冷戦時代の核実験や民間防衛をめぐるカルチャー

ロシア右翼

「ウクライナ」の原義と「マロロシア」「ノヴォロシア」


「ウクライナ」は、基本的には「諸国・諸地方」に対する内名、「辺境・国境地帯」という外名、「コサック国家」の名称、そしてソ連崩壊後の独立国の名称である。そして、ロシア帝国支配下では地域名としての「マロロシア」「ノヴォロシア」という異名を付けられている。
キエフ・ルーシ時代、「ウクライナ」は大公国の版図に属する諸国・諸地方に対する内名として用いられた。これに続くキエフ大公座の衰退や東欧平原南部の「荒野」化の時代になると、「ウクライナ」は危険な辺境・国境地帯を意味する外名としてのニュアンスを帯びてゆく。この「荒野」化が逆説的にもたらしたコサック共同体の発生とその勢力拡大の時代には、「ウクライナ」は自由と独立不羈を掲ける彼らの「祖国」を表わす内名となった。そのコサック国家が再び周辺列強の支配下に取り込まれ、かって「荒野」と呼ばれた地域に「ノヴォロシア(新ロシア)」「マロロシア(小口シア)」という新たな異名があてがわれた時代、あるいはロシア革命後、ソ連を構成する一共和国として、「ソヴィエト」という称号が国名に冠された時代、「ウクライナ」は中東欧の大局的な「中心/周縁」の政治力学上、やはり「周縁」であることを余儀なくされた外名であった。そして現在、「ウクライナ」は再び、固有の輪郭を備えた「独立国家」という領域概念の内名として、内政・外政上の様々な課題を抱えながらも、新たな自己形成の歩みを進めようとしている。

[原田義也: "第1章「ウクライナ」とは何か -- 国名の由来とその解釈" in 服部倫卓, 原田義也 編著: "ウクライナを知るための65章", 明石書店, 2018]

もう少し、語源まで遡っても、意味合いは変わらない。
「ウクライナ」という言葉自体がウクライナ人のプライドとの感k連で問題を提供している。これまでロシア(ソ連)史をベースとした学説は、ウクライナのもとのとの意味は「辺境地帯」であるとしていた。辺境とは、当時のポーランドやリトアニアから見ての辺境である。しかし現在ウクライナでは、当時ウクライナという語には必ずしも辺境という意味はなく、単に「土地」(英語でいう「ランド」)または「国」を意味する語であったという説が出ている。それは、ウクライナという語が最初に現れる以下の文献の用例から見て辺境を意味する言第としては辻褄が合わないし、いずれにせよ自分たちの土地や国を誇りをもって辺境と呼ぶことはらえられないとするものである。

「ウクライナ」という語の語幹にあたる'krai'という語は、もともとスラヴ語で「切る」とか「分ける」という意味であった。現在のロシア語・ウクライナ語でも'krai'という名詞は、「端」、「地方」、「国」という意味を有している。「ウクライナ」という語が文献に現れてくるのは、12〜13世紀である。『キエフ年代記』は、1187年ペレヤスラフ公国のヴォロディーイミル公が死んだ際、「ウクライナは彼のために悲しみ嘆いた」と述べた。また同年代記ま、ある公が「ハーリチのウクライナ」に着いたと記している。また『ハーリチ・ヴォルイニ年代記』は、1213年、公になる前のダニーロが「プレスト、ウフレヴスクなどすべてのウクライナを再統一した」と記している。確かにこれらの用例から見れば、「ウクライナ」は、「辺境地帯」というより単に「土地」とか「国」を表す普通名詞であったと考えたほうが自然に思われる。また、たとえそれが辺境という意味の言葉から発生したとしても、それはモスクワないし後のロシア帝国から見ての辺境という意味で生まれたのではなかったことは確かである。12〜13世紀のモスクワ地方は同様な、あるいはそれ以上の辺境であった。

さて16世紀になると「ウクライナ」ははじめて特定の地を指すようになる。コサックの台頭とともに「ウクライナ」はドニエプル川両岸に広がるコサック地帯を指すようになった。たとえば1622年コサックの指導者(ヘトアン)、サハイダチニーは、ポーランド王宛ての手紙で、「ウクライナ、われらの正統で永遠の故国」、「ウクライナの諸都市」、「ウクライナの民」などの表現を用いている。そしてコサックの下では「ウクライナ」は祖国という意味を込めた政治的、詩的な言葉となり、コサックの指導者の宣言や文書にはそのような意味で使われる「ウクライナ」が繰り返し出てくる。

