ロシア宇宙主義についてのノート・調べものメモ

ロシア思想史

ウラジーミル・ソロヴィヨフ (1853-1900) -- 資料集




ルネ・パサダによるソロヴィヨフの概説
ウラジーミル・ソロヴィヨフ(一八五三〜一九〇〇)

ソロヴィヨーフとその広範で複合的な著作が現われるに及んで、ロシア哲学の新時代 --- それは二十世紀になって、宗教哲学の復活と象徴主義運動に重大な影響を及ばすことになる --- が始まった。著名な歴史家セルゲイ・ミハイロヴィチ・ソロヴィヨフ(ロシア修史〔史料編纂〕に関する《国家主義》学派の創始者のひとり)の子であるウラジーミル・ソロヴィヨフは、きわめて早熟な子供で、深い宗教感情に浸り、哲学的著作を読むことに没頭した。ウラジーミルはかなり早いうちに、ビュヒナー、シュトラウス、ルナン、スビノザらの著作に親しみ、その青年期は、ショーベンハウアーとハルトマンの思想に彩られている。ウラジーミル・ソロヴィヨフはまた、人民主義派 --- とりわけ、ミハイロフスキーの思潮の展開を、間近に辿って進み、ミハイロフスーに影響されて、一八七一年までは自然科学の研究に打ち込んだ。この時期のソロヴィヨフの手紙には、ドストエフスキーや、とりわけまた、キレーエフスキーから受けた強い影響力も認められるが、一八七四年に刊行された最初の重要な著作『西欧哲学の危機』で、ソロヴィヨフはキレーエフスキーの西欧哲学批判を、新たな視点から再開している。

モスクワで教鞭を執り始めたのち、一八七五年に、ソロヴィヨフはいったんロシアを離れ、ロンドンに住んでインドの聖典、ユダヤのカバラ、新プラトン主義を件封した。ロンドンの大英博物館で、『神の知恵(神智)の幻視(象徴的啓示)のうちの第二の幻視が生じ、ソロヴィヨフにエジプト行きを命じるが、ソロヴィヨフはエジプトの砂漠で、第三の幻視を得ることになる。ロシアに戻ったたソロヴィヨフは、幾度も繰り返し、哲学教育に力を注ぎ、一八八一年まで教壇にあった。この年一八八一年に、ソロヴィヨフはアレクサンドル二世の暗殺犯に対する恩赦を嘆願したのち、大学の職を辞した。

ソロヴィヨフの著作活動は、三つの時期に分けられる。一八七四年から八〇年にわたる第一期に、ソロヴィヨフが刊行したおもな著作は『西欧哲学の危機』、『全的認識の原理』、『抽象的原理の批判』などであるが、これはいずれも、キレーエフスキーの主張(その起源はシェリングに発する)を繰り返したもので、西欧哲学は決定的な危機に立ち向かったというものである。ソロヴィヨフはショーベンハウアーの哲学や、とりわけまた、カール・ハルトマンの無意識の哲学に、最後の、西欧哲学の危機の表れを見て取ったのである。とはいえ、ソロヴィヨフの結論はキレーエフスキーとはいささか異なるところに到達する。ソロヴィヨフにとっては重要なことは、宗教的価観の優越を図って、そのために合理主義哲学の価値観を排除したり、否定したりすることではないからだ。そうではなく、哲学と宗教と科学との綜合を確立しなければならない。

「…西欧の哲学が辿ってきた発展の終極の必然的帰結は、東方の(その幾分は古代東方の、とりわけまたキリスト教圏の東方(東ローマ=ビザンチン帝国)の)偉大な神学理論によって --- 信仰と霊的観想という形態で --- 確立さえた、あの同一の真理の数々を、合理的認識というかたちで確立することなのである。したがって、このまったく新たな哲学は、東方のさまざまな宗教概念の充実した意味内容を、西欧的式の論理的な完璧さに結びつけようとしている。この〔西欧〕哲学は、一方では、実証科学から与えられたもの=データに依拠しながら、他方、宗教に手を差し伸べているのである。科学と哲学と宗教とのこうした普遍的な綜合の実現は…知的発展の最も高度な目的であり、また、その最終的な帰結であるに違いない。かくて、知的世界の完全な統一が回復されることになるだろう…」。

同じ時期〔第一期〕、ソロヴィヨフはスラヴ派のサークルに集う人びと(サマーリン、ミハイル・ニキフォロヴィチ・カトコーフ、N.A.リュービモフ、ニコライ・ストラーホフら)と親交を結ぶが、これが人民主義派=西欧派の決定的な反感を招き、以後、ソロヴィヨフは観念論的反動派の主たる代表者と見られるようになった。事実、一八七八年から八一年にかけて行なわれた講義には、ソロヴィヨフのスラヴ主義が強められまた、その宗教観が深められたことが認められる。露土戦争が始まったときに行なわれた最初の講義で・ソロヴィヨフは、イスラム世界と西欧文明とに対して、第三勢力の出現、すなわち、文明の矛盾しあう諸要素を融合するべく運命づけられているスラヴ民族の出現を告げている。

