不可避性
ただ、問題なのは、そのどちらの態度がいいのかということが、現在も、そしてまた当分のあいだ問題になり得るとすれば、ぼくはそこにただひとつ入れたい媒介項、基本的な項目がある。それは、不可避性、ということばだと思います。不可避性ということだけが、世界と個をつなぐだろうということです。先ほどからの話のつながりで云えば、歴史的時間と個の時間をつがぐ契機は、不可避性ということだろうと思います。ある社会がある体制をとるということも、ある個人がある経路で自己の時間を送るということも、その両方を媒介するのは、どうしても不可避性ということではないでしょうか。不可避的にそうならざるを得なかったからそういう社会体制になったんだとか、そういう生涯を送らざるを得なかったんだとか、その契機をぬいてはいけないんじゃないか。世界を理解することが世界を変えることだという場合、単に理解にどどまってはいけない、実践的契機をもたなければいけないという考え方と、いやその理解そのものが人間における歴史的知識の実践にほかならないという考え方と、そのどちらがいいのかという場合、不可避性をぬきにしては、個人的な契機としても、歴史的な契機としても、なにも解き得ないじゃないかと思います。
(「現代思想」1975.4青土社、のちに「思想の根源から」1975.6.20青土社に収録された)
隆明鈔--吉本隆明鈔集
(「現代思想」1975.4青土社、のちに「思想の根源から」1975.6.20青土社に収録された)
- これは、「現代思想」の編集部の問いに答えた「歴史と宗教」というインタビュー集での吉本さんの答えである。その問いとは、「世界を理解することが世界を変えることであると同時に、世界を変えることが世界を理解することでもあるように思われます。もし可能であるとすれば、政治的実践はどのように可能でしょうか。どのようにでも可能であるとすれば、人間は責任ある存在としては歴史にかかわり得ないということにならないでしょうか」というものでした。すなわち、この問いとは当時私たちが、一番論じていたことではないでしょうか。この私こそは、「世界を変えよう」とすることこそが「世界を理解する」ことであるという主張の持ち主でした。
- そして今この「不可避性」という媒介項を入れないとならないという吉本さんの言葉を読みますと、なんだかあの時代も私の前に解けてくるような思いがします。何もかもが避けようのない、「何か」の中で突き進んでいたんだよなあという思いなのです。
隆明鈔--吉本隆明鈔集
2006年12月10日(日) 12:42:15 Modified by shomon