隆明鈔--吉本隆明鈔集
はじめに
目次
1941年(昭和16年)
泣いている哲
1942年(昭和17年)
1943年(昭和18年)
少年よ悲願を抱け
1944年(昭和19年)
われら草葬のうちなるいのり
修羅のかげ
彼らよりももっと一途に青白くなる
僕が人々の圏外に追ひやられてゐる
1945年(昭和20年)
科学者
街路樹の下をうつむいてゆく
僕がほれた最初の人
坊主は死ぬに限る
1946年(昭和21年)
緋色の服を着た少女
1947年(昭和22年)
エリアンおまえは此の世に生きられない
1948年(昭和23年)
姉の死
苦しくても己れの歌を唱え
1949年(昭和24年)
1950年(昭和25年)
無数の人たちを畏れよう
僕はそう明な傍観者を好まない
わたしを拒絶する風景
風は過去のほうから来た
1951年(昭和26年)
1952年(昭和27年)
ぼくは秩序の敵であるとおなじにきみたちの敵だ
ぼくの瞋りは無尽蔵だ
全世界を凍らせる
大工と大工の子の神話
ぼくの好きな奴は三人
詩のなかに導入された批評
救ひのない春
1953年(昭和28年)
きみの喪失の感覚は全世界的なものだ
1954年(昭和29年)
マチウ書の作者がつくったジュジュ
マチウ書の仮構と思想
秩序にたいしてとりうる三つの型
予言者は故郷や家では軽べつされる
ぼくが罪を忘れないうちに
とおくまでゆくんだ
1955年(昭和30年)
蕪村詩
関係の絶対性
1956年(昭和31年)
きみもまた老いさらばえる
芸術的評価の軸
1957年(昭和32年)
西行の時代的な苦悩
俺が革命といつたら
しみつたれた鞄をぶらさげて
喰えなくなったら
1958年(昭和33年)
芸術の内容と形式
芥川龍之介の死
文学の形式的構成力
転向
内発的な意志がなければ
大衆からの孤立感
1959年(昭和34年)
わたしの思想の方法
花田清輝
擬制
敗戦の日
1960年(昭和35年)
三冊の本
昆蟲記
新約聖書
資本論
ふとわれにかえったらシラガのお爺さん
何ものにもなるのを拒否する
孤立に死んだ いや生きた
私的利害を優先する
擬制の終焉
1961年(昭和36年)
失業
無精ヒゲを剃れ
精神の闇屋
昼寝をします
詩作の過程に根拠をあたえる
詩
自立
戦後の始まり
60年安保闘争
1962年(昭和37年)
政治学は可能か
丸山真男の天皇制分析のもっとも著しい特徴
大衆はそれ自体として生きている
ファシズム
スターリニズム
もっとも多く沈黙しているのは「死者」たちである
詩的乾坤
1963年(昭和38年)
無方法の方法
模写と鏡
敗戦の日
異常さと平常さとが、間近に対照をうつしだす現実
1964年(昭和39年)
古典
即時的な現実体験をひとつの対自性に転化する
敗北の過程の体験こそ重要である
徹底的に闘わずしては敗北することすら許されていない
1965年(昭和40年)
尖端的言語
表出
指示表出
自己表出
言語の意味
言語の価値
言語の自己表出の歴史
文学体と話体
文字の成立
ひとつの作品はひとりの作家をもっている
勝利だよ、勝利だよ
60年安保闘争
1966年(昭和41年)
いまや一切が終わったからほんとうにはじまる
竹内好
毛沢東の三部作
大衆
知識人
死がおそろしいのは
マルクスの疎外論
1967年(昭和42年)
青春時代には予想さえもしなかった負荷
三角関係
対幻想
幻想
1968年(昭和43年)
関係の絶対性
共同幻想
共同幻想という概念がなりたつのは
共同幻想の死滅
女性
対幻想
神
1969年(昭和44年)
大学
思想の根柢
短歌の意味
公暁はねずみ男
天皇からのあざむかれかたの根拠
天皇の宗教的支配の歴史を相対化すべきカギ
1970年(昭和45年)
地獄を地獄で洗え
宗教
キリスト教
敗北の構造
一つめの敗北
二番目の敗北
三番目の敗北
いちばんだめなやつ
家族
美形
親族
国家
グラフト国家
南島
指向変容
1971年(昭和46年)
インテリ向きの大衆小説
女性にふられる体験
いちばん価値がある存在
もっとも価値ある生き方
逆立して現われる
実朝の死
高橋和巳の文学上のミス