ソロヴィヨフの『神人論講義』(一八七八〜八一年)には、新たな問題提起が見られる。すなわち「生ける神と、十全.な状熊にある、人間の全本性とのベルソナとしての(位格的=神性と人性との)結合、つまり、キリストのうちに実現された神人的体系 --- 完全な神性と、全面的な完成状態にある人性との位格的結合 --- は、ただ単に神学的ならびに哲学的な至高の真理をわれわれに提示しているだけではないのであって、それは普遍的歴史=世界史の結節点核心そのものなのだ」。

こうした神人性の問題を提起したソロヴィヨフの論述には、彼がフョードロフとドストエフスキーから決定的な影響を受けたことが認められる。フョードロフの〈投影主義〉がソロヴィヨフに、博愛とか、復活による世界の再興といった観念をもたらし、他方、ドストエフスキーはソロヴィヨフを、ロシアの歴史において正教会が果たした役割のさらに徹底的な検討を加えることへと駆り立てたのである。

ソロヴィヨーフの思想の第二期 --- いわゆる《ユートビア》思想期 --- は、一八八二年から八九年にわたって展開される。この時期、ソロヴィヨフはスラヴ派とは袂を分かち、キリスト教の全教会組織を統合することに全力を注いだ。『人生の霊的基礎』、『神権政治の歴史と将来』(一八八五〜八七年)、『ロシアと全世界教会』(一八八九年)、『ユダヤ人とキリスト教問題』といった著作を次々と刊行し、そのなかで、ソロヴィヨフは来るべき神権政治への展望を示している。すなわち、教皇位教権(《国際的かつ独立した唯一の権威、教会の世界的活動のための現実的にして永続的な唯一の基盤》)と、ロシアの皇帝位帝権(帝制の本質的要素を表象する)と、そしてまた、この両者が結合した暁に出現する預言者たちとの結合という見通しである。ソロヴィヨフのローマ教会への歩み寄り、また、彼の超宗派的信徒共同体への結集という呼びかけがヨーロッパの一部の社会に引き住こした反響にもかかわらず、ロシアにおいては、ソロヴィヨフの企ては手痛い失敗という結果に終わるしかなかった。

一八九一年から一九〇〇年の死に到るまでの第三期には、ソロヴィヨフの思想は終末論的なものになって行く。ソロヴィヨフは善の実現ということになるであろう。〈歴史〉という壮大な展望=幻影を棄て去り、個人倫理 --- これは、愛を肯定するための永続的な闘いとして構想された --- の基礎を築きあげること専念する。ソロヴィヨフは芸術と詩に自分の進むべき方向を定めるが、それは詩というものが<能動的神秘体験>として理解され、愛がこの神秘体験の本質的要素だからである。『自然の内なる美』」(一八八九年)や『芸術の意義」(一八九〇年)、そして、ロシアの詩人たち --- アファナシー・フェート、チュッチェフ、プーシキン --- に関する評論のなかで、ソロヴィヨフは人間の活動に肯定的な展望を見出そうとしている。そこで、詩人は預言者の地位にまで高められ、めざすべき目標は〈美〉の実現、つまり、<受肉〔具現〕された理念>なのである。ソロヴィヨフのこうした考え方は、ロシア象徴主義運動の成立にとって、とりわけまた、アドレイ・べールイの作品に、決定的な重要性をもっことになる。

死を目前にして、ソロヴィヨフは人類の未来に関する黙示録的幻視の書『反キリストの話』を執筆し、反キリストの《先駆けたち》、マルクスとニーチェ、とりわけまた、トルストイ --- 悪に対するトルストイの無抵抗主義 --- を厳しく批判する。ソロヴィヨフは世紀末の合法的マルクス主義者たち(とりわけ、ブルガーコフ、ベルジャーエフ、フランク)に対して --- 特に、社会のなかで宗教が果たしうる積極的な役割と歴史に直面した個人の価値観をめぐる考察に関して --- 決定的な影響を及ぼした。ロシアの神学思想もまた、ソロヴィヨフによって、その復興の糸口を与えられた。この神学思想復興の最も卓越した代表的存在は、ブルガーコフとフロレンスキー師である。

ロシアにおける観念論=理想主義の発展に寄与したもうひとりの哲学者は、汎心論的学説を主張したアレクセイー・コズローフ(一八三一〜一九〇一)である。コズローフは、時空世界を個人的な自己同一性という意識状態の集合 --- コズローフはこれを真の霊的実体と定義している --- に還元することによって、カントに対してと同時に経験論者に対しても異論を唱えている。コズローフは自分の考えを、個人誌『私自身の言葉』によって、とりわけまた、『ペテルプルグのソクラテスとの対話』のなかで展開している。二コライ・ロスキー(一八七〇〜一九六五)は、コズローフの愛弟子である。