19世紀になりロシア帝国がウクライナの大部分を支配下に置く頃には、「ウクライナ」は現在のウクライナの地全体を表す言葉になる。しかし当時ロシア帝国はウクライナの地を公式に表すのに「小口シア」という語を用いた。19世紀のウクライナの国民詩人シュフチェンコは、「小ロシア」を屈辱と植民地的隷属0言葉とし排除し、「ウクライナ」をコサックの栄光の歴史と国の独立に結びつけて使った。

「ウクライナ」が短期間なりとも独立国家の正式名称として使われるためには、なんと1917年ウクライナ民族主義者により「ウクライナ国民共和国」の樹立宣言がなされるときまで待たなければならなかったのである。

[黒川裕次:"物語ウクライナの歴史--ヨーロッパ最後の大国", 中公新書, 2002,pp.81-84]
新ロシア県

1775五年エカテリーナ二世は、数次にわたる露土戦争の結果ロシアに編入された広大な,黒海沿岸地域を一括して「新ロシア(ノヴォロシア)県」を創設した。新ロシアの総督になったポチョムキンは、大胆な植民政策をとった。それは入植者に広大な土地を与え、最初の20〜30年は無税とするものである。ロシア貴族の入植も奨励され、25人の農民をともなった場合には4000エーカーの土地が与えられた。そのとき連れてこられたのは主に右岸ウクライナの農民であった。1778〜87年の10年間に新ロシアの収穫は五倍に仲び、1796年までに新ロシアの人口は50万を超えた。(pp.128-129)
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ロシア帝国下では

ロシア帝国下では、「ウクライナ」は正式名ではなく、「小口シア,(マロロシア)が行政上の名前であった。ウクライナ人は「小口シア人」と呼ばれた。ウクライナには9の県(グペルニア)が置かれた。かつての左岸へトマン国家はチェルニヒフとポルタヴァ二県に、スロヴォダ・ウクライナはハルキフ県に、右岸はキエフ、ヴォルイニ、ボディリア三県に、ザポロージェはカテリノスラフ県に、クリミア半島はタウリダ県に、黒海沿岸はヘルソン県になった。(pp.132-133)

[黒川裕次:"物語ウクライナの歴史--ヨーロッパ最後の大国", 中公新書, 2002]

ウクライナ百科事典(1949)でも、「土地」「領土」を原義としていること、そもそもウクライナが「ルーシ」と呼ばれていたこと、ロシア帝国支配下においては「ノヴォロシア」「マロロシア」という地域名称が新たに使われたことが記載されている:
НЦИКЛОПЕДІЇ УКРАЇНОЗНАВСТВА (ウクライナ百科事典)
(Munich - New York, 1949, T.1, P.12-16.)

1. 領土と人々の名称

世界の他の国々と同様に、ウクライナ人が住んでいる地域の名前は何世紀にもわたって変化してきた。我々の民族の名前は、ウクライナとウクライナ国民の政治状況、ウクライナ意識の現れや外国の影響に応じて、さまざまな時期に変化してきた。さまざまな時期に、これらの名前は、広いまたは狭い、領土や国家、あるいは逆に地方や部族など、異なる意味を持ってきた。これらの名前は、部分的には地元に由来し、部分的には隣人や征服者によって使用され、したがって、独自の、採用された、または押し付けられた、強制された名前だった。中には外国人のみが使用する人工的な用語や、嘲笑的な意味しか持たないものもあった。

ウクライナの領土とウクライナ人の主な名前はルーシ(Русь)とウクライナ(Україна)だった。ルーシという名前は、最初は他の土地や部族と区別して、キエフ近郊の空き地にある土地と部族に付けられたが、キエフ国家の広がりとともに、ウクライナ領土全体、さらには東ヨーロッパのほぼ全域にまで広がった。そして主にウクライナ領土とウクライナ国民に関係していた。特に、一部の極西部のウクライナ領土では、最近まで元の意味である Русь = ウクライナ、русин = ウクライナ人を残していた。

