冷戦時代の核実験や民間防衛をめぐるカルチャー

ロシア右翼

アンドレス・カセカンプ:『バルト三国の歴史』(2014)

Andres Kasekampは...
Andres Kasekamp is the Elmar Tampõld Chair of Estonian Studies and Professor of History in the Department of History and Munk School of Global Affairs and Public Policy at the University of Toronto. Previously, he was Professor of Baltic Politics at the University of Tartu and Director of the Estonian Foreign Policy Institute in Tallinn. ... He has served as the President of the Association for the Advancement of Baltic Studies and Editor of Journal of Baltic Studies and is a member of several international editorial and academic advisory committees. His research interests include populist radical right parties, memory politics, European foreign and security policy, and cooperation and conflict in the Baltic Sea region.

アンドレス・カセカンプ氏は、トロント大学歴史学部および国際問題・公共政策ムンクスクールのエストニア研究のエルマー・タンポルド教授であり、同大学の歴史学教授。以前は、タルトゥ大学でバルト諸国政治の教授、タリンのエストニア外交政策研究所所長を務めた。... バルト諸国研究振興協会会長、バルト諸国研究ジャーナル編集長を務め、いくつかの国際編集委員会および学術諮問委員会のメンバーでもある。研究対象は、ポピュリスト極右政党、記憶政治、欧州の外交・安全保障政策、バルト海地域における協力と紛争など。
原書は『A History of the Baltic States>https://www.history.utoronto.ca/research-publicati...]]』(2010)

  • ナチスドイツによるバルト三国の占領
    • ドイツ占領直後、バルト三国の住民は好意を示したが、ドイツの政策がソ連の国有化資産をそのまま手中に収めたため、好意は消えた。
    • ナチスの目的は、バルト三国の資源を最大限搾取することで、現地文化を尊重する意図はなかった。
    • ソ連のテロルが無原則で予測不可能だったため、ナチスの抑圧や暴力は相対的にましと見られた。
    • バルト三国では、第二次世界大戦で二つの全体主義勢力による残忍な占領が行われ、道徳的な選択が難しかった。
    • ドイツ軍への軍事的抵抗はほとんどなく、ソ連が「第一の敵」、ドイツが「第二の敵」として認識されていた。
    • バルト三国の抵抗勢力は、ナチス占領に関する情報を発信し続けたが、ドイツ秘密警察の妨害を受けた。
    • ナチスはバルト三国の住民を人種的に再編成し、エストニア人やラトヴィア人の一部をドイツ人と同化させようとした。
    • ナチスの最優先課題はユダヤ人の抹殺で、バルト三国のユダヤ人は大量に殺害された。
    • 一部の地元住民がナチスのユダヤ人抹殺に協力したが、多くの人がユダヤ人を救った。
「解放者」としてのドイツ人に向けられた占領直後の好意はバルト三国がドイツ軍占領下のソ連地域として扱われ、ソ連占領下で国有化された資産はそのまま第三帝国の手中に収められたため、瞬く間に消え去った。ナチスの政策の主目的は、戦争遂行に資するようにバルト三国の資源を最大限搾取することであった。長期的に見れば、ドイツ人にも現地文化を尊重する意図はみじんもなかったが、それでもバルトの人びとの眼には共産主義者と比べればましに映った。国家的シンポルの利用が許され、宗教教育が再導入され、ソヴィエト体制下で解敬させられた各種組織の多くが復活したのである。少なくともナチスによる抑圧や暴力は予測可能であった。これに対しソヴィエト体制下でのテロルは無原則であった。いつ「人民の敵」に分類されるか予測がつかなかったのである。

バルト三国にとっての第二次世界大戦の経験は、人びとが二つの全体主義勢力による三つの残忍な占領を耐えたという点で、他のヨーロッパ諸国とは異なっていた。この二つの悪の間で、道徳的に曇りのない選択のできる機会はますなかったと言ってよい。それゆえ、パルト三国の場合、「裏切り者」と同義に使われる「協力者」という言葉を、ナチスに協力した者たちに使うのは適当ではない。人びとが忠誠を誓うべき国家は、そのときにはすでにソ連によって破壊されていたのであるから。

事実上、ドイツ軍に対する軍事的抵抗は皆無であった。ソ連軍によって訓練されたパルチザンによるドイツ陣地内破壊工作が唯一の例外であった。しかしそうした活動は一般の人びとから支持されることはなく、わずかにリトアニアとベラルーシの間の境界遅滞に限定的に成果を上げただけに終った。ドイツ軍の占領に反対していたにもかかわらす人びとが摂抗を思いとどまったのは、そうすることにより恐ろしい赤軍の再来を早める結果になるだけであると考えられたからである。ソ連が「第一の敵」であり、ドイツはソ連の次に危険な「第二の敵」として認識されていた。

ラトヴィアの社会民主党指導者パウルス・カルニンシュ(1872-1945)やエストニア最後の首相ユリ・ウルオツ(1890-1945)ら独立時代の旧諸政党を代表する政治家でも生き延びることができた者は、非合法の抵抗勢力を結成し、西側に亡命したパルト三国の外交使節とストックホルム経由での接触を保ち、ナチスによる占領に関する情報を世界に発信し続けた。1944年には、諸抵抗勢力間のイデオロギー上の対立が克服され、統一の中央組織形成にこぎつけた。それが、リトアニア解放最高委員会、ラトヴィア中央評議会、エストニア国民委員会である。これらの組織は協力して地下活動を行っていたが、ドイツ秘密警察の執拗な妨害を受け、1944年のうちに指導者からも逮捕者が続出した。

ナチスには東欧の人びとを標的とした人種的再編成の壮大な夢想があった。ヒトラーはドイツ人入植者のためのレーベンスラウム(生存圏)創設を望み、「劣等人種」の民族を東方へ強制排除しようとした。ナチスによれば、バルト・ドイツ人との数世紀間にわたる混血もあって獲得されたその「北欧」的な人種的特徴により、エストニア人ならびにラトヴィア人は東欧の中では最も「価値ある人種」であった。東部総合計画では、エストニア人のうちの五〇パーセント、ラトヴィア人の二五パーセントが、ドイツ人入植者との同化に値する程度に人種的価値のある人びとであるとみなされていた。それ以外の人びとは東方のロシア領へ追放される運命にあった。バルト・ドイツ人との混血という「恩恵」を受けることのなかったリトアニア人はそれ以下の存在であった。

第二の占領者は、階級闘争に替えて人種戦争を始めた。ナチスにとって、イデオロギー上の最優先課題はユダヤ人の抹殺であった。オストラントにおけるホロコーストは三段階に分けることができる。まず、1941年からのナチス親衛隊(SS)特別行動部隊A(アインザッツグルッペンA)と地元協力による地元ユダ人の処刑、続いて1942年から1943年春にかけてのゲットーでの、ユダヤ人の強制労働、そして1943年夏から1944年8月までのゲットーの撤去である。

軍事侵略開始後ただちに、SSのヴァルター・スターレッカー将軍(1900-1942)指揮の下に特別行動部隊Aは1941年の夏から秋にかけてパルト地域のユダヤ人の大半の殺害を実行した。その直後、スターレッカーはこれを自然発生的で、かつ現地の人びとの発意によるものに見せかけようとしてポグロムの誘発をあおったが、リトアニアでの局所的な成果を別にすれば、ラトヴィアおよびエストニアでは完全な失敗に終わった。ナチスは、ユダヤ人をゲットーに隔離し、そこからひと固まりの集団ごとに人目につかない場所に連れて行き、射殺して穴に埋めた。一度の「実行」で最大規模の成果を上げたのは、SSのフリードリヒ・ヤケルン将軍(1895-1946)である。彼は、処刑のペースを上げるために、全国指導者のハインリヒ・ヒムラーの命により1941年11月にリーガに派遣されたのであった。11月30日および12月8日にリーガ・ゲットーのユダヤ人2万5000人がルンプラの松林の砂地まで歩かされ、そこで処刑された。1941年末の時点で、バルト地域のユダヤ人の大半が殺戮の犠牲になっていた。最初に実行されたのはエストニアのユダヤ人の完全抹殺である。950人のユダヤ人が処刑されたのち、1941年12月、ナチスによりエストニアはユダヤ人から解放されたことが宣言された。実際には、そもそも数の少ないエストニアのユダヤ人コミュニティの4分の3は赤軍によって避難させられ、生き延びたのであったが。エストニアよりも数の多かったラトヴィアとリトアニアのユダヤ人は、1941年6月のドイツ侵攻までに逃げる時間がなく、大半がナチスの手に落ちた。

