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チャアダーエフ「哲学書簡 〈第一書簡〉」(1829)

チャアダーエフ「哲学書簡 〈第一書簡〉」(1829) (外川継男 訳)

奥様.

私が気に入りも、あなたの中で最も高く評価しておりますものこそ、あなたのその飾り気ない率直さなのでございます.お手紙をいただきました時,どんなに私は驚いたことでございましょう。お近付きになりました折に,私があなたのお人柄に魅了されて、宗教についてお話申し上げるようになりましたのも、このあなたの愛すべきご資質故でございました. (当時〉あなたの周囲の人々はこぞって私に沈黙を強いていたのでございます。ですから,お手紙を頂載しました時に私の驚きがどれほどだったかをもう一度お想いになってみて下さい。あなたは,私があなたのご性格についてどう思っているかあれこれ推測されていられますが、私の申し上げたいことは以上で尽きております。もはやこのことについてこれ以上申しません。直ちにお手紙の重要な部分に立入ることにいたしましょう。

まず初めに, あなたがおっしゃるところの,ご健康を損ねさえするほどあなたを苛立たせ、疲れさせるこの思想の中なる混乱は何に由来するものでしょうか。果してそれは私どもの話合の悲しい結果でございましょうか。あなたの中に目覚めた新しい感情は安らぎと平和をもたらすかわりに、苦悩と疑惑とを、そしてほとんど良心の苛責をすらもたらしたのでした。しかし、私はそのことに整くべきでございましょうか。いいえ。それはわが国ではすべての人の心と精神の中にひそかに存する、悲しき事態の当然の結果なのでございます。この国の社会の最も高い身分の人々から,主人の慰みのためだけ存在する奴隷に至るまで、すべてを動かしているこれらの力の働きにあなたは屈するほかなかったのです。

それにしても, どうしてこの力に逆らうことができたでしょうが、あなたほそのご資質から衆人より抜きん出ていられていますが、まさにそのような資質が.あなたをしてその呼吸する空気の悪い影響を、より受け易くさせていたに違いございません。失礼をも顧みずに私があなたに申しあげた二言、三言が、あなたを取巻いている環境の中であなたのお考えを果して固めさせることができたでしょうか。また私がこのわれわれの住んでいる環境を清めることができたでしょうか。私は結果というものを予見すべきでしたし、事実予知いたしてもおりました。ですからこそ私はしばしば故意に黙りこんでいたわけなのですが、これによってあなたの魂に確信をもたらすところか、当然の結果としてあなたを迷わせていたに違いないのです。したがってもし私が、心の中にまどろんでいる宗教的感情がどのような苦悩を呼び起こそうと、それは完全なまどろみに勝るものだということを確信していませんでしたら、私はただただ自分の熱中を悔んだことでございましよう。しかし私は今あなたの心の空を曇らせている雲が、いつかゆたかな霧となってお心の中に蒔かれた種を育てることを望んでおります。さらに私にとりましては、自分のつまらぬ二言、三言があなたに影警を与えたということが、やがてはあなたご自身の知性の働きによってより大きな効果を確実にもたらす保証のようにも思われるのです。奥様、恐れることなくこの宗教上の考えがあなたに呼び起した感情に身を委ねることです。純粋な泉からは純粋な感情しか湧くことがない のですから。