最後に、一九二〇年にフランスへ亡命移住したレオン・シストフ(一八六六〜一九三八)が、ドストエフスキーに想を得た悲劇の哲学によって、ソロヴィヨフの系譜に連なっている。哲学的にはキルケゴールやパスカルに近いシェストフは、多くの著作で、人間の自由の諸条件を明らかにしようと努めた。人間には、源初の過ち〔原罪〕という宿命と、世界との関係の根源的な不条理とが重くのしかかっている。内面的実存の哲学者シェストフは、戦前のヨーロッパ思想に対してと同様、同世代のロシアの思想家たち --- とりわけ、ベルジャーエフ --- に対して深い影響を与えた。

*シェストフの数多い著作のなかから、次のものを挙げておこう。『ゲッセマネの夜、パスカルの哲学に関する試論』(一九ニ三年)、『キルケゴールと実存哲学』(一九三六年)、『アテナイとイエルサレム、宗教哲学試論』、とりわけまた、『悲劇の哲学、ドストエフスキーとニーチェ』(一九〇三年)(原注)。

[ルネ・ザパダ (原田佳彦 訳): 「ロシア・ソヴィエト哲学史」, 文芸クセジュ, 白水社, 1997/04/25, pp.83-88]



堀江広行による、ソロヴィョフ:"反キリスト物語"の解説
[堀江広行: "時代のリトマス紙 -- ソロヴィョフの終末論の継承"]

一九世紀末から一九二〇年代初頭にかけてのロシアは、思想界に偉才が陸続と登場した歴史上稀有の時代であった。二十年余りの期間にベルジャーエフ、トルべツコイ兄弟、プルガーコフ、フロレンスキイ、メレシコーフスキイ、ギッピウス、フランク、ローザノフ、シェストフ、N・ロースキイ、エルン、カルサーヴィンといった錚々たる思想家たちが彗星群のごとく出現した。ウラジーミル・ソロヴィョフは、この二〇世紀初頭のロシア思想の黄金時代の礎を据えた哲学者であり、これらの思想家たちが立場の違いを超えてともに敬愛し師と慕った伝説的な人物である。

一、ソロヴィヨフ --- 人と思想

ソロヴィヨフは一八五三年一月一六日にモスクワに生まれた。父は有名な歴史家セルゲイ・ミハイロヴィチ、祖父は優しいが正義感の強い在俗司祭であった。

少年時代のソロヴィョフの特記すべきエピソードに、次のようなものがある。九歳の彼は淡い失恋事件に煩悶しつつ教会の昇天祭の奉神礼に出席していた。突然その周囲の世界が消え失せ、「瑠璃色」の別世界が出現し、いっさいが麗しい天界の女性の姿に包まれた。この体験は、しばしば幻影を見たと言われるソロィヨフの無数の不可思議な体験中でも群を抜いており、後年「自分の人生でもっとも重要な出来事」と自身述べることになる、いわゆる「永遠の女性性」との邂逅と称されるヴィジョン体験の最初のものである。後年のドイツ古典哲学風の精巧な理論哲学とは対照的なこのような神秘的な体験は生涯を通して彼に伴い、彼の思想を理解する鍵の一つとなる。

哲学に熱中した十代のソロヴィヨフは、理神論を経て過激な無神論に走り、さらに当時全盛の実証お義に到達する。しかしスピノザの一元論的な汎神論によって再び神への信仰に呼び戻される。モスクワ大学に一八六九年に人学。当初は自然科学部で学ふものの歴史人文学部に転部し、西欧哲学と宗教哲学の研究に没頭する。しかし、そこでの哲学研究に失望したソロヴィョフはモスクワ神学大学でさらに一年間研鑽を積む。この時期に彼が立てた目標は、「父祖伝来の宗教であるキリスト教の教理に現代的な理論基盤を与えること」であった。一八七四年には修士論文「西欧哲学の危機 --- 実証主義者に抗して」がサンクト・ペテルプルグ大学で公開審査され絶賛された。

ソロヴィヨフは大学からの派遣で英国に留学する。留学研究のテーマ「インド哲学、グノーンス主義、中世哲学」は当時の彼の関心が那辺にあったかを物語る。大英図書館の読書室で読書に没頭していた彼に突如少年時代の「天界の女性」が語りかける。ヴィジョンの「声」は彼女とのさらなる邂逅のためにソロヴィョフにエンプトに旅立つように促す。な夜のジプトの砂漠で、この女性との邂逅というさらに大いなる体験が訪れた。

当時のソロヴィヨフが残した未発表原稿『ソフィア』から推測できる限りでは、彼は、この体験を「ソフィア」と称せられる女性的な人格をもつ天界の存在 --- いわゆる世界魂でもある --- との邂逅と思い込み、新しい宗教意識の時代の幕開け、人類史の第三段階の到来を告げるものと考えていたようだ。同原稿によれば、この新しい宗教意識の時代には、ソフィアを人類の頂点として、このソフィアを通しての絶対神との結合を人類にもたらす世界宗教が誕生するはずであった。ここには、ソロヴィヨフの中に生涯脈動し続けた、歴史が神的な意義を有し、今や神的な筋書きにより新しい時代が訪れつつあるとの感覚がすでに明瞭に現われている。

