ロシア宇宙主義についてのノート・調べものメモ

人物

フョードロフの「粒子の残響と震え」というエソテリシズム


外形的には、宗教・呪術・エソテリシズム・オカルトを持ち出すことがないフョードロフの共同事業(不死の実現と祖先の復活)。ニコライ・フョードロフ (1829-1903)は、祖先の復活について、霊魂や残留思念はもとより、超古代文明や超自然な存在や異星人や神などにも言及していない。

しかし、George Youngによれば、『アントワーヌ・フェーヴル: "エゾテリシズム思想" (1995)』が挙げるエゾテリシズムに共通しているものを、フョードロフの主張はコンプしている:
  • コレスポンダンス(照応) (correspondences)
  • 生きている自然 (living nature)
  • 想像力と媒体 (imagination and mediations)
  • 変成の体験 (experience of transmutation)
  • 和協 (the praxis of the concordance)
  • 伝授 (transmission)

フョードロフの『共同事業の哲学』には、「物質全体は祖先たちの遺骸」であり、「わめて微細な粒子」も拡大していけば「先祖の痕跡を見いだすことができ」て、原理的にはそれらを集めて死せる祖先を復元可能で、そのようなテクノロジーを作り、祖先を復活させることが人類の課題だとある...
物質全体は祖先たちの遺骸である。きわめて微細な粒子は、肉眼では見えないようなごく微細な生物にしか見えないだろうし、しかも彼らにも、わたしたちが顕微鏡を用いるように、見るものを拡大してようやく見えるほどなのだが、こうした顕微鏡を二重、三重と重ねていってようやく見えるくらいの粒子のなかにも、わたしたちは自分たちの先祖の痕跡を見いだすことができる。個々の粒子は多数のさらに小さな粒子からできていて、わたしたちの目に見える地球と同じくらい多種多様な様相を呈している。この粒子はさまざまな環境を経てくるのであり、そうした環境のひとつひとつが粒子の上に自分の影響、自分の痕跡を残すのである。考古学的、古生物学的観点から見れば、粒子は地層のようになっていて、この粒子がさまざまな環境、さまざまな有機体を通過する際に受けた影響すべての刻印をとどめているのかもしれな粒子がどれはど細分化されても、その細分化から生じる新しい粒子には、おそらく割れた跡が残っている。こうした粒子は「シュンボロン συμβολον」とか「スフラギス σφραγις」と呼ばれた古代の歓待のしるしのようなものかもしれない。古代束の間の時をともにした友人たちは、別れに際してなにかある物をふたつに割り、どこに別れて行こうとも、〔「シュンボロン」と呼ばれる〕その半分をもって行き、ふたたび出会ったときに、それぞれががもっている半分どうしを合わせてみて、すぐに相手を確認しあったのである。突然かそうでないかはわからないが、世界に光が与えられ、きわめて微細な粒子のひとつひとつにいたるまで、そのすべてが知られるようになったと想像してみよう。そのとき、どの粒子が互いに束の間の友情の時をともにしたのか、それらはどんな家、すなわちどんな有機体でいっしょに時を過ごしたのか、あるいはまたそれらはどのような全体の一部を構成していたのか、どのような全体に属していたのか、といったことが明らかになるのではなかろうか。現在でも、南ロシアに転がっている石でさえ、組成やその他の特徴を見れば、それがかってはフィンランドのどこかの山の一部であって、氷山によって運ばれてきたのだということがわかる。石のような比較的大きな物体の研究がまだ終わっていないとすれば、何千万分の一インチという大きさの粒子の研究にはどれほどの労力と時間がかかることだろう。しかもその研究は、そうした粒子の現在の状態だけではなく、ひとつひとつの粒子の過去の全歴史をも解明するものなのだ。この研究方法を発見することは難しい。最初の二、三個の粒子の研究も難しい。だがそのあと、この作業は多くの人が行なうことができるようになり、最終的には、商工業の雑事から解放されたすべての人が行なえるようになる。ついには、研究そのものが単純化されて、かっては何年にもわたる労力を要したことが、一瞬のうちにできるようになり、一目見れば、ある物体のなかにある粒子がいつ、どこに存在したかを確定することができるようになるだろう。ある有機体のなか、ある環境のなかにいたということを示す痕跡を、粒子は非常に長期にわたってとどめておくことができるとはいえ、こうした痕跡がかすれて消えてしまうのかもしれない。その場合、わたしたちは痕跡の保存と消滅の法則を知らなければなるまい。

個々の世代が自分の直前の世代を復元するときのむずかしさも、同じようなものである。現世代の人々とその父たちとの関係、そして最初に復元の技術を獲得する世代の人々とその父たちとの関係は、わたしたちの遠い祖先の世代の人々とその父たちとの関係とまったく同じだからである。おそらく最初になされるのは死んだばかりの者を死の直後に復活させることだろう。そして、そのあとに復活させられるのは、腐敗の度合いの少ない者だろう。だが、新しい試みがなされるたびに、復活の事業のその後の進展は容易になっていく。復活が新たに行なわれるたびに、知識は増えていく。人類が最初に死んだ者にまで到達したとき、知識は復活させるという課題を解決する最高の段階に達する。それだけではない。わたしたちのはるか遠くの先祖にとって、復活の事業は比較にならないほどに容易なはずである。つまり、わたしたちよりずっとあとの子孫が父たちを復元することは、わたしたちや、わたしたちの遠い先祖が自分の父たちを復元するよりもはるかにむずかしいのだ。なぜなら自分の父たちを復活させるとき、わたしたちは先行の経験を利用できるだけでなく、わたしたちが復活させた人々に協力してもらうこともできるからである。最初の人間の子にとっては、その父、すなわちすべての人の父を復活させることは、他のだれにとってより容易なのである。

