ロシア思想史
セルゲイ・ブルガーコフ(1871-1944)資料集
渡辺圭による、ブルガーコフの宗教観とマルクス主義解釈の解説
小俣 (2016)によるブルガーコフのフョードロフ解釈
小俣智史 (2016)によれば...
セルゲイ・ブルガーコフ(1871-1944)資料集 
渡辺圭による、ブルガーコフの宗教観とマルクス主義解釈の解説
渡辺圭: セルゲイ・ブルガーコフの宗教観とマルクス主義解釈の一断面
セルゲイ・ニコラーエヴィチ・ブルガーコフは、E・トルベツコイ、N・ベルジャーエフ、V・エルン、P・フロレンスキイ神父などと同様に、ウラジーミル・ソロヴィヨフを源流とする二〇世紀前半ロシア宗教哲学の流れに与し、宗教的アプローチによる哲学的社会的な諸問題の解明を志向した。ロシア文化史上「銀の時代」と称される時代を生きた思想家である。『ロシア哲学史』の著者であり、自身も直観主義哲学者であったN・ロースキイの評によると、「セルゲイ・ブルガーコフ神父は、この二〇年間（当時）、ロシアの神学者、哲学者の中にあって傑出した存在でありつづけた。」
同じく、『ロシア哲学史』を書いた（一九四八〜五〇年、パリ）Ｖ・ゼンコフスキイ神父は、次にように述べている。「ブルガーコフは何よりもまず学者であり、そして彼は自らの哲学研究にさえ学術的思考の厳格さを持ち込んたのだ。彼はつねに堅実であり、深遠であり、そして黙想的であった --- そしてこのことは、彼の志向、彼の基本的な主張に同調しない者にとってさえ、彼の著作を価値有るものにしている。しかし、まさに自分自身の「堅実性」ゆえには「純粋」哲学に限定されはしなかった --- 形而上学的な感覚はブルガーコフの思想を宗教の側へ方向づけ、彼を哲学者であると同時に神学者にしたのである」。
本書に載録したブルガーコフの「ロシア革命における人格宗教」は、一九一一年にモスクワで刊行された著作集『二都』の第二巻に収められた講演録である。そこには、当時ロシアにはびこっていた科学万能主義、個人主義、合理主義、ペシミスム、ニヒリズム等の危険性、ならびに人格の危機が指摘されているにととまらず、ロシアの再生にはいかなる人間、どのような社会活動家が理想であるかが明示されている。ここでは、ブルガーコフの生涯をその思想の変遷と時代背景に関連させつつ略述し、ついで「ロシア革命における人神宗教」で展開された当時の彼の宗教観、人間観を分析する。
一、日本におけるブルガーコフの受容
ブルガーコフの生涯と思想を見る前に、日本におけるブルガーコフ研究の現状に触れておこう。現在までにわが国で発表されたブルガーコフに関する論考としては、根村亮「文化の進歩と人問の進歩 -- セルケイ・ブルガーコフのチェーホフ論」（一九九三年）、滝澤義雄『ブルガーコフにおけるソフィア論』（一九九五年）、佐藤正則『セルゲイ・ブルガーコフによる近代の超克とマルクス評価』(二〇〇三年)等が目を惹く。
なお日本国内で翻訳・刊行されたブルガーコフの著作にはまず戦前に出版された『經濟哲學』(一九二三年、島野三郎訳)及び『哲學の悲劇』(一九三五年、大島豊訳)があり、戦後では、『国民経済と宗教的人格』(二〇〇〇年、小島定訳)、『道標 -- ロシア革命批判論文集1』(一九九一年)所収の論文「ヒロイズムと苦行」(滝澤義雄訳)、『深き淵よりーーロシア革命批判論文集2』(一九九二年)に収録の『神々の饗宴にて』(滝澤義雄訳)、『ロシアの宇宙精神』(一九九八年)に収められた=論文『経済のソフィア性』(『経済の哲学』第四章第二部より抜粋、西中村浩訳)と「社会主義の魂」(西中村浩訳)等がある。以上のように、ブルガーコフ哲学の紹介は、日本ではようやく緒に就いたところであり、総合的な研究が待たれる。
二、セルゲイ・ブルガーコフ --- その生涯
ここでは、彼の生涯とその思想的変遷の概略を、合法マルクス主義者の時期と正教に回帰した宗教哲学者、神学者の二期に分けて紹介しよう。
マルクス主義者ブルガーコフ
セルゲイ・ニコラーエヴィチ・ブルガーコフはは一八八一年にオリョール県リヴィヌィの在俗司祭の家庭に生まれ、宗教的雰囲気に包まれ幼少期を送った。一三歳のとき神学校に入学したが、精神的な危機をおばえ、しかしキリスト教神学では抱いた疑問への解答を得られず、そのため最終学年時には神学校を中退し、中等学校の最終学年に入り直す。彼自身、当時の自分を振り返り述懐している。「私は、陰鬱な革命のニヒリズムの犠牲者となってしまった（革命のニヒリズム自体はつねに芸術や文学への愛と結びついているというのに。それについては訊かないでくれ)」(「わが叙聖」)。
その後、彼は一八九〇年にモスクワ大学に入学し、法学部で経済学を学ぶ。一八九六年大学卒業後、ドイツへ留学。ドイツでは政治経済学を専攻し、社会民主主義者たちとの交流から、マルクス主義へと傾倒していった(一八九八〜一九〇〇年)。モスクワに戻ると、マギステル論文「資本主義と農業」の公聞審査を受け合格する。一九〇一年にはキエフ総合技術大学の政治経済学教授となる。いわゆるマルクス主義経済学者として学者の道を歩みだしたのである。一九世紀末のロシアではインテリゲツィアの青年達の間にマルクス思想が浸潤していたが、この時期のブルガーコフもまた、社会に参加し社会変革を志す熱心な「合法的マルクス主義」の活動家であった。しかし彼は、当時の優れた経済学者や評論家と同じ道を辿り(Ｍ・トウガン＝バラノフスキー、Ｐ・ストルーヴェ、フランク、ベルジャーエフ等）、より統一された世界観を希求するようになる。それはマルクスから出発し、新カント主義を通過し、ソロヴィヨフへ至る道であったが、その契機となったのが二年間の海外滞在だった。すでに一九〇〇年の『資本主義と農業』の中では、「生産手集中の法則は農業の分野では働かない」と農業におけるマルクス理論の適用が批判されている。まもなく彼は、カント哲学の影響の下、社会及び個人生活の基本原則は、真、善、美の絶対的価値論を土台として構築されねばならないとの結論に達するのたが、その「絶対的価値」は、彼の少年期の懐疑を増し募らせたあの宗教的世界観、正教の世界観によってもたらされたのである。しかしこの時点ではまた、マルクス主義から観念論へのこの「転向」は、彼がマルクス主義思想を「完全に」捨ててしまったことを意味するものではなかった。