実朝的なもの
制度としての実朝
実朝の渡宋計画
短歌表現の迷路と深み
実朝の歌
心的世界
原生的疎外
純粋疎外
構造的時間性
聴覚と視覚の空間性と時間性
1972年(昭和47年)
このよき人に幸あれ
近親姦が禁止された根拠
自殺
往相
環相
戦争が露出してきた
1973年(昭和48年)
戦争
島尾敏雄の感受性の特異性
言葉で表現する立場
1974年(昭和49年)
初期
最後の親鸞
愚と愚者
『新古今集』の本質
わたしが料理を作るとき
料理は時間である
キリを揉みこむような
写真
1975年(昭和50年)
二十五時間目
ほめ殺し
不可避性
折口の詩
1976年(昭和51年)
珠玉のような人たち
スマート・ボール
すべてを疑え
1977年(昭和52年)
親鸞は橋が架っている
橋を架ける
思想書として読むこと
新約書はいやな言葉において優れている
やはり信じきれない存在
1978年(昭和53年)
修辞的な現代
詩の修辞的な可能性
道元の根本思想
中原中也と自然
中原中也の宿業
長塚節
梶井基次郎の自然
梶井基次郎にやってきた死
アジア的な自然
宇宙フィクション映画
動物と人間
1979年(昭和54年)
親鸞
ヴェイユの戦争の考え方
ヴェイユの戦争についてのもうひとつの指摘
いったん獲得された人間の精神の範囲は逆に戻ることはありえない
ヴェイユの生涯
靖国神社というのは納得できない
空海
死
対馬忠行の死
対馬忠行ソ連論の弱点
1980年(昭和55年)
アジア的
エンゲルスの意志論
人は他者によって作られたじぶんに責任を負わなければならない
護憲
1981年(昭和56年)
言葉という思想
失敗した資本主義
失敗したマルクス主義
一遍の思想
1982年(昭和57年)
現在の特徴
美少年たちの同性愛
停滞
「あの人」よりは先に死なんぞ
反核と反原発
ごろつき、無頼漢
円熟したヴェルテル
素人の時代
1983年(昭和58年)
小林、宣長の源氏理解の欠陥
大衆の原像
川崎徹のCM
源氏物語
自殺を禁じられた太宰治
計らわないこと
信
1984年(昭和59年)
ドストエフスキーの作品
マス・イメージ
風の谷のナウシカ
愉しいファッション
最後の漱石
恋愛は論じられるものではなくするものだ
1985年(昭和60年)
「コム・デ・ギャルソン」と「死霊」
重層的な非決定
書き言葉の喧嘩
ハイ・イメージ
1986年(昭和61年)
左翼とは
住むことについてのこだわり
島尾敏雄の文学
1987年(昭和62年)
柳田国男の二つの中心
鳥瞰映像
人間が鳥であった時
ランドサットの映像
芸の無意識の自殺
りゅうめい
自然とは
1988年(昭和63年)
恋愛には三つの段階がある
正常な恋愛
三角関係の恋愛
自分に禁じている恋愛
アフリカ的
無化する
1989年(平成元年)
手塚治虫
技術者の良心
反原発
原発の小さな事故
原発問題の大道
原発問題の個別的課題
未来の親鸞
1990年(平成2年)
相撲
団塊の世代の課題
生まれたことの意味
消費は遅延された生産
消費社会の核心
ちびまる子ちゃん
1991年(平成3年)
母の型式は子どもの運命を決めてしまう
死
日本国憲法第九条
現在の公害問題
消費税
甦えるヴェイユ
1992年(平成4年)
敗戦期にじぶんとかわした約束
エイズ
東京ディズニーランド
老いの定義
中上健次の文学の思想としての特長
三木成夫の業績
マルクスと折口信夫と三木成夫の三人
内臓系と体壁系
人間の心なり精神を決定している要素
女性の病気は初期と晩期に出る
若いひとの実感
新新宗教と超人的
三角関係小説
1993年(平成5年)
ヴェイユとトロツキーの論争
ヴェイユの最後の到達点
世にも稀な根源的な理路
『門』がいちばん好きな作品
金丸信にたいしてよりも
町内のゴミ当番とおなじように
支配の学の発想
世界の先進地域
清貧
ボランティア
中田さんの父親への違和感
公的なことと私的なこと
カンボジアの問題
国連に寄与したいなら
普段着のままの理想
辛棒づよさ
政治的な愚劇
卑小なそして架空の清潔主義と清貧主義
政治家の存在の基盤