しかし、ソフィアとの秘密の邂逅の体験はほとんど誰にも明かされず、またこの「ソフィア』の原稿は発表も完成もされなかった。しかし、その一部が次作『全一的知識の哲学原理』(一八七七)に使用される。

『全一的知識の哲学原理』でソロヴィヨフはまず、人類史が分裂の時代から新しい統合の時代に移行しつつあると主張する。社会の分野で経済、政治、宗教が、知識の分野で科学、哲学、神学が混在した古代から、それぞれの分野が分化して確立された近代を経て、今や独立した諸要素がその独立性を失わすに結合を取り戻す新しい時代が到ましている。彼が特に志すのは、科学、哲学、神学が有機的に統一された新形式「自由神智学」あるいは「全一的知識」のラフデッサンである。全一的知識は行きづまった経験論と合理論に代わる第三の哲学である。同書にはソロヴィヨフの哲学思想の発展の面で重要な「肯定的無」の概念、「真存在者」と「存在」の概念の区別が明確に登場する。唯一真実に存在するのは、物質や経験でも純粋な思考内容やイデアでもなく、それらすべての存在の基盤かつその所有者としての唯一の真の主体、真存在者、すなわち絶対者である。この真存在者は全存在を超越し所有する者としていかなる存在の側からの定義も受けす、したがって「無」。しかしこの「無」はあらゆる存在の起源、その発生源として肯定的な原理である。かくしてそれは「肯定的無」である。また存在の基盤として存在界の諸物の多数性を否定せす包容する統一としての一である。

ほぼ同時期に連続公開講義と雑誌掲載が始まった『神人論講義』(一八七七—一八八一)では、未発表原稿『ソフィア』と『全一的知識の哲学原理』で温められた理論が壮大な宇宙論、宇宙の進化論として展開される。そこでは『全一的知識の哲学原理』で明らかにされた「真存在者」すなわち絶対者の極と「本質」つまり被造物の極という二極による三段階にわたる時間外の相互発展の形式、いわば神と宇宙のドラマが詳述される。本質は真存在者の内部に彼自身によって意志されるものとして誕生し(第一相)、次に真存在者によって何よりも表象されるイデア的存在となり(第二相)、最後に現実性と感性を獲得し(第三相)、自ら真存在者との自立した関係を構築するに至る(この現実性の獲得がいわゆる世界の「創造」である)。発展は霊、知(ヌース)ないしイデア、魂あるいは感性という三つのレベルにわたり、その中心が移りつつ進行し、存在構造の位階を下降しつつも二極の絆を強め、実際的なものになっていく。この宇宙進化の最終到着点は、この二極の自発的な不離不融の統一、いわゆる全一的統一の達成である。同時にこの宇宙創出論を独特なものにしているのは、この宇宙創出が人格神による人格的被造宇宙の創造とされている点である。つまりこの宇宙創出過程は、絶対者にとってその愛の対象である他者=擬人化された一つの集合的な人格を有する被造世界の、絶対者自身による段階的産出、ならびに両者の自発的再統一の過程ということになる。

さて第三の最後の段階での本質の最大の特徴は、その現実性と自立性にある。これ以前の相での二者の関係がもっぱら真存在者の本質への一方的関係であったのに対し、すなわち、この第三の相ではそれは両者の相互に作用を促しあう関係、感じあう関係である。この意味で両者の全一的統一はいっそうに高度であり、自立した三者の関係が誕生するこの相でこそ真の統一が実際の課題となる。我々人間の行為がこの宇宙進化論に意味をもってくるのはこの第三の相であり、自立を得たものとしての本質は、人類の集合的な魂、人類がその中心をなしているところの宇宙の魂、「世界魂」と定義される。この世界魂は主体者として一種の集合的な人格「ソフィア」を持つ。

銘記すべきはこれがキリスト論でもあることである。ソロヴィヨフはこの二者の自立的関係としての最終段階での統一を神人的統一、神人的有機体の形成と呼ぶ。神の神格を保持しつつもあえて地上に降り肉をまとい、神性と人性を不離不融に結合させた者としてのキリストはこの神人的統一の発展の一段階である。キリストにおける神性と人性の結合は宇宙レベルで実現する最終的な神性と人性の結合のモデルなのである。キリストの「体」としての世界的教会の形成は、この神人的統一の次のあるべき一歩である(したがってこの統一体は象徴的にキリストとも呼ばれる)。このようにして教会は宇宙的意義を獲得することになる。この神人有機体においては、真存在者の側は統一の産出源たる極としてのロゴスであり、世界魂たる本質の側は統一の産出の受容の極してのソフィアである。ソフィアあるいは世界魂が受容の極とされるのは、世界魂が自立して行動できるものでありながら、本来自身の内部の統合のためのイデアを欠いており、これをロゴスの側から受容するためである。この神人有機体におけるソフィア側、つまり、人類の側はロゴスとの結合のため」統一された世界教会の形成を一つの目標とする。これが歴史の目的である。ロゴスのソフィアへの作用は「強制的な外的な力」として開始し、両者の関係の発展とともに徐々に、いっそう「内的な生きたカ」に変わっていく。