外的な事がらについては, さし当って次のことをお知りになるだけで充分でございましよう。すなわち、 (神・教会の〉単一性ということと,真理が次から次へと間断なく続く聖転者に直接に受け継がれるという事実にもとづく至高の原理が,宗教の真の精神に一致しているということをお知りになればよいのです。何故ならすべては結局は、この世のあらゆる倫理的な力が一つの思想に、一つの感情に融けこむということ、そして人々の間に真理の王国を打ち建てるべき一つの社会組織、すなわち教会を次第次第と形成してゆくということに帰すのですから、これ以外の教義は根本原理から逸脱しているという事実だけからい救世主のいと高き祈りである「聖なる父よ,われらの如く,彼らもまた一つとならんことを」というお言葉の実現を拒否し、この世に神の王国が打ち建てられることを望まぬことにもなるのです。だからと申して,あなたが世の人々にこの真理をお示しにならなげればならな いとうわけではありません。あなたの為すべきことは決してこのようなことではないのです。むしろ逆に, この真理のよってきたる原理自体が、あなたの社交界における立場に鑑みて,あなたにご自分の信仰の内的な光明だけを見るように義務づけているのであって、 決してそれ以上ではないのです。私と致しましては、あなたの患想が宗教に向けられるに当って,あずかって力があったということは幸せなことですが、同時に若し私があなたのお心に混乱を起こさせて、ながい目で見ればそれがあなたの信仰を冷すことになれば、それは不幸なことと申さねばなりますまい。いつぞや私はあなたに、宗教的感情を保つ最善の方法は教会によってきめられたすべての慣習に従うことだと申しあげました。すぐれた精神がよく考え反省した上で自らに課すこのような恭頗というものは、人が考えるより多くのものと秘めているものですし、人が神に捧ぐる真の奉仕でもあるわけです。関係あるすべての義務を厳格に励行することほど、人の精神をしてその確信を固めさせるものはありません。のみならず、いと高き叡知より発したキリスト教の儀式の大部分は、それの示す真理を吸収することのできる人々に対しては誰にでも真の力を持つものなのです。 (この準則には,極めて一般的ではあるがたった一つの例外があります。人が自ら信仰を大衆のそれよりもすぐれたものであることを自覚し、その信仰が魂をしてあらゆる確信の源にまで遡らせ、同時 にそれが民衆の信仰と矛盾するどころかその裏付をすることが認められた時にだけ、そしてその時にのみより大きな仕事に専念することができるように、外的な規律の遵守を 無視することが許されるのです。) しかしながら、おのれの虚栄の幻想と理性の曇りとをこの上なき光明と取り違えて、その光明が自分をこの一般的準則から免れさせていると思いこんでいる人々こそ不幸と申さねばなりません。しかし奥様。あなたにとりましてその性にかくもふさわしいこの謙譲の衣服を身にまとうこと以上に適したことがございましょうか。このようにいたすことこそ、あなたの苛立つ精神を鎮め,あなたの生活に静かな喜びをもたらすということをお信じ下さい。

世俗的な考えにのっとって申しましても、知識の獲得と冥想のまじめな感動の中に魅力を見出すことのできる教養あるご婦人にとって、その生活の大部分を思索と宗札に捧げること以上に自然な行為がございましょうか。あなたはおっしゃいましたね。ご本をお読みになっている時にあなたがそこに見出される、ちょうど夕暮の美しい景色のようにわれわれの心を鎮め,この恐しくも味気ない現実から一瞬たりともわれわれを連れ去ってくれるような、静かで真剣な生活の姿ほどあなたの想像力に語りかけるものはないと。ところがこのような光景は決して幻想ではございません。このような魅惑的な想象をどれか一つでも実現させたいとお思いになるのでしたら、それはあなたご自身のお気持次第ですし、そのためにあなたに欠けているものは何もないのですから。私の申していることが決してきびしいモラルではないということをわかっていただけることと思います。私はあなたの好みの中に、あなたの想像力のこの上なく魅力ある夢の中に、あなたの魂に安らぎを与え得るものを見出そうとしているのですから。

生命の中には肉体的存在ではなく、知的存在に関係のある面がございます。そして、これを無視することがあってはならないのです。肉体についてある一つの生活規則があるように、魂についてもそれがあるのですが、この規則に従うことを知らなければなりません。そしてこのことが古くから広く認められてきたことだということも私は存じています。しかしわが国ではしばしばこのことが新しさという価値を持っていると思うのです。他の国では、ある点ではわれわれよりもはるかにおくれた民族においてすら極めてわかりきった真理をわれわれがこれから見出さねばならないということは、われわれの特異な文明のもっとも悲しむべき特徴の一つだと思うのです。そのことはつまりわれわれが、かつて一度たりとも他の民族と一緒に歩んだことがないということ、われわれが人類という大家族の一員に属していないということ,そして東洋でも西洋でもなく、そのいずれの伝統をも有していないということなのです。時の流れの外に置かれていたわれわれは、人類の普遍的な教育というものを受けていないというわけなのです。

