94-06-15「その都度のイエス・ノー」
と全く同じ思いをしたことがありましたので、また書いていきたいと思います。
私がちょっとこの間、不当な地上げにあっているところのことで、どうやらまともに闘い続けてられているところがあるのですが、そこの人たちの友人の女性からの相談でした。まだ電話で聞いただけですし、当然あまり詳しく内容は書けません。
ある女性なのですが、婚約同棲した男から、どうみても結婚サギでだまされたとしてしか思えないできごとなのです。多額のお金を取られ、さらに暴行を受け、かなりな怪我もしてしまいました。どうみても、話を聞く限りひどい男なのですが、私がいいたいのは、そのことではありません。
まず、怪我させられた云々に関しては、警察は「家庭内部のこと」ととりあってくれなかったそうです。ちょっとひどい警察だなとまずは思うのですが、でも、これは彼女の問題の提出がまずい点もあったのかもしれません。これは今後みていけば判ることかもしれません。
私が怒りを覚えたのは、彼女が相談をした弁護士の態度です。一人の弁護士は、次のように言ったそうです。
- あなたが、馬鹿だったのだから、もうそんな悪い男にだまされないようにすることだ。
といって笑ったそうです。
もうひとりの弁護士は、それは役所の無料電話相談だったらしいのですが、「女性の人権を守る会」とかいう弁護士だったそうです。彼は、それはその男が悪いのだから、けっして諦めることはないといったそうです。
- これからは、もう女の時代なのだから、女であるあなたも、諦めないでその悪い男に対し、闘い続けなければいけない。
これには彼女も心強くなり、是非その弁護士にもう直接頼みたくなったのだそうですが、名前は教えてもらえず、役所に聞いても、所属事務所すら教えてもらえないのだそうです。最初は力強く感じた彼女も、なんだかはぐらかされた感じで、もうがっかりしてしまいました(この弁護士は日共系の弁護士だったようです)。
あと二人弁護士の無料相談を受けたらしいのですが、どうにもなりそうもなく、本当にがっかりして、もう人と口きくのも、外へ出るのも嫌になったようです。まったくの人間不信という感じだったようです。
私はたくさんの弁護士の友人がいますから、紹介して欲しいという要請がときどきありますが、紹介する以上ある程度事を把握してから、私がやれる分野に関しては、弁護士と相談してやりますから、必ず話を聞くことにしているのです。
私はこの「派遣ホストのことで」で以下のように言いました。
- まず最初にいうべきは、だました奴が悪いのです。それを最初にいわない連中なんて最低な連中です。
- だますほうが第一義的に悪いのです。そのことを忘れた論議は話にならないのです。
- はっきりしているのは、だました側がどんなことがあっても悪いのです。
- だますほうがいくらでも考えれば、どうやってもひっかけることができるんじゃないの。悪いのは、あの男たちで、あの女の子たちが無知で悪いわけじゃないんだ。そこを間違っちゃいけないんだよ。だますほうが有利で、まず絶対に悪いんだ。
まったく同じことなのです。何故彼女の相談を受けた弁護士たちは、この当り前のことがいえないのでしょうか。彼女とは次のように電話にて話しました。
- 彼女「やっぱり、私が馬鹿な女だったのがいけないので、諦めなさいということなのでしょうか」
- 私 「いや、人が人を愛して幸せになりたいと思うのは、むしろ当り前なことなのです。そうした貴女の優しい気持を利用した奴の方が徹底的に悪いのです。だから、そうしたら、その悪い奴からお金をどうしたらとりもどせるのかできないのか、そしてその悪い奴をこれからどのようにしようかと考えていきましょうよ」
- 彼女「いままで、そんな言い方をしてくれた人はいません。もう今は、人に会いたくない、人と口を聞きたくないという気持だけでした。そんな言葉は初めて聞きました…………」
これから、どうなるかはまだ判りません。どのようにしていこうかというのは、もう考えてあります。
しかし、彼女と話した各弁護士たちにはもう腹がたつばかりです。
私は「吉本隆明鈔集」にて次のような吉本さんの言葉をひろいました。
- その都度のイエス・ノー
- ですから、ここ十年、十五年までの間に限っていえば、小沢一郎の意見に僕は異論ないですね。現状のように「体制−反体制」の対立や左翼性が消滅した時代が続き、その都度の「イエス・ノー」が時代を動かすことになるんじゃないでしょうか。(「わが転向」1994.4「文藝春秋」4月特別号)
- もはや「左翼性」などというものが有効性を持たないのは明らかである。そうなのだから、この「その都度のイエス・ノー」ということが大事な原則になってくるわけだ。これはいつもどんな場面でも私たちの前に提示される選択肢として判断していかなければならない。いいですか、そらすぐ目の前にもう迫っていますよ。いままでのように、ある政党を選挙なりで選んでいれば、反体制のポーズができるなんてことは終ってしまったし、有効性は何もないのだ。そう、なんらかのイエス・ノーを、その都度、自分たちでやっていくのだ。
まさしく、私の前にも「その都度のイエス・ノー」という原則がいつも突き付けられていると思います。「反体制」も「民主主義勢力」も「法のプロ」も、何にも頼ることは出来ないのです。「その都度のイエス・ノー」をひとりひとりがやっていく時代になっていると思うのです。
この話の結果をいいます。私は私の会社の役員をやってくれておりますの大口昭彦弁護士をすぐ紹介しました。それですぐに大口さんと電話で直接話せるように手配しました。
実は、彼女と私の最初の電話で、彼女は泣いていたのです。私が喋る内容について、「こんな暖かい言葉をもらったのははじめてだ」ということでした。そして大口さんとの電話のあと、また私に電話くれたのですが、
- あんなに暖かい言葉で話してくれる弁護士さんなんてはじめてです。私はお話しながら泣いていました。
と言っていました。そして大口さんは、彼女の相手の悪い男をすぐさま訴える手続きをはじめました。そしてその闘いの中でだんだん判ってきたのですが、相手の男は、重婚もしているという実に悪い奴でした。当然彼女の言い分が通って彼のほうから和解を言いだします。
そして彼女は変わりました。最初電話で話したときには、実に元気のない、あまり斬れる感じの方ではなかったのですが、この闘いの中で、実に元気になりました。このときは弁護士の大口さんにやってもらったわけですが、この闘いに勝利したとは、もう自分でなんでもやるようになっていきました。私はちょうど1年後くらいに、彼女を紹介してくれた蕎麦屋さんで、彼女とはじめてお会いしたのですが、とても元気で魅力的な彼女に会うことができたものです。私はとても嬉しくて、ただただそのお店で腹いっぱい飲んでしまったものでした。
(2002.01.09)
情況への発言
2007年01月21日(日) 09:00:41 Modified by shomon