全体の描写を通じて感しられるのは人類と宇宙の進歩に対する非常に楽観的な姿勢である。また、そ0抽象的な理論構築への衝動のかたわら、抽象的な知性ではなく、感情を司る魂と物質のレベルでの活動の強調、その聖化の必要性への訴えも印象的である。

しかし肝心なのは、この宇宙進化論が決して宙に浮いたようなものではなく、その実現のために極めて具体的な行動をソロヴィヨフ自身に促した点である。その行動とは、神人体としての世界教会(キリストの「体」)の実現のための実践であった。具体的には真のキリスト教政治、そして東西教会の統合の唱道であった。東の東方正教会と西のカトリック教会の統一が八〇年代のソロヴィヨフの活動の根本的なモチーフの一つとなる。この東西教会統一のための活動ゆえにソロヴィヨフは、それまで彼に好意的であったスラヴ派を敵に回し、カトリックへの改宗まで噂され、多くの敵を作ることになった。東西教会統一とそのためにロシア正教会が変化しなければならないとの思想は、『大論争とキリスト教政治』(一八八三)、「神政制の過去と未来』(一八八七)、『ロシアと普遍公教会』(一八八九)といった著作で展開される。

しかしロシアがこの東西教会統一の計画において特別な役割を果たすことが出来るという信念は、次第にロシアの現状に対する失望に変貎する。九〇年代に人ると再び哲学上の問題への関心が首をもたげる。この時期ソロヴィョフは、自由主義的知識人との交流を活発にし、『エフトンとプロックハウス百科事典』の哲学項目を担当したり、プラトンの著作の翻訳に携わるようになる。また『自然に於ける美』(一八八九)、『芸術の一般的意義』(一八九〇)、『愛0意味』(一八九二〜九四)、『積極的美学への第一歩』(一八九四)といった美学関係の著作、そして倫理学に関する大著『善の基礎づけ』(一八九四〜九六)が執筆される。

生涯の最後の時期には、初期の楽観的な壮大な宇市変革の思想と対照的な世界の現状に対する暗い絶望がソロヴィヨフをとらえる。世界は進歩しているのではなく老いつつある。ソロヴィヨフはもはや人類による世界における善の積極的実現を信しることができなくなり、世界が止めることのできぬ終未に向かいつつあると信じ込み、この終末の兆候を同時代の出来事に様し求めるようになる。本書に載録された『反キリスト物語』を含む遺『戦争と進歩と世界史の終末についての三つの会話』は、ソロヴィヨフの死の年である一九〇〇年に執筆された。その序文でソロヴィヨフは、迫りくる死の予感ゆえに本書の出版を遅らせられぬと語っている。

二、『反キリスト物語』とその評価

『反キリスト物語』は『三つの会話』の中で会話の主人公の一人N氏が、友人の元学者の修道士の遺作として紹介するものである。この著書の序文冒頭でソロヴィヨフは次のように間うている。「悪というものは、自然的な欠陥、善の成長と共に自滅する不完全さにすぎないのか、それとも、悪は実在のカであり、誘惑でもって我々の世界を所有するもので、それとの成功裏の戦いには、存在の別種の層に基盤を据えなければならないようなものなのか?」。ソロヴィヨフによれば世界的な超越的悪の襲来が目前に迫っている。これに対してどのような戦いの方法がありうるのか? 三部構成を成す同書の各部では、悪との戦いの問題に対するそれぞれの主人公の立場が紹介され、第一部では「将軍」の意見を通して「過去に属する」第一の「宗教的日常的観点」が、第二部では「政治家」の意見を通して「現在に支配的な」第二の「文化・進歩主義的観点」が、第三部では氏の見解と『反キリスト物語』の記述を通じて「将来において決定的意義を発露することになる」第三の「無条件に宗教的観点」が紹介される。ソロヴィヨフ自身が序文で明かすところでは、彼自身は「前二者の相対的な真実」を認めつつも、「決定的に」第三の観点を支持している。

驚くべきことにこの作品は二〇世紀初頭のロシアの多くの思想家たちによって早くから肯定され、賞賛されてきた。ここではソロヴィヨフの没後ほぼ十年後に書かれたE・トルべツコイとベルジャーエフ、プルガーコフの三人の見解を見てみよう。

一九一〇年、トルべツコイは次のように書いた。「キリストの変容はすべての人間生活の変容の始まりとならなければならない。ここにソロヴィヨフの異論なく正しい結論がある。しかし、彼がこの要求を生に適用しようと試みるや否や、神界とこの世界の間の距離感覚が彼のなかで消えてしまう。地上の形象が彼の想像をとらえる。そして彼は変容した人類の王国を、教会国家組織の枠内で確立しようと試みる」(『ウラジーミル・ソロヴィヨフとその仕事』)。