わが国以外の国々を今日ある状態にまで到達せしめたところの人類の思想のこの驚くべき結びつき、人間精神のこの歴史というものも、われわれの上に何の影響をもおよぼさなかったのでした。他の国々においては、長い時代にわたってまさに社会と生活の基礎を形作ってきたとこるのものが、われわれにとっては理論と思弁にしかすぎないのです。たとえば奥様。あなたのようにこの世の真と善のすべてを身につけるべくかくも幸せにお生まれになり,魂のこの上なく甘美で純粋な喜びを手に入れる術をすべてお知りになるようにお育ちになったお方が、率直に申しまして,そのような有利な条件をお持ちになられながら、一体どこまで到達されたというのでしょうか。人生というよりも一日一日を充実させるべきものを求めねばなりません。他の国においては生きてゆく上に必要な枠ともいうべきものがあって、この枠の中では毎日のできごとが実に自然に秩存立って整理されますし、またこの枠は体が建棄であるためにはよい空気が必要であるように精神の健康によって不可欠なものなのですが、こういった枠があなたがたには完全に欠如しているのです。今こう申し上げていることがモラルの原理とか、哲学的な準則といったことに関するものでは決してないということはおわかりいただけると存じます。私の申しておりますのは、心に安らぎを与え、精神生活に規律をもたらすところの、秩序立った生活、慣習、知性の型とでもいうべきものなのです。
ご自身の身のまわりをご覧なさい。誰もがじっと落着いていないではありませんか。まるでみんな旅をしているかのようです。誰も一定の存在範囲を持たず、何につけ良き慣習というものは全くなく,境範というものがさらにないのです。一家団楽の中心がないのです。愛靖や共惑を呼び起し人を惹きつけるものとてなく、何ものも永く留まることなく、すべては心の内にも外にも如何なる痕跡すらとどめることなく過ぎ去って行くのです。われわれは自分の家の中に住んでいながら、あたかも露営しているかのようですし、家族の中にありながら異邦人のごとく、そして町の中に住んでいながら流浪の民のようなものです。いやわれわれが町に心惹かれる以上に,これらステップの放牧の民は砂漠に愛着を持っていますから、 彼らよりもわれわれの方がもっと遊牧的ともいえましょう。どうか今申していることが取るに足らぬこととはお思いにならないで下さい。あわれな存在であるわれわれは自らの悲惨な状態に、自分で自分を誤認するという不幸を付け加えたり、純粋に精神的な生活を希求したりはいたしますまい。この与えられた現実の中で条理にかなった生き方を学ぼうではありませんか。しかし、はじめにわれわれのこの国についてもう少しお話しいたしましょう。 これが話題からはずれることにはならないと思います。というものも、この前提がないと私の申し上げたいことがよくわかっていただけないかも知れませんから。

どのような民族にも, はげしい動乱と熱狂的な不安の時代、考え抜かれた動機もなしに行動する時期があります。このような時期には誰もが肉体的にも精神的にも世の中を遍歴しているといってよいでしょう。これは民族の偉大な感情、偉大な構想、偉大な情熱の時代に当ります。この時期には諸民族は、はっきりとした対象もなしにはげしい勢で行動をしますが、だからといってこれが後世の子孫に何の結果をもたらさないということにはなりません。このような時代をすべての社会は経て来たのです。そしてこのような時代こそ社会に対して、その生き生きとした思い出や,驚くべき行為,自らの詩、そしてこの上なく強く豊かな思想をもたらしたのでした。それこそ社会にとって無くてはならぬ基盤と申せましょう。 さもないと社会というものは、その土の芥以外には愛着を感じてつながれるものが思い出の中になにもないことになります。民族の歴史におけるこの興味ある時期こそ、民族の青春時代であり、その力がもっとも強く発揮される時なのです。そしてその思い出は,民族が壮年時代を迎えるにおよんで、喜びともなり教訓ともなるのです。しかし,われわれにはこのようなものが何一つないのです。最初にあったものは未開野蛮であり、それが粗野な迷宮的慣習にとって代わり、ついで異国の兇暴にして堕落せる支配を受け、しかもその精神はその後のわが国の国家権力に受継がれたのでした。これこそわれらが青春の悲しき歴史であります。民族の旺盛な活動、精神の力の湧き上るような働きの時期といったものは、全くわれわれには存在しないのです。かかる持代に相応するわれわれの社会生活の時期は、生気のない,力なく澱んだ暗い存在で満たされています。そのような存在を活気づけるのはひとり悪しき行為だけでしたし、隷属だけがかかる存在をなだめおさえてきたのです。われわれの記憶の中には魅力ある思い出だとか、壮大なイメージはなく,民族的伝統の中にも説得力のある教訓は何一つとしてありません。われわれの通って来た時代、われわれの占めている地域 を一わたり眺めてみてごらん下さい。そこには,魅力ある思い出も,力強く過ぎ去った 時代を語り、生き生きとあざやかに昔を思い出させる立派な記念碑も見当らないことでしょう。われわれは過去も未来もなしに、完全な停滞の中にあって、この極めて狭い現在だけを生きているのです。もしわれわれも時には立上ることがあるとすれば、それは何か共通の幸福を望んだり欲するからではなく、あたかも乳母が差出すおしゃぶりに立ち上って手を差しのべる子供のたわいなさ以外のものではありません。

