冷戦時代の核実験や民間防衛をめぐるカルチャー

ロシア右翼

グルジア(ジョージア)とロシア関連の資料集

色(カラー)革命

基本的には政変であり、ドミノに至らず、グルジア「パラ革命」(2003)とウクライナ「オレンジ革命」(2004)とキルギス「チューリップ革命」(2005)で打ち止め。
欧米諸国は、旧共産圏に「欧米のスタンダード」を浸透させることが重要だと考えている。そのため、人権が擁護されるように指導したり、公正公平な選挙を実現するために選挙監視をしたり、言論・信仰の自由化やメディアの自由化を促進したり、法制度の整備をすすめたり、「民主化」を目ざしたさまざまな支援を行っている。そして、これらの動きと、いわゆる「色革命 (Colored Revolution)」は切り離して考えることはできない。

「色革命」とは、旧ソ連諸国において民衆が既存の政権を倒して一気に民主化をすすめた無血の革命のことである。具体的には、2003年のグルジアの「バラ革命」、2004年のウクライナの「オレンジ革命」、2005年のキルギスの「チューリップ革命」という三つの政変を指す。欧米のメディアはこれらを「民主化ドミノ」と呼んだ(ただし、旧ソ連諸国15か国のうち三国が政変を起こしただけなので、「ドミノ」というのは不適切ではないかと思う)。ウクライナやキルギスはコーカサス地域には含まれないが、これら三つには共通点があり、一連の動きとして考えられることが多い。特に、2000年のセルビアのミロシェビッチ追放の動きから「バラ革命」「オレンジ革命」までの流れは関連性が強く、反体制的な市民が欧米のNGOの支援をうけて起こしたものととらえることができる。... ウクライナの活動家たちが、アゼルバイジャンなどほかの旧ソ諸国でも「革命」の指導を行ったといわれているが、「ドミノ」的に広がることはなかった。権威主義的な体制をとっている国では、他国の「革命」をしつかりと「学習」したためだろう。

[廣瀬陽子: "コーカサス国際関係の十字路", 集英社新書, 2008, pp.]

なお、ウクライナのオレンジ革命(2004)についてのロシアの見方は...
  • 親ロシア派政治家ヴィクトル・ヤヌコビッチを支援すべく、対抗するヴィクトル・ユシチェンコとの信用を損なおうとした。この宣伝はオレンジ革命後も継続している。
  • ロシア情報部は、「オレンジ」政府の代表者とその指導者ヴィクトル・ユシチェンコをナチスとして描写した。
  • オレンジ革命自体に関しては、ロシアは、この革命がウクライナ人自身によってではなく、アメリカ合衆国によって触発され、開始されたと世界に信じさせるためにあらゆる手を尽くした。

ロシアのグルジアへの軍事力行使

2002年にロシアは、チェチェン紛争に関連して、グルジア領内のパンキシ渓谷へ軍事攻撃を行っている。
最近、グルジア・ロシア関係が緊張している。チェチェン関連である。従来よりロシアは、ロシア内チェチェン共和国から逃れた武装勢力がグルジア内パンキシ渓谷を根城としているとして警戒していた。パンキシ渓谷はチェチェン・グルジア国境より南に位置し、グルジア内の地域であるが、7月に同渓谷からチェチェンに移動中の武装勢力がロシア軍と交戦した際に、ロシア軍がグルジア領にも攻撃を加えた模様で、グルジア側がそれを非難した。それに呼応して、ロシア側はグルジアがチェチェン武装勢力を野放しにしていると非難し、これに対してグルジア側はチェチェン武装勢力は本来はロシアの問題でグルジアは被害者であると、非難を返した。その後更に非難の応酬合戦が起こり、事態はエスカレートしていった。

[ 笠井達彦 (ロシア研究センター 主任研究員); "チェチェンとロシアとグルジアとモスクワ劇場占拠事件", 日本国際問題研究所, 2002 ]