最初の虐投が過ぎ去り、1942年から1943年春までの比較的安定した第二期が訪れた。ユダヤ人の生き残りはヴィルニュス、カウナス、シャウレイ、リーガ、リエバーヤ、ダウガウピルスのゲットーに閉し込められ、ドイツ当局によって労働力として搾取された。この時期ナチスは数万人のユダヤ人を主にドイツから、そしてオーストリアやチェコスロヴァキア、フランスから、オストラントに輸送した。到着してすぐに殺害された者も少なくなかったが、大半はゲットー内の労働現場やエストニアのオイル・シェール鉱山に労働力を供給する収容所へと送られた。ホロコーストの最終局面は、ワルシャワ・ゲットー蜂起の後にやって来た。1943年6月、ヒムラーはオストラント内のゲットーを解体し、ユダヤ人の処遇をSSの職権に委ねるよう命じた。リーガ・ゲットーに収容されていた者は近郊のカイザーヴァルト(メジャパルクス)強制収容所に移され、またカウナスおよびシャウレイのゲットーは規模を縮小して収容所に変えられた。ヴィルニュス・ゲットーは9月に解体された。健康で丈夫な者はラトヴィアやエストニアの収容所に移され、労働に適さない老人や子供はアウシュヴィッツへと送られ殺害された。1944年夏に赤軍がバルト地域に到着すると、ナチスは主にシュトゥットホーフやダッハウといった帝国内の強制収容所にユダヤ人を移し、またエストニアのクローガ収容所に収容されていたリトアニア・ユダヤ人ら2000人が急遽その場で虐殺された。1941年から1945年の間に、合わせて、リトアニア・ユダヤ人(約20万人)の95パーセントが殺害された。同様に、ドイツ占領下のラトヴィアに残っていた7万人のユダヤ人のうち、生き残ったのはわずか2000人ほどであった。

ナチスに占領された他のヨーロッパ諸国と同様に、ドイツにとって地元住民の協力なしに「ユダヤ人問題の最終解決」を実行するのは困難であった。加害者として最も悪名高いのはヴィクトルス・アラーイス(1910-1988)率いるラトヴィア保安部(SD)部隊で、ラトヴィアやべラルーシで2万5000人のユダヤ人を殺害した。しかしながら、ユダヤ人は独立期のバルト三国では比較的恵まれた生活を送っており、ナチス・ドイツ占領期にはおよそ3000ものリトアニア人家族がユダヤ人を救ったことから、ジェノサイドへの関与の原因として「昔からの憎悪尾」を挙げるのは正しいとは言えない。前年の残忍なソヴィエト支配の中でユダヤ人が初めて権力の地位に就いたことで、ユダヤ人が自国の破壊に関与していると多くのエストニア人、ラトヴィア人、リトアニア人が考え、慣慨したことが一因となっているのである。共産主義者によるテロルがバルト三国の社会構造をばらはらに解体し、社会は暴力に対して鈍感になっていた。ナチスは、共産主義者とユダヤ人を「ユダヤ=ポリシエヴィキ」として意図的に同一視するプロバガンダを広めた。ソヴィエト政権が多くのユダヤ人に権限を与えた反面、ユダヤ人の中でも宗教や共同体の指導者、そして実業家らがソ連によるテロルの犠牲者となったのも事実である。

ナチスはロマの根絶も図った。だが犠牲者の数ははるかに少なく、ラトヴィアでは2000人、リトアニアとエストニアではそれぞれ500人程度であ0た。ユダヤ人やロマに加えて、ラトヴィアでは1万8000人、エストニアでは7000人、リトアニアでは5000人の市民がナチ占領期に殺害さらた(一部にロシア人やポーランド人も含まれる)。その大半の場合、ソヴィエト政権への協力が非難の理由であった。犠牲者の中に飢餓や病気で死んだり、あるいは、オソトランドで急遽作られたドイツの捕虜収容所内で非人道的な扱いを受けて殺されたりしたソ連人戦争捕虜がいたということは、あまり知られていない。最も多かったのはリトアニアで、17万人のソ連人戦争捕虜がリトアニア領内で命を落としたドイツは国際法を無視し、スラヴ人を劣等人種とする人種主義思想に基づいて行動したのであった。

[アンドレス・カセカンプ (小森宏美・重松尚 訳): "バルト三国の歴史", 明石書店, 2014, pp.218-224]
  • ナチスドイツおよびソ連赤軍への否応なき参加
    • 第二次世界大戦中、バルト三国は中立を保っていたが、市民たちは赤軍やナチス武装親衛隊に強制的に参加させられた。
    • 戦前のバルト三国の軍隊は赤軍に再編され、将校たちは逮捕され多くが処刑された。
    • ドイツ軍はバルト三国の市民を徴兵し、志願兵は警察大隊や補助大隊に編成され、施設防衛やパルチザン戦に従事した。
    • エストニア人やラトヴィア人は武装親衛隊に徴兵され、バルト地域での戦闘に参加した。
    • ドイツ軍の撤退後、バルト三国の人々は独立政府の再建を試みたが、ソ連軍により阻止された。
    • 戦後、バルト三国の若者はソ連当局により徴兵され、一部は森に逃れパルチザン活動に加わった。
    • ドイツ軍撤退時、多くのバルト三国の市民が難民となり、ドイツやスウェーデンに逃れた。
    • 終戦後、バルト三国はソ連に併合され、民族的に均質な状態に変わった。
    • バルト三国の人口の約3分の1が戦争で失われ、特にラトヴィアとエストニアは大きな被害を受けた。
    • 戦後、バルト三国の歴史的少数民族コミュニティが破壊され、バルト三国は民族的に均質な状態になった。
他国の軍服を身にまとい戦うこと

第二次世界大戦でパルト三国は中立の立場をとっていたものの、市民たちは、民族抹殺を企図する二つの全体主義勢力のうちいすれかの国の軍服を着て戦わなければならなかった。パルトの人びとの中には、赤車とナチス武装親衛隊(ヴァッフェンSS)の両方で戦った経験のある者が少なくない。戦前の国軍は赤軍の領域部隊に再編され、1941年5月末に訓練キャンプに送られた。多くの将校は逮捕され、ノリリスクをはじめとする北極圏に作られた収容所に移送されたうちの大半が処刑された。ナチスの侵攻が始まると、エストニアおよびラトヴィアの旧国軍のうち何とか生き残った者は、北西口シアで防衛戦を展開し、その多くが犠牲になった。その後、ソ連後方の労働大隊に送られ、数多くの者が1941年冬、劣悪な環境下で死んでいった。1941年夏に撤退する赤軍に動員された多くの人びとも同じ運命をたどった。ドイツ軍の急進撃を受けたラトヴィアとリトアニアでは徴兵が間に合わなかったため、その多くを占めたのはエストニア人(3万3000人)であった。赤軍での残忍な扱いに、耐えかねた多くの兵士は、1942年夏に前線に送られた機会を逃さす、帰郷を願ってドイツ側に脱走した。