「私の観念論的世界観は、マルクス主義の社会思想の気運の中で形成され、それゆえに、マルクス主義の全般的な拒否ではなく、拒否とはならす、また拒否であってはならない。反対に、私の観念論的世界観は、マルクス主義の旗に描かれ、その精神を作り上げたほかならぬその社会的理想を深め、根拠づけることを志向するものである」(「マルクス主義から観念論へ』序)。
宗教哲学者ブルガーコフ
結局、ブルガーコフは、マルクス主義と訣別し、一九〇三年に彼の哲学の一大転機をなす著書『マルクス主義から観念論へ』を上梓する。(その転機の一因にソロヴィヨフ哲学がある)。これにより、彼は思想家として新しい段階へと進み、この年にはキエフで親交を深めたベルジャーエフとともに作家メレシコーフスキイの創刊した雑誌『新しい道』(一九〇二〜一九〇三年)の編集に携わるようになる。ベルジャーエフとブルガーコフは宗教と哲学の刷新を標榜するインテリゲンツィアの旗手となったのである。一九〇六年にはモスクワ大学の助教授に就任、モスクワの宗教的・哲学的なサークルに積極的に参加し、政治分野では、第二国会の代議員に選出された。一方、後に『二都』(一九一一年)に収録されることとなる諸論文を精力的に執筆しており、一九〇九年には、一九〇五年革命を批判した論文集『道標』に論文「ヒロイズムと苦行」を寄稿する。この時期、彼は観念論哲学からロシア正教のイデアリズムへと自己の思想を深化させていった。フロレンスキイ神父と親交を深め、一九一二年にはこの神父のソフィア論の強い影響下に『経済哲学』を発表した。当時彼はソロヴィヨフ哲学に傾倒しつつ、独自の哲学的、神学的体系を築こうと試みている。一方で、この頃東方教会修道制の聖地、アトス山のロシア人修道者のコミュニティで発生した異端論争、「讃名派」間題にも強い関心を抱き、自身、「神の名前自身が神である」との教説を信奉する讃名派修道士を弁護して、「神の名前」も「神聖なるもの」として扱うべきたと主張した。同派との関りは、発刊までに多年を要した『名前の哲学』(一九五三年)を生むこととなる。
「この世界における神の啓示は、神の働きであり、神のエネルゲイアである。それ自身は世界にとって超越的である神の存在ではなく、私たちが神と呼ふところの、神のエネルゲイアなのである。…『神名論』のように、偽ディオニュシオス・アレオパギテスのひそみに倣うのであれば、神の名前とは、人間の名づけ行為を通じて神が自身を語り、自身を名づけている、神のエネルゲイアの発露なのである」(『名前の哲学』)。
一九一八年の八月一五日より開催された0シア全露正教会地方公会では、ポルタヴァ大主教フェオファン・ヴィストロフを議長とする讃名派問題の検討を目的とした小部会が設けられ、ブルガーコフもこれに参加した(この会は何の決議もせぬまま消滅する)。この年に彼は、ソロヴィヨフ、フロレンスキイに触発され、『黄昏ざる光』(これは『経済哲学』の続編でもある)を発表して、独自のソフィア論を展開した。そして翌一八年にはモスクワのダニーロフ修道院で正教会の司祭に叙聖される。
「…無神論が自然に了解されていたインテリゲンツィアの領域では、モスクワ大学の教授であり、政治経済学の博士号を持つこの私の聖職者としての叙任は、スキャンダラスであり、狂気のもの、あるいは瘋癲行者の振る舞いのようなものであった…」(「わが叙聖」)。
精神的彷徨の末、正教に失望した放蕩息子が正教のもとへと帰還したのである。ブルガーコフにとって正教の思想は彼の内面的欲求の全てを満たすものであった。
「…正教は、倫理的というよりはむしろ宗教的・美学的に根源的な理想を有している。それはつまり、自分自身に特別な『知の芸術性「創造力に溢れた霊感を引き寄せることを要求する『知の美』というヴィジョンなのである」(『正教』)。
この一九一八年、ブルガーコフはクリミア半島へ移り、しばらくシンフェローポリのターヴリヤ大学の教授の職に就いた。しかし、一九一三年、ソヴィエト政府はソヴィエト体制に敵対的であった百人を超える作家、社会活動家を露シアから追放し、ブルガーコフもまたその渦中にまきこまれた。一九二二年に彼はロシアを追われ、まずコンスタンチノープルに赴き、その後プラハへと移住した。一九二五年にはパリに渡り、正教神学院の設立に参画し、そこで教義神学教授となる。一九四四年に脳溢血でこの世を去るまで彼はこの神学院の教壇に立ち続けた。パリ時代のブルガーコフは神学の分野での思索を深め、それはまず一九二八年から二九年にかけての最初の三部作『燃え尽きることのない柴』、『花婿の友人』、『ヤコプの階梯』に結実する。さらに、その神学的世界観は、『神の仔羊』(一九三三年)、『慰め手』(一九三六年)、『仔羊の花嫁』(一九四五年)から成る三部作『神人について』へと昇華する。この時期の彼は、もはや哲学者というよりは神学者といった趣であったが、これらの著書で展開されたそのキリスト教教義のソフィア論的解釈は、異端の嫌疑をかけられることとなる。ソ連邦崩壊後、ブルガーコフは、宗教哲学ルネサンスの波に乗って「ロシアを代表する宗教哲学者」として再評価される。二〇〇一年の三月には、モスクワで「S.N・ブルガーコフ --- 宗教・哲学的道程」とのタイトルを冠した生誕一三〇年を祝う国際会議が開催された。
