サイボーグ娘SSスレッドに保管されたSSの保管庫です。一応、18禁ということで。

「えぇ…… この契約の説明は以上です。何か質問はありますか?」

 真っ白な壁と天井に囲まれた入り口も出口の無い殺風景な部屋。
 仮想空間に臨時で作られた電子の会議室に、彼女、渋谷弥生が居た。

「特に……ありません」

 サイボーグを巡る日々のあれこれなど、淡々と続く説明を聞いていた彼女がこぼす小さな溜息。
 ガス交換を必要としなくなった彼女だが、落胆と諦観の心情が溜息になって零れ落ちている。

「では、最後になりましたが宣誓をお願いします」

 進行役でもある高度機械化人協会の弁護士が促した宣誓。
 それは彼女の、渋谷弥生と言う人格を縛り付ける法の枷。
 彼女は重く厳しい契約を承認せねばならない。

 小さなテーブルに置かれた六法全書とサイボーグ宣誓契約書。
 基本的人格権・包括的生存権・総合的社会権の三権を得る為に。
 弥生は静かにその上へと手を置いた。

「……私、渋谷弥生は日本国憲法及び高度機械化人監督法令に定める条項を良く理解し、自らの名誉と良心にお
いてそれらを承認し、課せられた義務と責務を果たし……

 ふと、不意に彼女の言葉が途絶えた。
 一瞬のど忘れか?と列席していた者が彼女を見た。
 だけど、彼女はきつく目をつぶって押し黙っている。

「……日本の社会的要請に自ら進んでこれに協力する事を誓い、終生これを遵守する事をここに宣誓致します」

 ここへ出席している者も皆サイボーグだ。
 言葉に成らない彼女の落胆を、誰もが自分のこととして理解していた。

 それほど奇麗事を並べたとて、サイボーグの身体は国家の持ち物。
 彼女は生涯、誰かの持ち物として生きる事を承認した。
 そしてそれは、つまり。国家を支える『納税者』の……奴隷。
 『主たる使用者』などと言っても、呈の良い詭弁でしかない。

「有り難うございました。国権の長たる者の代理として、確かに聞き届けました」

 彼女の落胆を誰よりも理解している協会派遣の弁護士は、静かにそう答えた。
 納税者の選んだ国家の行いに、彼女は拒否権無く参加を義務付けられている。
 技術立国を支える開発現場のモルモットとして、逃げる事すら許されない……

「さて、ここから先は国家機関の案件ではありません。まぁ、色々と聞いていますでしょうけど」
「はい。でも」
「そうですね。あなたの場合はちょっと特殊だ」

 仮想空間のおぼろげなアシスタントが差し出した書類には翼を広げた鳥のマーク。
 同じ社章をつけた背広姿の男性が二人。どこからとも無く不意に姿を現した。

「ここから先は私が」

 途中からログインしてきた初老の男性が弁護士と並んで立った。
 深い青のスーツが凛々しいほどに決まっている。

「引き続き弊社と契約しましょう。よろしいですか?」
「はい、よろしくお願いします」
「あ〜 いえいえ、お願いするのはうちの方だ。なんせとんでもないご迷惑をお掛けしたんだから」

 ちょっと苦笑いを浮かべつつ、初老の男性は頭を掻いた。

 ……今から約1年前。永康26年1月2日。早朝。
 慢性的混雑の続く羽田空港のB滑走路に、離陸体制の旅客機が居た。全日航501便。
 羽田を離陸後、1時間20分で北都札幌の空の玄関。千歳空港へ向かうフライトスケジュールだった。
 
 その日。関東地方は猛烈に発達した日本海への爆弾低気圧へ向けて、強い風が吹いていた。
 乱気流が生み出す強烈なダウンバーストが引き起こしたウィンドシアー。
 総重量300t近い大型旅客機が、まるで紙飛行機のように揉まれ引き裂かれ、横転墜落し炎上した。

「今更ですけれど、大変ご迷惑をお掛けしました。月並みな表現ですがお見舞い申し上げます」
「あ、いえ。あの…… 自然条件だけは仕方が無い事です。それに、こんな形ですけど生き残りましたし」
「そう言ってもらえるとありがたいですよ」
「怒っても仕方が無い事もあります」

