冷戦時代の核実験や民間防衛をめぐるカルチャー

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原爆の影の調査(1946)


米軍は1946年3月と4月に日本の広島で撮影を行った。撮影の目的は、1946年8月に都市に投下された>原爆の高熱により、爆発から遠くでも、「焼き付けられた」影ができた理由を示すことだった。有名なシーンは以下の通り:(RestrictedData)
00:36ガスタンクの西側に位置する脱硫タンクの西側のボルトによる影
01:12ボイラーに立てかけられた鉄の梯子による太陽の影。鉄の梯子の上部は、原爆の閃光でできた影がよく見えるように、日本の作業員が取り外した。原爆の影と太陽の影を区別できるように、複数のアングルで撮影されている。
01:29タンク側面のバルブの影
03:06別の梯子
03:33原爆の爆発時にタンクに立てかけられていた竹製の梯子でできたガスホルダー側面の影。梯子の上から3段目が壊れていたことがわかる。影は梯子の上部でできた。梯子とタンクの下部の大部分は、隣接する建物に隠れていたため、閃光にはあたっていない。
05:14貯蔵タンクの上部の凹んだ部分にたまった雨水と、周囲にあったカモフラージュネットの影
08:32広島の操車場にあった鉄道車両の側面には閃光による焼け跡がある。
09:40レッドベリーの上にできた閃光の影のクローズアップ。爆心から約2217メートル。
10:26住友銀行の入口付近の花崗岩の階段に座っている日本人男性。方位角106度で爆心から282メートル。1945年8月6日午前8時14分に、爆心に向かって座っていた人物をできるだけに忠実に再現した。花崗岩の階段に焼き付けられた、人物の臀部の影を示すズームダウン。右足首が階段の上に影を落としているが、左足が階段の上の段にあったので、対応する影は階段に焼き付けられていなかったことは、興味深い。
12:41元の位置にあったときに、相当の長さの木材によって、建物95のG棟の上の小さなコンクリートタワーの東の壁に焼き付けられた影。日本の少年が、壁にできた影を示すために、少し離れた位置で木材を固定している。木材に取り付けられた藁縄が閃光で発火しなかったことは興味深い。
13:41原爆が爆発した時にどこにあったか不明なフォードセダンのペンキに対する閃光の効果を示す一連のシーン。これらのシーンには、右側の排気管によって焼き付けられた影もある。この車は木炭ストーブと化して、壊れた。
14:26橋20は、左側の欄干からアスファルトに投げかけられた太陽の影と焼き付けられた原爆の影の関係を示している。人力車を引く男の影もコンクリートに投げかけられている。このシーンは、男と人力車と客による実際の影の再現である。



最も有名なシーンは、人間の影をつくった人物を再現すべく、日本人男性が、推定される足の位置を含めてポーズをとっているシーンだろう。「閃光映像を挟んで、蒸発して影だけ残すシーン」として、この映像を見たことがある人は、そこそこいるかもしれない。



人影の石

いわゆる「人影の石」が撮影された最古の写真は、1945年11月20日の米軍によるもの

UNIDENTIFIED PHOTOGRAPHER, UNITED STATES GOVERNMENT ( November 20, 1945)
[Flash burns on steps of Sumitomo Bank Company, Hiroshima branch]

[ The International Center of Photography ]

ここの座っていて、影を作った人物が誰かは不明だが、一時期、当時42歳の女性ではないかとされた。
1971/1/13
住友銀行広島支店前の「死の人影」の主を収容したのは自分だという大阪の元兵士が名乗り出る。大阪府被団協常任幹事の増山幸男さん。陸軍船舶練習部教導連隊に所属。遺体の収容作業に当たり、作業本部をおくため住友銀行入り口の遺体を整理

1971/1/15
「広島市の住友銀行広島支店の『死の人影』は、私の母の越智ミツノでは」−。市内大宮2丁目の越智幸子さんが名乗り。被爆直前、支店前に座っていた越智さんの母、ミツノさんを見かけた知人と対面し確信