社共の存在の無意味さが露わに
最小限二つの政権担当の能力の政党
社共、左翼勢力の存在意味
労組の存在の理由
レーニン組織論の罪
読むことの愉しみ
経済連環系
途方もないエネルギーの浪費
尾崎豊
本当に偉い人
教育ストック
教育ストックとは何か
使わない部分のストック
日本を世界第二位の経済大国にしたゆえん
生涯の概念
教育の根柢的な目標
ヘーゲルの教育の考え
ルソーの教育への考え
コメについての唯一の立場
1994年(平成6年)
愉しいずれ
七二年が一つの転換期
新・新左翼
超都市論
その都度のイエス・ノー
新しいマルクス
最悪の内閣
小沢一郎の欠陥
超保守的な反動
憲法第九条
国軍をもたない条項
世界で唯一の非戦・非武装条項
なめられた外人部隊
従軍慰安婦問題
言葉狩り
1995年(平成7年)
トルストイの大長編のモチーフ
平和
錯誤に加担した
麻原彰晃の欠陥
浮遊する社会現象
親鸞と蓮如
青島の世界都市博中止
大前研一
世界都市博
サリンを撒いたとおなじだ
青島の都市博中止公約
都市社会の貧困化の政策
柳田国男を理解するには
母の型式は子どもの運命を決めてしまう
1996年(平成8年)
先進的な価値概念と普遍的な価値概念
詩は手と感覚、手と思考との連携の問題
流行歌を書きたくて仕方ない
1997年(平成9年)
実朝の制度的な役割
『源氏物語』は現代小説の条件を全部もっている
小林秀雄の功罪
丸山真男の印象
無意識に恐慌にはなることはありえない
傷を受けたことがその人にマイナスになることはありえない
人間の性格的運命がきまるのは一歳未満のところと思春期に入る手前のところ
いま何が心残りか
情況との対話
1998年(平成10年)
アフリカ的段階
ほんとの「敵」と「味方」
1999年(平成11年)
価値の浮遊性
2000年(平成12年)
常に手を動かすこと
子の七光り
路地の奧ばかり住む
将たる器の人
非党派
2001年(平成13年)
必要なのは叡知がまわること
『源氏』が良い作品だという由縁
死ってお前のもんじゃない
手は独りで生きていて、考えているものだ
日本の近代詩の宿命
コミニュケーション自体が自己目的化したら、それはちょっと病気です
ひきこもるくらいでちょうどいい
吉川英治の物語性
縦に掘らないで横に世界を広げてみせる
ただ違うことを考え、違うことをやっただけ
なぜ、志賀直哉は大家と言われるのか?
島崎藤村の『春』
二葉亭四迷の『平凡』
小泉の構造改革は以前の構改派と同じこと
鈍刀のほうがよく切れるんだ
手を使わなければ何もできない
大学へ行くのは失恋の経験に似ている
一〇年やれば誰でも一丁前になる
自己評価より下のことなら何をやってもいい
人生は孤独との闘いなんだ
綾戸智絵の声はアフリカ的な声だ
2002年(平成14年)
軒遊び
人間力の特性
幼年期
一歳未満までの育ち方がよければ
一〇〇パーセント親のせい
小学校の先生になる気は全然なかった
衰退する街
上の子と下の子
血でわかるということ
「はいさようなら」となるようなつき合い方
ぼくは市民運動が嫌いです
老いの次に死が来るなどということはない
内容プラス文体
司馬遼太郎の小説にはパンチの強弱がない
2003年(平成15年)
世界史の全般にわたって形が見えなくなってしまっている
谷川俊太郎
谷川俊太郎の詩の特徴
谷川俊太郎の詩人の原点
現在の俳句と短歌の違い
優れた詩の条件
美空ひばり
俵万智の短歌
俳句という詩形の常道
主観と客観と必ず織り込まれている俳句
現在の俳句と短歌の違い
老人ホームの隣に保育所を
老いというものをいつ感じたか
そばの美味さ
2004年(平成16年)
重いと軽いを取り違えている
国家は宗教の最終形態
靖国参拝
親鸞の善鸞義絶
恋愛における精神の距離感が遠いんじゃないか
今まで寝ていた神経が、起き上がる感じ。それが恋愛をしたときの実感
女の人の誤解
男のほうがちょっとだけ先に筋道を通してくれないか
男と女が個人と個人でいられない泥沼
男と女の役割は固定されがち
法律はもともとはるか昔の宗教に由来している
結婚生活におよぼす男の母親の影響は大きい