ソヴィエト体制への復讐を胸に抱き、あるいは共産主義者によって強制連行された家族の解放のために、何千ものバルトの人びとが志願してドイツ軍に入隊した。このバルトの志願兵は警察大隊や補助大隊に編成され、オストラント近郊地域で主に施設防衛ならびにソ連側パルチザンとの戦いに従事した。警察大隊の中には、べラルーシおよびウクライナのユダヤ人の処刑に直接関与した者もいた。占領軍に協力した自治組織は、ドイツ軍の軍事行動に兵力の提供を約東する見返りに(スロヴァキアを手本に)自国領でのより大きな自治を求めた。エストニアとラトヴィアそれぞれの指導的人物であるオスカル・アンゲルス(1892-1979)とアルフレーヅ・ヴァルデマニス(1908-1970)はそうした計画の概略を記した覚書を準備したが、国家弁務官ローゼの反対にあった。ドイツ軍の軍事行動に対する現地の支持を梃入れするために、ローゼンベルクは1943年、ヒトラーに同様の控えめな提案を行ったものの、却下された。しかしながら、1943年、東部戦線での戦況が第三帝国に不利になると、ドイツ人はパルト地域での徴兵を強化した。警察大隊がもっぱら志願兵によって組織されたのとは対照的に、武装親衛隊〈のエストニア人、ラトヴィア人、リトアニア人の徴兵が開始された。東欧の人びとは国軍(正規軍)の入隊を許されていなかったので、バルトの人びとは武装親衛隊の所属とされた。占領地域での動員はハーグ条約に反する行為であったので、それは「自発的な」入隊とみなされた。ナチス占領下のヨーロッパ諸国の中で、親衛隊の民族師団を組織しなかったのはリトアニア人ならびにポーランド人のみであった。リトアニア人の愛国的地下組織による効果的なポイコット作戦の結果、ドイツ人は、1943年に親衛隊への徴兵を断念せざるをえなくなった。それ以外にも3500人のエストニア人によるドイツ軍入隊拒否という形の抵抗が記録されている。それらのエストニア人は秘密裏にフィンランド湾を渡り、フィンランド軍に加わってソ連との戦いを継続した。必要な数の砲兵を得られなかったため、ドイツ軍は別の形でバルト地域の人力を利用した。12万5000人以上が、その大半はリトアニア人であったのだが、ドイツ本国の軍事工場での労働に従事させられた。

1944年初頭、赤軍のバルト三国接近に伴い、状況は劇的に変化した。以前は第三帝国のために働くことに抵抗していた人びとが、祖国防衛のために召集命令に決然と応じたのである。1944年11月、約2万人のエストニア人が登録された。戦時中にドイツ軍に動員されたラトヴィア人は11万人であり、その半数がラトヴィア軍団(親衛隊第15ならびに第19師団)に編制された。

1944年初頭、赤軍が間近に迫り、リトアニアの東部国境地帯でソ連側のパルチザンによる攻撃が激しくなるとドイツ軍当局はリトアニア領土防衛隊の創設を発表し、尊敬を集めていたリトアニア人のポヴィラス・プレハヴィチュス将軍(1890-1973)がこれを率いた(彼は以前、ナチス武装親衛隊の勧誘運動に同調することを拒んでいた)。以前はリトアニア人を入隊させることに失敗したが、このときは入隊者の任地をリトアニア地域内に限定し、そしてリトアニア人将校の指揮下に入れることをドイツ軍当局か約束したため、2万人以上の男性が入隊した。だが、ドイツ軍当局はすぐに同部隊についての考え変え、この部隊がリトアニア国軍の中核になるための準備を行うのではないかという疑いのまなざしを向けた。そして、最終的にはあまり、うまくいかなかったものの、入隊者をドイツ人指揮下の部隊で勤務するよう配置し直そうとした。ヒトラーへの忠誠を誓うように要求されたとき、リトアニア人は一気にドイツ軍から離れていった。5月、プレハヴィチュスは逮捕され、その部下数名が処刑された。部隊に属していた者の多くは武器を手に森へと逃げ、のちに反ソ連レジスタンスの中核として再び登場することとなる。

ナルヴァ戦線を越えてエストニア奥地へと進む赤軍を、1944年7月、ドイツ人とエストニア人の合同軍がタンネンベルク防御線(シニマエ)でくい止めた。赤軍は、10万人以上の死者を出しながらもドイツ軍の強固な守りに繰り返し攻撃を仕掛けたが、これを突破することはできず撃退された。この戦いでは局所的な単発の戦闘としてはバルト地域で最大の犠牲者が出た。バルト地域の戦闘部隊を配下に置いたドイツ軍北方軍団には、はるか南での赤軍の進撃を押しとどめるほどの物的・人的資源はなかった。ヴィルニュスは7月には攻略されており、赤軍はリーガを攻撃することで、エストニアで戦う北方軍団を孤立させようとした。おりしもフィンランドがソ連との停戦条約を締結した9月、ドイツ軍は、エストニアを放棄した。リーガは10月に陥落した。

ドイツ軍の撤退と同時に赤軍が押しよせてくると、バルト地域の愛国的な人びとは独立政府の再建を試みた。1918年の時と同じシナリオが展開されると無邪気にも信じた者は少なくなかった。すなわち、ナチス・ドイツが「連合国側」降伏するまでの間ソ連軍の攻撃に耐えることができれは、独立が回復されるであろうと信じていたのである。こうした期待に根拠なかったわけではない。領土拡大を否定し、民族自決の原則を支持した大西洋憲章が存在したのだから。1941年にアメリカとイギリスが合意したこの戦後構想は、1942年1月1日の連合国共同宣言の一部となった。ソ連も当然この宣言の署名国である。だが、1943年にテヘランで開催された「三巨頭」会談で、アメリカ大統領フランクリン・ローズヴェルトとイギリス首相ウインストン・チャーチルが、バル三国に対する支配権の回復を希望するスターリンに反対しなかったことを、三国の人びとが知る由もなかった。

1944年9月、ドイツ軍がタリンから撤退すると、戦前最後の首相であり、エストニア国民委員会からも亡命外交使節団からも大統領代行として承認されていたウルオツが、政府首班にオット・ティエフ(1889-1976)を指名した。しかしながら、この内閣閣僚の大半は数日のうちにソ連軍に逮捕された。ウルオツは辛くもスウェーデンに脱出し、共和国の法的承継を体現する存在となった。地下で活動するラトヴィアの中央評議会は、ヤーニス・クレリス将軍率いる、ドイツ軍軍服に身を包んだ郷土防衛連隊が、ドイツの降伏後も対ソ連クールラント防衛戦でラトヴィア軍の中核として戦うことを想定していた。しかしながら、評議会のこの計画はご破算になった。1944年11月、ナチスがラトヴィア人将校8人を処刑し、1300人の愛国主義的ラトヴィア人をドイツの強制収容所に移送したのである。1945年5月、終戦が目前に迫る中で、赤軍への抗戦を継続するために、ドイツ軍下にあったリエパーヤでラトヴィア独立政府の樹立が試みられたが不首尾に終わった。一方、1944年8月の段階でドイツ軍に制圧されていたリトアニアでは、臨時政府形成の試みすらなかった。1941年の失敗の経験が、再度の試みを妨げたのであった。

支配の再確立後ただちに、エストニア人、ラトヴィア人、リトアニア人それぞれの赤軍部隊の人員補給のため、何万人ものパルト地域の若者がソヴィエト当局によって徴兵された。中でもリトアニアからは最大の8万2000人が動員された。この徴兵から森に逃れた数千人の若者が民族パルチザンに加わった。約30個のドイツ軍師団の残兵と、ラトヴィア人の一個師団は、1945年5月の終戦直前まで、完全包囲の中の孤を状態にあったクールラントで戦いを継続した。悲劇としか言いようのないことだが、終戦までの数か月間、ラトヴィア人とエストニア人の赤軍部隊もこのクールラント戦に投入されていた。時に同胞と相まみえることもあった。

ドイツ軍支配に愛着があったわけではないものの、赤軍の再来を目前に控え、猛烈な恐怖心の波が人びとを襲った。赤色テロルで家族や親戚、友人を失ったパルトの人びとには身の危険を覚えるに十二分の理由があり、脱出への焦燥感が募った。ソ連支配再開後に待ち受けている新たな恐怖についてのドイツ側によるプロバガンダは無用であった。移動手段がなく、戦線が急速に迫ってくる中での脱出は困難を極めた。ドイツ当局が認めたのはドイツへの移動のみであった。そこで難民は軍事産業の労働力として投入された。こうした困難にもかかわらず、相当数のエストニア人ならびにラトヴィア人が、すし詰めの漁船でスウェーデンに逃れた。嵐に見舞われてバルト海の藻屑となった人の数は知れないが。ボートでの脱出かかなわない人びとはドイツへの避難を選んだ。リトアニアからは陸伝いに、エストニアとラトヴィアからは海に出て。難民を乗せた何隻ものドイツ船が、ソ連軍による空爆や潜水艦による攻撃で撃沈された。

