ロシア宇宙主義についてのノート・調べものメモ

ロシア宗教>魔術

アル・マスウーデイーが記録したスラヴの魔法


帝政ロシア生まれの米国の歴史家で、ロシア史について多くの著作のあるGeorge Vernadsky(1887-1973):
In The Origins of Russia, George Vernadsky cites one of the early accounts of practice of magic in Slavic lands, The Meadows of Gold and the Mines of Gems by the tenth-century Arab historian and geographer Abu al-Hasan Ali ibn al-Husayn ibn Ali al-Mas'udi:

「ロシアの起源」において、ジョージ・ヴェルナツキーは、10世紀のアラブの歴史家・地理学者アブ・アル=ハサン・アリ・イブン・アル=フサイン・イブン・アリ・アル=マスウーディが記述した、スラブの土地での魔術の実践に関する初期の報告『黄金の牧草地と宝石の鉱山』を引用している:

The Slavs believed that the course of the sun affected the fortunes of mankind. Masudi relates that among the Slavic temples there was one situated on a high mountain, so built that it was easy, through special openings, to observe the points of sunrise. Precious stones were inserted in various parts of the building and magic signs carved in stone. By co-ordinating the data on the course of the sun and magic meaning of the precious stones and of the signs, Slavic high priests prophesied future events. [George Vernadsky: "The Origins of Russia", 1959, p.110]

スラブ人は、太陽の運行が人類の運命に影響を与えると信じてた。マスウーディによれば、スラブの寺院の中には、特別な開口部を通じて日の出の位置を観察しやすいように建てられた高い山の上にひとつあった。建物のさまざまな部分には宝石が埋め込まれ、石には魔法の印が刻まれていた。スラブの高位聖職者は、太陽の運行データと宝石の魔法的な意味、そして印の意味を組み合わせることで、未来の出来事を予言していた。


[George M. Young: "The Rossian Cosmists", 2012]

このアラブの歴史家・地理学者・旅行家アル・マスウーデイー(896-956)とは...
歴史家アル・マスウーデイー

アル・タナリーの偉大な後継者であるアル ・マスウーディーは、タバリーを自分の最大の先駆者として尊敬していた。アプール・ハサン・アリ・アル・マスウーディーはバグダードに生まれたアラビァ人で、シリア、パレスチナ、アラビア、ザンジバル、ペルシア、中央ァジア、インド、セイロンの各地を旅行した。彼自身は支那海まで行ったと主張していた。彼はその豊富多彩な旅行の収穫をまとめて、三十巻におよぷ百科全書を仕上げたが、これは抱擁力の大きいイスラ ムの学者たちにさえ、あまりに膨大すぎると評された。彼はその省略本を出したが、これもまた膨大なものだった。最後に、おそらく自分が執筆にかけているほどの時間を読者が持ち得ないのを悟ったのだろうか、その著述を現存する形にまで縮小し、それに「黄金の牧場と宝石の鉱山」という題名を与えた。

アル・ マスウーディーは、中国からフランスまでの諸国の地理、生物、歴史、民俗、宗教、科学、哲学、 文芸を貪婪にあさり歩いて、あたかも回教世界のヘ口ドトス兼プリニウスといった観がある。彼はその素材を圧縮して無味乾燥におちいらせるようなことはせず、折りにふれ興味ある物語をゆうゆうと語って、読者を飽かせないようにしている。

宗教に対しては、彼はいささか懐疑的ではあるが、それを読者に押しつけるようなことは決してしていない。その生涯の終わりに、彼は科学、歴史。哲学に関する自分の見解をまとめ上げたが、そのなかで彼は「鉱物から植物へ、植物から動物へ、動物から人間へ」の進化学説らしきものを示している。おそらく、こうした見解がバグダードの保守派とのあいだに紛糾を起こさせたのであろう。彼は、出生成育の地である都を出ることを余儀なくされてしまった。彼はカイロに移り住んだが、都との別離をすこぶる嘆き悲しんだ。

[ デュラント: "世界の歴史 第11巻", 日本ブック・クラブ, 1968 ]





コメントをかく


「http://」を含む投稿は禁止されています。

利用規約をご確認のうえご記入下さい

管理人/副管理人のみ編集できます