この批判は、ロシア正教会がカトリック教会の教皇の権威を認め教会統合を行ない、国家機構の面ではロシアの皇帝を頭に戴く神政制世界帝国を実現せよと説いた『ロシアと普遍公教会』時代のソロヴィヨフに向けられている。トルベツコイは、キリストの内部における人性と神性の結合とその結合による人性の「変容」すなわち神化が、信徒個人の目標に終わらず、世界社会全体の「変容」に至るべきたと考えた点ではソロヴィヨフをまったく正しいとしている。しかしこの「変容」の中心である教会の問題になるとソロヴィョフ個人の空想や偏向が滲み出てしまうと批判する。トルべツコイによれば、ロシアの皇帝が世界皇帝になるという考え方にはソロヴィヨフの隠れた国粋主義的陶酔の傾向が窺われ、教会が国家組織を吸収しそれに君臨できるとの考えは誤っている。ヨハネの黙示録に預言されている「千年王国」はソロヴィヨフにおいて神政制世界帝国と同一視されている。トルベツコイによればソロヴィヨフは最後に『反キリスト物語』の中でその誤りに気づき、人類が地上に宗教的国家体制として建設する地上楽園=神政制世界帝国の考えを放棄した。トルベツコイは『反キリスト物語』におけるソロヴィヨフに倣い、地上のユートピアとしての神政制世界帝国の空想を捨てよと呼びかける。しかし、歴史の外にある超現実的な将来としての「千年王国」、「終末」そのものの到来はを定されない。地上の形象に囚われた空想を棄ててこそ、この「千年王国」の正しいヴィジョンが得られるであろう。一方、「終末」到来までの地上での世界体制の問題は残る。

ベルジャーエフは、一九一一年に発行された『V・ソロヴィヨフの宗教意識における東方と西方の問題』で、正教会が代表する東方とカトリックが代表する西方の結合に対する八〇年代のソロヴィヨフの志向は正しいと評価しつつも、この結合がカトリックの位階組織への正教会組織の一方的吸収、外面的統合として理解されていたことを批判する。ベルジャーエフによれば東西両教会の統合はそれぞれの固有の霊性の相互浸透であるべきで、教会機構の統一であるべきではない。トルベツコイと同様にベルジャーエフも『反キリスト物語』のソロヴィヨフに、この外面的統合説の放棄、地上の歴史上に建設される神政制帝国、ユートピアとしての「千年王国」観の放棄、そして人間が造る歴史の外の超現実的領域への「千年王国」の「正しき委譲」を見る。「千年王国」は歴史の枠内は実現されない(ちなみに以前の著作『新たな宗教意識と社会性』では神政制が歴史の中に漸進的に実現され、それは「政治的には無政府主義、経済的には社会主義、神秘的には唯一神の専制」だとされていた)。ベルジャーエフによれば、正教会の秘められた使命は人類史を越えた「終末論的」な超歴史領城で発揮され、『反キリスト物語』で描かれているように仮面の姿で登場する反キリストの勢力を見破る預言的能力にある。ベルジャーエフはこの反キリストの勢力を、霊的なキリスト教原理に対抗する盲目的で非人格的な国家崇拝の原理に見る。ロシアではこの二つの東方の原理が闘争している。ベルジャーエフはソロヴィヨフの詩を引用する。「(ロシアよ!)お前はどのような東方たりたいのか。クセルクセスの東方か、キリストの東方か」。

ベルジャーエフによれば、ロシアが内的に屈服する可能性のある土俗的な国家崇拝への警告は、ロシアの極東の国境線の向こうで起きているアジアの動きであり、ロシアに暗雲をたれる汎モンゴル主義、「東洋蒙古の無人格的な勢気」の勃興である(ベルジャーエフは「無人格の東洋蒙古の勢気は平民主義的なアメリカニズムの形式で西洋文明に侵入した。極東と極西は密かに同盟する」とも主張する)。

ベルジャーエフによるソロヴィヨフの終未論の「継承」の特異な点は、のちに『歴史の意味』(一九二〇〜二二頃執筆)などで展開される、人類が造る歴史とそれを越えた終末論的次元に関する考え方にある。歴史は現象的な領域での具体的な歴史=「地上的歴史」と形而上的な次元の歴史=「超歴史」ないし「天上的歴史」の二つ次元を持つ「地上的歴史」における進歩、幸福や福利の進歩の概念は否定される。「地上的歴史」の枠内でのすべての試みは有意義であり、最終的な善のヴィジョンを社会の目標として持っぺきであるが、その「地上的歴史」の真の意味は「地上的歴史」の中では見えず、失敗を運命づけられている。このような「地上的歴史」はその発端から終末までが一つの年紀(アイオーン)を成す。このアイオーンによって構成される形而上的な歴史が「天上的歴史」であり、その全体が永遠である。黙示録で描かれるような「終末」はこのような一つのアイオーンの終焉であり、「地上的歴史~の天上的歴史の進入」、「地上的歴史からの出口」である。

「ウラジーミル・ソロヴィヨフは宇宙レベルでの新しい宗教的な年紀の先端に立っている。彼はすでに紅の暁を見ている。そして悲劇的な彼の人生は宇宙的な転換期の悲劇である」(『V・ソロヴィヨフの宗教意識における東方と西方の問題』)。