難民となることを選んた者に職業の別はなかったが、知的エリートの多くが説出を選んだことは間違いない。数多くの科学者、芸術家、作家、音楽家、教師、聖職者が、迫りくる遠捕を恐れて先の保証もなしに町を去った。一方、農民には残った者が少なくなかった。それは、家畜を見捨てて逃げることかできなかったからである。とはいえやはり、決断に影響したのは逃走手段の有無であった。したがって、海岸近くに住んでいた者が難民の中で多くを占めた。合わせて、14万人のラトヴィア人、7万5000人のエストニア人、6万5000人のリトアニア人が故郷を後にしたのであった。

パルト地域で結成された大半の戦闘部隊はドイツ人とともに退却し、戦争末期の数カ月間はドイツで防衛戦に加わった。この中には、1944年に強制的に徴用された数千人の少年も含まれていた。彼らはドイツで空軍補助部隊の配属となり、主に、高射砲隊のための軍需品の積み下ろしを行った。ドイツが降伏すると、難民は、ドイツ内のアメリカないしイギリス占領区で終戦を迎える道を必死に探った。ソ連はこれらの難民をソ連市民として帰還させる方針をとったのである。しかしながら、ソ連による併合を連合国側は承認しなかったため、ウクライナ人などとは異なり、バルトの人びとは最終的にはソ連帰還という運命をは受せずにすんだ。難民の多くはドイツの被追放民収容所で四、五年を過ごしたのちに、アメリカやカナダ、オーストラリアなどに移住し、ようやく拭い去ることのできないソ連の恐怖から逃れることができたのであった。

第二次世界大載の終結に伴い、バルト海東岸地域の相貌は、国境と住民構成の両面で再び劇的に変化した。ポーランドの国境は、西ではドイツから領土を得て、東ではソ連に領土を割譲することにより、全体としては西に異動した。廃墟となったたケーニヒスペルクを、スターリンは1946年、完全に生まれ変わらせた。バルト海沿岸に位置するロシア・カリーニングラード州として、リトアニアとポーランドの間にくさびを打ち込む形になったのである。東プロイセンのドイツ系住民は自ら脱出するか追放されるかのいずれかにより消滅し、まったくの新参者であるスラヴ系住民によりその空白が埋められた。北では、フィンランドが辛くも主権と民主主義を死守したが、カレリアの喪失という代償を払い、また、ツ連への部分的な依存を受け入れざるをえなかった。この戦争でヨーロッパの地図から消えたのはエストニア、ラトヴィア、リトアニアのみであった。この三国はソ連の構成共和国となった。さらに、スターリンによりペッツェリ(ペチョーリイ)ならびにナルヴァ川東岸地域(エストニアの領域の5パーセントにあたる)、アプレネ地域(ラトヴィアの2パーセント)はロシア・ソヴィエト社会主義連邦共和国に移管された。一方、リトアニアはドイツからクライペダを、ポーランドからヴィルニュスを取り戻した(ただし、ソヴィエト・ロシアと締結した1920年の講和条約でリトアニア領として認められたヴィルニュスの南部と東部はべラルーシ・ソヴィエト社会主義共和国の一部とった)。

人口喪失という点で、バルト三国を上回る国はそれほど多くはない(ポーランド、ソ連、ユーゴスラヴィア)。ラトヴィアの人口のほぼ3分の1を失い、エストニアの失った人口もそれに劣らず多かった。戦争中のリトアニアの喪失、この二国よりは少なかったが、戦後の喪失は最大であった。戦争は、この地域の四つの歴史的少数民族コミュニティを破壊した。すなわち、バルト・ドイツ人、ユダヤ人、ロマ、エストニア・スウェーデン人である。1945年、バルト三国はその近代の歴史の中で民族的に最も均質な状態にあった。

人口の喪失は、その一部が戦後に新たにやって来た人びとによって埋められた。その多くはエストニアならびにラトヴィアに近接するロシア人地域から移住して来た。自発的移住者も、強制的な移住者も、戦後復興に携わった。ドイツ人戦争捕虜も復興作業に従事させられた。バルト三国は、ロシアを含めた他のソ連構成共和国に比べ生活水準も際立って高く、発展していたので移住先として魅力的だったのである。終戦直後の混乱に乗じて多くのロシア人放浪者によって引き起こされた犯罪により、犯罪件数は一挙に増加した。

バルト地域の諸都市は戦争によって荒廃した。とりわけ、ナルヴァ、パルディスキ、シャウレイ、クライペダ、ダウガウピルス、イエルガヴァのこうむった物理的被害は甚大であった。これらの都市は、判で押したように、ソ連の近代都市の景観に共通する様式で再建された。歴史的価値を有していた建造物の再建は行われなかった。ナルヴァはその最たる事例である。戦前と戦後で住民がほば総入れ替えになってしまったのであった。境界の向こう側からロシア人がやって来たのに対し、戦前の住民は帰還できなかった。パルト地域の都市の中で、最大の変化を経験したのは、何といってもヴィルニュスである。戦時中に五度の体制転換に見舞われた。すなわち、ポーランドからソ連へ、次いでリトアニア、ソ連、ナチス・ドイツ、そして再度ソ連の手に移ったのである。もともとの住民の大半はホロコーストの犠牲となるか、あるいは戦後に出国した。1945年から1947年にかけて、17万人のポーランド人がリトアニアからポーランドに「帰還」した結果、ヴィルニュスはリトアニア化された。皮肉なことにリトアニア人が見果てぬ夢であったことが共産主義者によって成し遂げられたのである。

[アンドレス・カセカンプ (小森宏美・重松尚 訳): "バルト三国の歴史", 明石書店, 2014, pp.224-233]
  • 独立闘争(森の兄弟)と結末
    • 第二次世界大戦後、パルト三国(リトアニア、エストニア、ラトヴィア)ではソ連占領軍に対する武力紛争が続いた。
    • リトアニアでは最大規模の武装レジスタンスが組織され、1949年にリトアニア自由戦闘運動が設立されたが、多くの犠牲者を出した。
    • ソ連側はゲリラ戦を内戦化させるため、破壊大隊を組織し、偽の森の兄弟を使ってレジスタンス活動に潜入した。
    • 冷戦中の西側諸国への期待がハンガリー革命で消滅し、多くのレジスタンス残存兵が恩赦を受け入れるも、一部は1986年まで活動を続けた。
抵抗、抑圧、集団化

パルト三国では第二次世界大戦の終結後も武力紛争が続いた。森の中や泥地でソ連占領軍に対する戦いが繰り広げられた。最大規模の武装レジスタンスを誇ったのはリトアニアであった。エストニアおよびラトヴィアでは複数の「森の兄弟」が相互に自立した小規模な一団として組織されたのに対し、リトアニアでは、1949年に全国中央指揮部隊としてリトアニア自由戦闘運動が設立され、戦前にリトアニア軍大尉を務めたヨナス・ジェマイティス(1909-1954)の指揮下に置かれた。リトアニアでは男女合わせて推定5万人がソヴィエト体制に対する戦いに参加したが、そのうち2万人が命を落とした。だが一方で、ソ連側も1万3000人の犠牲を出したのである。リトアニアと比較すると、エストニアおよびラトヴィアの紛争の規模はそれほど大きくなく、激しくもなかった。殺害された森の兄弟の数はそれぞれの国で約2000人ずつであった。

とくにリトアニアでレジスタンスが激しかったことについて、若いリトアニア人男性の数が多かったという単純な理由が指摘できる。戦時中、ソ連ないしドイツ軍に入隊して武装したリトアニア人は、エストニア人およびラトヴィア人とは違ってほとんどいなかった。ナチス占領下で目立ったレジスタンスが組織されたのはリトアニアのみあり、パルチザンにとって戦う相手をもう一方の占領者に替えるのは比較的容易であった。さらに別の理由として、緊密に組織された農村のカトリ,ク教徒共同体によってゲリラを支援する巨大なネットワークが構築されたことも挙げられる。