1971/1/26
広島市紙屋町、住友銀行広島支店前の石段に刻まれた「死の人影」が、同支店新築に伴い、原爆資料館に移転へ。ビルは1928年の建築。爆心から280メートルにあり、石段に座っていた人の影が原爆の熱線で焼き付いた。1967年7月、風化を防ぐためガラスケースで保護。切り取り作業には佐藤重夫広島大教授、小倉馨原爆資料館長らも立ち会う。座っていた部分約3.3平方メートルと背中の部分高さ約2メートル。2月2日、原爆資料館へ搬入

[ ヒロシマの記録 1971 1月 (ヒロシマ平和メディアセンター, 中國新聞) ]
広島市中区の原爆資料館は一日、原爆の熱線を浴びて黒色に変色 した住友銀行広島支店の「人影の石」の説明板に、遺族からの「影 の主は私の母では」との申し出に応じて、その母親の名前を追加し た。

申し出ていたのは広島県佐伯郡沖美町、主婦越智幸子さん(69)。 新たな説明は「この人影は自分の母親である越智ミツノさん(当時 四十二歳)ではないかと申し出がありました」との表現。「熱線の 影響で黒く変色した」との、これまでの説明板に追加した。

一九七一(昭和四六)年、旧広島支店の取り壊しに伴い、石段が 資料館に展示され、ミツノさんが原爆投下直前に同支店の石段に座 っていたとの目撃者が現れた。このため、越智さんは資料館に表示 を申し入れたが認められず、孫娘らの勧めで昨年、再び申し出た

[ 「原爆の日」前後 (1997), (ヒロシマ平和メディアセンター, 中國新聞) ]
しかし、その後、確定できなかったのか、広島平和記念資料館の記述に人名はない。
寄贈者:住友銀行広島支店
被爆場所:紙屋町(現在の紙屋町1丁目)
爆心地からの距離260m

銀行の入口の階段に腰こしかけ、銀行の開店を待っていた人が、原爆炸裂の一瞬の閃光を正面から受け、大火傷を負い逃にげることもできないまま、その場で死亡したものと思われます。強烈な熱線により、まわりの石段の表面は白っぽく変化し、その人が腰こしかけていた部分が影かげのように黒くなって残りました

[ 人影の石, 広島平和記念資料館

また、2000年になって、奈良国立文化財研究所埋蔵文化財センターの調査により、人影の石」の影の部分は、付着物によるものであることが判明。
2000/3/22
原爆の熱線で、できたとして広島市の原爆資料館に展示されている「人影の石」の影の部分は、付着物によって、黒くなっていることが奈良国立文化財研究所埋蔵文化財センターの調査により判明

[ ヒロシマの記録2000 3月 (ヒロシマ平和メディアセンター, 中國新聞) ]

なお、この「人影の石」は、原爆再現映像として人が蒸発する形の表現で利用されているが、実際には蒸発することはない。
「広島・長崎の原爆災害」(1979年)によると爆発直後、約30万度の火の玉ができた。この玉から放射された熱線は爆発から0・2―3秒後まで降り注ぎ、爆心地の地表面の温度は3000度から4000度に達したと推定される。
...
広島大名誉教授の大谷美奈子医師(救急・集中治療)に聞くと、きっぱりと否定した。熱線で人体が一瞬で蒸発してしまうことは考えられないという。「熱線が体のどれほど深くまで到達したかは分からないが、人体は燃えたとしても炭化した組織や、少なくとも骨は残る」
...
子どものころ「『人影の石』の前にいた人は一瞬で蒸発して消えてしまった」と聞いたことがあるという広島大原爆放射線医科学研究所(原医研)の星正治教授(放射線生物・物理学)はしかし、「人体は炭素原子からできた有機物なので高温でも蒸発することはなく、炭になって残る」と否定する。

[ "(47)熱線で「人が蒸発」本当?", 10代がつくるひろしま国 (ヒロシマ平和メディアセンター, 中國新聞) ]





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