社会の中における人類の真の発展というものは, ある国民にとってその生活が、初期の時代の不安定な環境を脱して、より規律立った、便利で気持よいものにならぬ限り未だ始まっていないのです。社会が未だその日常のことについてすら確信も規律もなしにぐらついていて、生活というものが全く整えられていないのに、どうして幸福の芽が熟することを望めましょう。それはちょうど、地球が現在の状態の前には大きな変動の中にあったのにも似た、精神の世界の混沌とした動揺とでもいうべきもので、われわれは未だこういった世界の中に在るのです。

にぶく愚かな状態の中に過ぎた、われわれの初期の時代は、われらの精神に如何なる痕跡もとどめませんでした。そしてわれわれには、自らの思想が宿るべき如何なる個人的なものもなく、人類の普遍的な発展とは無縁の運命によって孤立され、人類が受けついで来た思想を何一つ摂取することがなかったのです。しかし民族の生活が基礎とするのはまさにこのような思想であり、民族の未来やその精神的発展が由って来るのも、かかる思想なのです。もしわれわれが、他の文明国民に似た立場を自らに与えんと望むならば、何らかの方法で、人類の為してきた全教育というものをくりかえさねばならないのです。われわれにとっては、そ そのためにこそ諸民族の歴史があり、幾世紀にもわたる変遷の結果があるのです。もとより、この仕事は至難であり、多分一人の人がこの大きな目的を果すことはとても無理な話でしょう。しかし、何よりもまず初めに、何が問題なのか、人類のこの教育とは何なのか、 われわれが全秩序の中でどんな位量を占めているかを知らねばなりません。

民族が生活するということ‘主,専らその過ぎ去った幾時代もが彼らに刻みこんだ強烈な印象と、他の民族との接触とによるのです。個人個人が人類全体とのつながりを感じるのも、 このようにして感ずるわけなのです。

もし昔のできごとの思い出が、現在を過去に結びつかないとしたら,人間の一生とは一体何であろうかと、キケロは申しています。ところが、遺産もなく、われわれよりも前にこの地上に住んだ人間とは如何なるつながりもなしに、まるで私生子のようにこの世に来たったわれわれは、自分自身の存在よりも前の教訓となる、何一つ心に留めてはいないのです。(ですから)われわれの一人一人が(人類という〉家族の中で断たれた糸をつなぐよう努めねばならないのです。他の民族の中で、慣習とか本性になっているものを、われわれは槌を振るって自分たちの頭の中に叩き込まなければならないのです。われわれの思い出というものは, 昨日より前のものはないのです。われわれは自分自身にとっても、いわば他人なのです。私どもの時の中においての歩み方といったら、進むにつれ過ぎ去った前の日が自分にはもう再び帰らぬといった奇妙なものです。これこそ、輪入と模倣の文明が当然に招いた結果なのです。われわれには内的発展とか、自然な進歩とかいったものは何一つありません。新しい思想は古い思想を一掃します。というのも、新しい思想なるものが古い思想に由来せず、何処からともわからぬところから来るからです。完全にでき上った思想だけを取り入れてきたわれわれには、進歩的な思想が精神に刻み込んで、その力となるところの消し難い痕跡というべきものを頭脳の中に残すことがなかったのです。われわれは成長こそしましたが成熟することはなく、進む時は斜めに、すなわち、目的には達しない方向に進んでいるわけです。私どもは、反省ということを教えられぬ子供の如きものであり、成人したとて自分自身のものは何一つ持っていないのです。知識とても存在の表面をかすめるにすぎず、魂とて自らの外にあるのです。まさに、これこそが,私どもの状態なのです。