 そう。こればかりはもうどうしようも無いことだ。
 空を飛ぶ以上は、絶対について回るリスク。

 ただ、企業としては仕方が無いでは済ます事も出来ない。

「本契約はご無事だった方へのサポートの一環なんですよ。契約してもらいたいのは我々の方なんです」
「でも、余り無事じゃ無い気がします」
「それもそうですね」

 彼女は屈託無く笑った。何で笑ったのか彼女も良くわからなかった。
 ただ、その笑顔に救われる人が居るのも事実なんだと、彼女は気がついている。

 あの日。
 滑走路脇の前線救命本部で行われたトリアージの『こっちはもうダメ』と言うブラックエリアに彼女は横たわっていた。
 下半身を失った黒焦げの死体として……だ。

 急げばなんとかなりそうなレッドエリアの人々は、最優先で高度救命センターへ送り込まれた。
 部分的か全身かの何れかでサイボーグ化したり、或いはICUの中で懸命な治療が施された。

 だけど、彼女は死を待つばかりのまま、捨て置かれていた。
 どう見たってただの死体にしか見えなかったから。

 ギ社勢の消防救命チームが回収した多くの死体を並べていたのは佐川精密のネクロマンサー達。
 佐川が死体の整理をするのは、単なる社会奉仕ではない。

 彼らは本社が研究しているiPS細胞を使った生身の義体へ移植する死体を捜してるだけ。
 建前としては『僅かな可能性に賭けて治療を施す』と言う、限りなく黒に近いグレーゾーンの行為だった。
 
 生身のアンドロイドに脳を移植して、その間に機能回復を祈る。
 
 誰が聞いたって立派な詭弁で奇麗事でしかない。
 だけど、そんな形だったとしても彼女はラッキーだった。
 現実に彼女はここにこうして出席しているのだ。
 
「改めてご挨拶します。全日本航空の専務取締役執行役員で施設部、調達部および人事部を統括管理している難波と言います。」
「……はい」

 佐川のスタッフが連れて帰ってきた死体なかの一体が弥生だった。
 脳や脊椎の一部を取り出された弥生は、専用の生命維持装置の中で2ヶ月近くにわたり夢を見続けていた。
 当初、佐川のスタッフも脳構造の解析に夢中になっていたらしい。
 だがある時、エンジニアの発した『この子はまだ生きている!』と言う言葉ですべての風向きが変わった。
 
 佐川のラボから全日航へ連絡が入ったのは、事故から三ヶ月近くが経過した頃だった。
 曰く『御社の事故時に死んだはずの方が生き返った。どうしましょう?』
 事故で瀕死の重傷を負った人々への対応が一段落した頃だった。
 流石の全日航側も対応に逡巡が見られた。

 このまま死んでもらうと言う選択肢もあったはずなのだが……

「肩書きは気にしないでください。まぁ、上から数えても10番目以内と思ってもらえれば良いです。要するに、
ここへ来れる一番上の全日航社員と言う事です」
「じゃぁ、難波さんも……」
「そうです。全身サイボーグです。しかも、佐川さんの第一世代、1000シリーズサイボーグです」

 全日航の人事部長は『聞かなかった事にしよう』と言っていた役員を一人ずつ説得していった。
 どんな意図があったのかを窺い知る事は出来ないけれども、彼の熱意は本物だった。
 社内に僅か30人も居ない佐川製サイボーグである難波の思惑。

「さて、じゃぁ、とりあえず聞いてください」
「はい、」

 社内の意見を取りまとめ役員達が了承した方針は唯一つ。
 どんな事があっても、とにかく殺さないでくれ。

 そして、そのまま義体展示会に使えるレベルの最新装備を与えて欲しい。
 後の事は後で考えるし、面倒は全日航が全部被ると、付け加えられていた。

「あなたが使い始めたその完全義体は、弊社の資産の一部で本来は弊社の株主の物です。ですが、あなたの生命
維持及び人格権の行使に当って不可欠な、あなた自身と一体不可分の物でもありますから、便宜的にあなたの個
人的所有物であると弊社は解釈します。また、今年予定されている株主総会において株主から公式に了承を得る
予定です。大変なご迷惑をお掛けした事への慰謝料と保障と言う意味での事ですから、株主も反対はしないでし
ょう。それまでは建前でも、借り物と言う事にしてください。会社と言うのも実は色々と手続きが面倒なんですよ」