ソロヴィヨフが「反キリスト物語』で宣言した歴史の「終末」をベルジャーエフが全歴史の終焉と見ているのか、それとも一つのアイオーンの終焉と見ているのかは今一さだかではない。しかし、ベルジャーエフはのちに『新しき中世』(一九二四)の中で人間中心主義と無神論、「プルジョワ的.な個人主義に代表された近世史が終焉に近づき、次の「新しい中世」が到来しつつあると主張する。彼によるとこの「新しい中世、には近世史の中に潜在していた諸勢力の対立があからさまになり善悪の二勢力の対立が激しくなる。「新しい中世」は終わりつつある近世史の「昼」の時代に対する「夜」の時代であり、この夜にこそ昼の世界の知らない形而上的な深淵が開かれ現象上の善悪の根源が露呈する。社会主義やファシズムは近世史の圏内の現象ではなくすでに「新しい中世」に属する。この善悪の二勢力の対抗にソロヴィヨフの「反キリスト」とキリスト教徒の対立を見ることは困難ではない。

遡って一九一〇年、ブルガーコフは『黙示録、社会学、歴史哲学、社会主義』の中で、ユダヤ教とキリスト教の黙示文学には、歴史的制約はあるにせよ、当時の民衆の期待が表現され、後に歴史哲学や終末論と呼ばれる様々なすべての思想の原型が含まれていると主張する。ブルガーコフによれば現代はこのユダヤ教とキリスト教の黙示録、およびその民衆意識を共有している。「我々の耳は、懸け離れていながらも性格を近しくする(黙示文学の)歴史的鼓動に耳を傾けるとき、ひときわ敏感である」。

ブルガーコフは千年王国主義と終末主義を区別する。キリスト教には、古代ユダヤ教の流れをひき地上と歴史における千年王国の到来を待ち望む千年王国主義と、歴史の進歩を否定し彼岸に向かう終末主義の二つの潮流がある。千年王国主義は十四世紀イタリアの修道士ドルチーノや十六世紀のトーマス・ミュンツアーやライデンのヨハネのような宗教的な革命運動に現われており、現代の共産主義運動は世俗化された千年王国主義にほかならない(彼によればメレシコーフスキイらの「新たな宗教意識」運動もこの流れにある)。終末主義は歴史へのアパシーに結びつく。ブルガーコフは、千年王国主義と終末主義はそれ自体では正しいが、どちらかに偏執することは誤りだという。求められるのは両者のバランスである。ブルガーコフは終末観をいつか来る死の意識に擬えながら言う「避えぬ死の概念を人生の唯一の支住にすることはできはない。しかし、死の時についての記憶を思惟から追放することも宗教上の軽薄の頂である」。

当時のブルガーコフによると、ソロヴィヨフは『ロシアと普遍公教会』に見られる歴史の中の進歩を抑揚する千年王国主義から、歴史の完全な否定である『反キリスト物語』の終末論へと極端に揺れ動いた。『反キリスト物語』は「極端な終末主義」の作品であった。

そもそもブルガーコフは、終末論を時代錯誤の迷妄と恥じて片付けようとする現代のキリスト教の傾向に抗い、ソロヴィヨフが終末論と千年王国論を堅持したことを高く評価していた。ブルガーコフは、一九〇三年に発表したソロヴィヨフ論『現代意識にウラジーミル・ソロヴィヨフの哲学は何を与えるか』で、社会が「神の国」のような形而上的な目標としての終末論を持っことを個人が「終末論」を持っことになぞらえる(ここでの終末論の解釈はまだ歴史の否定ではなく、歴史における目標にとどまる)。

「一人一人の意識的人間が自己の哲学(いかなるものであれ)と自己の宗教を持つのと同様に、一人一人の人間が自己の終末論を持っており、現在にばかりか将来に、そして将来のために生きる。人はこの将来から自分の最高の希望の成就を期待する」。

終末論的感情は人心から除去されえない。終末論は一種の神義論の帰結であり、神の善の秩序としての世界の正当化の方法である。世界に悪が存在することは。善に対する猜疑心を呼ぶ。ここから出される結論は、善や悪が主観的なを物なのか、あるいは善はやはり客観的に存在しており何時の日か悪を粉砕するのかである。客観的に実在する善の概念には神義論、したかって終末論が欠かせない。将来の善の増大に関する隠れた神義論と終末論を導人する実証主義的な進歩の哲学 --- 明らかにマルクス主義を暗示している -- は、神義論の課題に応えることが出来ない。その理由はフョードロフ風のもので、善の実現のために減んた過去のは世代の苦難が、将来の幸福な世代の享受する善によっては贖われえないからである。真の神義論は、歴史上存在し苦難したすべてのものの再生、すなわち復活を要求する。このような神義論はキリスト教の終末論によってしか提供されえない。

当時のブルガーコフは『反キリスト物語」における終末論に、ソロヴィヨフのそれ以前の進歩論、神政制の実現への進的進歩の思想との矛盾を見てはいない。終末はあるが進歩もある。当時のブルガーコフは八〇年代のソロヴィヨフが積極的に主張した政治へのキリスト教理念の積極的な具現化、すなわち「キリスト教政治」を高く評価し、やはりソロヴィヨフの見た近い終未のヴィジョンに関しては否定的である。