三、セルゲイ・ブルガーコフにおけるインテリゲンツィアの理想像
講演「ロンア革命における人神宗教」の時代背景と当時のプルカーコフの思想
本書に訳出した「ロシア革命における人神宗教」は、一九〇五年革命の三年後、一九〇八年の一月二七日に国際キリスト教学生協会ペテルブルグ支部にて行われた講演である。一九〇五年一月九日の「血の日曜日事件」は民衆と皇帝権力の間に深い溝をつくり、体制への不満を全国に波及させた。同年六月には南露オデッサで戦艦ポチョムキン号の水兵による反乱が勃発、一〇月にはペテルプルグに労働者ソヴィエトが生まれる。このような革命の波を受けて、一〇月一八日、皇帝側は譲歩を余儀なくされ、「一〇月詔書」を発布して、基本的人権の承認と選挙制の国会(ドウーマ)の設立を約束する。しかしこの革命は、人々が期待したようなものはもたらさなかった。合法的マルクス主義者として出発したブルガーコフもまた、革命と革命的インテリゲンツィアに失望する。急進的インテリゲンツィアを批判するたけではなく、自ら積極的に政治活動に関わる必要性を感じた彼は、ロシア革命批判論文集『道標」の発案者の一人であるストルーヴェとともに中道派の政党、立憲民主党(カデット)結成に奔走する。そしてブルガーコフは第二国会(一九〇七年二月二〇日開会、六月三日解散)の議員に選出される。本講演では、そのような時代背景を反映してか、人間の内面の問題を軽視する革命的インテリゲンツィアが厳しく批判され、ロシアを変革するためにはどうあるべきか独自の理想像が提示されている。一九〇八年二月二八日付のグリンカ宛の書簡によると、本講演は、「宗教の擁護」を目指してなされた。ブルガーコフ本人が、「講演の印象は、喜ばしく元気づけられるものであった」と述べているところを見ると、学生たちの反応は概ね良好だったようである。
Ｉ・エヴランピエフによると、二〇世紀初頭のロシアの哲学者たちは概してソロヴィヨフの哲学的遺産を継承しているか、その様々な要素を発展させているかたとされる。ブルガーコフもまたその系図上に位置付けられる。現代ロシアのこの研究者はさらにキリスト教教義の特定の哲学的解釈への志向がロシア哲学の最大の特徴であると言う。合法マルクス主義者であったブルガーコフが、唯物論や実証主義と観念論やネオ・プラトニズム等の対立を超越したソロヴィヨフの「全一の形而上学」の構想を受容するに至ったのは、真摯にマルクスの学説を分析した結果であった。自らの発想の根拠をマルクス主義的な「物的関係」ではなく、「絶対的原理」、つまり神に置くことで、彼は「マルクス主義から」「観念論へ」と「転向」した。ここに至りブルガーコフは、キリスト教の教義を基盤として思索する宗教哲学者となったのである。本講演が行なわれた当時、彼は革命的インテリゲンツィアの人神宗教的傾向、つまり際限なき人間讃美がもたらす民衆への負の影響を制しつつ、「社会生活の唯一の原理は宗教である」ということを公けに証明しようと努力していた。それは、人間存在の根源的基盤、ソロヴィヨフのいう「人生の霊的基礎」を再確認する作業であった。フロレンスキイに宛てた一九〇八年三月二三日付の書簡によると、当時まだブルガーコフは大学で経済学、経済史を講義していたが、宗教問題に関する授業を新設する準備もしていた。
すでに述べたように、本講演は『二都』に収録されたものであるが、この著作集の表題は象徴的である。二つの都市のうち、一つは、キリスト教が目指す天にある都市であり、もう一つは、地上の都市である。天は神の支配を意味し、地上は人間の権勢を示すものとして対比される。ブルガーコフにとっては、ユダヤ的ユートピア思想を根底に秘めたマルクス主義と、ローマ法王を最高権威者とするローマ・カトリックは、地上に人間主導の世界を建設しようという点において等しく誤った道を進んでいる。それに対し、正教は、天の都を求める。しかし、天の都に至る道は険しい「苦行」の道である。それゆえに、彼は、『道標』所収の論文「ヒロイズムと苦行」において、人間理性を過大評価し、「発展」のドグマに憑かれ、地上のユートピア建設に邁進する革命的インテリゲンツィアを諌める意味で、彼らの「ヒロイズム」に「苦行」の概念を対置しているのである。
神人と人神 --- ブルガーコフにおける人間の復興
本�遽蕕砲�いて、ブルガーコフが一九〇五年革命に加担したインテリゲンツィアを強く批判しているのはすでに見た通りたが、革命的インテリゲンツィアの全てを無条件に批判しているわけではない。神学者固有のファナティックな護教論に終始せず、ロシアの未来を担うべき知識階級の青年たちに見られる諸々の否定的な特徴を指摘し、具体的にどのような自己変革が彼らに必要かを分析している。ここにおいてブルガーコフが危機感を持って描き出している革命的インテリゲンツィアの思想的傾向とは、外面的な法則、規律、活動~へ全面的な集中、内面的な人格の問題の軽視である。ここで、彼はさらに踏み込んで、「人神」という概念を用いて彼らの精神構造を説明する。「人神」とは、西欧啓蒙思想から発して、人間は絶対者との関わりなしに自然な自己完成を成し得る、人間には無限の発展、進歩が可能たという際限無き人間讃美と自己崇拝を「インテリゲンツィアの新たな信仰形態」としてとらえた概念である。彼は、まさにこのような人間の自己神格化に、時代の精神的病理を見る。「個人」の讃美は、自分独自の倫理観、道徳観(政治においては、個々の政党の綱領等)を生み出し、無限に細分化してゆく。しかし、彼は言う。「社会はいかにその構成上複雑で多種多様であろうとも、団結と相互理解という一定の倫理的ミニマムなしには、発展し生きていくことができない」。彼によれば、外にあっては人と人が結びつくルールを与え、内においては人格を養育し発展させるキリスト教の倫理観が是非必要なのである。