個人と同様に、民族というものも道徳的な存在なのです。年が個人の教育をするように、一世紀、一世紀が民族に教育を施します。しかしわれわれは,いわば例外的な民族なのです。われわれは、人類全体の一部を構成するというよりも,世界に大きな教訓を与えるためにだけ存在するといった民族の一つです。この、われわれが教えるように定められた教訓が失われることは、決してありますまい。しかし、人類全体の中でわれわれが果して、いつの日に自己の道を見出すか、また、われわれの運命の終焉の前に、どれほどの苦悩を味あうかは、誰にもわかってはいないことなのです。

ヨーロッパの諸民族には、あたかも一族といった共通の相貌があります。これらの民族は、大別してラテン、チュートン、南欧人、北欧入と枝脈に分かれますが、彼らの歴史に通じている者にとって、はっきり認められる共通の幹によって一つの束に結ぼれています。それほど昔のことでなくとも、全ヨーロッパがキリスト教世界と呼ばれていたことはご存知でしょう。そしてこのような用語は公法にも用いられていたことです。さらにこういった一般的性格以外に、これらの民族の各々は個有の性格を備えています。しかしそれはすべて、もっぱら歴史と伝統に由来しています。つまり、それは民族の思想の世襲財産を為しているわけです。そこでは個人個人が自分の分け前を享受し、さした苦労も努力もなしに、社会のあちこちに散らばっている知恵を人生の中にかき集め、用立てています。ところがこれと比べますと,私たちは人生において何とか自分自身を導くのに役立たせたいと思っても、自分たちの基本的な思想の交流の中に一体何を摂取することができるでしょうか。どうか今私がここで申しているのが、学問とか読書とか、文学とか科学についてでは全くなく、単に知識の接触についてであることに注意して下さい。つまり私の語っている思想とは、ゆりかごの子供をとらえ,おもちゃの中に子供をとり囲み,母親が愛撫のの中に子供に教えるような知恵であり,さまざまな感情の形をとって,呼吸する息と一緒に骨髄にまで泌みこむ思想。人が世間や社会界に出る以前にその人の倫理的存在をすでに作りあげるといった思想なのです。 あなたはこれらの思想が伺たるかをお知りになりたいとお思いでしょうか。それらは,義務,正義、権利、秩序といった思想なのです。そしてこれらの思想は、まさにそれぞれの社会を形成した諸事件に由来するものであって、その国の社会制度の中に不可欠な要素として入り込んでいるものなのです。

西ヨーロッパの雰酉気というのはまさにこの中にこそあり、それは歴史とか心理を越えた、 ヨーロッパ人の生理とも申せましょう。わが国には,これに代る何物がありましょうか。私が今申したことから、人が何か完全無欠なものを引き出したり、あるいは不易の原理といったものに到達できるかどうかはわかりませぬ。しかし次のことは明らかだと思います。すなわち、自らの思想というものを、社会の中で次第に発展しゆっくりと磨かれてきた思想に全く接触させることのない国民、ただ単に盲目的に表面だけ、それも極めてしばしば不器用に他の国民の模放をすることによってしか、人間精神の全体的進行に参加しなかった国民のこの奇妙な状態というものが、国民一人一人の精神の上に大きな影響を与えざるを得ないということです。