「ソロヴィヨフの晩年の悲観主義全般、その陰鬱な予感に関しては、概して、これを彼の主観的見解とみなすことが出来る。この見解は気分にのみ根拠を持ち、伝記上の著しい関心を喚起するものであり、主観的気分としては共感することも可能たが、物事の本質上客観的根拠を持たず、またそれを名乗ることも出来ない」。

第一次大戦と革命の年、一九一七年に発表された大著『黄昏ざる光』では、ブルガーコフの論調はすでにベルジャーエフのそれに近い。歴史における進歩は否定され、歴史は外面的には「偉大なる失敗」、「悲劇的な誤解」であるとされる。歴史は表面的には無限の進歩を抱くようだが、その内奥では成熟と終焉を持つ。

「そこで、つまり表面で、歴史があたかも終わることができないようであるのに対して、ここでは歴史は終幕の道を歩んでおり、自らの成熟と終焉に近づきつつある。…しかし歴史の成熟の到来は、勿論、進歩の達成によって推し量られるものではない」。

ブルガーコフをとらえているのはこのような歴史の内部での密かなな「成熟」に対する不安である。

「あるいは、戦争と世界的震撼の轟音の下、そしてそれらと無関係にではなく、今も世界が知らぬ間に、この戦争よりも、ヨーロッパの「進歩」によって、捲き起こされたこの騒音よりも、世界の運命にとってもっと本当で決定的で根本的なある何ごとかが起こりつつあるのではないか」。

「唯、父なる神だけがその時期とその期日を知っている。終焉は彼の所有するものである。しかし、我々は咲き開く無花果の花からも夏の近さを見て取る。そして我々自身の中で終末への犠牲的な覚悟と終末への熱望が成熟しなければならない。…世界の恐ろしい悲劇的な最期の前に --- キリスト教の希望の小さなおずおずとした声が語る --- 、世界が臨終の苦しみに恐慌する前に、大地に変容の光がきざすであろう。短い前触れとしてであっても地上におけるキリストの王国が出現するだろう。自己の限界としてのこのキリストの王国にすべての歴史は通じているのである」。

同じく「終末」を予感してはいるが、ここにはベルジャーエフの主張した超歴史的なアイオーンの変遷の法則のようなものは見られない。あるのは歴史の中に蠢く目に見えぬノウメンのような何かを畏れおののきながら潜みうかがい、祈る姿勢だけである。

『黄昏ざる光』の出版の年、世界史の推進者にして人類の霊的中心であるはずの教会が国家に追われ、キリスト教徒がローマ時代のカタコンべの信徒のように地下に潜る時代が訪れるというソロヴィヨフの予言がポリシェヴィキ政権下で的中し現実のものとなる。ボリシェヴィキ政権はソロヴィョフが警告した反キリストの王国なのか。歴史における新しい暗黒の時代の意義を問うブルガーコフは、翌年四月から五月にかけてソロヴィヨフの『三つの会話』に似せた対話形式の著作『神々の饗宴にて』を執筆する。ブルガーコフは登場人物たちに、ボルシェヴィキ政権下のロシアは、ヨハネ黙示録(そして『反キリスト物語』)に登場する「太陽をまとう女」のような産みの苦しみにあり、新しい最後のキリストの王国の誕生の苦しみにあると語らせる。ロシアは現状の悲惨さにもかかわらず救われるであろうとの確信で対話は締めくくられる。

このように見るとソロヴィヨフのこの「遺言」が、二〇世紀のロシアの直面した社会と世界の情勢を予見したものでらうことが分かる。いわば、この作品はリトマス試験紙のようにソロヴィヨフの思想的な継承者たちの反応を写したのでる。

ソロヴィヨフは同書の発表後まもなく、ソロヴィヨフ哲学の後継者であり友人でもあったセルゲイとエウゲニイのトルベツコイ兄弟の領地、モスクワ郊外のウースコエの館で没した。四七歳であった。

[御子柴道夫 編: 「ロシア革命と亡命思想家 1900-1946」, 成文社, 2006/10/07, pp.41-50]


オカルト

杉浦秀一 (2005)によれば:
  • ウラジーミル・ソロヴィヨフは20世紀初頭のロシア宗教ルネッサンスやシンボリズムに大きな影響を与えた思想家である。
  • 彼の貢献と影響はロシアの政治や法思想でも指摘されている。
  • 彼の思想は多様な潮流を取り入れており、その独創性や焦点が明確ではない。
  • 一つの暫定的な回答として、彼の思想や生涯を貫いた軸が「オカルティズム」であるという見解が提案されているが、これには更なる論証が必要である。
  • また、この命題は彼の哲学的著作に限定されており、美学や芸術論、晩年の作品は分析対象外であるため、より詳細な検証が必要である。
  • 最終的には、ソロヴィヨフと19世紀末のロシア思想を分析するための有効な概念装置を構築することが重要であり、その過程で彼の思想の役割や機能を明らかにする必要がある。






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