ブルガーコフが、インテリゲンツィアの新たな宗教としての「人神」に対置させるのが「神人」の概念である。それは、正教の根本思想たる「神化(テオシス)」に通じる人間観であり、ロシアでは、ソロヴィヨフの『神人論講義』において体系化された「神化」は、「神が人になったのは人が神になれるためである」との思想を基盤とする。最初の人、「原人」アダムは神に似せて創造されたが、墮罪によって神の似姿を喪失した。その失われた最高の被造物の、姿を取り戻す過程が「神化」のプロセスである。ソロヴィヨフは、教会と人間が自由に一体化し、神へと近づいてゆく過程を「神人の過程」と呼んでいる。ブルガーコフは、宗教的な民族であるロシア人の本性の中には絶対者と交わることで自身を満たそうとする宗教的渇望があるとしたうえで、当時のロシアでは、無神論、人神論がその代用品となっていると指摘する(彼は、すでに一九〇三年、「マルクス主義から観念論へ』の序文において、マルクス主義は宗教の代用品たと主張している)。
「しかし、マルクス主義は、あらゆる科学の理論がいかなる長所でもってマルクス主義に勝っていようとも、マルクス主義の思想の追随者には、それらの理論が与えるより多くのものを与えている。原則として、マルクス主義は宗教を『プルジョワ的』イデオロギーとして否認しているにもかかわらず、マルクス主義には純粋に宗教的な教説の多くの特徴があり、その良く知られた性質でもってマルクス主義自身が紛う方なき宗教の代用品なのである」(『マルクス主義から観念論へ』序)。
しかし、その代用品の土台は脆弱であって、人格を荒廃させるだけで、「新しい人間」を養育はしない。彼によれば、人間の自己完成という課題は、神と関わり、神、と向かうことによって達成される。正教の人間観では原罪はローマ・カトリックのようには強調されない。人問は堕罪によって神の似姿から離れたが、悪から善へと向かい、神を敬虔な信仰で求めることで堕罪前のアダムの姿に戻れるし、イエス・キリストによってその道が示されてもいる。ブルガーコフは、代用品の人神宗教(�競泪襯�ス主義)で宗教心を補完するのではなく、絶対者の像(かたち)、神の似姿となることで内的な完成に到達せよと主張する。それが神人の道である。永遠の生命を苦行と禁欲によって求めることで、人格の復興がなされると説くのである。ここには、人類の歴史は、「発展」という無限に遠い点に向かうのではなく、「神の国」に向かってゆくというロシア宗教哲学の歴史観が色濃く浮かび出ている。A・マリーニンが「ブルガーコフはキリスト教の護教者であった。何よりもまず、正教の様式で」と述べているように、この講演では、キリスト教がいかに民衆の啓蒙に必要であるかが、正教の基本的な思想に立脚しながらカ強く述べ伝えられている。彼の思想によれば、人間の復興はまさにキリスト教的啓蒙を礎としてなされるのである。
キリスト教インテリゲンツィア --- 新生ロシアへの夢 ---
「ロシア革命における人神宗教」は、当時のロシアの青年達への精神的な助言である。当時の書簡によると、ブルガーコフは本講演での学生たちの反応から、宗教を基盤にすれば青年たちを社会の一つの核にすることができるとの宗教の「正の可能性」を見出している。この講演録を読めば、ブルガーコフが、一九〇五年革命における様々な革命的インテリゲンツィアに幻滅をおぼえているのがわかる。しかし一方では、インテリゲンツィアが実際に革命を担ったのだし、今後のロシアの発展に彼らの力が不可欠であるとも認めている。彼は彼らの思想的、精神的な偏りを批判したうえで、新しいロシアを築くための理想の活動家の形象を明示する。それは、「キリスト教インテリゲンツィア」というモデルである。彼はイギリスの知識階級を例にとって、ロシアにおけるインテリゲンツィアの信仰心がいかに薄いかを指摘し、それとは逆に民衆には純粋な信仰が保存されているとする。しかし、「我が国(ロシアー引用者註)のインテリゲンツィアには、豊かな潜在的宗教的エネルギーが秘められている」のであるから、そのエネルギーの矛先を無神論、人神宗教から正教、キリスト教に向け、宗教的自己確立を成せば、新しい人間が、新しい社会活動家が誕生する --- これが彼の主張である。
四、むすび
今までに見てきたように、ブルガーコフの講演「ロシア革命における人神宗教」には二〇世紀初頭のロシアの宗教哲学者が、マルクス主義から離れていかなる社会及び人間の理想像に到達したがが明確に示されている。無神論、科学万能主義に対してロシアの一宗教哲学者がどのような価値観、世界観を対置していたのかを窺い知.ることができる。この点でこの講演録は大きな価値を有している。それは、新たなロシアを創造するためにはいかなる精神的な舵取りが必要なのかとの大きな疑問に対する一つの具体的な解答なのであって、イデオロギー喪失に苦悩する現在のロシアにとっても学ぶべき点は多い。ブルガーコフが見出した「変革」の道筋は、人間の変容、つまり「神化」へと至る苦行の道であった。正教の思想において、人間は、殉教者、ユスティノスのいう「ロゴス・スペルマティコス(神の言(ゲン)の種)」にあずかることができる被造物である。それ故に「神化」を軸に据えた人間観は、啓蒙思想とは違ったかたちの人間讃美なのである。
[御子柴道夫 編: 「ロシア革命と亡命思想家 1900-1946」, 成文社, 2006/10/07, pp.93-100]
小俣 (2016)によるブルガーコフのフョードロフ解釈
小俣智史 (2016)によれば...