結局のところ,われわれにはある種の確信、精神の中のある種の方法論、ある種の論理といったものが欠如しているのです。西欧の三段論法もわれわれには知られていないところです。なるほどわが国の最高の頭脳には、軽兆浮薄以上のなにものかがありますが、最上の思想というものが一貫性とかつながりを欠いているために,実をむすぶことなく眩惑に終って、頭の中で萎縮してしまうのです。人間には、自分を先行者や後継者とつなぐ方法が見付からないと,途方に暮れてしまうといった性質があります。そうすると、すべて確固としたもの,確信というものが失われてしまうのです。永続するという感情に導かれない時には、 この世の中で道を失って途方に暮れてしまうものなのです。どこの国にも、このように途方に暮れた存在はありますが、わが国ではそれが一般的な状態なのです。これは、かつてフランス人が非難された軽妙さというものでもありません。この軽妙さというのは、むしろ物事をたやすく理解させる仕方にほかならないので、精神の中の広さと深さと相容れぬものでは決してなく、交際の場に限りない優雅さや魅惑を添えるものなのです。私のいう軽率さとは、経験とか予想というもののない生活の上での軽はずみであって、人類から離れた個人の束の間の存在しか問題にしないものなのです。それはまた、過去の思い出や未来への予想に基づく事物の秩序の中に社会生活や個人生活を形作る、伝来の遺産とか多くの規則とか将来の見込みといったものを重視せぬ軽卒きであり、思想とか関心といった何か共通に有するものの進歩や名誉といったものを評価せぬ軽率さなのです。われわれの頭脳の中には、共通なものは全く存在せず、すべてはめいめい勝手に、ふらふらと漂っているといった不安定な状態にあります。われわれのなざしの中には、何かしかとわかりませんが、茫洋とした、そして冷たく不確かなものがありますが、これは社会的に最も低い段階にある民族の表情にやや似ているように思われます。他の国,特に南方では人々の顔つきは実に生き生きと表 情豊かで、これとわが国民の表情とを較べる時、私は一再ならずわが国の人の押し黙った表情に愕然としたのでした。

外国人は、わが国の下層階級の中に、ある種の無頓着な無鉄砲さを認めて、これをわれわれの長所と考えています。しかし彼らは民族的性格のある一つの特徴しか見ていないのですから、全体を判断することはできないのです。彼らは,われわれをしてしばしば患いきって大担不敵にするものが、同時に深く立入ったり辛抱強く持ちこたえることを不可能ならしめている同じ原理だということを理解していないのです。われわれをして人生の危険に超然たらしめているものが、同時にすべての善悪、真偽についても無関心たらしめているものであり、これがわれわれから、完成の道へと人を押し進めるすべての原動力を奪っているのだということが彼らにはわかっていないのです。まさにこの怠惰な無鉄砲さがわが国においては,いうも辛いことですけど、上流階級の人々をすら、他の国では最下層にしか見られぬ悪徳から逃れ難くしているということ、さらにたとえわれわれが若い国民の美徳のいくつかは持っているとしても、成熟した国民の持つ美癒や高度の文明は全く持っていないということを、彼らは理解していないのです。

私はなにも、われわれに悪徳しかなく、ヨーロッパの諸富民には美徳しかない・・・どうかこのようなことはありませんように・・・などと申しているのではありません。私がいっているのは諸国民を判断するためには、その存在を形成する一般的精神を学ばなければならないということなのです。何故ならば、民族を道徳的完成と無限の発展へと導くものは, あれこれの注格上の特徴ではなくて、まさにこの精神のみなのですから。

大衆というものは、社会の頂上に泣置するある力に従うものです。大衆自体は思考することがありませんが、その中の何人かは大衆のために考え, 国民全体の知性に刺激を与えてこれを前進させます。多くの人が感ずる一方で,少数の人が思いをこらし,かくて全体としての動きが起るわけです。ただ人間としての外貌だけをもっている愚かな幾つかの種族を除き、このことはこの地上のすべての民族について妥当します。ヨーロッパの原初の民族たるケルト人、スカジナヴィア人、ゲルマン人などには、ドルイド、スカルド、バルドなどといった、彼らなりの力強い思想家がいました。あの合衆国の物質文明が躍起になって滅ぼそうとしている北米の諸民族をごらん下さい。その中にもおどろくべき深さをもった者がいるのです。

