冷戦時代の核実験や民間防衛をめぐるカルチャー

ロシア右翼, ロシア史教科書

ロシア史11§17 §7 1953-1964年のソ連における科学技術の発展


2023年秋学期からロシアで使われている11学年用のロシア史(1945〜21世紀)教科書には、「特別軍事作戦」以外にも、プーチンあるいはかつてのソ連共産党の見方が公式歴史として記されている。

そのひとつが、フルシチョフ時代のソ連の科学技術の発展である。とても立派な発展があったことが記載されているセクションで、特にジェット機とロケット&宇宙開発は目立つところ。




しかし、そこには書かれていないソ連の歴史がある。このセクションに登場するツボレフもコロリョフも、スターリン政権もしくはその忠実な後継政権のもとでは、活躍どころか生存も危うかった:
フルシチョフ時代に起こった重大な変化がスターリン粛清に対する大胆な批判と、政治的弾圧の犠牲となった数百万人の名誉回復であることはいうまでもない。

この名誉回復も、すでに収容所でこの世を去ったアカデミー会員ヴァヴィロフ、カルペチェンコ、ナドソン、G.K.メイステル、N.M.トライコフら多数の輝かしい才能にとってはあまりにも遅かった。しかし、1930年代、あるいは戦後の粛清によって逮捕された数千人の科学者たちは、収容所群島から生き永らえて出てきた。一部の科学者は病身だったが、大多数は健康で、さらに重要なことは自分の研究を継続できる精神を保持していた。収容所の研究センターから釈放された人びとは健康で、その研究作業は中断されなかった。しかし、技術的に、あるいは軍事的に有用な分野に属していなかった多くの人びとは5年から20年にわたって矯正収容所で重労働に従事した。彼らは科学界の"新鮮な"注入液とはならなかった。しかし、それにもかかわらず、彼らはきわめて貴重な存在で、若い世代をだめにしたエセ科学教育とは無縁だった。彼らの一部は名声を回復し、重要な研究を行うことができた。

名誉回復後、ツポレフやコロリョフはTU型の軍用機、民間機や、最初の人工衛星、宇宙飛行士を打ち上げたロケットの開発に衝撃的な成果をあげ、工学面のスタートとなった。しかし、生物学者の中にも、長い刑務所、あるいは収容所生活を終えたあと、その主要研究を行った人びとがいた。現在、科学アカデミー副総裁で、生化学の分野の重要な研究のためレーニン賞を受けたA.A.バーエフは12年間の収容所生活を送った。モーガン学派のかどで三度にわたり逮捕され、10年以上も収容所暮らしを経騒したV.P.エフロイムソンは、50歳で出獄した時、専攻をカイコの遺伝から人間の遺伝に変えた。彼は完全に破壊された医用遺伝学の復活により、もっとも著名な研究者となった。N.V.チモフェーエフ=レソフスキーは55歳で釈放されたが、なお効率的な研究チームを組織し、進化論、放射線生物学、遺伝学に関して3冊の著書をものにした。アカデミー会員で電子工学のA.I.ベルグは、60歳を過ぎてから名誉回復され、1955年に開始されたソ連のサイバネティックス研究開発の中心人物となった。彼は科学アカデミーにサイバネティックスーコンビューター問題評議会を設立した。この評議会は現代科学、技術のもっとも重要な分野の発展を支援する中心的役割を果たした。このような例は他にも多く見られる。

ソ連と、スターリン時代に発展した西側との科学・技術面の格差はソ連科学のほば全面的な孤立のため1953年以前には明らかにならなかった。外国の科学者たちとの通信も、文献の交換も許されなかった。1935年以降、外国の仲間たちとの個人的接触や外国への科学旅行は実質的に行われなかった。科学、技術のあれこれの分野の遅れを公然と、あるいは私的にも述べることは、逮捕を招いた。もっとも重要な科学発見や技術的発明をソ連の科学者たちの功績にしようとする大衆科学読み物がとくに奨励された。

軍事・工業部門の指導におけるスターリンの罪状と過ちを暴露した1956年の第20回共産党大会でのフルシチョフの「秘密」報告のあと、現実の状況を隠しておくことはもはや不可能となった。新たな状況が現われ始めた。科学、技術の遅れが公然と認められ、亡くなった独裁者にこの全責任を押しつけることが可能となった。

(第6章 フルシチョフ改革とソ連科学の発展(1953-1964), pp.57-59)

[Z.メデヴェジェフ (熊井譲治 訳): "ソ連における科学と政治", みすず書房, 1980]
ただし、その後、フルシチョフもソ連科学を再生できなかった

さらに、旧ソ連のジェット機技術は、ドイツからの戦後収奪により、その基礎が築かれている。
5. 空前の技術の"収奪"の帰結

膨大な数の設計図、設計データのみならず、約8,000人のドイツ人技術者、労働者を動員し、さらにそのうち約1,400人(家族を含めると約3,500人)を自国領内にまで連行し、ついには6万8,960台(計画)もの機械・設備を工場30ヵ所から接収してすすめられた旧ソ連邦最初期のジェット機開発は、歴史上類を見ないほど大規模な技術の"収奪"の過程であった。