- ブルガーコフによるフョードロフの理解：
- コジェヴニコフの論を重視しており、フョードロフの宗教的思想が科学的実証主義的に解釈されることに懸念を示している。
- フョードロフの唯物論的性格を緩和し、経済に対する批判を紹介しており、フョードロフの思想が唯物論的社会主義に批判的であることを認識している。
- フョードロフの思想において人間が自然を統御し世界を変えていく必要性を強調し、フョードロフの立場は経済の根本にあるとする。
- ブルガーコフとフョードロフの共通項：
- フョードロフの思想とソロヴィヨフの哲学との共通性を指摘し、フョードロフの経済的唯物論に影響を受けた可能性が高いと述べている。
- 経済哲学においてマルクス主義を克服し、フョードロフの思想と経済的唯物論の共通点を探求している。
- コジェヴニコフの反応：
- ブルガーコフのフョードロフ解釈に懸念を示し、フョードロフの思想が歪曲される可能性や、経済的・唯物論的側面が強調される可能性を指摘した。
- ブルガーコフがコジェヴニコフの意図をはずれた方向に向かっていることに不満を示した。
- ブルガーコフの変化：
- 初期にはフョードロフに対して中立的であったが、後に批判的な立場に変化し、コジェヴニコフの意図から逸脱した解釈を示すようになった可能性がある。
- ブルガーコフのフョードロフ解釈
- 「経済哲学』から5年後の「黄昏ざる光」(1917年)でフョードロフの復活説の唯物論的性格を問題視し、キリスト教信仰との関連を批判した。
- フョードロフとマルクスの共通性を指摘し、「計画」において現代の経済主義の極端な表現を見出した。
- マルクスが経済の本質について提起しなかった問題をフョードロフが考察し、マルクス主義を補完する可能性を探った。
- 著作『社会主義の魂』で、フョードロフの思想を用いてキリスト教とマルクス主義の間の課題を解決しようとした。
- プルガーコフのフョードロフ解釈は、近年のロシア宇宙主義の思想に組み込まれ、世界に対する人間の働きかけの側面が強調された。
小俣智史: "1900年代から1910年代にかけてのフョードロフ受容", 2016
第2章ブルガーコフのフョードロフ解釈
2-1.『経済哲学』までのブルガーコフのフョードロフ解釈
以上ではペテルソンとコジェウニコフが直面した問題について検討し、本稿が目的の一つとしているフョードロフの思想におけるキリスト教の理性主義的解釈の源流を見出す試みを行った。では、もうーっの問題、つまりフョードロフの思想とマルクス主義との接近という問題はこの時期どのようにあらわれてくるのだろうか。本稿冒頭ではブルガーコフによる解釈を紹介したが、ブルガーコフはフョードロフの思想を一貫してマルクス主義と接点をもつものとして理解している。以下ではこの点について詳しく見ていくことにする。
ブルガーコフがフョードロフに関する見解を示した最初の例は恐らく、『モスクワ週報(Московский еженедельник)』(1908年12月5日付)に掲載された小著『謎の思想家( Загадочный мыслитель)』[45]であろう。この著作自体はフョードロフの思想の客観的な紹介文にすぎないのだが、本稿では運論の都合上、この著作について確認しておきたいことがらがいくつかある。それは第一に、この紹介文がコジェヴニコフに多くを依っているということである。ブルガーコフはその冒頭でフョードロフの文章の読みにくさ、非体系的な叙述などの問題点を挙げ、「В.А.コジェヴニコフの本はフョードロフ自身の文章を理解する鍵として役立つ」[46]と述べており、また続く箇所ではコジェヴニコフの論を読んでようやくフョードロフの思想が理解可能になると述べている。第二に、フョードロフの理性主義的傾向について、ここにはすでに、フョードロフの宗教的思想がメチニコフ風に現代の科学的実証主義者たちのように解釈されてしまい、その宗教的理想が俗悪なものに変えられる危険性がある、という指摘がみられることである[47]。そして第三に、コジェヴニコフの著作を通じて、フョードロフの思想が唯物論的社会主義に批判を加えるものであることにブルガーコフが気づいたということを確認しておこう。このことは、「この概念から出発して、ニコライ・フョードロヴィチは現代の新たな異教ともいえるヒューマニズム、唯物論的社会主義、そして進歩の基礎概念に対して力強く、時には反駁しがたい批判を与えている(コジェヴニコフの著作の第4章を参照)」[48]とあることからも明らかである。先述したようにコジェヴニコフはフョードロフに関する自著でフョードロフの唯物論的性格を緩和し、自然の統御や人間の能動性にフョードロフの思想の特徴を見出そうとしたわけだが、その途中で経済一般に対してフョードロフが与えた批判を紹介している[49]。ブルガーコフの書き方から細かな箇所を特定することはできないが、恐らくはこうした箇所から後のマルクスとフョードロフという主題につながる手がかりをつかんだのだろうと推測される。
こうしたブルガーコフのフョードロフ評は『経済哲学(Философия хозяйства)』(1912年)においてあらたな展開を見せる。ブルガーコフはこの著作でシェリングの自然哲学に依拠して経済哲学を基礎づけ[50]、経済学、とりわけマルクスをはじめとする唯物論的経済学を克服する試みを行った。このときブルガーコフは経済(хозяйство)を次のように定義する。「経済とは、生命の保護と拡大、自然の征服と人間化、潜在的な人類有機体への自然の転化を目的とする、人類と自然的力との戦である」[51]、「経済活動の内容は、この意味において、自然のメカニズムと人間の目的論との融合もしくは部分的同一化として、また目的のメカニズム、目的ーメカニズムへの因果のメカニズムの転化として、定義することが可能であって、それは通常、自然の征服と呼ばれていることがらである」[52]。死の恐怖、すなわち己の生存のための戦いが自然との戦い、自然の統御のための戦いとなってあらわれると考えるブルガーコフは、経済について次のようにも述べている。「生命の保護と確立、拡大を目的として、自然の敵対的な力を支配し、飼いならし、その主人となろうとする志向において行われるこの生をかけた戦いこそ、その語の最も広義にして先決的な意味において、経済と呼ばれうるものである」[53]。このように、ブルガーコフは経済という概念そのものを拡大するわけだが、このとき経済活動はマクロな位相においては自然の支配、統御という方向性をあらわすことになる。フョードロフの思想との接点はこの点にある。
人間の経済活動の内容は、生命の創造ではなく、その保護や生けるものの再創造であり、生命を失い麻痺したものを攻撃することである。限界の中で許容しうることは、万物が経済的労働の結果蘇生するだろうこと、生命がその全力を有した状態で再興されるだろうことであるのだが、しかしながら、これもまた生命が人間によって創造されるという意味ではなく、ただ人間によって再創造されるという意味において許容されうるにすぎない。Н.Ф.フョードロフが教えたように、この世界は、可能的世界の中では最良なるものではまだないのだが、それは潜在的に最良であるのだから、そのようなものとなることができるし、またそうならねばならない。[54]
