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巴波川(うずまがわ) 矢野巌 作 (1949年10月23日)
巴波川 幼い頃の思い出を湛えて
この水は昔ながらに
緑色の長い川藻を
川底に波うたせては
声高に笑ひ
苔の生ふ
美しい川杭に
手をさしのべては
ゆるやかな渦を描いて
身軽に流れ去ってゆく
故郷の町の中央を
北から南に
真一文字に貫いて
南へ南へと
流れ
流れ
流れ去る
巴波の水は
古びた護岸の
石垣に守られて
この町の人々の思い出を
幾十年と忘れることもなく
昔のように今も流れている
そして
ゆるい流れの一ところでは
阿比留達の泳ぎ戯れる
叫び声を
真昼の町に
高々とひびかせ
その白い姿を
流れ去る美しい水面に
そっくりそのまま
白々と映し描いている
流れにそって
長い黒塀のつづく
このところだけ静かな
水の澱みでは
子供達の垂れ下げる
釣り糸をまっすぐ
深々と水中に吸い込んだまま
声をたてずゆっくりと
黙って浮きを運んでいく
夕焼け雲が
西の青ずんだ山の上に高く
明日の秋晴れを約束するころ
町はひととき
明るい赤茶色の
光につつまれ
人の心に豊かな和みを抱かせる
巴波はこの
静かな黄昏の街中に
はやくも夜を秘めて
声を落とし
川底に
薄墨色の闇を流す
何処から出てくるものであろう
蝙蝠達は
その黒いひらひらする影を
夕暮れの光の中に
巴波の川面の
水明かりに
飛びかひ
舞ひ交わしながら
川底に流れる闇を吸ひ
中空に漂ふ闇を吸ふ
何処かの時計が
六時の時刻を打ち知らせると
巴波は岸々に並ぶ
街燈の
平屋の
二階建ての灯りを
明々と川面にともす
夜の水は昔の夢を
語るかのよう
水面の灯火を
一つ一つ揺すり
岸辺の家々から流れ来る
楽しいさざめきを乗せて
ゆっくりと
流れ去る
夜がすっかり町をつつんでしまう
夜がすっかり川を覆ふてしまう
巴波は一つ一つ
川面のともし灯を
そっと消しては流し
消しては流しやる
窓を閉じた家々が
黒々と岸辺に続いて
街燈だけが取り残され
川面の闇にその灯を落とす
巴波は故郷の
夢を抱いて
この町の夜を流れる
巴波は幼い頃の
思い出を秘めて
今も昔のまま
南へ
南へ
流れ 流れ
流れ去って行く
夜の水の
あまりにも
静かなる 巴波
矢野巌(禅巌)(詩人・俳人) 大正3年栃木市万町生まれ・平成19年小田原市没 曹洞宗にて出家矢野禅巌と改めその後還俗。 外務省文化事業部市河彦太郎の秘書務める。 数年後外務省退職 小田原一撮庵にて詩や俳諧三昧送る平成19年没 | (主な著書) 栗実る頃(黄河書院S15年) 雨の中に薔薇は咲いている(S15年) 祈りは私の故郷である(S17年松文堂) |
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