このパンキシ渓谷への攻撃を、ロシアは「テロとの戦い」というレトリックを使って正当化しているが、実態は一般人への軍事攻撃だった。
パンキシ渓谷の問題

パンキシ渓谷周辺地域における対立も、アジャリアの問題と同様に、グルジアにとって国内問題としても外交問題としても難問でありつづけてきた。

グルジアの北東周辺部の山岳地帯に位置するパンキシ渓谷には、もともとチェチェン語に近い言葉を話すキスティ人と呼ばれるグルジア系チェチェン人たちが住んでおり、ロシアでチェチェン問題が深刻となってきてからはここでも緊張が高まっている。パンキシ渓谷は、チェチェン問題が生じる以前から、グルジア国内であるにもかかわらずグルジアの主権がほとんど及ばない地域であった。その理由は、山岳地域であるという地理的な事情と、住民がグルジア人とは異なる言葉を話し、独自の生活スタイルを維持してきたことにある。

しかし、チェチェン紛争がパンキシ渓谷を混乱に陥れた。ロシアが、この地域にチェチェン人武装勢力及びイスラーム系の外国人武装勢力(特に、アルカイダ)が潜伏していると指摘し、それらの掃討を大義名分に渓谷や周辺への空爆を行ったのである。また、パンキシ渓谷がチェチェン側の軍事基地となっているにもかかわらず、それを野放しにしているのは、グルジアがチェチェンを支援していることにほかならないとして、ロシアはグルジアを再三にわたり非難した。

ロシアは、チェチェンへの非常に残酷な攻撃を「テロとの戦い」というレトリックを使って正当化しているが、同様にパンキシ渓谷への攻撃も正当化している。確かに、この渓谷にチェチェン武装勢力とイスラーム過激派が潜伏し、輸送、武装訓練、武器調達などの基地として利用していた時期があったことは事実だ。しかし、ロシアの攻撃をうけた地域の多くは一般の人々しか住んでいなかった。そのような地へのロシアの攻撃は本来根拠がないものであり、単にグルジアへの嫌がらせとしか考えられない。著者も。パンキシ渓谷付近の村でロシアの空爆で足を負傷した少年と出会ったが、そのような何の罪もない人が犠牲になることは、国際的にも許すべきではない。

[廣瀬陽子: "コーカサス国際関係の十字路", 集英社新書, 2008, pp.60-61]
2000年代のアメリカのグルジアへの軍事政策

一方、2000年頃から、アメリカはグルジアを含むコーカサスへの軍事的関与を始めている。
アメリカの対コーカサス軍事政策

冷戦終結後、アメリカはロシアが勢力圏とみなす旧ソ連地域への軍事的関与には慎重であったが、9.11を経て、軍事的プレゼンスを大きく拡大するようになった。「テロとの戦い」という共通目標を米ロが掲げるようになったため、状況は一転したのである。これをうけて、ウズベキスタンとキルギスに軍事基地が設置された(ただし、ウズベキスタンからは2005年11月に撤退)。コーカサス三国には、基地こそ設置しなかったものの、「テロとの戦いに備えて、兵士を訓練して戦闘能力を向上させる」として、グルジアにアメリカ軍を送り込んだ。表向きは、パンキシ渓谷に潜むチェチェンのゲリラやアルカイダのメンバーの存在が名目となっているが、アメリカはロシア対策としてもグルジア軍の強化を目論んでいたといわれる。

グルジア政府は、もともと主権が及んでいなかったパンキシ渓谷に対しては介入を避けてきたが、「テロとの戦い」の世界潮流とアメリカの圧力に同調し、政策を転換したと考えられる。

アメリカは、2006年7月にグルジア軍の訓練プログラムである「持続と安定のオペレーションプログラム」(SSOP)に3000万ドルの追加の資金配分をし、期間も延長することを表明した。なお、SSOPは、2002年に着手された二年間の「訓練と装備プログラム」の後続プログラムとして、サアカシュヴィリ大統領の要請により、2005年に開始されたものである。

[廣瀬陽子: "コーカサス国際関係の十字路", 集英社新書, 2008, pp.175-176]
アメリカへと傾斜したグルジア外交

2004年にグルジア大統領選でサアカシュヴィリが当選し、バランス外交のシュワルナゼ政権から外交政策を転換して、アメリカへの傾斜を高めている。
外交と国際社会の評価