子離れができないような母親に限って、虐待に走るのではないか
恋愛は生涯の貴重品
経験した恋愛について書くことは価値のあるものになる可能性もある
文学の難所
それでも書くことこそ文学ではないか
偏屈系統
散歩も目標が必要
仕事をしているときに息を止める
どんなつまんないことでも、必要なのは目標なんです
部屋が雑然とした中で仕事をした方が、仕事をしているって実感が湧く
漱石との出会いは『硝子戸の中』
天皇のために命を差し出すと考える方がすっきりした
漱石・鴎外と柳田・折口
ひっそりとした日常性のひと齣がいい
文明史的な比喩としての三角関係
空海は才能ある啓蒙家
2005年(平成17年)
家訓をめぐる問題
天皇家をほんとに維持できるのか
昭和天皇は家訓的世界に大胆に手を入れた
中学生のための社会科
自己表出
指示表出
自己表出と指示表出の度合
美しい花がある。花の美しさはない
柳田国男と折口信夫の弥次喜多道中
老幼の類似性と現在の社会現象
消費産業ともいえる第三次産業
無償で贈与し、逆に農産物を食糧分だけ輸入する
人間力
制度としての教師
公開されている情報で把握する
直接本人に聞くのがいちばんいい方法
大切なのは、今の時代のすがたを自分で判断すること
社会の中での自分の役割と個人的な内面
2006年(平成18年)
韻律の決定論
同音異語の多さは日本語の特色
文芸のうえで西欧近代の特徴は何か
近代の詩が西欧近代を受け入れるときの異和
音数律を捨て去って直喩や暗喩を成り立たせた
勝海舟の和歌・漢詩・俳句・長歌などのうちとるべきものは皆無にちかい
作品の意味内容と作品の芸術的な価値とは別概念で、混同して論議はできない
倭建命の物語は日本の神話のなかでは唯一人間らしい匂いがする
神話の英雄も流浪する
思春期は性的な事柄が完全に生活のなかに入ってくる時期だ
宗教
老齢
文芸批評はやるけれど、文学を研究することはやったことがない
批評の要素として二つのこと
笑いというものの幅というか、時代の層が厚くなってきている
文化というのは、食べることと笑うことが肝心
人間力を意識する
自己としての自己
分離というのは人間力なんだ
人間力が残るさ
自己への配慮
人間力としての最後の問題
超人間
女性
手で書き、手で感じる
目が覚めてしまうとどうするのかが問題
内向の程度が精神の半分以上になったとき、老齢の自意識が始まる
Wiki 将門
- 吉本(吉本隆明)さんの世界を学んでいこうとするときに、できたら吉本さんのいくつかの語彙を解説してくれる辞書みたいなものがあればいいのになあと思っていました。それでまずは、私自身で少しづつでもやっていこうかなとはじめました。吉本さんの独特の言葉を探しだし、それがどの著作にのっているのか、いつの年代の発言なのかということを記していきました。そしてその一つ一つの語彙に関する私の簡単なコメントも述べてきました。私はそれを柏市民ネットというパソコン通信の場で、「周の吉本隆明語彙集」として披露してきました。
- これが100とか200たまったときに、印字して友人に配ったところ、それを聞いた他の友人からも、それを求められました。「しかし、こんなにやっていると、本当なら吉本さんに一度ことわるべきだよな」と思いながらも、私には私の尊敬する吉本さんを私ごときのことで煩わせる勇気がなくて、そのままになってきました。
- それがたくさんの方のご好意で、こうしてホームページというかたちで発信することになりました。実は吉本さんにこれを印字したものの一部を見せてくれた方がおりまして、吉本さんから「もっと全部読みたい」というようなコメントがあったということで、それでさらにそれを見ていただき、「それなら、いっそホームページを作って、そこで披露していこう」という気になりました。
- どなたかがこれを読まれまして、「この語彙言葉は、もうすでにこちらの書籍にのっている」とか、発行年月日が違うとかいろいろと気がつかれたことがありましたら、私にまでメールください。再び確認しまして、訂正していきたいと考えます。また私も今後も、いくつもの吉本さんの語彙言葉を自分なりに解釈して、このホームページで述べていきます。こうして吉本さん理解のためのよりよい資料を作っていきたいと考えます。