ルーシ(Русь)という名前は、14〜16世紀のリトアニア・ロシアの年代記だけでなく、ウクライナという名前がすでに広く受け入れられていたコサック時代にも、ウクライナを指すのに使用されている。B.フメリニツキーは、ヘトマンの1658年の条約で「ヴィスワ川沿いのルーシ人(руський)」全体を解放したいと考えていた。ウクライナのハディアツのヴィホフスキーは「ルーシ大公国(Великим Князівством Руським)」と呼ばれていた。ヘチマン・P・ドロシェンコの指示書(1670年)では、「ルーシ正教(руський православний)のウクライナ人」についても言及されている。そして、例えばアレッポのパブロ(1654年)のような外国人は、ウクライナをルーシと呼び、ウクライナ人をルーテ人またはルーシ人と呼び、18世紀初頭までモスクワ人(москвинів)とどこでも区別した。彼らはモスクワ人(москвичів, москвинів або москалів)としてのみ知られており、彼らの地域はモスクワ(Московія)と呼ばれていた。

オーストリア=ハンガリー帝国の西ウクライナの土地では、ルーシ(Русь)とルーシ人(русин)の名前はほぼ19世紀の終わりまで存続した。ウクライナの領土とウクライナ国民を定義するため(リヴィウのルテヌム競技場、ロシアの三位一体、1848年のロシア科学者会議など)。

14世紀にツァルゴロド総主教の命令により、ガリシア大都市、ひいてはガリシア・ヴォロディミル州に対しても「マラルーシ(Мала Русь)」という名前が採用された(キエフ首都圏の土地がヴェリカルーシ(Великою Руссю)と呼ばれていたのとは対照的である。後に、この用語はモスクワ大公国によって国家の名称としてが採用された)。

コサック時代、「マラルーシ(Мала Русь)」という名前は、キエフの作家や事務官によって、ウクライナ東部の土地を「マロロシア(Малоросія)」または「マロロシア(Малоросійська)・ウクライナ)」という形で指定するために採用され、知らず知らずのうちに、17〜18世紀にモスクワ政府がそれを導入する土壌を整えた。ヘチマンのウクライナを表すマロロシア(Малоросія)の政府名。その時以来、マロロス(малорос)、マロルスキー(малоруський)という名前は「統一」の性格を獲得し、特に19世紀には軽蔑的な意味を帯びるようになった。

19世紀半ばからロシア語で使用されているが、人工的用語ユジノ・ルーシ(Южная Русь)、ユジノロス( южнорос)は、現在ではマロロシア(Малоросія)、マロロス(малорос)に似た意味も持つようになった。

18世紀半ばのマラルーシ(Мала Русь)という名前から類推で、ウクライナ南部の領土を示すために人工的な名前ノヴォロシア( Новоросія )を使い始めた。この用語は、1764 年にウクライナ南部の土地にノヴォロシースク州が設立されたという事実の結果として生まれた。ザポリージャ・シチの破壊後、ウクライナ南部全体がノヴォロシースク準州と呼ばれるようになった。この名前は、19世紀に「ノヴォロシア」はウクライナではないという誤った印象が広がり、左岸と右岸ウクライナの過去を研究する歴史家の視野から消え始めた。この考えは、1917 年夏の中央評議会との交渉中のロシア臨時政府の要求にも反映された。最近、ウクライナ南部、または草原という名前が人工的な名前ノヴォロシアに完全に取って代わった。

しかし、元の名前であるルーシ(Русь)、ルーシ人(русин)、その他すべての名前は、19世紀末から古い用語であるウクライナ、ウクライナ人に取って代わられた。ウクライナ人と外国人の両方が、我が国の領土と国民を表すためにもっぱら使用した。

ウクライナ語、ロシア語、ポーランド語、ドイツ語を含むさまざまな言語で書かれた幅広い文献が、ルーシ(Русь)、ウクライナ(Україна)、マロロシア(Малоросія)などの名前に関連付けられている。この用語の問題は、ウクライナの歴史全体の計画の出発点であるため、我々の優れた科学者の著作、特にM.フルシェフスキーの『ウクライナ-ルーシの歴史』と彼の特別著作の中で詳細に検討された。 L. ツェゲルスキー、D. ドロシェンコ、M. アンドルシアク、および V. シチンスキーの著作は、この問題全体の概要を提供しており、この部門の文献に記載されている。

Z. Kuzel

[ "The name of the territory and the people", From the ENCYCLOPEDIA OF UKRAINIAN STUDIES — I (Munich - New York, 1949, T.1, P.12-16. ]






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