ソ連治安部隊は、訓練不足で意欲もない新兵を集めて「破壊大隊」を組織することで、ゲリラ戦に内戦の要素を意図的に加えた。ソ連諜報員は森の兄弟になりすまし、パルチザンの地下壕の秘密を聞き出し、地元の支援者を裏切らせることで、レジスタンス活動への潜入に成功した。偽の森の兄弟は、地元民がパルチサンを嫌うように残虐行為を働くこともあった。イギリスは、レジスタンスとの連絡のためにパルト地域の難民の中から諜報員を募集し、訓練をほどこした。だが、ソ連諜報員がイギリスの諜報機関に潜入していて当初から作戦が露呈していたため、諜報員はほば例外なく祖国上陸直後に逮捕された。

レジスタンスは、西側諸国のうちのかつての連合国とソ連の間で進行していた冷戦が熱い戦争に激化し、その結果パルト三国が解放されるだろうという希望を持って耐え続けていた。この幻想は、1956年にソ連軍かハンガリー革命を鎮圧した際にアメリカがそれを傍観したことで、ついに消えてしまった。ハンガリー革命は、バルト三国の人びととソヴィエト体制の関係にとっても転機となった。人びとはソヴィエト体制の永続性に順応し始め、一連の暫定的な軍事占領の中の一つとする認識はなくなった。1953年のスターリンの死後、レジスタンス残存兵のほとんどが当局から提案された恩赦を受け入れた。1953年に逮捕されたモスクワへと送られたジェマイティスは、そこで拷問とソ連内相ラヴレンチー・ベリヤ(1899-1953)からの個人的尋問を受け、その後処刑された。しかしながら、森の兄弟の一部は当局の手の届かないところで命脈を保ち続けた。最後のリトアニア人レジスタンス活動家は実に1986年まで生き延びたことが知られている。

[アンドレス・カセカンプ (小森宏美・重松尚 訳): "バルト三国の歴史", 明石書店, 2014, pp.233-235]

鈴木徹: 『バルト三国史』(2000)

鈴木徹氏は出版時点で「在フィンランド大使館兼在エストニア大使館一等書記官」で、2022年から「アンゴラ国駐在特命全権大使」となっている。
  • ナチスドイツ侵攻前夜のソ連による支配
    • ソ連への編入時、親ソ政権は抑圧されていた少数民族から一時的に歓迎されたが、ソ連軍の大量侵攻後、強制移住や処刑が始まり、事態が一変した。
    • 1940年7月21日、22日にパルト三国国会がソ連編入を要求し、多くの政府高官が強制連行され、消息不明や死亡が相次いだ。
    • 1941年6月の強制移住では、ラトヴィアで約1万5000人、エストニアで約1万人、リトアニアで約12万5000人が強制移住され、1940-1941年にかけて多くの人々が強制移住や殺害された。
    • ソ連による支配下では、外交使節団の引き上げ命令、宗教活動の禁止、学校や銀行の国有化、言論統制が進み、1941年6月22日にドイツ軍が侵攻した際、パルト民族の多くが解放者として歓迎した。
ドイツ軍侵攻前夜と強制連行

ソ連への編入に当たって樹立された親ソ政権は、パッツ、ウルマニス、スメトナといった権威主義者の支配下で抑圧されていたユダヤ人などの少数民族からは一時的に歓迎された。しかし、ソ連軍の大量侵攻とともに大量強制移住や処刑がはじまると、事態は一変した。1940年7月21日、22日とパルト三国国会が三国のソ連編入を要求すると、パッツやウルマニス両大統領のほか、閣僚、高級官僚、軍事指導者たちは突然連れ去られた。スメトナは、なんとか逃げ出すことに成功したが、彼の政敵であったヴォルデマラスは、亡命先からリトアニアに帰国するやソ連の手に落ちた。ウルマニスは7月22日にコーカサスへ、パッツは七月三十日ウフアへ強制連行された。強制移住させられた政府高官のほとんどは帰らなかったし、ソ連側の公表もないまま、その後消息不明のものが多い。ウルマニスは1942年死亡、パッツは1956年シベリアで死亡した。祖国に戻ることが許された例として、1920年から1926年までリトアニア大統領であったストウルギンスキス(1956年帰国)、ラトヴィアのムンテルズ元外相(1958年帰国)などがあるが、まれな例であった。後に1988年8月23日、独ソ不可侵条約締結を非難するヴィリニュスでの25万人の大集会で、ソ連による虐待について語ったリトアニア最後の外相ウルピシュスも、奇跡的に帰国出来たひとりである。

1940年8月になると治安担当のセーロフとマレンコフがリーガに現れ、「人民の敵」のリストを作成した。そして、ほとんどすべての公職についている人物、その他有力者すべてを強制追放した。なかでも1941年6月13三日から14日にかけて実施された強制移住は、まさに人狩りともいえる大規模なもので、わすか一日でラトヴィアで約1万5000人、エストニアで約1万人、リトアニアで約12万5000人が強制移住させられた。そして1940-1941年の間に強制移住ないし殺害された人数は、実にラトヴィアで約12万4000人、エストニアで約6万人、リトアニアで約3万8000人に上った。

また併合後、ソ連は1940年8月11日にパルト三国が派遣している外交領事使節団に引き上げを命じ、以降パルト三国の利益はソ連外交使節が代表すると接受国に通報した。ドイツに占領されていたフランスは、ドイツとともにソ連のパルト三国併合を承認したが、イギリス・アメリカ向国はこれを認めなかった。またバルト三国では宗教活動も禁止されるなか、さらに学校や銀行・重工業設の国有化も進んだ。出版言論の自由も大幅に制限され、取り締まりは日毎に厳しくなっていった。

このような熾烈なソ連支配の状況下で、1941年6月22日にドイツ軍がリトアニア国境を越え侵入してきた時、パルト民族の多数がドイツ軍の侵攻をソ連恐怖支配からの解放者として歓迎したのは、無理もないことであった。

[ [[鈴木徹: "バルト三国史", 東海大学出版会, 2000, pp.111-112]
  • ナチスドイツによるバルト三国の占領
    • 独ソ不可侵条約後、ナチスはバルト三国に無関心を装い、エストニア・ラトヴィアのドイツ系住民をドイツへ移住させた。
    • 1939年から1940年にかけて、多くのドイツ人がエストニアとラトヴィアからドイツ占領地域へ移住し、現地住民は強制移住させられた。
    • バルト三国はドイツのソ連侵攻により占領され、ドイツ軍を解放者として歓迎し、独立を求めたが、ヒトラーはこれを拒否した。
    • ナチスはエストニアとラトヴィアを特別視し、容易にドイツ化できると考えたが、リトアニアは低く評価された。
    • バルト三国ではナチスの激しい民族政策により、特にリトアニアでユダヤ人が大量虐殺された。
    • リトアニアの住民はナチスのユダヤ人迫害に積極的に協力し、歴史に暗い影を落とした。
ドイツ軍占領

独ソ不可侵条約締結後、ナチスはバルト三国に無関心の態度を示すとともに、エストニア・ラトヴィア両国のパルトドイツ人の移住退避を開始した。ドイツ騎士団以降700年の歴史を有するパルトドイツ人の歴史に終止符を打っことになる移住退避は、1939年9月28日の第二次秘密議定書を根拠とするものであった。同議定書はソ連の勢力圏からドイツ人とドイツ系住民をドイツ管轄地域に移住させることを規定していたのである。1939年10月から1940年5月の間に、エストニアから1万2600人のドイツ人が、ラトヴィアから5万3000人近くのドイツ人が移住させられた。彼らバルトドイツ人は主にドイツの一部となったポーランド領ポズナンや西プロイセンに定住し、そのポーランド領に居住していたポーランド人とユダヤ人は強制移住させられた。また、エストニアにソ連軍基地が敷設されると、スウ=1デン政府は主にバルト海諸島に居住していたスウェーデン人の移住受け人れを開始した。