- 年代別になった目次で語句のリンク先に行きますと、吉本さんの語彙とその出典が判ります。そしてそのあとに私周のコメントが書いてあります。この部分はいらないのじゃないか、と思われるむきもあるかもしれませんね。とにかく、これからもこうして書いてまいります。(2000.08.21)
- 最初は以上のように「吉本隆明語彙集」と呼んでおりましたが、このホームページで披露して、すぐに「吉本隆明語録」と名前を替えました。ところが、吉本さんご自身が「語録というと、『毛沢東語録』を思い浮かべるからね」と言われたということをおききしまして、実は私はもうどうしたらいいのか判らないくらい動揺しまして、考えに考えたあげく「吉本隆明鈔集」としました。略して「隆明鈔」です。これはもちろん「歎異鈔」を真似た命名です。この名称にしたのは1999年2月27日のことです。前日から丸一日考え込んでいたのを思い出します。でもこれなら吉本さんも納得してくれるのじゃないかなと思っています。(2001.12.11)
- この「隆明鈔」も、現在460を越えるの吉本さんの言葉をあちこちから抜き出してきています。これからも吉本さんの書かれた本を読んで、その中の言葉を抜き出していきたいと思っています。
- それにしても、私はこうして毎週の「マガジン将門」にこの「吉本隆明鈔集」をUPするのに、吉本さんの本をいくつも読んでいます。そのときにどうしてもいくつものページを読んでしまっています。
- これからも、この「吉本隆明鈔集」は私の命が続く限り書いてまいります。(2005.11.27)
目次
1941年(昭和16年)
泣いている哲
1942年(昭和17年)
1943年(昭和18年)
少年よ悲願を抱け
1944年(昭和19年)
われら草葬のうちなるいのり
修羅のかげ
彼らよりももっと一途に青白くなる
僕が人々の圏外に追ひやられてゐる
1945年(昭和20年)
科学者
街路樹の下をうつむいてゆく
僕がほれた最初の人
坊主は死ぬに限る
1946年(昭和21年)
緋色の服を着た少女
1947年(昭和22年)
エリアンおまえは此の世に生きられない
1948年(昭和23年)
姉の死
苦しくても己れの歌を唱え
1949年(昭和24年)
1950年(昭和25年)
無数の人たちを畏れよう
僕はそう明な傍観者を好まない
わたしを拒絶する風景
風は過去のほうから来た
1951年(昭和26年)
1952年(昭和27年)
ぼくは秩序の敵であるとおなじにきみたちの敵だ
ぼくの瞋りは無尽蔵だ
全世界を凍らせる
大工と大工の子の神話
ぼくの好きな奴は三人
詩のなかに導入された批評
救ひのない春
1953年(昭和28年)
きみの喪失の感覚は全世界的なものだ
1954年(昭和29年)
マチウ書の作者がつくったジュジュ
マチウ書の仮構と思想
秩序にたいしてとりうる三つの型
予言者は故郷や家では軽べつされる
ぼくが罪を忘れないうちに
とおくまでゆくんだ
1955年(昭和30年)
蕪村詩
関係の絶対性
1956年(昭和31年)
きみもまた老いさらばえる
芸術的評価の軸
1957年(昭和32年)
西行の時代的な苦悩
俺が革命といつたら
しみつたれた鞄をぶらさげて
喰えなくなったら
1958年(昭和33年)
芸術の内容と形式
芥川龍之介の死
文学の形式的構成力
転向
内発的な意志がなければ
大衆からの孤立感
1959年(昭和34年)
わたしの思想の方法
花田清輝
擬制
敗戦の日
1960年(昭和35年)
三冊の本
昆蟲記
新約聖書
資本論
ふとわれにかえったらシラガのお爺さん
何ものにもなるのを拒否する
孤立に死んだ いや生きた
私的利害を優先する
擬制の終焉
1961年(昭和36年)
失業
無精ヒゲを剃れ
精神の闇屋
昼寝をします
詩作の過程に根拠をあたえる
詩
自立
戦後の始まり
60年安保闘争
1962年(昭和37年)
政治学は可能か
丸山真男の天皇制分析のもっとも著しい特徴
