冷戦時代の核実験や民間防衛をめぐるカルチャー

ロシア右翼

最初から最後まで民族問題がわからなかったゴルバチョフ


1985年にソ連共産党書記長となったゴルバチョフは、1986年の第27回党大会で、民族問題について何も提案しなかった。
ところが同時に、ソ連は何よりも多民族社会なのである。差異やら欲求不満を抱えたこの社会に対して、ゴルバチョフはずいぶん奇妙なことに第27回党大会で何も提案できなかった。帝国に話が及ぶと--- 長々と議論を展開してみせた --- 他の部分ではあれはど率直な演説は、昔ながらの守り神にすがりつく。一瞬姿を消した紋切り型の硬直した表現がすっかり優勢になる。「ソビエト国民は新しいタイプの社会的・民際的共同体であり」、そこでは「圧迫や不平等は消減させられ」、それに取って替わったのが「諸民族の友好、民族文化の尊重、万人の民族的尊厳」であるとゴルバチョフは宣言する。こうして、1922年以来、ソ連の幹部という幹部が帝国について述べるときに使った語調や言い回しに突然回帰する。ソ連はうまくいっていないかもしれないが、帝国の方は順調だ。かりに周辺で少々の問題やら弱点を抱えていてもである。

>[エレーヌ・カレール=ダンコース (山辺雅彦 訳): "民族の栄光 ソビエト帝国の終焉 (上), 藤原書店, 1991, pp.18-23]
ゴルバチョフは多民族国家ソ連が、民族問題についてはうまくやってきたと考えていたようである。


ゴルバチョフは民族問題を理想化しつつ、周辺諸共和国に対する苛立ちを隠しつつ表明している。
周辺の諸共和国の要求やら態度に対して不寛容ぶりを示し、ブレジネフ時代の〈停滞〉からあまりにも大きな利益を引き出し、個別的な利害にとらわれ過ぎたと示唆する。なるはどゴルバチョフは、晩年のプレジネフのように、諸共和国が「ロシアに対する負債を返し」始める時がきたとは言わなかった。それでも、過大な要求を突きつけるばかりで、共同の発展のために協力しようとしない諸民族に対する苛立ちが、満足を示す決まり文句の陰から透けて見える。 [エレーヌ・カレール=ダンコース (山辺雅彦 訳): "民族の栄光 ソビエト帝国の終焉 (上), 藤原書店, 1991, pp.23-27]

そして、
1986年12月にアルマ・アタでカザフ人のデモ隊と治安維持部隊が衝突という、ゴルバチョフ政権下での初の民族暴動が起きたが、ゴルバチョフは方針転換などはしなかった。
>1986年12月にアルマ・アタでカザフ人のデモ隊と治安維持部隊が衝突した。ゴルバチョフ時代になって初のソ連における暴動 --- この事件については後に述べる --- なのだが、書記長も党指導部も確信が揺らいだ様子はない。数週間後の1987年1月27日に開催された中央委員会総会で、ゴルバチョフは手短にではあるが民族社会に生じた紛争について触れる。しかし伝統として定着した言い方にくらべて厳密かつ率直であった。それまで常に楽観的な決まり文句が幅をきかせていた分野に、初めてグラスノスチが及んだ感があった。しかしソ連が多民族国家であることに由来する困難を認めたにせよ、ゴルバチョフは民族問題の政策にいかなる方針変更も示唆しなかった。