ブルガーコフが注目したフョードロフの思想の特質とは、生命を脅かす死の恐怖に対峙して人間が自然を統御し世界をあるべき姿へと変えていかなければならないとする〈事業>の世界内在性、能動性にあったと考えられる。フョードロフの言うところによれば、工業化や貧富の問題、さらには社会主義の登場に至るまでの歴史的経緯はそもそも人間が自然の盲目的な力、本能に服従した結果である[55]。言い換えれば、これらの問題は自然の力と人間との関係の誤りによって引き起こされたということになる。そこでフョードロフは、「前進させるべきなのは次のどちらであろうか、貧富の問題(社会問題)の解決であろうか、それとも生死の問題(自然の問題)の解決であろうか」[56]と述べ、生死の問題を解決しない限り貧富の問題は解決不可能であると主張する。このようにフョードロフは経済的問題の根源に生と死の問題を見出し、、死を生みだす自然を統御することで不死や復活という方法でこの問題の解決を目指したわけたが、その立場は、死への恐怖とそこから反動的に生ずる自然を支配しようとする傾向こそが経済の根本にあるとするブルガーコフの立場に近しいといえるだろう。
近年の例でいえばく口シア・コスミズム〉においてフョードロフとブルガーコフの結びつきは注目されているのだが[51]、それはフョードロフとブルガーコフの二者間の関係に言及したものというよりは、ソロヴィヨフやフョードロフをはじめとした19世紀末から20世紀にかけてのロシア思想にみられる共通項を取り出そうとした試みの中でのことであった。ブルガーコフは『経済哲学』の中で、「ロシア哲学文献のみが、シェリングの自然哲学的思想の実り多き、より一層の創造的発展を示しうるのたが、それはまさしく、シェリングとかなりの同質性を有するВ.С.ソロヴィヨフの哲学体系においてのことである」58と述べ、シェリングとソロヴィヨフとの同質性、すなわち自然哲学的(経済哲学的)な一致を指摘するわけたが、それは「ソロヴィョフの哲学において中心的な役目をつとめる世界霊魂と自然についての教説」[59]にみずからの経済哲学との共通性を見出していたことによる。そして、『謎の思想家』にあるようにコジェヴニコフに従ってソロヴィヨフとフョードロフに影響関係を見ていたプルガーコフが、同様の共通性を、より人間の能動性に力点を置いた形ではあるにせよ、フョードロフの思想にも見出していた可能性は高いといえよう[60]。
すでに本稿冒頭で述べた通り、『経済哲学』には後にユーラシア主義をめぐる問題の中であらわれることになるフョードロフとマルクスの共通性の指摘があるわけだが、このことと上述のことがらとは無関係ではないたろう。ブルガーコフは経済的唯物論の哲学的意義に言及した箇所の註で、ソロヴィヨフによる経済的唯物論の軽視を誤りとみなし、次のように述べている。「この点についてソロヴィヨフは、彼に多大な影響を与えた思想家Н.Ф.フョードロフに多くを学びうるだろう、なぜなら彼の世界観は、明らかに、経済的唯物論と共通する幾つかの哲学的要素を含んでいる」[61]。フョードロフの世界観のどこに経済的唯物論と共通する要素があるのかということについては『経済哲学』の中で十分な説明が与えられているわけではないが、それが上述のようなプルガーコフ自身の経済哲学の構想の中にあるだろうことは推測される[62]。
『経済哲学：においてブルガーコフが示したマルクス主義克服の手段とは、マルクス主義を経済哲学の立場から定位しなおすことにあった。プルガーコフの経済哲学を図式化するならば、経済行為のプロセスは、「経済の主体(субьекм хозяйсмва)」[63]たる人間(人類)が「経済の客体(объекм хозяйсмва)」[64]である自然や物一般にはたらきかけ、征服してゆくことで客体を主体化してゆくという一元論的なプロセスとみなされる。このときマルクス主義の意義はその科学的性格ではなく、学説の中心に実践(経済活動、つまり自然の統御)を据えた「歴史的存在論」[65]、すなわちさまざまな歴史的現象の背後に立つものを問題の本質とする一元論的タイプの形而上学である点に見出される[66]。そのため、「これらの倫理的特徴のためのみならず、その哲学的意義においても、それ[経済的唯物論]は哲学史上にその特定の、それのみに属する位置を占める。経済的唯物論は経済哲学の最初の試みである」[67]と述べられているのである。こうした経済哲学の構造は、先述のように、神の意志に基づく人間による自然の統御というフョードロフ的構造と外見上の類似性を有している。『経済哲学』の時点のプルガーコフは、恐らくこの点にフョードロフと経済的唯物論(マルクス)との共通点を見出していたのだろう。
では、こうしたプルガーコフのフョードロフ解釈は、その著作を通じて彼にフョードロフの思想を手解きしたともいえるコジェヴニコフの目にはどのように映ったのだろうか。1913年頃のコジェヴニコフの手紙にはブルガーコフによってフョードロフの思想が歪曲される可能性に対する危惧が散見される。例えば、先述の8月20日付けのペテルソンへの手紙では、フョードロフの思想が自然主義的・唯物論的意味において理解される可能性や、その道徳的・宗教的側面に注意が払われずにその理性主義的な科学的側面が把握される可能性を挙げ、プルガーコフにそうした可能性が見られることを指摘している[68]。また、9月初め頃のものとされるフロレンスキイへの手紙には、「セルゲイ・ニコラエヴィチ[プルガーコフ〕も同様に、ニコライ・フョードロヴィチ[フョードロフ]の教説が上述の意味で非信徒によって未来には『利用』されることを完全に許容するのです」[69]と書いている。
1912年の「経済哲学』にはフョードロフに対してそれほど多くの言及があるわけではないため、コジェヴニコフのこうした指摘がブルガーコフのどのような態度に基づいたものかを明確に示すことはできない。『経済哲学』の時点では中立的であったプルガーコフのフョードロフ評は、後述のように、円ロ年の「黄昏ざる光』では批判的なニュアンスを帯びることになるため、その中間期であり且つべテルソンとトルべッコイの論争がおこなわれた円13年にはブルガーコフのフョードロフ評がすでに批判的なものとなっていた可能性はある。その一方、ブルガーコフは『経済哲学』以降一貫してフョードロフをマルクス主義に結びつけて論じているため、コジェヴニコフが危惧したのはそうした傾向であったとも考えられる。コジェヴニコフの危惧が以上のどちらかの理由、もしくはその両方の理由によるものなのかということは判然としないが、いずれにせよ、当初はコジェヴニコフに従ってフョードロフを解釈していたプルガーコフが、1913年の時点ではコジェヴニコフの意図をはなれた立場にあったことは確かである。
2-2.「経済哲学』以後のブルガーコフのフョードロフ解釈
プルガーコフは「経済哲学』から5年後の「黄昏ざる光(Свет невецерний)』(1917年)でもフョードロフと経済の問題に触れているが、ここではペテルソンとトルベツコイの論争により露わになったフョードロフの復活説の唯物論的性格が問題視されている。ブルガーコフは「フョードロフは経済(хозяйсмео)をテウルギア(теургия)に変えている」[70]と述べ、フョードロフの復活説をキリスト教信仰により期待される死者の復活からは遠く隔たったものだと非難している[71]。