大衆はそれ自体として生きている
ファシズム
スターリニズム
もっとも多く沈黙しているのは「死者」たちである
詩的乾坤
1963年(昭和38年)
無方法の方法
模写と鏡
敗戦の日
異常さと平常さとが、間近に対照をうつしだす現実
1964年(昭和39年)
古典
即時的な現実体験をひとつの対自性に転化する
敗北の過程の体験こそ重要である
徹底的に闘わずしては敗北することすら許されていない
1965年(昭和40年)
尖端的言語
表出
指示表出
自己表出
言語の意味
言語の価値
言語の自己表出の歴史
文学体と話体
文字の成立
ひとつの作品はひとりの作家をもっている
勝利だよ、勝利だよ
60年安保闘争
1966年(昭和41年)
いまや一切が終わったからほんとうにはじまる
竹内好
毛沢東の三部作
大衆
知識人
死がおそろしいのは
マルクスの疎外論
1967年(昭和42年)
青春時代には予想さえもしなかった負荷
三角関係
対幻想
幻想
1968年(昭和43年)
関係の絶対性
共同幻想
共同幻想という概念がなりたつのは
共同幻想の死滅
女性
対幻想
神
1969年(昭和44年)
大学
思想の根柢
短歌の意味
公暁はねずみ男
天皇からのあざむかれかたの根拠
天皇の宗教的支配の歴史を相対化すべきカギ
1970年(昭和45年)
地獄を地獄で洗え
宗教
キリスト教
敗北の構造
一つめの敗北
二番目の敗北
三番目の敗北
いちばんだめなやつ
家族
美形
親族
国家
グラフト国家
南島
指向変容
1971年(昭和46年)
インテリ向きの大衆小説
女性にふられる体験
いちばん価値がある存在
もっとも価値ある生き方
逆立して現われる
実朝の死
高橋和巳の文学上のミス
実朝的なもの
制度としての実朝
実朝の渡宋計画
短歌表現の迷路と深み
実朝の歌
心的世界
原生的疎外
純粋疎外
構造的時間性
聴覚と視覚の空間性と時間性
1972年(昭和47年)
このよき人に幸あれ
近親姦が禁止された根拠
自殺
往相
環相
戦争が露出してきた
1973年(昭和48年)
戦争
島尾敏雄の感受性の特異性
言葉で表現する立場
1974年(昭和49年)
初期
最後の親鸞
愚と愚者
『新古今集』の本質
わたしが料理を作るとき
料理は時間である
キリを揉みこむような
写真
1975年(昭和50年)
二十五時間目
ほめ殺し
不可避性
折口の詩
1976年(昭和51年)
珠玉のような人たち
スマート・ボール
すべてを疑え
1977年(昭和52年)
親鸞は橋が架っている
橋を架ける
思想書として読むこと
新約書はいやな言葉において優れている
やはり信じきれない存在
1978年(昭和53年)
修辞的な現代
詩の修辞的な可能性
道元の根本思想
中原中也と自然
中原中也の宿業
長塚節
梶井基次郎の自然
梶井基次郎にやってきた死
アジア的な自然
宇宙フィクション映画
動物と人間
1979年(昭和54年)
親鸞
ヴェイユの戦争の考え方
ヴェイユの戦争についてのもうひとつの指摘
いったん獲得された人間の精神の範囲は逆に戻ることはありえない
ヴェイユの生涯
靖国神社というのは納得できない
空海
死
対馬忠行の死
対馬忠行ソ連論の弱点
1980年(昭和55年)
アジア的
エンゲルスの意志論
人は他者によって作られたじぶんに責任を負わなければならない
護憲
1981年(昭和56年)
言葉という思想
失敗した資本主義
失敗したマルクス主義
一遍の思想
1982年(昭和57年)
現在の特徴
美少年たちの同性愛
停滞
「あの人」よりは先に死なんぞ
反核と反原発
ごろつき、無頼漢
円熟したヴェルテル
素人の時代
1983年(昭和58年)
小林、宣長の源氏理解の欠陥
大衆の原像
川崎徹のCM
源氏物語
自殺を禁じられた太宰治
計らわないこと
信
1984年(昭和59年)
ドストエフスキーの作品
マス・イメージ
風の谷のナウシカ
愉しいファッション
最後の漱石
恋愛は論じられるものではなくするものだ
1985年(昭和60年)
「コム・デ・ギャルソン」と「死霊」
重層的な非決定
書き言葉の喧嘩
ハイ・イメージ
1986年(昭和61年)