[エレーヌ・カレール=ダンコース (山辺雅彦 訳): "民族の栄光 ソビエト帝国の終焉 (上), 藤原書店, 1991, pp.28-30]
このようなゴルバチョフの対応は、もともと彼が民族問題をわかっておらず、政権高官も同様にロシアのことしかしらない人々だった。
  • ゴルバチョフはソビエト連邦の中央集権化を進め、民族の代表権を軽視した。
  • 1985年以降、政治局や書記局での非ロシア人の地位が減少し、ロシア人とスラブ人の優位が強まった。
  • 特に中央アジアやカフカースのムスリム地域の代表が政治局から排除されたことが、民族問題の悪化に繋がった。
  • ソ連の高官は以前、様々な共和国で経験を積んでいたが、ゴルバチョフ政権ではロシア的な環境での経験しかない者が多く、周辺地域の問題を理解できなかった。
  • ゴルバチョフの側近の多くがロシア人であり、彼自身もロシアでの経験しかなく、他民族や周辺地域への理解が不足していた。
民族出身の高官がめったに郷土を代表しなくなったばかりか、さらに重大なのは周辺地域の大部分が党の上級機関に顔を見せなくなったことだ。ブレジネフ時代には正局員と局員候補が、中央アジアとカフカースの諸ムスリム共和国、グルジア、ウクライナと白ロシアの2つのスラブ国家の名において発言した。なるほど代表のいない地域(バルト三国、アルメニア)もあったが、少なくとも人口の多い民族は代表を持っていた。ところが1987年には政治局から全ムスリム共和国とカフカースが姿を消した。だからとって、それまで代表のいなった地域と交替したのではない。ロシア人の優位に加えて、スラブ人がほとんどいたるところに幅をきかせている。中央委員会書記のニコライ・スリュニコフはロシア人ではないが、やはりスラブ人である。

[エレーヌ・カレール=ダンコース (山辺雅彦 訳): "民族の栄光 ソビエト帝国の終焉 (上), 藤原書店, 1991, pp.30-36]
そして、これらの結果として、1990年、バルト諸国が独立へ動き始める。これに対し、ゴルバチョフは連邦制の改変で乗り切ろうとして。
党も大会も民族に関する考察を本当に深めないでいるうちに、事件が矢継ぎ早に起こる。経済自立の計画以上にはモスクワが進みそうもないし、おまけに計画について指導部内で大きな対立があるのを見て取って、バルト人はモスクワが拒否する道を独自に進むべきだと結論した。それがゴルバチョフとリトアニアの群衆との劇的な対決であった。1990年1月、ヴィリニュスでの出来事である。
...
ヴィリニュスでゴルバチョフはそれまでずっと拒否してきた一歩をようやく踏み出す。連邦制がソ連に実在したためしがないことを認め、猶予期間を求めて論陣を張り、ソビエトの機構を根本的に改変すると約束する。

[エレーヌ・カレール=ダンコース (山辺雅彦 訳): "民族の栄光 ソビエト帝国の終焉 (下), 藤原書店, 1991, pp.379-385]
しかし、ゴルバチョフが大統領制を推進し権限を強化する一方、民族側からは信頼が得られず、連邦の改革が遅延したことに批判が集まった。ゴルバチョフにとって大統領制は個人的な勝利だったが、中央と周辺部の対立を悪化させ、連邦に打撃を与える結果となった。

リトアニア独立によりソ連の新大統領は民族問題に直面するが、ソビエト憲法には民族自決に関する規定がなかった。1990年にソ連は「分離手続き法」を急いで可決し、独立を目指す共和国に多くの制限と落とし穴を設け、事実上、分離不可能にした。
1989年に〈独立〉の言葉が様々な共和国で現実性を帯び始めて以来、マスコミは独立の態様を規定する必要があると定期的に呼び掛けてきた。ヴィリニュスで1990年1月に、ゴルバチョフは条文がないからには独立もありえないと強調し、この不備は改めると約束する。しかし1990年1月の最高会議の作業日程ではこの問題に1回の討論しか予定されていない。この会期内に法律が急いで提案され可決される徴候はなかった。だからこそ、1990年4月3日に、分離法が突然大急ぎで可決されたのが目立つ。この慌てふりは強調されるべきだ。おそらくそのせいで、過去のあらゆる決定に劣らず、中央と周辺部の関係にとっておよそ時宜をえない法案が採択されてしまったのである。

[エレーヌ・カレール=ダンコース (山辺雅彦 訳): "民族の栄光 ソビエト帝国の終焉 (下), 藤原書店, 1991, pp.385-393]
結局、この「非分離法」が使われることはなく、ソ連は崩壊した。






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