前任のシェワルナゼがバランス維持に腐心していたのに対して、サアカシュヴィリ政権は対外政策では、アメリカへの傾斜を明確にした。シェワルナゼ時代には100人に満たなかったイラク派兵は、2008年の時点では2000人に膨れ上がり、アメリカ、イギリスに次ぐ規模になっていた。グルジアの全人口が五百万に満たない中でである。2005年5月にアメリカ大統領としてはじめてグルジアを訪問したブッシュは、首都トビリシの自由(旧レーニン)広場で演説を行い、世界各地の「民主化」の魁としてパラ革命を高く評価し、サアカシュヴィリを大いに持ち上げた。東欧に連なるバルトから黒海沿岸の新たな「民主主義フロンティア」は、日本でも類似の自由と繁栄の弧構想が出現するなど、大きな脚光を浴びた。

2006年9月、NATOはグルジアとの集中対話(ID)開始提案を決定した。これは、加盟に向けての行動計画(MAP)の前段階である。さらに、欧州委員会は欧州近隣政策行動計画が南コーカサス三国との間でまとまったことを八月下旬に述べた。グルジアはヨーロッパやアメリカ、日本などからの訪間客のピザ取得義務を廃止し、交流の緊密化を図った。サアカシュヴィリ大統領は、2007年3月に日本を訪間し、安倍首相と会談した。

アメリカの強い後押しを受け、改革を進めるグルジア新政権に対する国際機関の評価は、特に経済関係では高かった。いわゆる新自由主義的な政策を推し進め、世界銀行はグルジアにおける経済法整備を高く評価し、ピジネス最適度ランキングが2006年には100位から37位、2007年には37位から一気に18位に急上昇した。

一方で、国際社会は、手放しでグルジア現政権の政策を評価しているわけではない。欧州委員会はグルジアとアセルバイジャンで国防費が突出して増加していることに危惧の念を表明してきた。憲法改正による行政府権限の肥大化、司法制度と行政制度の連続、選挙制度における行政府の役判の増加、マスコミへの監視圧力の強化といった間題点がたびたび指摘されている。アメリカの「民主化団体」として名高いフリーダム・ハウスも、憲法改正で議会の解散権を握るなどスーパー大統領主義の傾向が顕著な点に危惧の念を示した。とりわけテレビ局を与野党問わず私物のように扱う状況は、現在も変わっていない。次章で見るように、依然として人治とトップダウンに頼りがちなグルジア「一国政治文化」の、未成熟さを露呈し、その点において前政権と連続している。

[前田弘毅: "グルジア現代史", ユーラシアブックレット131, 東洋書店, 2009, , pp.41-42]
2008年夏の南オセチア(グルジア)紛争

そして、グルジアによる南オセチアの分離独立阻止と、ロシアによる介入という南オセチア紛争へ。
ロシアの軍事介入へ

2006年から2007年前半にはコドリ渓谷の直接支配回復や南オセチア臨時行政府設立など、グルジア中央政府の攻勢が目立った。しかし、2007年秋からは、グルジア側の手詰まり感に対して口シア側の分離勢力への肩入れが目立つようになっていった。アブハジアから僅か50キロのソチで2014年に冬季五輪が開かれることになると、南オセチア・ツヒンヴァリのセメント工場の建設計画やアブハジアの港湾・飛行場の利用計画が持ち上がった。さらに、国内問題として解決を目指すグルジアに対し、ロシアはこれをグルジアの加盟問題やセルビアからのコソボ独立問題に執拗にリンクさせ、グルジア政府を苛立たせた。一方で、グルジア側が分離地域へのロシア軍に代わる国際的な平和監視団の導人を訴えても、これには全く耳を貸さなかった。

2008年に入ると、事態はますます深刻化していった。2008年初頭、大統領選挙キャンペーン中のサアカシュヴィリは、コドリ渓谷チュハルタ村から挑発的なメ,セージを発した。「輝くチュハルタ村から、破壊されて空っぽのままのスフミ(分離派拠点)をわれわれは見下ろしている」。一方、アプハジアの分離勢力も、2月17日にコソボが独立を宣言すると、これを引き合いに独立を主張した。