左翼とは
住むことについてのこだわり
島尾敏雄の文学
1987年(昭和62年)
柳田国男の二つの中心
鳥瞰映像
人間が鳥であった時
ランドサットの映像
芸の無意識の自殺
りゅうめい
自然とは
1988年(昭和63年)
恋愛には三つの段階がある
正常な恋愛
三角関係の恋愛
自分に禁じている恋愛
アフリカ的
無化する
1989年(平成元年)
手塚治虫
技術者の良心
反原発
原発の小さな事故
原発問題の大道
原発問題の個別的課題
未来の親鸞
1990年(平成2年)
相撲
団塊の世代の課題
生まれたことの意味
消費は遅延された生産
消費社会の核心
ちびまる子ちゃん
1991年(平成3年)
母の型式は子どもの運命を決めてしまう
死
日本国憲法第九条
現在の公害問題
消費税
甦えるヴェイユ
1992年(平成4年)
敗戦期にじぶんとかわした約束
エイズ
東京ディズニーランド
老いの定義
中上健次の文学の思想としての特長
三木成夫の業績
マルクスと折口信夫と三木成夫の三人
内臓系と体壁系
人間の心なり精神を決定している要素
女性の病気は初期と晩期に出る
若いひとの実感
新新宗教と超人的
三角関係小説
1993年(平成5年)
ヴェイユとトロツキーの論争
ヴェイユの最後の到達点
世にも稀な根源的な理路
『門』がいちばん好きな作品
金丸信にたいしてよりも
町内のゴミ当番とおなじように
支配の学の発想
世界の先進地域
清貧
ボランティア
中田さんの父親への違和感
公的なことと私的なこと
カンボジアの問題
国連に寄与したいなら
普段着のままの理想
辛棒づよさ
政治的な愚劇
卑小なそして架空の清潔主義と清貧主義
政治家の存在の基盤
社共の存在の無意味さが露わに
最小限二つの政権担当の能力の政党
社共、左翼勢力の存在意味
労組の存在の理由
レーニン組織論の罪
読むことの愉しみ
経済連環系
途方もないエネルギーの浪費
尾崎豊
本当に偉い人
教育ストック
教育ストックとは何か
使わない部分のストック
日本を世界第二位の経済大国にしたゆえん
生涯の概念
教育の根柢的な目標
ヘーゲルの教育の考え
ルソーの教育への考え
コメについての唯一の立場
1994年(平成6年)
愉しいずれ
七二年が一つの転換期
新・新左翼
超都市論
その都度のイエス・ノー
新しいマルクス
最悪の内閣
小沢一郎の欠陥
超保守的な反動
憲法第九条
国軍をもたない条項
世界で唯一の非戦・非武装条項
なめられた外人部隊
従軍慰安婦問題
言葉狩り
1995年(平成7年)
トルストイの大長編のモチーフ
平和
錯誤に加担した
麻原彰晃の欠陥
浮遊する社会現象
親鸞と蓮如
青島の世界都市博中止
大前研一
世界都市博
サリンを撒いたとおなじだ
青島の都市博中止公約
都市社会の貧困化の政策
柳田国男を理解するには
母の型式は子どもの運命を決めてしまう
1996年(平成8年)
先進的な価値概念と普遍的な価値概念
詩は手と感覚、手と思考との連携の問題
流行歌を書きたくて仕方ない
1997年(平成9年)
実朝の制度的な役割
『源氏物語』は現代小説の条件を全部もっている
小林秀雄の功罪
丸山真男の印象
無意識に恐慌にはなることはありえない
傷を受けたことがその人にマイナスになることはありえない
人間の性格的運命がきまるのは一歳未満のところと思春期に入る手前のところ
いま何が心残りか
情況との対話
1998年(平成10年)
アフリカ的段階
ほんとの「敵」と「味方」
1999年(平成11年)
価値の浮遊性
2000年(平成12年)
常に手を動かすこと
子の七光り
路地の奧ばかり住む
将たる器の人
非党派
2001年(平成13年)
必要なのは叡知がまわること
『源氏』が良い作品だという由縁
死ってお前のもんじゃない
手は独りで生きていて、考えているものだ
日本の近代詩の宿命
コミニュケーション自体が自己目的化したら、それはちょっと病気です
ひきこもるくらいでちょうどいい
吉川英治の物語性
縦に掘らないで横に世界を広げてみせる
ただ違うことを考え、違うことをやっただけ
なぜ、志賀直哉は大家と言われるのか?