また、批判的・否定的ニュアンスが強くあらわれているものの、この著作にもフョードロフとマルクスとの共通性の指摘を見ることができる。例えば、「現代の経済主義、特に『経済的唯物論』においてあらわれている経済への信仰はここ[フョードロフの『計画』]において最もラディカルな表現を得る」、「フョードロフの教説こそ、マルクシズムがぼんやりと夢見ていたものであり、無意識的であるにせよ心の奥底に潜んでいたそのモチーフを形成するものそのものなのである」[72]とプルガーコフは述べている。ここで注目に値するのは、フョードロフとマルクスの共通性だけではなく、さらに一歩踏み込んだ言及がなされていることである。「フョードロフの『計画』は、ある側面からすると、すなわちまさしくそれが経済的な『自然の統御』と結びつく限りにおいて、マルクスにはとても背負いきれないような決断とともに提出された経済的唯物論である。それはもちろん、『経済的唯物論』の公認の父であるとはいえ、マルクスが経済主義にとって根本的な経済の本性に関する問いをまったく提起していないことによる」[73]と述べているように、マルクスが自らの経済的思想を最後まで考え尽くすことができなかったのに対して、宗教哲学的思想のスケールの大きさのおかげでフョードロフにはそれが可能であるとされる[74]。こうしたマルクス主義を補完するものとしてのフョードロフ理解は、後のフョードロフによるマルクス主義の克服というテーマへと連関するものであるいえよう[75]。
このフョードロフとマルクスとの補完関係、フョードロフを用いたマルクスの克服というテーマは、後の「社会主義の魂(Душа социализма)』(1931年)においてより明確に、そして肯定的に打ち出されることになる。本稿の考察の対象はあくまで10年代までの事象であるが、ここには主題の継続性が顕著であるため、少し触れておくことにしよう。ここでブルガーコフは次のように述べている。「フョードロフは『自然の統御』が人の子であり、神の子となるべき使命をもつ人類の共同の事業であること、神の運命の完成であることを理解していた。そのことによって彼は、独自の形で経済にキリスト教の基本的教義を応用し、唯物論的な経済主義を肖定的に克服する道を開いたのである。唯物論的な経済主義はキリスト教思想によって克服できる」[76]。フョードロフの思想を用いてキリスト教とマルクス主義の間隙を乗り越えようとする志向そのものはこの著作から数年遡るユーラシア主義左派の言説の中にもあらわれたものであるため、それを通じブルガーコフがフョードロフの思想のキリスト教思想としてのパースペクティヴに気づいた可能性は否定できない。しかし、上述のようにフョードロフとマルクスというテーマにおいてブルガーコフはユーラシア主義に先立ち、そのテーマを一貫して保持していることから、『社会主義の魂』に見られる変化は、仮に『ユーラシア』紙における言説に触発された可能性があるとしても、それらの言説とプルガーコフとの対話的関係の延長上にあったと考えるべきだろう。
このように、『経済哲学』から『社会主義の魂』に至るブルガーコフの言説には通底する視点と変化する視点を同時に見出すことができる。すなわち、プルガーコフにとってフョードロフの思想の意義は、世界(自然)に対する人間の能動的な働きかけの側面、マルクス主義に対置しうる経済哲学的性格にあったわけたが、そのキリスト教性に関する評価は時期によって変化したものとみなすことができるのである。
さて、以上ではプルガーコフのフョードロフ観を時代を追って見てきたわけだが、このことによって本稿にとって注目に値する以下のことがらを指摘できる。
第一に、プルガーコフの『経済哲学』や『黄昏ざる光』にはユーラシア主義左派におけるそれよりも早くマルクスとフョードロフを重ね合わせようとする志向が見られるということが明らかになった。このことは、結局のところスローガンに終わったユーラシア主義左派における事例よりも内容が具体的であり、マルクス主義とフョードロフの思想の共通性を考察するには無視すべからざる事象といえよう。このことはまた、その志向の出現がフョードロフ自身の理性的・唯物論的性格の露見とは並列的なことがらであることをも示している。上述のように1912年から13年にかけてペテルソンはフョードロフの思想の理性主義的性格をめぐりトルべッコイと論争を行ったわけだが、その論争の結果が「経済哲学』におけるプルガーコフのフョードロフ解釈に影響を与えている様子はない。実際、プルガーコフは1917年の『黄昏ざる光』ではフョードロフの思想が含むキリスト教理解の非正統性、唯物論的性格を批判しているわけだが、1908年の『謎の思想家』の時点では危惧にすぎなかった指摘がはっきりと批判の色彩を帯びているのは、やはりペテルソンとトルべッコイの論争の影響を受けてのことであると考えるのが妥当であり、そのことはこの論争の影響が『経済哲学』にないことを裏書きしているともいえる。
第二に、フョードロフを伝統的なキリスト教に帰順させようというコジェヴニコフの企図とブルガーコフのフョードロフ解釈との関係を挙げることができる。「謎の思想家』に明らかであるように、少なくとも『共同事業の哲学』第一巻出版直後には、ブルガーコフはコジェヴニコフに従ってフョードロフの思想を理解していた。そこでコジェヴニコフが強調した人間の能動的働きかけや自然の統御といった概念は、プルガーコフがマルクスとフョードロフとの近似性に注目するきっかけになったとも考えられる。後の『社会主義の魂』にみられるように、ブルガーコフはマルクス主義を克服すべくフョードロフの思想の理性主義的・唯物論的性格を保留してそのキリスト教性を認める立場に移行するわけたが、それはやはりコジェヴニコフの目論見とは異なっていただろう。そのためフョードロフ解釈をめぐる両者の関係は、コジェヴニコフの見解を契機としてブルガーコフが独自に発展させたというかたちで理解するのが妥当であろう。
第三に、そうしたプルガーコフの独自のフョードロフ解釈、すなわち彼自身の「経済哲学」とフョードロフに特徴的な自然の統御や死をめぐる問題の重要視といった要素との類似が近年になって注目され、<ロシア・コスミズム〉として一つの思潮の中に組み込まれることになったという点が挙げられる。ブルガーコフが「経済」という概念を用いて切り出したフョードロフ思想の一側面、すなわち世界や自然に対する人間の能動的な働きかけという性格がマルクス主義との共通性へとつながったことは既に述べた通りであるが、それはまた<ロシア・コスミズム〉の基礎をなすことにもなったといえる。
おわりに