さらに、これまでの前提を一挙に変えたのが、コソボが独立を宣言した後に下したロシア政府の決定であった。3月6日、「状況が変わった」として1996年以来続けてきたアプハジアへの経済制裁の取りやめを正式に通告したのである。続いて3月21日にはロシア下院がアブハジアと南オセチアの独立承認も考慮すべきという決議を採択している。コソボよりアブハジアと南オセチアのほうが民主的国家を建設しており、国際的に独立を認められるべきだと指摘した。これは、4月のNATOサミットへの強い牽制であったが、対立は後戻りできないところまで強まっていった。

4月2-4日のプカレスト・サミットでは、ウクライナ・グルジア加盟問題が議題となった。ロシアのこの間題に関するスタンスは強硬で、会議の最中の4月3日にわざわざプーチン人統領がアプハジアと南オセチア首脳へ書簡を送り、グルジアの加盟がもたらすネガテイプな影響に関する懸念を共有するとした。結局、加盟に関する直接の交渉開始となるアクションプラン開始は見送られる一方、将平の加盟について言及する形でNATOは玉虫色の決着を図った。国連も同様であり、4月15日には、国連安保理がアブハジア間題を監視するグルジア国連監視団 (UNOMIG) の任期を半年延長したが、グルジアの主権を認める一方でロシアの平和維持軍の役割を賞賛した。

ロシアはこうした玉虫色の言及に決して満足しなかったと思われる。経済制我解除後、ロシアは分離派支援を公然なものとしていった。4月中旬、グルジアがイスラエルから購入し、アブハジア空に飛ばしていたスパイ機が撃墜されるという事件が起きた。国連調査団はロシア軍機による撃墜を認めたが、ロシア側は、そもそもスパイ機の飛行自体が停戦違反であると取りつく島もなかった。さらに、アブハジアの鉄道軌道修理のために数百人の人員を派遣した。

グルジア側は必死に反撃し、5月15日の国連総会決議では、グルジア側の主張に沿った案が採択された。「民族浄化」への言及がなされ、さらに国内避難民の帰還だけではなく財産権の尊重にも言及されたことをサアカシヴィリは「歴史的」と評価した。しかし、結果よりも投票行動の中身自体が重要である。実は、賛成14か国、反対11か国での可決であった。

賛成国はアメリカやパルト三国とポーランドなどの親米派東欧諸国であり、反対国はロシア以外はイラン、北朝鮮、ヴェネズエラなど反米とされる国々のみであった。そして、なんと棄権は105であり、フランス、ドイツをはじめ日本も含めてほとんどの国が棄権した。これは、問題の本質とかけ離れた、国際関係に絡めとられた紛争の不幸な姿を示すものであった。

5月21日、グルジア議会選挙で与党が圧倒的勝利をおさめた。ここで一息ついたサアカシュヴィリ政権に対して、6月にはアブハジア分離派指導者のバガプシュがコドリ渓谷からのグルジア軍撤退と武力不行便の協定を求めたが、グルジア側は応じなかった。グルジアは内政問題として武力行使の放棄確約をあくまで拒否し続けたが、ロシアも国際問題に組み込もうとする一方で、ロシア軍のみが特権的に平和維持軍として進駐している状態を変えることを拒否し続けた。西欧側も実際の人員派遣には及び腰であった。結局、国際社会は両者のチキン・レースをはらはらしながら見守り続けただけであった。

とりわけ、欧州の姿勢は集団としてはグルジアに肩入れしつつ、個別になるとロシアに濃厚な配慮を見せて、グルジア側を苛立たせていった。7月に入って出されたアプハジアに関するシュタインマイヤー独外相の和平案は、はじめに武力不行使をグルジア側に約束させようというもので、グルジア政府は欧州の姿勢に不信感を募らせた。その後のライス米国務長官のグルジア訪問も、先鋭化する対立に何ら有効な手を打つことはできなかった。