1941年6月22日にドイツは、電撃的なパルバロッサ作戦によってソ連への侵攻を開始した。二日後の24日ににはヴィリニュスとカウナスを占領し、7月1日にはリーガも占領すると、バルト三国はドイツ軍をソ連恐怖支配からの解放者として歓迎した。ドイツ軍がほば8月中にエストニアも占領すると、ウルオッツ(Juri Uluots)がドイツ占領当局にエストニアの独立回復を要求するなど、この機会に独立主権を回復しようとする動きが見られた。しかし、ヒトラーにとって、パルト三国は東方生存圏確立のためのソ連攻撃の踏み台に過ぎなかった。ヒトラーは東部占領計画の責任者としてローゼンベルグ(Alfred Rosenberg)を任命し、さらにパルト三国とペラルーシをドイツ東方保護区としてシュレースヴィヒ---ホルシュタイン大管区長官であるローゼ (Hinrich Lohse)に支配させた。ローゼンベルグはパルト地域の支配者はドイツ人でなければならないと主張し、その他の民族は民族の序列に従って扱うものとした。ローゼンベルグはエストニア人をパルト地方民族のエリートとみなし、知性面のみならず血統においてもドイツ化されつつあるとみていた。これはローゼンベルグが、そもそもタリン生まれのパルトドイツ人であるという生い立ちと無関係ではないであろう。また、ヒトラーがポリシエヴィキと同族と見做していたラトヴィア人に対しても、ローゼンベルグの態度がはっきりとしなかったが、これは彼自身リーガで教育を受けたことと無関係ではないであろう。その意味でバルトドイツ人が居住していたエストニアとラトヴィアはローゼンべルグの東方政策で特別の扱いを受けた。またローセンベルグはそのバルトドイツ人の歴史から見ても、エストニアとラトヴィアについては、いすれ容易にドイツ化することが出来ると考えていた。それに対しリトアニア人は、ユダヤ人とロシア人か比較的多く居住していたこともあり、パルト三国のなかでは低く見做された。

しかし実際には、ナチス・ドイツの烈な民族政策は、パルト三国でもユダヤ人に対して向けられた。バルト三国の中でもユダヤ人が多いリトアニアでは、ヴィリニュスやカウナスなど主要都市を中心に相当大きなユダヤ人社会が形成されていたが、パルト地方に送りこまれた移動殺戮部隊は1941年10月までに12万5000人のユダヤ人を段害した。ちなみにナチスの手を逃れてきたユダヤ人に、カウナス駐在の杉原畝領事が通過査証を発給して多数のユダヤ人の命を救ったのは、1940年7月から8月にかけての出来事である。リーガでもユダヤ人が人口の6パーセントを占めていたが、1941年11月には2万7000人のユダヤ人が毅害された。さらにドイツ帝国東方保護区の確立後は、ドイツはユダヤ人をゲットーに強制移住させ、1943年後半になるとヒトラーはゲットーを滅ぼし生存者を強制収容所に移す政策をとった。ラトヴィアではリーガ近郊のサラスピルス (Salaspils)強制収容所にユダヤ人を集中させ、ヴィリニュスやカウナスからはシェール・オイル採握のためユダヤ人をエストニアに強制移住した。その後1944年、反撃に転じた赤車がバルト三国に再度攻め人って来るや、ナチスはユダヤ人を抹殺するを手段をとった。戦前にリトアニアに居住していた25万人のユダヤ人は、1944年7月はじめには既に3万3000人にまで激減していた。しかし、ナチスがユダヤ人抹殺を開始すると、そのわすか一か月後にはリトアニアに2000人のユダヤ人が残されるのみとなった。

ドイツによる占領期間、リトアニアを中心にユダヤ人殺戮にバルト三国が協力したことは、歴史に略い影を落とすことになった。とくにリトアニアに配置された移動殺戮部隊は他のソ連領のどこよりも地元住民の協力を得るという面で成功したという。リトアニアにおけるユダヤ人の歴史はゲデイミナス大公がユダヤ人移住を許可した14世紀に遡るが、偏見・差別や部分的な迫害はあっても、ナチス支配下でリトアニア人が行ったような全国的なユダヤ人迫害をリトアニアにの中で見つけることは出まない。このようにバルト三民族がナチに協力的であったのは、ドイツをソ連からバルト三民族を解放する救世主として見る傾向にあったことにもよるであろう。とくにローゼンベルグによってパルト三民族の中で下級にランクされたリトアニア人は、ドイツ軍に忠誠を示す意味でもドイツのユダヤ人迫害に協力する姿勢を示す必要があったのかも知れない。

[ [[鈴木徹: "バルト三国史", 東海大学出版会, 2000, pp.112-115]
  • ナチスドイツ支配下での独立回復の試み
    • バルト三国はナチス・ドイツの支配下にありながら、独立主権の回復を目指してレジスタンス活動を行った。
    • リトアニアでは、ソ連打倒の反抗や暫定政府樹立の試みが行われたが、ナチスにより抑圧された。
    • ラトヴィアでは、ナチスとの協力を模索しつつ、主権回復を目指して地下組織や暫定政府が結成されたが、ソ連の再支配により失敗した。
    • エストニアでも、独立回復を目指したが、ナチスやソ連に妨げられ、最終的に亡命政府の結成に至らなかった。
独立回復の試み

パルト三国はドイツ支配下にあってナチスと協力する一方で、なんとか独立主権を回復しようという努力を行った。リトアニアではソ連軍支配下の時代から、バルト三国では最も大規模なレジスタンス活動が行われていたが、ドイツが侵攻して来る二日前にソ連打倒を目指した大規模な反抗がカウナスで起こった。そこでドイツ軍が実際に侵攻すると元駐ドイツ大使であるシュキルバ (Kazys Skirpa)を首相に任命し、リトアニア主権回復に期待がかかった。しかし、ナチス=ドイツは暫定リトアニア政府樹立を拒否し、リトアニアを含むバルト三国を東方保護区として統治した。やかて東部戦線で膠着状態が続き、ソ連軍が立ち直りを見せる1943年頃に、リトアニアでは再度レジスタンス活動が組織化された。主権回復に向けて発足した最高委員会は、1944年2月16日にリトアニア暫定政府樹立を宣言した。しかし、ナチス=ドイツは暫定政府メンバーのほとんどを逮捕したため、再度レジスタンス活動家は地下に潜らざるをえなかった。

ラトヴィアではナチス当局に対する協力と反抗という両面から主権回復を模索した。まずはドイツ軍のソ連軍攻撃による混乱を利用して、1942-1943年の間、ナチス=ドイツ占領当局から真に自立したラトヴィア政府を樹立することを試みた。1943年からは自発的にSS(ヒトラー親衛隊 Schutz Staffel)に協力していくラトヴィア人青年が増加すると、ゲッシュタポによる破壊と迫害を受けつつも、ラトヴヴィア中央評議会が地下組織として結成され主権回復の道をさぐった。その後、戦局がドイツに不利になると、1944年2月にはラトヴィア共和国の復活を要求した。1944年ソ連軍の反撃が強まるなか、なんとしてもソ連による再支配を避けたいラトヴィア人は、今度はナチス=ドイツとの協力関係をさぐるようになった。こうして1945年2月バルトドイツ系のダンケル(Oskar Dankers)将軍の下、ラトヴィア国家委員会を結成した。しかし、これはナチによるプロバガンダの何物でもないと覚るや、月はじめにはリエバヤに暫定政府の樹立を試みた。しかし、再びソ軍が再度全土を掌握し、暫定政府メンバーはイギリスなど西側に逃亡した。

エストニアも同様に独を回復の道をさぐった。ウルオッツが1941年7月に行ったエストニア独立回復要求はナチス=ドイツに拒否されたものの、ナチス=ドイツは彼を占領期間もエストニア人代表として見做していた。1943年10月、ナチス=ドイツにとって戦況が悪化してくると、エストニアで動員令をかけるためドイツ側がウルオッツに協力を求めてきた。ウルオッツは逆にこの提案を拒否し、1944年3月には秘密国家評議会を形成した。ラトヴィア同様、評議会はすぐにゲシュタボにより解体させられたが、東部戦線で苦戦するナチス=ドイツを尻目に、ウルオッツは1937年憲法を根拠に大統領に就任することを宣言して、元法務相のティエフ (Otto Tief)を首相に任命した。さらに1944年9月17日にナチス=ドイツがエストニア撤退を告げると、9月22日、ティエフは外国軍のエストニアからの撤退を要求するとともに、エストニアの主権回復を宣言した。しかし、そのわずか2日後にツ連軍が再度タリンに侵攻し、11月末までにエストニア全土を占領した。やむなくウルオッツは主要闇僚とともにスウェーデンに亡し、亡命政府を組織しようとしたが合意に至らなかった。ティエフ首相はエストニアに残ったが、11月突如として消意不明となったことは、ソ連支配復活の象徴として不吉な事件であった。