では,あなたにおうかがいいたします。一体われらの賢者は、思想家はどこにいるのでしょうか。今まで誰がわれわれの為に考え、また現に考えてくれているでしょうか。東洋と西洋という世界の大きな分れ目の間にあって、一方の肘を中国の上に、他方の肘をドイツの上においているわれわれは,想橡力と知性という知的本質の二大原理を自らの中に融合し、われらの文明の中に世界の歴史を結合させるべきでありますのに。しかし,神がわれらに課した役割は決してこのことにあったのではありませんでした。それどころか、神の摂理はわれらの運命に思いわずらうことが全くないかのように見えます。神はわれわれに関しては、人間精神に対するその慈悲深い行為を垂れ給うことなく、われらを勝手に放置し、何ごとにあれかかり合いになることを恐れ、われわれには如何なる教訓をも与え給わなかったのです。年ごとの経験もわれわれにとっては全く無であり、時代も世代もわれわれには何の果実をも残すことなく過ぎ去って行ったのでした。われわれ自身を見ていますと、あたかも人類にとって普遍的な法則というものが, われわれには全く適合しないかのように見えます。世の中に孤立しているわれわれは、世に与えるもの、教えるものとて何ものもなく、人類全体の叡知にただの一つの思想とて付け加えることがなかったのでした。われわれは人類の精神の進歩に何一つ貢献することなく、むしろそこから得たものをば歪めてしまったのです。われわれの社会的存在の最初の瞬間から、人類全体の福祉のためには何ものも生まれ出でず、われらの祖国の不毛の土壌から有為な思想は一つとして芽を出さなかったのでした。われわれの環境からは偉大な真理は何一つ生まれることなく、何ごとかを考え出すという労苦を自らに荷すことをせずに、ただ他の者の考え出したことから、偽りの外見と無益な華麗さのみを借りて来たのでした。

何と奇妙なことではありませんか。すべてを包括する科学の世の中にあって、われわれの歴史は何ものにも結びつかず、何ものをも説明せず、また何ものをも証明していないのです。あの世界を震糖させた遊牧の民が, もしヨーロッパに突入する前にわれわれの住む土地を横切ることがなかったならば、われわれは世界史にただの一章をも附加することがなかったかも知れません。われわれが,ベーリング海峡からオーデル川に至る広大な地域を占めていなかったとしたら、注目されることすらなかったかも知れません。かつて偉大な人物[ピョートル1世]が、われわれを文明化せんと試みたこともありました。そして知識に対する興味を喚起させるために,われわれに文明の外套を投げかけたのでした。しかし、われわれは、その外套を拾い上げこそしましたが、文明にまで手が届くことは全くなかったのです。また別の折に一人の偉大な皇帝が、そのた栄ある使命にわれわれをも関与させんとして、勝利をもってわれらをヨーロッバの端から端めで導いたこともあります。しかし、世界中で最も文明開花した国々を通って、この凱旋の行軍から自分の国に帰った時われわれが持って来たものは、もろもろの思想と渇望だけであり、しかもその結末はわれわれを半世紀も逆戻りさせるという大きな不幸にほかならなかったのです。どうもわれわれの血の中には、すべて真の進歩というものを拒絶する何物かがあるようです。つまりわれわれは、はるか後の世のそれを理解し得るもののために,何か大きな教訓を与えるためだけ生きてきたし,現に生きているように思われるのです。人が何といおうと、今日われわれは精神的秩序の中にブランクを作っているのです。この私たちの社会的存在の驚くべき空しさ、孤立に対しては,ただ茫然自失するのみです。そこにはたしかに、しかとは認め難い運命の役割というものもありましょうが、同時に精神の世界のどこにもあるような、 人間の役割が疑いなく存在します。ここで再び、歴史にたずねてみましょう。歴史こそが民族というものを説明するものなのですから。

活動的な北方諸民族の野蛮さと、キリスト教の高い思想との間に戦が行なわれている中で、近代文明の体系が形成されたわけですが、その時われわれは何をしていたでしょうか。運命のさだめに圧倒されて、諸民族のふかい蔑みの対象たるあわれなビザンチンの中に、そのわれわれを教育するようになった道徳的規範を求めたのでした。それよりも少し前に一人の功妙心に駆られた者[アレクサンドル1世]が,全世界の同胞から民族の一家を引き離したので、われわれが摂取したのはこのように人間の情熱によって歪められた思想だったわけ です。当時のヨーロッパはといえば(神・教会の〉単一性の清新な原理によって活気づいていました。すべてがこの原理から出で、すべてはこれに帰していたのでした。当時、すべての思想の動きは人間の思想の単一性を創り出すことのみを目指していました。すべての動機が普遍的な思想を求めるこの力強い要求にもとづいていましたが、これこそ近代の特質なのです。そして,この驚嘆すべき原理から無縁であったわれわれは、結局は征服の餌食となったのでした。もしもわれわれが人類全家族から切り離されていなかったならば、異国のくびきから脱した時に、当時の西欧の同胞の中に咲き誇っていた諸々の思想を利用することもできたかも知れません。しかし実際には,われわれの陥ったのは解放という事実によって浄化されて、よりきびしいものとなった奴隷制だったのです。