南オセチア紛争とその後

世界が北京オリンピック開催に沸き立っていた2008年8月8日夕刻、旧南オセチア自治州に展開していたグルジア軍は電撃作戦を実施し、州都ツヒンヴァリを「解放」した。8月初めから緊張は高まっており、グルジア側はロシア軍が先に軍を南オセチアに向け、これに対する自衛のための作戦発動だったとするが、今のところ真相は不明である。コーカサス諸民族の保護者を自認するロシアは、グルジア軍の動きを「大虐殺」と呼び、南オセチアに通じるロキ・トンネルから大軍を侵入させ、激戦のすえ、グルジア軍を南オセチアから撤退させた。

ロシアはグルジアへの懲罰的軍事行動をエスカレートさせ、軍事施設のみならす港湾などの社会インフラを空爆で破壊し、民間施設にも大きな被害が出た。地上部隊も紛争地域を越えてグルジア領奥深くまで侵攻した。スターリンの出身地としても有名な東西グルジアを結ぶ幹線上の要衝ゴリや、黒海に面するグルジアの重要な港ポチ、大きな軍の基地がある西部のセナキなどの戦略拠点を次々に占領し、施設やインフラの破壊行動を続けた。

フランスのサルコジ大統領の仲介により、8月12日に六原則に基づく停戦が成立した。しかし、原則自体がどのようにでも解釈できる項目を含んでおり、さらに、8月26日にはロシアはアブハジアと南オセチアの国家承認に踏み切り、外交関係の樹立、軍駐留などの施策を矢継ぎ早に打ち出した。10月半ばまでには「グルジア」から軍を撤退することを約束したものの、「新冷戦」も恐れないとするロシアの強硬姿勢は国際的に物議を醸している。

一方、サアカシュヴィリは2008年1月に再選されたばかりであるg、今回の事件を受けて、大統領任期 (5年) を全うできるか不透明になってきた。すでに労働党や新右派党は党首が大統領辞任を求めている。当面は復興支援に欧米を頼りつつ、経済面での成果をあげることで政権の求心力を回復させるしかないが、国内の基盤は相当弱まっている。

サアカシュヴィリはガムサフルディアの持つ愛国者 (12月23日聖ギオルギの日へ向けた政治アピール) と、シュワルナゼの持った危機の中で現われた有能な指導者(奇しくも1992年、帰国後初めの選挙での得票率が、サアカシュヴィリが12年後に獲得した得票率と同率の96パーセントであった) としての二つの長所を学んだ。その意味で、サアカシュヴィリは決してアメリカ育ちの政治家などではなく、この20年余の激動のグルジアの申し子である。しかし、このハイプリッド政治家は、ファシストと揶揄されたガムサフルディアとワンマン政治家シュワルナゼの二つの負の資質を引き継いた面もある。その悪い面か今回の紛争では露骨に出てしまった感が強い。

サアカシュヴィリに代わる大統領候補としては、欧米の受けもよく、モスクワ大学で学位も取得している前国会議長のプルジャナゼが最有力であろう。南オセチア紛争後はサアカシュヴィリの責任を追及する姿勢を明確にし、新政党結成にも動き出した。ただし、冷徹な印象が強く、グルジアの中では大衆人気には遠い。有力なプレーンを集めることができるかが彼女の成功への大きなポイントになるだろう。

若い国では世代交代も早い。かつてのシェワルナゼ・チルドレン (ジュヴァニア、サアカシュユヴィリ、現副首相のパラミゼ、現国会副議長マチャヴァリアニ)のような存在であるパクラゼ国会議長やトビリシ市長のウグラヴァも目立つ0存在だがカリスマに欠ける。

その意味では、グルジアの国連代表を務めたアラサニア(1973年生)の動向が最も注目される。父親は1993年のスフミ陥落時にアブハジアで分離派によって処刑された。しかし、グルジア政府側のアブハジア亡命政権のリーダーに任命されると、分離派勢力から一定の信頼を勝ち取った。将来を嘱望されているが、実際の政治力は未知数である。この他、サアカシュヴィリの兄弟分だったオクルアシュヴィリにはカリスマカがあり、本人も野心を隠していないが、軍事的により強硬で諸外国の信用が得られない上、反対派としての言動には疑間符がつくものだった。