 まだまだ数えるほどしか世間に出てきていない、空気作動式のLX4000シリーズ。
 しかし、弥生の入っている4000シリーズは、量産型とはちょっと違う超軽量仕様の試作型だ。
 身長165cmの彼女は、全身完全義体ではあるが、完備重量でも58kgしかない。
 オプションの大容量バッテリーに換装したとて、おそらく60kg台前半に収まるはず。
 
 ウェスト55cmのスレンダーなボディは、展示会で水着姿にでもなれば、きっと目を引くだろうと思われた。

 ただ、それよりも重要な事は、市場価格にしておよそ3億円の義体を彼女が個人所有すると言う事だ。
 都心部の高級マンション並な資産を齢18歳に満たない彼女が所有する事になる。
 まだまだ世間の実情に疎い未成年ゆえに、それがどれほど凄いのかを彼女は実感していないのだが。

「で、今後ですが。弥生さん。」
「・・・・・・・・・・・・・はい」

 さて。難しいところへ来た。

「あなたの複雑な事情をうかがって少々驚きました。大変申し訳ありませんが、プライバシーを覗き見した事を
先にお詫びします。その上でですが」

 実は彼女には自宅がない。帰るべき家が無い。彼女の帰りを出迎えてくれる家族も居ない。
 彼女は親族的に天涯孤独…… 親族の縁薄い彼女は、実は東京府郊外の児童養護施設に暮らしていた。

「・・・・・・・・・・・・」

 だから、彼女はここに居ても見舞いに来てくれる親は無いし、話し相手になってくれる兄弟姉妹も無い。
 施設の職員が事務的な手続き等で来る事はあっても、センターの規則で親族以外の面会は許されない。
 児童養護施設では半年以上不在になった場合、例外なくそれ以上の滞在が認められていない。
 また、事故の際に一度は行方不明→推定死亡として事務処理されてしまったので、養護施設へは戻れない。

 つまり、彼女には行く所が無い。

「最初に目を覚ました時にセンターの方からうかがいました。私の処置の件」
「生きるか死ぬかの瀬戸際だったので、勝手ながら私、難波が全責任を持って依頼を出しました」

 意識の無い彼女をどうするか。
 マニュアルに無い対応を迫られた時、公務員と言う生き物は、出来る限り責任を回避する選択をしがちだ。
 だが、難波は自らの首を掛けて彼女のサイボーグ化書類に勝手にサインした。
 赤の他人と言うべき存在であったが、逆に言えば厚労省側も全責任を押し付ける事が出来る。

 本人の与り知らない所で、彼女のサイボーグ化処置にGOサインが出た。

「あなたをあのまま死なしてしまう事も選択肢だったのですが……」
「ありがとうございます。むしろ感謝しています。まだ、やりたい事が出来そうですから」
「ただ。あなたを機械の操り人形にしてしまったって事は、すべてこの難波の責任です。ですから」
「ですから?」
「ウチに来ませんか?」
「ウチ?」
「はい。全日航の社員として、将来的にウチへ就職しませんか?」
「え?」
「まぁ、現状では社員としての活動など到底無理ですからね。まずは社会復帰して、そして当社のプランに沿う
ように勉学に励んでください」

 驚く弥生を他所に、難波はもう一人の男性を呼び寄せた。

「梅田君。会社案内のパンフはこっち用にスキャンしてある?」
「はい、昨日のうちに」

 カバンの中から取り出された書類。紙の香りが鼻に届く。
 すべては仮想空間であるが、リアルで現実的な感覚でもある。

「社会復帰時点を持って弊社とアルバイト契約をして、そのまま、まずは高校を卒業して、大学に行って勉強し
て。学生期間はウチと契約した臨時社員。卒業後はウチの正規社員として勤務。キャビンアテンダントになるか、
それともパイロットか。さもなくばグランドクルーか。そのどれか。まぁ、いずれは幹部候補生になるか、それ
とも別の道か……」

