢力がもっと規制緩和をしてもっと自由体制というような国を目指すのに対して、自社さきがけ側はすこし国家で規制して福祉に重点をおくいわば平等に主眼をおくという政党というような役割になるのかと思います。それぞれ「自由」と「民主」に主眼をおいた二大政党といえるでしょうか。
しかし小沢の思う形になったとは言っても、あくまで今回も政権を維持できることで、それは完全なものであったはずです。それがどうしてか敗れてしまいました。おそらく小沢は悔しくて堪らなかったはずです。どう考えても、社会党のデモクラッツはこちらにくるはずというのが小沢の戦略の中にあつたと思います。小沢にとって昨年7月に自民党政権を倒し、連立8派で政権をとったのに、どうにもならない分からず屋が社会党でした。こんな政党は潰れてしまうべきだし潰れてしまうはずなのです。それが今回で実現するはずでした。それが何故このような結果になってしまったのでしょうか。
今回村山首班を進めたのは、さきがけの武村ですが、真っ先に「村山で行け!」とGO指令を出したのは、私は竹下だと思います。竹下には、小沢のしうちが許せなかったのだと思います。小沢のやろうとする政治とは、自分たちにたいするしうちに象徴されるようなものだろうという認識なのでしょう。この竹下の動きに敏感に反応したのが中曽根です。本来は自分は竹下よりも先輩であるのに、竹下に政界を牛耳られるのは嫌だと考えたのでしょう。だから、かれは突如海部支持なんて言い出しました。あれは小沢のシナリオにはなかったはずです。小沢が中曽根と話したのは、渡辺派とのまとめ役として話したのであって、あの時点でしゃしゃり出ては迷惑以外の何ものでもありません。考えてみれば、中曽根は政治改革反対派であったはずです。「政治改革にはまず、腐敗防止法が先」だなどと1年前には言っていたはずです。それは簡単にいえば、小選挙区制では自分が選挙に受かる自信がないからでしょう。彼は4月8日の西部邁の「発言者」創刊記念パーティで、同じ日の細川辞任表明を喜んで、これからこそ真正保守勢力の創出などと言っていたはずです。その勢力の敵とは勿論小沢勢力です。だからこそ彼の行動はまさしく風見鶏、ピエロでしかありません。
海部に到っては話になりません。もし、村山と書けないというのなら、もっと早く出馬するべきでしょう。あの日の闘いはかなりな時間との闘いだったのです。だから見事だったのは、自社側です。土井議長を取り込んでしまいました。土井議長が会期延長はないとして、時間を大幅に取るというようなことをしなかったのは、小沢戦略に対する大いなる包囲なのです。
小沢はもうほぼ戦略の時点で戦争には負けていました。それをなんとか、実際の戦闘の場面で逆転を考えていたかと思います。しかし周到に用意した包囲網の中ではもうどうにもなりませんでした。
しかしここでもう一人思うのは、首相になった当の村山です。彼は昨年社会党の委員長になってからは、政治の闘いの局面ではほぼ勝ちっぱなしです。とくに小沢との闘いでは勝ち続けています。これはかなり不思議な政治センスを持っているのではと思ってしまいます。国民福祉税を廃案にしたとき、「改新」が出来たときなどにいつも、小沢は自分の戦略を壊されてしまいました。今回も、旧連立側と自民さきがけの側で両方をいったりきたりしているふりをして、その実はじめから自民との連立でいこうと決めていたように思います。ああした行動は社会党の統一を保つためのやりかただったと思います。これにはデモクラッツの面々ものせられ、かつ連合の山岸などにはどうにも見えないところでした。はっきりいって、あれだけの議席しかない、しかも一枚岩とはいえない社会党を率いてよくまあ、政権の首班にたどりつたものです。いやかえって、内部的に対立してしまう社会党だからこそうまくいけたのだといえるかと思います。
私は、現在の政治家の中では小沢一郎はかなりまともないいことを言っているように思いますが、なんにしても彼はどうしてあのように敵を作ってしまうのでしょうか。どうしても彼のやり方では何事にも強引に見えるのでしょうか。事実彼は何事も強引です。だから最後に手から成果がこぼれてしまうのです。彼にとってはどうみても自分の言っていることが正しく、悪いのは社会党のような分からず屋であり、しかもその社会党はまともに話し合おうとなんかしない、できない、ということなのでしょうが、しかし、それが社会党なのです。それをもう潰してしまおうというなら、もっと周到にやるべきでした。むしろ社会党のいうことをのんで、そのまま連立にひきいれたほうが、むしろ社会党は分裂できたでしょう。この場合社会党左派は二大政党の枠からははじきだされていたかと思います。しかし、こうしたことを村山というしたたかになりえる政治家はみんな見越していたかと思います。
私は今回の政争をこのように見ていました。従ってよくテレビで誰かが言っていたように、今回のことには国民は関係ありませんでしたが、それはあまりどうでもよかったのです。これでは国民不在だ、だから選挙で民意を問えという言い方もありました。だが私は、政治なんてこんなものだと思います。昨年7月に総選挙はやったではないですか。それで、その結果がまわりまわって、今の事態になっただけなのです。
情況への発言
2007年01月21日(日) 09:35:28 Modified by shomon