野堂を束ねられる強力なリーダーが出てきていないことから、当面は内外ともにサアカシュヴィリの続投で落ち着く可能性が高い。ただし、大きな混乱でサアカシュヴィリが辞任するといった不測の事態が起これは、従来から議論のある君主制復活 (グルジア正教会総主教が示唆している) と議会制共和国などといった全く新しい国家体制に移行する可能性も完全にあり得ない話ではない。

ともあれ、どのような勢力が政権につき、グルジアの国家体制が変革されるにせよ、グルジアは現在大きな岐路に立たされている。分離地域問題は、ロシアとどう付き合っていくかという対外問題と、民族間題をどう乗り越えるかという国内問題の交差するところにあり、グルジアはこれまで苦しい戦いを強いられてきた。しかし、この二つ問題は、グルジアだけではなく広く地域全体に共有される問題であり、グルジアの経験に学ぶところは大きい。グルジアが困難に立ち向かいながら、この問題を平和裏に解決する日は来るのであろうか。

[前田弘毅: "グルジア現代史", ユーラシアブックレット No.131, 東洋書店, 2009, pp.51-57]

その後は、大統領権限が大幅縮小され、ギオルギ・マルグヴェラシヴィリ(2013-2018)、サロメ・ズラビシュヴィリ(2018- )が大統領職を務めている。



各国のタイムライン

8世紀アラニヤ王国が建国
9/10 世紀アラニヤ王国がキリスト教を採用
1236-1330モンゴルがコーカサス地方を征服
17 世紀名目上はサファヴィー朝イランの支配
1722-1723ロシア・ペルシャ戦争: ロシアはサファヴィー朝イランを犠牲にしてコーカサスの領土を獲得
1774-1806オセチアはロシア帝国に編入され、ロシア帝国はウラジカフカスに軍事拠点を設立し、この地域を北半分と南半分に分割
1920 年代この地域は、チェチェンとイングーシを含む6つの地区からなる、ソビエト連邦の短命なソビエト山岳共和国の一部となっていた
1936北オセチアがソビエト連邦の自治共和国となる
1989-1992オセチア人とイングーシ人の紛争。ソビエト連邦の崩壊の中、北オセチア東部の民族間紛争が、地元のイングーシ人とオセチア人の準軍事組織間の短い戦争に発展。最大600人が死亡し、最大60,000人のイングーシ人が北オセチアからイングーシに逃げることを余儀なくされた
1990年代民族間の緊張と暴力の中、数千人の南オセチア人がグルジアから北オセチアに逃避。北オセチアはこの地域と強い民族的つながりを維持している
1994北オセチアが北オセチア・アラニヤ共和国に名称変更
2000年代-北コーカサスでロシアとコーカサス首長国、そして2015年からはイスラム国グループと関係のある過激派との間でイスラム主義反乱が勃発。事件は主に北コーカサスのチェチェン共和国、ダゲスタン共和国、イングーシ共和国、カバルダ・バルカル共和国に集中
2004武装した襲撃者がベスランの町の学校を襲撃。包囲戦は暴力的な結末を迎え、330人が死亡。その半数以上が子供
ロシアのウラジミール・プーチン大統領は、襲撃者はチェチェン分離主義者とつながりがあり、アルカイダから資金提供を受けているテロリストであると述べた。彼は、襲撃者がロシア南部を攻撃するために北コーカサス全域で暴力を解き放とうとしていると非難。
追放されたチェチェン分離主義者のアスラン・マスハドフ大統領は、わずか6カ月後に殺害されたが、学校の占拠を非難する一方で、チェチェンにおけるロシアの政策を非難し、襲撃者らをロシア人による残虐行為に対するチェチェン人への復讐を企む「狂人」と評した。
2008北オセチア国境を越えたグルジアの南オセチア地域で戦争が勃発。ロシア軍はグルジア軍を同地域から追い出す
2010イスラム過激派によるものとされる爆弾テロで、同地域の首都ウラジカフカスで17人が死亡
