冷戦時代の核実験や民間防衛をめぐるカルチャー

ロシア右翼

日本の出版物でのステパン・バンデラへ言及例(資料集)


あまりステパン・バンデラについて、日本の出版物で言及は見られない。

スターリンのソ連時代からのウクライナにおける反ロシア感情について記述[木村明生(1992]に...
反ロシアの背後に潜む怨念

スターリンはウクライナに対して、苛酷なソビエト化政策をもって臨んだ。民族主義的な文学作品や論文、歴史書などを発表していた知識人たちが相ついで批判され、投獄された。ウクライナ文化の維持発展に理解を示した共産党幹部も「地方民族主義的偏向」のレッテルを貼られて粛清された。農業集団化政策がもっとも苛烈に強行されたのもウクライナだった。暴力的な土地の収用、穀物や家畜の徴発でウクライナ農業は荒廃し、1931年から1933年にかけて大飢饉が発生した。この期間にウクライナの人口の一割以上、数百万人が餓死したという。

1937年6月、ウクライナ共産党第十三回大会が中央委員会を選出したが、クレムリンは民族主義者が含まれていると警告し、摘発のためにフルシチョフとモロトフがエジョフ内務人民委員の指揮する治安警察部隊を伴ってキエフに乗り込んだ。モクスワの使者は、中央委員会のなかの"民族主義者″を名指しして解任を求めたが、ウクライナ側は党規約上の党の独立性をタテにこの要求を拒否した。クレムリンは、ウクライナの党中央委の全員百二人がモスクワに出頭し、スターリンと協議するよう指令した。パナス・リュプチェンコ首相はこれを拒絶してピストル自殺した。彼を除いた101人がモスクワ入りしたが、無事ウクライナに帰れたのは3人だけだった。あとはすべて銃殺か投獄の運命に見舞われたのだ。そうして翌1938年、フルシチョフがウクライナ党第一書記としてキエフに着任し、新しい中央委員会を組織して、徹底的なソビエト化を推進することになったのである。

すでにこのころ、モスクワの圧政を逃れたウクライナの民族主義者たちは、ポーランドで地下軍事組織と政治組織OUNを結成して、ウクライナの解放をめざしていた。1941年、独ソ戦が突発して、ドイツ軍がウクライナのリポフを占領すると、OUNは直ちに「ウクライナ国家の再興」を宣言し、ヤロスラフ・ステッコを首班とする臨時政府を組織した。しかし、その閣僚の大部分がドイツ軍によって逮捕され、臨時政府は瓦解した。1943年にはローマン・シュへプイチが地下軍事組織、ウクライナ叛乱を編成してソ連軍と戦った。彼らは終戦後も反ソ軍事活動を続け、シュへプイチは1950年にリポフ付近でソ連保安部隊に射殺されている。

筆者はかつてキエフを訪れて一つの事実を発見した。ドニエプル川の岸に沿った丘の上の「不減の栄光の公園」に足を運んだときのことである。公園内には第二次大戦で戦死したウクライナ出身の将兵の墓がずらりと並んでいた。筆者はそのなかの、一人の将校の慕石に「1946年戦死」と刻んであるのに気付いた。戦争が終わってからの死である。案内をしてくれたノーポスチ通信キエフ支局の記者によると、戦後もウクライナで続いた″国内戦"の犠牲者だという。同記者は戦争中、ドイツ軍がウクライナを占領した機に乗じてナチスと提携してウクライナ独立をはかった民族主義者ステフェン・バンデラのことを話してくれた。バンデラ一派(バンデロヴィチーと呼ばれる)は、ドイツ軍が敗退したあともウクライナで反ソ・ゲリラ活動を続け、ソビエト軍の掃討作戦は五年も続いたのだという。ちなみにバンデラは戦後、西独に逃れたが1959年、ソ連国家保安委員会(KGB)の放った殺し屋によってミュンヘンの自宅の前で暗殺されている。

1970年代に入って東西間の緊張緩和に伴う西側との交流の増大に備えて、クレムリンは国内引き締めを強化したが、弾圧はウクライナの地下出版「ウクライナ・ヘラルド」や反体制組織「ヘルシンキ文書履行状況監視ウクライナ・グループ」などの関係者に対してもっとも苛酷だった。ウクライナの頑なともみえるいまの反ロシア姿勢の背後には、長い″怨念″の歴史があるのだ。

[ 木村明生: "ウクライナ最後の逆襲", 知識 8(3)(124), 彩文社, 1992-04, pp.18-20 ]