 そう語りつつ書類のページを広げて見せる難波。
 すぐ隣で梅田と呼ばれた男性が資料を丁寧に広げていた。

「あの。どうしてそこまで……」

 彼女の疑問はもっともだ。
 
 センターの事務方から聞かされた話は三つ。
 まず、彼女のサイボーグ化施術同意書にサインしたのは全日航の人間。
 センターにおける彼女の生活経費支払いは、すべて全日航のさる役員のポケットマネー。
 そして、彼女が入所していた児童養護施設との折衝はすべて全日航の弁護士が行っている。
 
 ある意味で、気持ち悪いくらいに彼女に拘ってくる難波と言う存在。
 
 人の善意には必ず裏があるのだと、擦れた見かたでしか社会と付き合えない養護施設育ちの彼女の場合。
 その下心や目的の見えなさぶりと言う部分が、意味無く恐怖を覚えるほどなのだ。

「さて。どう説明した物かな」

 難波は静かに笑いつつ、カバンから封筒を取り出して、もう一度梅田に目配せした。

「こっちもスキャン済み?」
「はい、もちろんです。4枚目まですべて処理済です」
「さすがだねぇ 君を施設課から秘書課へ引き抜いて正解だった」
「恐縮です」

 笑顔の難波が書類を広げている。公的機関の発行する厚紙状の公式書類だ。
 家庭裁判所が認可の判子を押した公的書類。驚愕の書類がそこにあった。

「実はね、弥生さん。あなたのサイボーグ化施術にサインするに当って、私はあなたの父親になりました」
「……お父さん?」
「そうです。あなたを助ける為に、勝手ながら養子縁組しました」
「うそ……」
「もし、この養子縁組が不服でしたら、いつでも破棄します。ただ、そうするとちょっと問題が出まして」
「それってもしかして。私のサイボーグ化が中止になるとかですか?」
「いえいえ。サイボーグになった人間を元には戻せませんし、中止できないところまで来ました」
「じゃっ! じゃぁ……」
「私がね。公文書偽造と言って、あなたとの養子縁組申請書類を偽造したと言う事になって逮捕されます」
「・・・・・・・・・・・・」

 梅田がどこからとも無くコーヒーを入れてきた。
 狭い部屋の中にコーヒーの香りが漂う。
 
「弥生さん。すいませんね。ちょっと失礼します。実はここへ来るとね、これが楽しみな物で」

 熱そうに啜ったコーヒーを飲み込みながら、難波は天井を見上げた。

「あぁ…… 美味いなぁ」

 弥生の前にもコーヒーカップが差し出され、その隣には小さなケーキが添えられていた。

「渋谷さん。こっちの世界ではケーキをおなか一杯食べても太りませんよ」

 ニコッと笑った梅田が一言添えて部屋の隅へと立ち去る。
 恐る恐る手を伸ばして一口食べてみたら、口一杯に生クリームの甘みが広がった。

「あの、ほんとに…… なぜここまでしてくれるんですか?」

 弥生は真っ直ぐに難波を見つめている。その眼差しの強さに難波も驚くほどだ。
 仮想空間とは言え、個人の意思や思いは、きっと伝わるんだろう。
 人の優しさとか思いやりとか。そう言う部分をある意味「知識」でしか知らない弥生。
 
 だが、難波はリスクを犯してまで弥生の為に奔走した事になる。

「うーん…… ブルマンブレンドだなぁ これ、いつ飲んだ時の味だろう……」

 コトリと音を立ててコーヒーカップをソーサーに戻した難波。
 何処か優しい眼差しで弥生を見ている。

「あの事故の時、前線本部に最初に入ったのは私でした」

 難波は自分の分のケーキにフォーク突き刺して、一気に口の中へ押し込んだ。。
 口の周りが生クリームだらけになったものの、細かい事を気にせずモシャモシャと食べている。

「トリアージのブラックゾーンに居た弥生さんに目もくれずにね、陣頭指揮を始めてしまったんですよ。その引
け目だと言ったら、信じてくれますか?まだ助かる筈だったあなたを見殺しにしかけた自分が恥ずかしい」