2017ロシアのFSB治安部隊がグルジア国境近くのウラジカフカス南部で対テロ作戦を行い、IS戦闘員4人を殺害
18-19世紀ロシア帝国が南方へと拡大し、コーカサス地方にまで達する
1920 年代オセチア人はグルジアを占領するボルシェビキ軍と同盟を結ぶ。ソ連はこの地域を2つの行政地域に分割
1980-90年代グルジアで民族主義指導者ズビアド・ガムサフルディアが権力を握り、南オセチアで分離主義感情が高まる
1990-1992数回の暴力事件の後、南オセチアはグルジアからの離脱を宣言し、1992 年に独立を宣言する。グルジア、オセチア、ロシアの平和維持軍の派遣で合意に達するまで、グルジアの非正規軍とオセチアの戦闘員による散発的な暴力事件が続く
2008ロシアの支援を受けた反政府勢力との小規模な衝突の後、グルジアが南オセチアを武力で奪還しようとしたことで、グルジアとロシアの間の緊張が本格的な軍事衝突にエスカレート。
ロシア軍は反撃し、グルジア軍を南オセチアとアブハジアから追い出す。5日間の戦闘の後、両者はフランスの仲介による和平協定に署名。ロシアは南オセチアとアブハジアの両方を独立国家として承認。承認している国は他にほとんどない
2009ロシアは、グルジア本土およびアブハジアとの国境を正式に管理する5年間の協定に署名し、南オセチアにおける立場を強化
2015ロシアは南オセチアと「同盟および統合協定」に署名し、国境検問所を廃止。グルジアはこれをロシアによるこの地域の併合に向けた一歩とみなしている。ロシア軍は国境フェンスをグルジア本土に1.5km押し込んだ。これはグルジアの主要東西幹線道路から少し離れたところ
2017州はアラニヤ国への改名を投票で決定。アラニヤはもともと北コーカサス中央部の中世の王国だったが、この王国の歴史的継承者は誰なのかをめぐって州内で争いがある
2022南オセチアはグルジアとの検問所を月に10日間開設すると発表
756独立王国が成立
985グルジアの一部となり、後に独立を回復
1578トルコの支配下に入
1810ロシアがアブハジアを保護領と宣言
1864ロシアがアブハジアを併合
1918ロシア革命をきっかけに、アブハジアを含むグルジアが独立国家を宣言
1921赤軍が侵攻し、グルジアは台頭中のソビエト連邦に吸収される。アブハジアは独立したソビエト共和国となり、グルジア・ソビエト共和国と関連した条約共和国という曖昧な地位を持つ
1931ソビエト当局がアブハジアをグルジアに編入
1991グルジアが独立を宣言
1992-1993グルジア・アブハジア戦争: グルジアはアブハジアに軍隊を派遣し、分離の動きを阻止。激しい戦闘はグルジア軍がアブハジアから追放されて終了。最大3万人が死亡。戦争前はグルジア人がアブハジアの人口のほぼ半分を占めていたが、最大25万人のグルジア人とその他の人々が追放され、アブハジアの人口は実質的に半減
1994停戦合意、平和維持軍が到着。ほぼ全員がロシア人
1999アブハジアが独立を宣言。これを承認める国はほとんどない
2008南オセチアでロシア軍とグルジア軍の戦争が勃発し、アブハジアのコドリ渓谷でアブハジア軍がグルジア軍と衝突。ロシアがアブハジア人支援のため軍隊を派遣。グルジア軍と民間人がグルジア政府の支配下にあるアブハジアの最後の地域から撤退
南オセチアをめぐるロシアとグルジアの戦争の後、ロシアはアブハジアの独立を正式に承認
2014ロシアとアブハジアが「戦略的パートナーシップ」協定に署名。グルジアはモスクワがアブハジアの併合を企てていると非難
2020ラウル・ハジンバが6年間で2人目の国民の抗議により職を追われる大統領となる
11世紀グルジア王国はバグラティオニ朝のもとで政治的に統一される
12-13世紀グルジア王国は、ダヴィド 4 世 (在位 1089-1125) とその曾孫タマル (在位 1184-1213) の治世中に最盛期を迎える
1220-1330年代頃モンゴルの侵攻とコーカサス占領