[ [[鈴木徹: "バルト三国史", 東海大学出版会, 2000, pp.115-116]
  • ソ連による再支配
    • 1944年秋、ドイツ軍がバルト三国から撤退し、ソ連軍が再占領したことで多くの難民が発生した。
    • ソ連による再占領はバルト三国にとって1940-1941年の恐怖の再来であり、ナチス協力者への制裁や農民層への抑圧が行われた。
    • ソ連のバルト三国併合は1940年に既成事実化されており、連合国はソ連の協力を必要としていたため、バルト三国の独立問題は重要視されなかった。
    • 第二次大戦後、東欧の力の真空はソ連の勢力圏に取り込まれ、バルト三国の独立回復は不可能となった。
大戦の終結とソ連再支配

終戦に向けて連合国側のナチス=ドイツに対する反撃が進む中で、ドイツ軍は1944年秋頃パルト三国からの撤退を余儀なくされ、撤退するドイツ軍を西方に追って、ソ連軍が再度パルト三国を占領するようになった。そしてソ連軍によるバルト三国再占領に伴って、ソ連による恐怖支配を恐れる大量の難民が、祖国パルト三国を後にした。その数は実にエストニアで6万9000人、ラトヴィアで14万人、リトアニアで8万人に上った。ソ連によるバルト三国再占領は、パルト三民族にとって1940年から1941年の悪夢の再来であったし、ソ連もナチス=ドイツへの協力者に対する厳しい制裁をもって、パルト三国支配をゆるぎないものにしようとした。そもそも政治指導者や知識階級に属するものは、既にほとんど1940年から1941年の間に強制移住させられていた。しかし、1944年から1945年には、ナチス=ドイツへの協力をすべて処罰するため、また、集団農場化を円滑に導入するためにも、その対象は農民層にまで広げられた。さらにはパルト三国の産業復興を名目に、強制移住によって生じた労働力不足を埋めるため、またソ連化を進めるためにもロシア人の移住がはじまった。

そもそもソ連によるバルト三国併合が、巧みに仕組まれた1940年7月国会決で既成事実化していたこと、さらにはナチス=ドイツの無条件降伏のため連合国側がソ連の協力を必要としていたことは、バルト三国にとって、致命的であった。バルト三国は大戦終結を間近に控え、第一次大戦終了時にイギリスが行たようにルト三国独立のための支援を求めていた。しかし、第二次大戦を通じ大国の座から滑り落ちたイギリスに、第一次大戦末期と同様の支援を期待するには無理があった。実際、1942年5月2日に英ソ相互援助条約を締結した際、イギリスとはバルト問題に言及することはなく事実上ソ連のバルト三国併合を認め、バルト三国外交使節を既に外交団リストから外していた。さらに決定的なことは、バルト三国の独立問題はイギリス・アメリカ両国にとって、戦後処理の主要問題でなかった。連合国側にとってもソ連が対ドイツ戦を続行し、ナチス=ドイツの運命を断ちきることが最重要課題であり、連合国側はソ連の勢力圏と見做されるパルト問題に干渉することを避けていた。終戦を間近に控え、ソ連と連合国側には既に意見の不一致が多々あったもの、ソ連の対日参戦と戦後の国連構想にソ連を含めることを確実にするためにも、対ソ連宥和策がとられた。チャーチルは1944年10月に東欧の一部をソ連の勢力圏に人れることについて容認していたし、1945年はじめイギリス・アメリカ両国は、プルガリア、ルーマニア、ポーランドをソ連の勢力圏に組み込まれることを黙認する姿勢をとっていた。さらにはその後、この勢力にハンガリー、チェコスロヴァキア、ユーゴスラヴィアを組み込まれることをやむをえずとした。こうした状況を考えると、パルト三国の独立間題が連合国内でほとんど考慮に入れられなかったとしても驚きではない。連合国側が対ドイツ戦を強める中で、1945年2月のヤルタ会談を通じ連合国側の連携は維持されていたし、7月のポツダム会談まで外見上、この連携は弱まることはなかった。

また歴史的に当時の欧州情勢を判断しても、第二次大戦が終結した際の国際環境は、第一次大戦終了当時に比べ、パルト三国をはじめ東欧圏小国にとって不利であった。すなわち、第一次大戦で長年東欧諸民族を支配してきたドイツ、ロシア、オーストリア、ハンガリー二重帝国といった列強の崩壊は、東と中欧に新たな力の真空を生み、そこに民族自決の原則に基づいて新興国家が誕生する背景があった。しかし、第二次大戦では、1945年にナチス=ドイツの敗北によって生じた東欧圏力の真空は、大戦終結後の米ソ両大国間の冷戦がはじまる中で、西側に強い不信感を抱いている大国ソ連の格好の餌食となった。さらに独ソ不可侵条約秘密議定書によってソ連の勢力圏に一方的に譲渡され、かつ1940年にソ連併合が既成事実化していたことは、強制連行による指導者不在の中でバルト三国の独立回復を不可能にしていた。

[ [[鈴木徹: "バルト三国史", 東海大学出版会, 2000, pp.117-119]
  • 独立闘争(森の兄弟)と結末
    • スターリン時代、バルト三国での強制移住は、ソ連化の一環として行われ、特に1944年から1952年までに大量の住民がシベリアなどに強制移住させられた。
    • バルト三国では、ソ連の圧政に対抗するため「森の兄弟」と呼ばれるゲリラ活動が行われ、特にリトアニアで大規模に展開されたが、ソ連当局の取り締まりで次第に弱体化した。
    • ゲリラ活動は1950年代初頭には衰退し、1956年のリーダー逮捕・処刑により、事実上終息した。
バルト民族の迫害と抵抗

スターリン時代の最も悲劇的であり強烈なソ連か政策は、迫害と強制移住である。1940年から1941年にかけてもスターリンは強制移住を実行したがm戦後再び実施に移された強制移住は、1940年併合直後の強制移住を補完するものであるとともに、戦中ナチスに協力した者をパルト三国から追放するということ、さらに農業の集団化を進めるたの富農(クラーク)を追放するという、三つの意味があった。スターリンにとってパルト三国をソ連化するためには疑わしいレ分子ををバルトの地から撤去することが最も効果的で手っ取りばやい手段であった。1944年から1952年までに、1949年をピークとして断続的に大規模強制移住が実行されたが、この間にエストニアで合計12万4000人、ラトヴィアで13万6000人、リトアニアで24万5000人が強制移住の対象となった。とくに1949年3月末に実施された大量強制移住だけで、パルト三民族総人口の約3パーセントが連行され、主にシペリアなど未開の地に強制移住させられた。1956年のフルシチョフによるスターリン批判の後、強制移住者の帰国が認められたが、厳しい強制労働が課せられたシベリアの地で命を落とす者も多かった。

この激しい迫害とソ連化に対抗して、バルト三国ではソ連への併合直後からリトアニアを中心にレジスタンス活動が組織された。ケリラ活動は主に森林地帯で行われ、パルト三国ではゲリラ部隊を「森の兄弟」と呼んだ。とくに1950年代はじめまで、ゲリラ活動はラトヴィアとリトアニア国境付近で活発であった。リトアニアでは1945年春には3万人が、ラトヴィアでは1万人以上が森林地帯に潜んでいたとされているし、エストニアにおいても、正確な数字はないが、1万人近くが潜行していたと見られている。なかでも、リトアニアのゲリラ活動はカトリック教会の支援も受け、パルト三国では最も大規模かつ組織化されていた。また、1946年6月に抵抗運動が地下に組織されると、自由闘争者と呼ばれる武装集団など、様々なゲリラ活動を各地に展開させるとともに、「自由の鐘」という地下雑誌を発行した。ゲリラは通常、小部隊を形成し、連行と強制移住を担当する内務省派遣部隊を不意打ちする作戦をとった。1946六年にはリトアニアたけで100のゲリラ部隊が、2000もの内務省派遣隊を攻撃したとの記録もある。エストニアとラトヴィアにおいてはリトアニアのように全国レベルで組織化されたゲリラ活動が行われたとの記録はないが、農村、森林地帯に身を隠し抵抗を続けた。