 口の周りについた生クリームを指でこそいでぺろりと舐める。
 良い大人がみっともない位に恥ずかしい事をしているのだけど……
 
 弥生はその仕草を可愛いと思った。
 まるでハムスターが頬を一杯にするほどに頬張るような仕草に見えた。

「そしてね……」

 満足そうにもう一口コーヒーを啜って、そして一息つく。
 とても幸せそうな笑みを浮かべて、難波はもう一度弥生を見た。

「弥生さん。行く所、無くなってしまったでしょ?」
「・・・・・・・・・・はい」
「だから、ウチの寮に来れば良い。ウチの会社にはサイボーグが100人単位で居るから。樹を隠すなら森の中」
「寮ですか?」
「そう。サイボーグ向けに作られた電子のドミトリー。色んな奴が居るからきっと面白いよ。それに」

 相槌を打つのも忘れて弥生が話に聞き入っている。
 真剣な眼差しが注がれて、難波や梅田は手応えを感じていた。

「あなたが拒否しない限り、私はあなたの父親だ。父親はね、大事な娘は常に手の届く所へ置いておきたい」

 右の耳の後ろをボリボリと掻きながら。
 難波はちょっと恥ずかしそうにしていた。

「あの……」
「どんな事でも遠慮せず言ってくれて良いですよ」
「私、施設で養子縁組の紹介されて8件全部、先方に断られたんです」
「どうして?」
「人を信じられないんです。9歳の時、一番最初の里親さんの所で、3ヶ月位、夜も寝ないで働かされました」
「それは酷いね」
「その後もあちこち行ったんですけど、どうしても人を信用出来なくて」
「信用か……」

 次の言葉を飲み込んで小刻みに弥生が震えている。
 弥生の人生に深く影を落とす闇の部分を皆が感じている。

「いずれ全部お話します。これは会社ではなく、わたし自身。難波十三という人間の約束です」
「今は教えてくれないのですか?」
「残念ですが、そのタイミングじゃありません。ただね。一つだけ信じて欲しいのは……」

 声色を改めた難波が、そう切り出した
 その瞬間にそばに居た梅田も弁護士も、瞬時に険しい表情となった。

「私も事故でサイボーグ化したんですが、実は一人娘が居ましてね」
「その方は……」
「娘もサイボーグ化したのですが、今はもうこの世に居なくなってしまった……娘なんですよ」
「じゃぁ、私はその人の代わりですか?」
「いいえそれは違います。誰かの代わりなどと言う失礼な話ではありません」
「じゃぁ、なんで」
「娘はね。ギガテク社のサイボーグになって殉職したんですよ」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」
「あなたを同じ目に合わせたくなかった。あなたの脳を欲しいとギ社から連絡が来てたんです」

 話を切るようにして梅田が新しいコーヒーをカップへ注いだ。
 立ち上る湯気に混じってコーヒーの芳しい香りが漂う。

「どんな手段を使ってでも、あなたを。弥生さん。あなたと言う人格を政府の消耗品にしたくなかった」

 再びちょっと下品な啜りでコーヒーを飲む難波。
 弥生はちょっと呆気に取られている。

「特殊公務員と言う境遇に居る人は天涯孤独だったり、或いは家族をすべて失った人が多いんですよ」
「……そうなんですか」
「万が一殉職した場合でも、補償や賠償といった部分が大幅に軽く済むからね」
「……そんな話は教育プログラムにありませんでした」
「だろうね。本当に重要な部分と言うのは巧妙にぼかしておく物だよ」

 梅田が弥生のカップにもコーヒーを注いだ。
 熱くて苦くて渋いコーヒーだけど、弥生はそんな事を気にしていなかった。
 ただただ。難波の語る言葉に気を取られていた。

「あ、あの、その、えっと……」
「どうしました?」
「あ…… ありがとう…… ございます」

 実の娘を見るように。
 難波は笑みを浮かべた。

「父親なら当然の事をしただけだ。娘を取られてたまるか!とね」

 満足そうにカップのコーヒーを飲んでいた難波。
 黙って話を聞いていた例の弁護士が横から介入してきた。

「じゃぁ、とりあえず渋谷さんは養子縁組については承認と言う事でよろしいですか?」
「はい。良いです」
「全日航さんのプランを受け入れて、特殊公務員としての登録は無しと言う事で良いですね?」
「はい。そうします」
「では、これをもちまして高度機械化人協会としての仲介業務を終了します」