1299-1302グルジアのジョージ5世がモンゴルを破り、グルジア王国を復活させる。彼の死後、グルジアは政治的に分裂し、15 世紀までに崩壊
16-18世紀サファヴィー朝イラン (およびイランのアフシャール朝とガージャール朝のその後) とオスマン帝国トルコがグルジアの東部と西部を征服
1801-1804現在のグルジアの大部分がロシア帝国の一部となる
​​1879歴史上最も有名なグルジア人で、後のソ連指導者ヨシフ・ジュガシビリ(ヨシフ・スターリン)がゴリの町で生まれる
1918ロシア革命をきっかけにグルジア独立国家が宣言
1921赤軍が侵攻し、グルジアは新興ソ連に吸収
1956ソ連指導者ニキータ・フルシチョフの脱スターリン政策に対する抗議が暴力的になり、ソ連からの離脱を求める声が上がるが、ソ連軍によって容赦なく鎮圧される
1989南オセチアの自治権拡大の要求がグルジア人とオセチア人の間で暴力的な衝突を引き起こす。ソ連(後にロシア)の平和維持軍が派遣される
1990-1992数回の暴力事件の後、南オセチアはグルジアからの離脱を宣言し、1992年に独立を宣言。グルジアの非正規軍とオセチアの戦闘員による散発的な暴力は、グルジア、オセチア、ロシアの平和維持軍の派遣で合意に達するまで継続
1991グルジア議会は、国民投票で圧倒的多数が独立を支持したことを受けて、ソ連からの離脱を宣言
1992-1993グルジア・アブハジア戦争: グルジアは離脱の動きを阻止するため、アブハジアに軍隊を派遣。激しい戦闘は、グルジア軍がアブハジアから追放されて終了。最大3万人が死亡した。戦争前、グルジア人はアブハジアの人口のほぼ半分を占めていたが、最大25万人のグルジア人とその他の人々が追放され、アブハジアの人口は事実上半減
1994グルジア政府とアブハジア分離主義者が停戦協定に署名し、ロシアの平和維持軍が同地域に展開する道が開かれた
2001アブハジアで、北コーカサスの戦闘員に支援されたグルジアの準軍事組織とアブハジア軍が衝突。ロシアがグルジアがチェチェン反乱軍をかくまっていると非難し、緊張が高まるが、グルジアはこれを否定
2004グルジア軍と南オセチア軍の衝突で数人の死者が報告される
2006南オセチア人が、承認されていない住民投票で独立に賛成票を投じる
2008ロシア支援の反乱軍との小規模な衝突の後、グルジアが南オセチアを武力で奪還しようとしたことで、グルジアとロシアの緊張が本格的な軍事衝突にエスカレート
ロシア軍が反撃し、グルジア軍を南オセチアとアブハジアから追い出す。5日間の戦闘の後、両者はフランスの仲介による和平協定に署名。ロシアは南オセチアとアブハジアの両方を独立国家として承認しているが、承認している国は他にほとんどない。
ロシアはアブハジアと南オセチアに軍を駐留させるとしている
2014欧州連合とグルジアが連合協定に署名。これは広範囲にわたる貿易パートナーシップ協定
2015南オセチアのロシア軍がグルジア本土の1.5km内側に国境を移動させ、国の西と東を結ぶ主要道路を脅かす
2017南オセチアの分離地域で大統領選挙が行われ、ロシア連邦への加盟計画の一環として国名をアラニヤ国に変更するかどうかの国民投票が行われた
2022ロシアのウクライナ侵攻後、グルジアは多くのロシア人亡命者の一時的な居住地となる
2023イラクリ・ガリバシビリ首相は、NATO拡大がロシアのウクライナ侵攻の主な理由の一つであると発言し、国内外で批判を浴びる。
グルジアは長年の目標であった欧州連合加盟候補国としての地位を獲得
2024グルジアは物議を醸す「外国の影響に関する透明性」法案(しばしば「外国代理人法」と呼ばれる)を導入し、トビリシで数週間にわたる抗議活動を引き起こす




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