しかし、このような大規模な技術移転の企てにもかかわらず、また、スターリンの厳命にもかかわらず,分割占領ゆえの設備・原材料確保の困難や人材確保の困難、ソ連邦軍政関係者間の連絡体制の欠如や官僚主義などによってドイツ領内における研究開発活動は中途半端なまま、旧ソ連邦領内への研究開発拠点の移転が強行されたのであり、そこで、Meー262やМиг-9の例に典型的にしめされたように、ドイツのジェット・エンジン技術などとソ連邦の機体設計がしばしば、"結合"された。より正確に言えば、妥協的方策として相補的に組み合わされざるをえなかったのである。

ジェット機開発のこうした"成功"は,間違いなく、軍需工業官庁としての航空機工業省の発展,あるいは膨張の画期となった。とくに1941年12月には、疎開のため同人民委員部はいきなり21万8,000人(うち技術職有資格者13万7,000人)の求人をおこなったが,これは、全軍需工業関係求人47万人中、ひとつの省としては最大の数であ。った(弾薬人民委員部:13万6,000人、装備人民委員部:6万4,200人、戦車人民委員部=4万5,000人)。

戦後の"民生転換"措置により一時、エネルギー設備、電力設備、バス、オートバイの供給を拡充したものの、1946-1950年の第5次5か年計画では、軍用機2万5,7650機(うちジェット機5,700機)の生産が計画され、同省は軍需工業官庁としての性格を取り戻していく。1946年次計画では航空機工業省の民生品生産の割合は50.2%、1950年次計画でも46.8%とたいへん高い比重を占めていたが、同年の実績では25.1%(つまり、軍需生産が74.9%)となった。1952年10月、19回大会直前、党中央委員会機械製作工業課作成の「1938-1959年 ソ連機槭製作工業の発展に関する資料」では,航空機工業省はこの期間中20機種の飛行機を製作、うち9機種をシリーズ化し、30種のエンジン、ジェットエンジンを開発し、ジェットエンジンでは2機種をシリーズ生産に移した。航空機の総生産台数にしめるジェット機の割合は、1946年には1%にすぎなかったが、1948年には6,530機の生産計画中、750機がジェット機であった。して、1950年には早くも65%になったのである。(pp.254-255)

[市川浩: "冷戦と科学技術 旧ソ連邦 1945-1955年", ミネルヴァ書房, 2007]

また、人材と技術のみなら、機器類もドイツから収奪していた。
表5-1、航空機工業省管轄下の設備移送作戦対象企業一覧
[1]「アルグス」社工場: 1,497台の金属切削機械、20台のプレス機、2大のハンマー、2,080台の種々の設備、1,022ケースの機器・工具類が鉄道貨物車両部隊9隊に積載完了。
[2]「ヒルト」社工場(ノイケルン州ヴァルタースドルフ): 設備235台
[3]「クルト・ヘーデルマン」社工場:設備236台
[4]「テーヴェツ=ヴェルケ」社工場(ヴィテナウ):設備783台、うち234台が金属切削工作機械
[5]「デファウエル」研究所: 6,683機.うち436台が金属切削作機槭
[6] BMW社シュパンダウ工場:後日報告
[7]「ヘンケル」社ロストック工場: 設備2,337台(うち、金属切削工作機槭は938台)、貨物列車17両とトラック部隊1隊で運び出し完了
[8]「ヘンケル」社オラニエンブルク工場
[9]「アラド」社ラーテノフ工場: すでに1,024台(うち、金属切削工作機械は424台)、すべてソ連邦に向けて発送済み。これらには衛生関連設備、計測制御機器も含まれる
[10]「アラド」社ヘノーフェン工場
[11]「アラド」社ポツダム工場
[12]「シュレーゲル」社ゴルソン工場
[13] BMW社バスドルフ工場: 設備1,229台
[14]「メメファ」社ヴァーレン工場: 114台が非鉄金属工業人民委員部へ、69台が重建設業人民委員部へ譲渡されたため、移送対象設備967台中784台だけ航空機工業省分として、輸送部隊20隊の力で移送
[15]「アスターニャ=ヴェルナ」工場: 第122工場へ設備1,240台移送
[16] BMW社ハルバーシュタット工場: 設備755台
[17]「アイゾ」社アイスフェルド工場: 設備242台
[18]「クストロフ=ヴェルケ」社カラ工場: 設備682台
[19]「ジベル・フリュクツォイヒ=ヴェルケ」社ハレ工場: 試験研究継続中につき、発想台数未確認
[20]「ユンカース」社デッサウ工場: 同上
[21] BMW社シュタスフルト工場: 同上
[22]「ユンカース」社シェーネベック工場
[23]「ラオタール=ヴェルケ」社ヴェルニヘロデ工場
[24]「ミッテル・ドイッチェ:ヴェルケ」社へルツへロデ軽合金工場
[25]「エルスター」社ベルステンドルフ工場
[26]「ダイムラー・ペンツ」社ベルステンドルフ工場
[27]「ユンカース」社オーパースパッハエ場
[28]「ヴェーヌス=ヴェルケ」社ヴェーヌスペルク工場
[29]「ユンカース」社マクレンブルク工場
[30]オーパールンクヴィッツ発電所:タービン一機、タービン発電機1台、電動機1台、ポンプ1機、コンデンサー1機、変圧器1機、蒸気ポンプ1機をイルクーツケの第工場へ移送
(p.245)

[市川浩: "冷戦と科学技術 旧ソ連邦 1945-1955年", ミネルヴァ書房, 2007]

これらの史実は、ロシア史で語られることはない。

ロシア史1945-21世紀
(日本語)




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