以上では、『共同事業の哲学』出版に前後する円00年代から円10年代までの動向を中心に、フョードロフ受容の様相を見てきた。そこには、20年代から現在に至るまでのフョードロフをめぐる問題やフョードロフ研究における見解の萌芽がおおよそあらわれていると言える。トルベツコイとの論争をはじめとしてペテルソンが強調したことにより一般に明らかになった復活や不死の方法の科学性、唯物論的性格などは、主としてフョードロフが伝統的な意味でキリスト教的か否かを重要視する人々からの批判の論点となった。そしてそうした批判を逸らそうとしたコジェヴニコフの企図そのものは成功したとは言えないものの、フョードロフをキリスト教思想家として解釈しようという傾向は、ブルガーコフによって独自の形で継承され発展されることになる。プルガーコフが経済哲学の視点から試みフョードロフ解釈は、一方でユーラシア主義におけるマルクスとフョードロフの結合を先取り、他方では世界に対する人間の能動的な働きかけを強調することで20世紀末の<ロシア・コスミズム〉を準備したと言える。
ただし、20世紀初頭の複雑な思想状況に鑑みれば、本稿で取り出した数箇の事象だけではフョードロフ受容の全体像を詳らかにするにはあまりにも不足していることも、指摘しておかなければならない。例えば、ゴルスキイなど主に20年代に活動したフョードロフ主義者たちは、ペテルソンやコジェヴニコフとは別のグループを形成して10年代にはすでにその動きをみせはじめているが、本稿ではこの関係にまで立ち入ることができなかった。フョードロフの思想とは何だったのか、それが思想史上でどのような意義を持ちえたのか、また現在も何らかの意義をもちうるのかといった問いに答えるためにも、本稿で扱われなかった事象まで包括的に取り込んだフョードロフ受容史の総括は必要であるように思われる。この点については、論者の今後の課題としたい。
[45] この著作は後に『二つの城塞 (Два града) 』(1911年）に収録された。
46] Булгаков С.Н. Загадочный мыслитель // Два града. Исследование о природе общественных идеалов. Спб., 1997. С. 322.
[47] Там же. С. 326.
[48] Там же. С. 325.
[49] ブルガーコフの言う「第4章」そのものはフョードロフの思想全般を広範に扱っており、このコメントから箇所を特定することは難しいのだが、マルクスをはじめとする経済学に対するフョードロフの見解は主に以下の箇所で扱われている。Козгсевников. Опыт изложения учения Н.Ф. Федорова. С. 231-298,
[50] このことは、「しかしながら経済哲学の真の創始者は、主観的観念論、受動的観照の哲学者カントではなく、自然と客観的現実との哲学者シェリングである」(Булгаков С.Н. Философия хозяйства. М., 1912: Репринт, Нью-Йорк, 1982. С. 52. 強調は引用元による)と述べていることからも明らかである。『経済哲学』からの訳出にあたっては1982年のリプリント版を底本とし、以下の邦訳を参考にした。プルガコフ(島野三郎訳)「経済哲学』改造社、1928年。
[51] Булгаков. Философия хозяйства. С. 43.
[52] Там же. С. 51.
[53] Там же. С. 43. ここでは「主人(хозяин)」と「経済 (хозяйство）」の語幹の同一性が念頭に置かれていると思われる。
[54] Там же. С. 144-145 強調は引用元による。
[55] . См.: Федоров Н.Ф. Супраморализм, или всеобщий синтез (т. е. всеобщее объединение) // Федоров. Собрание сочинений. Т. 1. С. 396-398. フョードロフは工業化や貧富の差の拡大といった事象の裏側に快楽や華美虚飾へと向かう人間の性的本能への志向(自然の盲目的力への服従)を見出し、学問や科学がそうした志向に力を貸している状況を問題視している。換言すれば、フョードロフは当時の経済活動の根底に、生と死という彼にとって本質的と思われる基第ではなく快楽の追求という基準を見出しているのである。
[56] Там же. С. 390.
[57] 例としては以下を参照。セミョーノヴァ、ガーチエヴァ編著(西中村浩訳)「ロシアの宇宙精神』、34-35頁。
[58] Булгаков. Философия хозяйства. С. 73.
[59] Там же.
[60] См.: Булгаков. Загадочный мыслитель. С. 328-330
[61] Булгаков. Философия хозяйства. С. 296.
[62] 同様の指摘は以下の先行研究にも見られる。佐藤正則「セルゲイ・プルガーコフにおける近代の超克とマルクス評価」「ロシア史研究』第72号、2003年、59頁。
[63] Булгаков. Философия хозяйства. С. 50. 強調は引用元による。格は主格形になおした。
[64] Там же. 強調は引用元による。格は主格形になおした。
[65] Там же. С. 298. 強調は引用元による。
[66] Там же. С. 300.
[67] Там же. С. 295-296. [] 内は訳注。先に挙げたフョードロフと経済的唯物論の共通性を指摘する註はこの箇所に付されている。
[68] Письмо В.А. Кожевникова Н.П. Петерсону от 20 августа 1913 г // Н.Ф. Федоров: Рго е1 contra. Книга вторая. С. 96.
[69] Письмо В.А. Кожевникова П.А. Флоренскому (написанное в начале сентября 1913 г) // Там же. С. 208. [] 内は訳注。
[70] Булгаков С.Н. Свет невечерний: Созерцания и умозрения. М., 1994. С. 310. 強調は原文による。また便宜上括弧内に原語を入れたが、このとき格を卞格形になおした。「テウルギア」とはネオプラトニズムなどにみられる魔術的行為のこと。「降神術」や「巫術」とも訳される。
[71] Там же. С. 312.
[72] Там же. С. 315. [] 内は訳注。
[73] Там же.
[74] Там же.
[75] もっとも、『黄昏ざる光』の段階ではこの補完関係はむしろ否定的にとらえられている。本稿の註4で引用した、「セルゲイ・プルガーコフにとってフョードロフがマルクスやレーニンよりも恐ろしく、ラディカルであることは偶然ではない」というセトニツキイの言葉にはそうした背景があると考えられる。
[76] セミョーノヴァ、ガーチエヴァ編著(西中村浩訳)『ロシアの宇宙精神』、206頁。但し引用文中の鉤括弧は二重鉤括弧に置き換えた。露語原文の箇所は以下の通り。Булгаков С.Н. Душа социализма // Русский космизм. С. 145.
コメントをかく