 弁護士がニコリと笑って弥生へ右手を差し出した。
 その手を無意識に握ったら、手の中に人肌の温もりを感じた。

「渋谷さんは今日で終わりですね」
「……あ、そうか」
「これからは難波さんだ。月並みですけど幸福な人生をおくってください」
「ありがとうございます」
「サイボーグだって幸せに生きる権利がある。それを助けるのが我々協会弁護士です。困り事があったらいつでも」

 笑顔で振り返った弁護士は難波と梅田に一瞥をくれてから、スーッと消えていった。

「では、今度は街でお会いしましょ……

 まるで幽霊のように消えた弁護士。弥生は驚きの表情で見ていた。

「ここからログアウトするとこう見えるんですよ」

 梅田が横から口を挟んだ。

「まぁ、そういう訳でここを出よう。とりあえず街へ出ようか」

 難波が何も無かったはずの壁に手を触れると、突然ドアが現れた。
 ドアノブの無い筈の戸を押してドアを開けると、外は晴れ間の見える通りになっていた。

「では弥生さん」
「……あの」
「なんですか?」

 弥生はまっすぐに難波を見ていた。

「私、今日から難波さんの娘で良いんですか?」
「あなたが嫌で無ければ良いですよ。私の娘で良ければ、むしろ歓迎します」
「じゃぁ」

 弥生はどこか不安さの入り交じった笑顔を浮かべた。

「よろしくお願いします。お父さん」
「……あぁ。よろしく。弥生さん」
「出来れば名前で呼んでください」
「いいんですか?」

 弥生はコクリと頷いた。

「今日で渋谷は終わりです」
「終わりかもしれないけど、君の人生は走り続けるんだ」
「はい」
「今日から私の娘だ。何でも言ってくれ。私の出来る限り、君の力になる」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・」
「さぁ行こう 弥生」
「はい!」

 新しい一歩を踏み出した弥生。
 難波は目を細めて一緒に歩き出した。
 
 お父さん。嬉しそうだな……
 弥生はそう思った。
 だけど、目を細めた理由が違うところにあったのを気が付かされるまでに、5秒と掛からなかった。

「ひっ! ひっ! ヒックション!」
「ぶ! 部長!」
「ウエダグン デッシュ!デッsy ッヒグッション! ブワックション!」

 通りに一歩出た瞬間だった。
 難波が唐突にくしゃみを始め、それが止まらなくなった」

「部長!大丈夫ですか!」
「ず!ずまん……」
「あの…… お父さん 花粉症?」
「あぁ」

 目の前でだらしなく鼻をかんで、近くのゴミ箱に捨てて。
 それでもくしゃみが止まらず、2秒で3回のペースをまもったまま、くしゃみをし続けた。

「う゛ぁっだぐ ごっじへがぶんじょうもじごんだやづばばにがんがえでんだよぉ」
「お父さん何言ってるのかわかんない!」

 弥生は屈託無く笑った。
 梅田もその隣で笑っていた。

「やよックション! 気をつけックション! こっじでかふんしょックション! あぁぁー」

 もう一度鼻水を盛大にはき出して、ティッシュをゴミ箱に捨てて。
 鼻をグシュグシュとやりながら難波が苦笑いを浮かべた。

「あー はやくリアルへ帰ろう あっちだとクシャミが出な ックション!」
「部長!まずは法務局で手続きしないと」
「そうだな。かわいい娘のためだ。もう少し頑張る ックション!」

 大変なシーンなんだが、弥生は屈託無く笑い続けた。
 彼女。渋谷弥生の渋谷としての日々が今日で終わってしまった。
 
 だけど、彼女はまだここに居る。
 生まれ変わった彼女の人生は、まだまだ続くのだった。

コメントをかく


「http://」を含む投稿は禁止されています。

利用規約をご確認のうえご記入下さい

編集にはIDが必要です