島崎藤村の『春』
二葉亭四迷の『平凡』
小泉の構造改革は以前の構改派と同じこと
鈍刀のほうがよく切れるんだ
手を使わなければ何もできない
大学へ行くのは失恋の経験に似ている
一〇年やれば誰でも一丁前になる
自己評価より下のことなら何をやってもいい
人生は孤独との闘いなんだ
綾戸智絵の声はアフリカ的な声だ
2002年(平成14年)
軒遊び
人間力の特性
幼年期
一歳未満までの育ち方がよければ
一〇〇パーセント親のせい
小学校の先生になる気は全然なかった
衰退する街
上の子と下の子
血でわかるということ
「はいさようなら」となるようなつき合い方
ぼくは市民運動が嫌いです
老いの次に死が来るなどということはない
内容プラス文体
司馬遼太郎の小説にはパンチの強弱がない
2003年(平成15年)
世界史の全般にわたって形が見えなくなってしまっている
谷川俊太郎
谷川俊太郎の詩の特徴
谷川俊太郎の詩人の原点
現在の俳句と短歌の違い
優れた詩の条件
美空ひばり
俵万智の短歌
俳句という詩形の常道
主観と客観と必ず織り込まれている俳句
現在の俳句と短歌の違い
老人ホームの隣に保育所を
老いというものをいつ感じたか
そばの美味さ
2004年(平成16年)
重いと軽いを取り違えている
国家は宗教の最終形態
靖国参拝
親鸞の善鸞義絶
恋愛における精神の距離感が遠いんじゃないか
今まで寝ていた神経が、起き上がる感じ。それが恋愛をしたときの実感
女の人の誤解
男のほうがちょっとだけ先に筋道を通してくれないか
男と女が個人と個人でいられない泥沼
男と女の役割は固定されがち
法律はもともとはるか昔の宗教に由来している
結婚生活におよぼす男の母親の影響は大きい
子離れができないような母親に限って、虐待に走るのではないか
恋愛は生涯の貴重品
経験した恋愛について書くことは価値のあるものになる可能性もある
文学の難所
それでも書くことこそ文学ではないか
偏屈系統
散歩も目標が必要
仕事をしているときに息を止める
どんなつまんないことでも、必要なのは目標なんです
部屋が雑然とした中で仕事をした方が、仕事をしているって実感が湧く
漱石との出会いは『硝子戸の中』
天皇のために命を差し出すと考える方がすっきりした
漱石・鴎外と柳田・折口
ひっそりとした日常性のひと齣がいい
文明史的な比喩としての三角関係
空海は才能ある啓蒙家
2005年(平成17年)
家訓をめぐる問題
天皇家をほんとに維持できるのか
昭和天皇は家訓的世界に大胆に手を入れた
中学生のための社会科
自己表出
指示表出
自己表出と指示表出の度合
美しい花がある。花の美しさはない
柳田国男と折口信夫の弥次喜多道中
老幼の類似性と現在の社会現象
消費産業ともいえる第三次産業
無償で贈与し、逆に農産物を食糧分だけ輸入する
人間力
制度としての教師
公開されている情報で把握する
直接本人に聞くのがいちばんいい方法
大切なのは、今の時代のすがたを自分で判断すること
社会の中での自分の役割と個人的な内面
2006年(平成18年)
韻律の決定論
同音異語の多さは日本語の特色
文芸のうえで西欧近代の特徴は何か
近代の詩が西欧近代を受け入れるときの異和
音数律を捨て去って直喩や暗喩を成り立たせた
勝海舟の和歌・漢詩・俳句・長歌などのうちとるべきものは皆無にちかい
作品の意味内容と作品の芸術的な価値とは別概念で、混同して論議はできない
倭建命の物語は日本の神話のなかでは唯一人間らしい匂いがする
神話の英雄も流浪する
思春期は性的な事柄が完全に生活のなかに入ってくる時期だ
宗教
老齢
文芸批評はやるけれど、文学を研究することはやったことがない
批評の要素として二つのこと
笑いというものの幅というか、時代の層が厚くなってきている
文化というのは、食べることと笑うことが肝心
人間力を意識する
自己としての自己
分離というのは人間力なんだ
人間力が残るさ
自己への配慮
人間力としての最後の問題
超人間
女性
手で書き、手で感じる
目が覚めてしまうとどうするのかが問題
内向の程度が精神の半分以上になったとき、老齢の自意識が始まる
Wiki 将門
2006年12月10日(日) 21:30:49 Modified by shomon