1960年代に出版されたソ連・ロシア史の訳書に...「猛烈な反ポーランド、反ユダヤ的ウクライナ「民族主義」指導者だったが、開戦当初ドイツ軍に逮捕されてベルリンに送られた」ことが言及されている
ローゼンベルグの表面上「自由」なこの計画は、その後のいろいろな修正案とともに、ヒトラーやゲーリング、ヒムラー、それにウクライナ総督エーリッヒ・コッホの賛成を得られなかった。コッホは総督の本部を地方都市のロプノに設置し、キエフには「首都」の外観さえ与えられなかった。1918年当時、ドイツ軍に任命されたウクライナの司令官たった老齢のスコロバドスキーのように、長年ローゼンベルクにまつわりついていたさまざまな亡命者たちは、ローゼンベルク自身を除いてナチ上層部のだれからも相手にされなかった。西ウクライナの猛烈な反ポーランド、反ユダヤ的ウクライナ「民族主義」指導者バンデラでさえ、開戦当初ドイツ軍に逮捕されてベルリンに送られ、1944年に追いつめられたドイツ軍が彼にまた利用価値があると決定するまで抑留されていた。その間、西ウクライナのガリチアは簡単にドイツ支配下のポーランド総督府の管轜区域に併合されてしまった。もう一人のウクライナ民族主義指導者メルニクもバンデラと同様不運な連命をたどった。

[ アレグザンダー・ワース (中島博, 壁勝弘 訳): "戦うソヴェト・ロシア 第2", みすず書房, 1969, p.16 ]

ウクライナ側の記述として、KGBの暗殺対象となながら難を逃れたステッコの記述が一部紹介されている:
ウクライナ蜂起軍の結成とその指導者

独ソ戦争勃発直後、1941年6月30日ウクライナは再び独立を宣言し、著者[ヤロスラフ・ステッコ]が首相におされた。

当時駐独大島日本帝国大使は、ヒットラーに対してウクライナの独立を助長するよう進言した。ウクライナではナチス・ドイツ軍は解放軍として歓迎されたが、ドイツ軍はその意を解せず容赦なく搾取した。幾百万というウクライナ及びその他のソ連邦治下に幽閉されている民族の兵士たちは赤軍から脱走し、ウクライナにおいて、二五万より成る地下組織軍隊「ウクライナ蜂起軍」が結成され、ナチス・ドイツならびにソ連邦帝国主義に対して勇敢に戦った。このウクライナ蜂起軍の政治的指導者はステファン・バンデラ将軍であった。バンデラは1959年ミュンヘンにて、現在ソ連邦政府最高幹部の一人であるアレクサンドル・シェレーピンの間諜の手で暗殺された。その間諜は、シェレーピンより著者をも暗殺するように命令を受けたが、いち早く西欧へ亡命したために著者は難を免れた。

1965年度米合衆国議会の報告書『国際的殺戮』によると、「ロシアにおけるステッコとパンデラの名は、ウクライナの独立を象徴するものである故、クレムリンの為政者はこのような人物を粛清するよう努めている」と記されている。

[ ヤロスラフ・ステッコ (反共連盟中央委員会委員長), 横尾和歌子 編集・訳: 『ウクライナ独立運動と日本』, 外交時報(1037), 外交時報社, 1967-02, pp.39-40 ]

この他、「ウクライナ解放最高評議会機関紙」の記述の訳も...
本文の初めに掲けたウクライナの独立を企図する各種の団体に対してはあらゆる中傷を加えるが、殊に「ウクライナ反抗軍」(UPA)及び「ウクライナ国民主義者団」(OUN)及びその指導者ステファン・バンデラに対してはこれを讒誣するに努め、その一つの方法として彼等はナチス独逸と協力したといいふらす。然しその事の誤りは、ヒットラー軍が入って来るや否やウクライナ独立運動は弾圧せられ、バンデラは投獄されたという事実によって明らかである。ウクライナ反抗軍も最初は主としてドイツ軍に対する反抗連動であったので、ドイツ軍敗退後共産政権に対する反抗となったのである。共産政権は単に中傷を以て足れりとせす、独立運動の指導者であり、最も人望の篤いステファン・バンデラが独軍に捕えられたのを、バンデラ自ら申し出て捕えられ、投獄されたものだと言いふらした。後1959年ミュヘンにおいてバンデラはソ連の警察の放った刺客によって暗殺され、1961年暗殺者が逮捕せられて、一切を白状したのでこの事は世界の前に明らかになった。

[ "ソ連共産党政拡のウクライナ独立運動に対する弾圧に関する報告 (1920〜1946)" on "ウクライナ解放最高評議会機関紙 1946年1号"[ in 北岡寿逸要: "二十世紀の汚辱 : ソ連のウクライナ独立運動に対する弾圧 (自由アジア協会報 ; 第16号)", 自由アジア協会, 1962.9 ]