復活の事業のためには粒子の分子構造を研究するだけでは足りない。だが、粒子は太陽系の空間に、そしておそらくは他の世界にまで分散しているので、それを集めることも必要である。したがって、復活という間題は地球・太陽的な問題であり、地球・宇宙的な問題でもある。商工業という組織のなかで発達した科学、分解と殺害の科学は、このような課題を果たすことはできない。科学が商工業という組織の枠を越えて、別の領域、すなわち農業の領域に入り込み、分解し、殺害する科学ではなく、綜合し、復元する科学とならないかぎりは、復活という課題が科学の目的となる可能性さえない。収穫を確かなものとするためには、農業は地球の枠内にとどまることはできない。収穫を左右する条件、あるいは地球上の動植物の生命全体を左右する条件は、地球だけに関わるものではないからである。ある推測によれば、太陽系は絶えず変動している星であり、その電磁波は十一年周期で変動し、この周期にあわせて黒点の数や、磁気(オーロラ)と電気の嵐が最高になったり、最低になったりしている。そして、作物の収穫を直接左右する天候はこうした現象と関係があるという。この推測が正しいとすれば、地球・太陽的な過程全体が農業の領域に人らなければならない。また、ある現象が別の現象に変わるとき電気の力が作用しているのであり、この電気の力は意志と意識の道具となっている神経の力と似たもの、あるいは同じものであるという考えが正しいならば、太陽系のいまの状態は、神経系がまだ形成されず、筋肉やその他の組織から分離していない有機体と似たものだと考えることができる。制御装置がなければ太陽系は盲目のカ、自由ではなく死をもたらす力のままである。太陽系の主人としての人間の課題は、このような制御装置を作りあげることである。すなわち、その課題は、一方で、太陽のもとで行なわれていることすべてが人間の意識に届くようにするための道を切り開き、他方で、そこで生じるものすべて、生まれるものすべてを導いて、それらを行動に変え、復元の活動に変える方法を作りあげることである。

こうした意識の道、行動の導き手が存在しないうちは、周期的に起こる大変動や大きな変化は言うにおよばず、世界そのものが奇妙で歪んだ秩序の状態、むしろ無秩序というべき状態を呈することだろう。「冷淡な自然」、感情も意識もな」自然は、「永遠の美として輝く」ことだろうし、不朽であることのすばらしさを意識して〔る個人は、自分が押し退けられたものであると感じ、同時にまた他者を押し退けるものでもあると感じることだろう。自己のなかに押し退けるものも、押し退けられるものももたない生物が、このようなコスモス〔調和〕の創造者ではなく、カオス〔混沌〕の創造者だということがありうるだろうか。<…>

[ニコライ・フョードロフ: "共同事業の哲学(抜粋)" in セミョーノヴァ&ガーチェヴァ(西中村浩 訳): "ロシアの宇宙精神", せりか書房, 1997, pp.118-122]

そして、「粒子の残響と震え」という形での「原子あるいは分子あるいは人体を構成する何らかの微粒子に、かつてつながりがあったことの痕跡があるはずだ」という信念...
Только объединившись в управлении метеорического процесса, в коем проявляется солнечная сила, сыны человеческие станут способными извлекаемый из глубоких слоев прах предков обращать не в пищу потомкам, а собирать его в тела, коим он принадлежал. Дрожь и трепет (вибрация), которых не лишены молекулы и прах умерших и которых нельзя пока открыть никаким микрофоном, как очень еще грубым органом слуха,— эти-то дрожь и трепет находят созвучный отзыв в содрогании частиц в существах живущих, связанных родством с умершими, коим принадлежали эти частицы. Такие индивидуальные вибрации, скрытые в таинственной глуби вещества, суть не более как предположение для объяснения хода воскрешения, которое не исключает и других гипотез. До сих пор для объяснения создания, строения или развития мира составлялись гипотезы, которые могли б£*1ть воспроизводимы лишь в кабинетных, отдельных опыта?, тогда как гипотеза воссоздания мира требует опыта общего.

太陽の力が現れる流星過程の制御において団結することによってのみ、人の子らは、深層から抽出された祖先の遺灰を、子孫のための食物としてではなく、遺灰が属していた肉体へと収集することができるようになるだろう。残響と震え(振動)は、死者の分子と灰から失われていないが、非常に粗雑な聴覚器官としてのいかなるマイクロフォンでも検出できていない。これらの残響と震えは、粒子の震えの中に、これらの粒子が属していた死者との親族関係にある生物の中に一定の応答を見出す。物質の神秘的な深さに隠されたそのような個々の振動は、復活の過程を説明するための仮説にすぎず、他の仮説を排除するものではない。これまで、世界の創造、構造、発展を説明するには、肘掛け椅子の個人的な経験でしか再現できない仮説が立てられてきたが、世界の再構成の仮説には一般的な経験が必要である。

[ Н. Ф. ФЕДОРОВ: "ИЗ «ФИЛОСОФИИ ОБЩЕГО ДЕЛА», pp.172-173]] (N.F.フョードロフ: "共同事業の哲学")]
これは、フェーヴルが「生きている自然との共振性」と呼ぶものに相当する。







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