やがてドイツ軍か放置していった武器弾薬が底をついて、積極的な抵抗を組織することが困難になると、森林地帯はソ連当局による粛清と強制移住から逃れるため一種の隠れ家として利用されることになった。実際、「森の兄弟」らの生活は、徐々に森林地帯や農村地帯の地下壕が主流となり、身を隠すには好都合であったが、戦闘行為には不向きであった。地下壕での生活環境も劣悪であり、食料品も農業集団化がはじまると供給路が絶たれて病死する者も多数出る有様で、一般の市民生活に復帰する者も多かった。また、「森の兄弟」に参加しない市民は、〈ソ連に協力するか><ゲリラ活動に協力するか〉の厳しい二者択一を迫られた。ゲリラの一部はソ連への協力者に対して、裏切りとしてテロをくり返したことからも、徐々に市民の支持を失い、ソ連当局の取り締まりの強化とともにゲリラ活動は下火になっていった。とくに1949年にソ連がゲリラの拠点地域を対象に大がかりな強制移住と農業集団化を行うと、食料供給源も絶たれ大きなダメージを受けた。これによってラトヴィアでは1949年末までにはゲリラ活動はほほ崩壊し、リトアニアにおいてもソ連当局の活動を麻痺させるほどの影響力は失った。リトアニアでは1950年末までにはゲリラの数は5000人に、1952年末までにはわすか700人までに減少し、この時点で組織的活動を中止せざるを得なかった。ソ連当局の手から逃れた「森の兄弟」たちも身分を隠し、市民生活に復帰しつつ活動を続けた。しかし、1956年にはゲリラ活動の指導者ラマナウスカスーヴァナガス (Adolfas Ramanauskas0Vanagas) が逮捕され処刑されたことは、ゲリラ活動の終息を象徴する出来事であった。

[ [[鈴木徹: "バルト三国史", 東海大学出版会, 2000, pp.124-126]

野村真理: 『小国リトアニアの歴史認識問題: ホロコーストの記憶をめぐって』(2009)

リトアニア人とホロコースト

第一次世界大戦後に独立をはたした小国リトアニアの運命は、他の東ヨーロッパの国々と同様、ナチ・ドイツとソ連という他国によって勝手に決定された。すなわち1939年8月の独ソ不可侵条約に付随した秘密協定は、独ソによる東ヨーロッパの分割支配を取り決めていたのである。1939年9月1日、ナチ・ドイツがポーランドに侵攻した後、ソ連は、東部国境を越えてポーランドに侵入すると同時に、バルト3国の支配に着手した。リトアニアは、翌年1940年8月、ついに独立を喪失して、ラトヴィア、エストニアとともにソ連邦に組み入れられた。
~ この独立喪失とリトアニア国民の同意なき国家の社会主義化が、人々の反ソ感情をあおったことはいうまでもない。反ソ感情は、ボリシェヴィキの殲滅を唱えるナチ・ドイツへの共感につながり、リトアニアの反ソ抵抗組織は、リトアニアのソ連支配からの解放と再独立の期待をナチ・ドイツのソ連攻撃にかけた。おりしもリトアニアで、人狩りという語がふさわしいほど大規模な反ソ分子の逮捕とソ連奥地の収容所への追放が行われ、人々を恐怖のどん底に突き落としたのは、独ソ戦直前の1941年6月半ばのことであった。
~ 他方、ソ連の支配に対し、リトアニアのユダヤ人の受け止め方は異なっていた。ユダヤ人にとって、ナチから自分たちを守りうるのはソ連の赤軍のみであり、無神論の共産主義を否認する熱心なユダヤ教徒にとってさえ、ヒトラーと比べればスターリンは小悪だったからである。
~ また、戦間期のリトアニアでは、法律上の平等とは裏腹に、ユダヤ人に対する社会的差別は歴然として存在した。とりわけリトアニアが1926年末以降、民族主義的、権威主義的独裁支配体制へと移行すると、ユダヤ人の経済活動からの排除が進められた。ところが、1940年に設立された共産党政権の下で事情は一変する。ユダヤ人であっても、能力があれば、まして共産党員であれば、政府の要職につくことさえ可能になったのである。そのため、特にユダヤ人の若者にはソ連体制に将来の希望を見出した者もいたが、他方で、このことは、リトアニア人にとってはリトアニアに対する裏切りであった。リトアニア人は、かつての自分たちのユダヤ人差別を棚上げして、ボリシェヴィキ支配とユダヤ支配を重ね合わせるナチの論理に共鳴した。
~ こうしてリトアニア人とユダヤ人の関心が反対方向をむなかで、ユダヤ人の最初の悲劇が起こる。すなわち1941年6月22日に独ソ戦が始まったとき、リトアニアの反ソ抵抗組織は、ナチ・ドイツのリトアニア侵攻を歓迎し、そのナチの挑発に乗り、ソ連支配の協力者にしてリトアニアの裏切り者であるユダヤ人に対し、報復としての大量虐殺に手を染めたのである。独ソ戦開始後の2週間のあいだに、リトアニア人あるいはリトアニア人とナチの共同行動によって殺害されたユダヤ人は、リトアニア全土で7000人から1万人ともいわれる。
~ その後、ナチ・ドイツがリトアニアの再独立を容認しなかったかぎりで、解放者ナチに対する当初の期待は失われたが、ことナチのユダヤ人迫害に関するかぎり、リトアニア人は、自国のユダヤ人の運命に関心を持たなかった。当時のリトアニアの約20万人のユダヤ人の絶滅は、リトアニア人の無関心のもと、ナチに対する消極的協力あるいはリトアニア人補助警察等の積極的協力を得て、支障なく執行されたのである。
~ [野村真理:"小国リトアニアの歴史認識問題:ホロコーストの記憶をめぐて",学術の動向 2009.3]
ホロコーストの記憶
~ しかも、ホロコーストの記憶は、戦後、リトアニア人が体験した恐怖によって急速に曖昧化した。リトアニアは1944年夏、ソ連の赤軍によってナチ・ドイツから解放されたが、リトアニア人にとってこれは、ソ連の恐怖支配の再来に他ならなかった。戦後リトアニアでは、反共主義者やリトアニア民族主義者と見なされた者たちの粛清が容赦なく執行される。リトアニア人は激しくこれに抵抗し、1953年頃、対ソ・パルチザン闘争が徹底的に鎮圧されるまで、大量の犠牲者を出すことになったのである。
~ 「森の兄弟」と呼ばれた彼らパルチザンは、リトアニアの愛国者により英雄視され、ソ連の犠牲者として記憶されたが、先に述べたように、独ソ戦下の反ソ抵抗組織がナチのホロコーストの加担者となった事実は忘れられた。さらに、ソ連の公式の歴史学によるナチの犠牲者の匿名化が、忘却に拍車をかけた。ソ連では、第二次世界大戦は大祖国戦争と呼ばれ、ソ連国民が一丸となって戦ったこの戦いの犠牲者において、ユダヤ人のみを特権的に語ることは許されなかった。
~ もちろん、ナチに殺された者の多くがユダヤ人であり、殺害にあたってリトアニア人協力者がいたことは、ソ連時代に必ずしもタブー化されていたわけではない。しかし、ソ連時代の学校では、ナチに協力したのはリトアニアの反革命的ブルジョア・ナショナリストであったと教えられた。このように、ナチ協力の罪がブルジョア・ナショナリストに帰されたことにより、リトアニア人のプロレタリア大衆は、反省を伴うことなく無罪化されたのである。しかし、大衆は、一方では無罪化の恩恵を被りながら、他方でソ連当局のいうブルジョア・ナショナリストは、彼らの意識のなかでは罪人ではない。彼らは、それが彼らの英雄、森の兄弟たちのことだと知っていた。彼らの意識のなかでは、ユダヤ人の場合とは逆に、スターリンに比べればヒトラーは小悪だったのである。
~ [野村真理:"小国リトアニアの歴史認識問題:ホロコーストの記憶をめぐて",学術の動向 2009.3]







コメントをかく


「http://」を含む投稿は禁止されています。

利用規約をご確認のうえご記入下さい

管理人/副管理人のみ編集できます