また、学術文献では...
1944年2月には憲法か修正され,各民族共和国に外務・国防の両省を設置する権限が認められた。報告者のモロトフは、各共和国の民族的発展の成果が、この「民族問題の実践的解決における新たな重要な一歩」を可能にした、とのべたが,これはもちろんきれいごとにすぎない。この修正の意図については外交面でのマヌーバーという面も含めて議論かある。だが、ウクライナ、沿バルトの反ソ・パルチザンの抵抗やクリミア・タタール、チェチェン人などの対独協力かスターリン政府に衝撃を与えていたことも確かである。だから、戦時における非ロシア人への「譲歩」はそのような抵抗への戦術的対応にすぎす、戦後における抑圧を予兆するものであった。フルシチョフは名高い「秘密報告」の中でカラチャイ、カルムイク、チェチェンなどの民族的追放を非難した際に,「ウクライナ人がこの運命を免れたのは、彼らがあまりにも多く追放すべき所かなかったからにすぎない。さもなくはスターリンは彼らを追放したことだろう。」と語っている。更に重要なのは、そのような不信感かロシア人の民衆レヴェルにまで及んでいたと考えられることである。1944年にウクライナを訪れたユーゴスラグイアのコムニスト、ミロヴァン・ジラスの印象はこうである。「たしかに、ウクライナ人の戦争とソヴィエトの勝利に対する消極的な態度は隠しようもなかった。住民の印象は重苦しい沈黙であったし、わたしたちには見向きさえしなかった。わたしたちか接触していた当局者たちは、ウクライナ人の行動をかばい、美化していたけれど、わたしたちにつけられていたロンア人の運転手は、ウクライナ人がもっと立派に戦っていたら、いまさらロシア人が解放しなくてもすんたのにと、彼らを生んた母親たちを呪っていた。」このように独ソ戦に際してのウクライナ人の行動をとがめる気持は、「バンデラ派」という語の侮蔑的な使用として現在にまで残っている。

[ 青木節也: "ウクライナの民族問題 --- 1945-1972年", 欧史研究 = The Journal of East European studies, 東欧史研究会, 1978-03, p.225 ]

ミリタリー系では...
第ニ次世界大戦、そして戦後

1941年6月22日、ドイツ軍はソ連を奇襲攻撃した。バルバロッサ作戦の開始である。ドイツ軍の攻撃をまったく予想していなかったソ連軍は、各所で撃破され全線で突破された。ドイツ中央軍集団、南方軍集団の進撃路となったウクライナは、九月にキエフが占領され、冬までにクリミアを除く全ウクライナ領土がドイツ軍に占領された。

苛斂誅求を極めるソ連の支配に反発を強めていたウクライナ人は、ドイツ軍を解放者として歓迎した。ドイツ軍はウクライナ民族主義者組織(OUN)部隊を伴い進撃した。

OUNのステパン・パンデラはウクライナ独立を宣言し、ステッコが臨時ウクライナ政府の首相となったが、ドイツ軍はこれを認めzy彼らを逮捕して強制収容所にほうり込んた。ウクライナは帝国全権区として直轄統治され、エーリッヒ・コッホが指導者となった。彼はウクライナをドイツの植民地とし、徹底的な搾取と抑圧を行った。食科、原料は収奪され、劣等人種ウクライナ人は、東方労働者としてドイツ本国に強制連行された。

OUNはドイツとの協力を捨て、ウクライナ蜂起軍としてパルチザン活動を始めた。彼らは穀物徴発に反発する農民を吸収して拡大していった。1943年秋には、は三万から四万人の兵力を擁するようになり、ゲリラ戦でドイツ軍の後方を脅かした。ドイツ軍は補給線を脅かされ、後方警備にも兵員を割かれる結果となり、戦争遂行を妨げられた。

ドイツ軍はスターリングラード以来敗北を重ねて、1944年春にはウクライナから駆逐された。しかしドイツの敗北は必ずしもウクライナ人の喜びとはならなかった。

解放者はかつての抑圧者だったからだ。UPAはウクライナ民族主義者であって、社会主義者ではなかった。彼らはウクライナの「解放」後も、森にこもって戦いを続けた。

ウクライナ・ソピエト政府は、1944年2月始め、1945年4月、11月、1946年2月、1947年1月、1949年12月、さらには1956年2月までUPAへの投降勧告をしており、その活動が広範囲に広がっていたことをうかがわせる。実際1944年にはソ連南西方面軍司令官ヴァトウーティンが暗殺され、その後も1946年にはモスカレンコ、1947年にはポーランド国防次官シヴィエルチェフスキが殺されている。

ソピエト政府は投降勧告という生ぬるい策たけでなく、1945年にはの関係者の家族を東方に強制移住させ、UPAの隠れ家となるウクライナの森を焼き払ったりするとともに、ポーランド、チェコスロパキアとも共同軍事行動をとっている。またポーランドでもウクライナ人の強割移住は行われている。さらにウクライナ民族のアイデンティティのより所ウクライナ・カトリック教会も、民族偏向として廃止したが、これも対策の面もあった。またウクライナで進められた農業集団化は、UPAの支持者である農民層を彼らから引きはがす効果も持っていた。

[ 斎木伸生: "東を向くのか西を向くのか!? 東欧の大国ウクライナの行方", 軍事研究 34(11)(404), ジャパンミリタリー・レビュー, 1999-11, pp.221-222 ]






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