当時, ヨーロッパにおいては,その上を覆っていた暗悪の闇からすでに溌剌した光が差しこんでいました。今日、人間精神が誇るところの知識の大部分は当時の精神の中にすでに予知され、社会の性格はすでに決まり、異教的古代を反省しつつキリスト教世界は未だ有していなかった美の形式を見出したのでした。分離せる教会の中に閉じこもっていたわれわれには、ヨーロッパで起った如何なるできごとも届かず、世界の大事においてわれわれには解決すべき何ものもなかったのです。宗教が近代において諸民族に与えたすぐれた資質というものは、健全な理性の目から見て、古代人がホッテントットやラプランド人よりもすぐれている如く、近代人をして古代の人々よりもすぐれたものにしています. しかしこのようなすぐれた資質,人間の知性を豊かにしている新しい諸形式、さらには武力なき権威の服従によって、かつて野蛮であった風習が温和なものに代ったということ、このようなものは一切われわれの国を素通りしてしまったのです。名前こそキリスト教徒ではありますが、キリスト教が,その聖なる創造者によってつけられた道を幾世代にもわたっておごそかに歩んだ時、われわれはといえば、徴動だにしなかったのです。世界が全く新たに再建された時にも、わが国で、は何一つ築かれることなく、私どもは小さな梁と藁で葺いた茅屋の中に身をひそめていたのでした。要するに、われわれのためには人類の新しい運命は実現されなかったのです。キリスト教徒と呼ばれこそしていますが, キリスト教の果実はわれわれのためには実ることがなかったわけです。

ユニークな精神力の明晰かつ直接な働きによって、徐々に為されて来たヨーロッパ諸民族のこの進歩というものを、それがどのようにして形成されたかということを問いただす苦労をせずに, よくわが国の人が考えるように,一挙にわがものとすることができると推測することは道理に反することではないでしょうか。

キリスト教には教理の基本的部分をなす、純粋に歴史的な側面があるのですが、その中にいわば, キリスト教の全哲学が含まれていないことを見ませんと、キリスト教について何も理解していないことになります。なぜならばこの側面こそ、キリスト教が人間 のために為してきたこと、将来も為すであろうことを、われわれに示すものなのです。このように考えますと、キリスト教というものは、人間精神のうつろいやすき諸形式の中にあって、一つの倫理的体系であるばかりでなく、知的世界の中にあって普遍的に働く、神聖にして永遠な力であり、その目に見えぬ働きこそわれわれにとって絶えざる教訓にちがいないのです。信経の中に述べられた、普遍的にして唯一の教会を信ずるという教理の意味は、まさにかかるものなのです。キリスト教世界にあっては,すべてが必ず地上における完全な秩序を打建てるべく協力すべきですし、また事実協力してもいるのです。さもなくば、主が永遠の後までその教会におわしますという主の御言葉が、事実によって否定されることになります。それならぽ,主の贖いによる新しい秩序、神の王国というものが、この贖いによって消滅さるべき,古き秩序、悪の王国と何ら異ならないことになりますし、完璧といっても哲学者が夢想し歴史の各頁が打消す完成にすぎず。物資的要求しか満たさずに、ただより深い深淵の中に人間をせき立てるためにだけ人間をほんの少し高めるといった、精神の空しいあがきがあるだけになります。

しかし果してわれわれはキリスト教徒ではないのか、ヨーロッバ流の仕方でしか文明化することはないのであろうか、とあなたはおっしゃるかも知れません。疑いもなくわれわれはキリスト教徒です。しかしエチオピア人もまたキリスト教徒ではありますまいか。またたしかにヨーロッパ流のやり方以外の方法で文明化することもあり得ましょう。わが国のある人の言を信じなければならないとするなら、日本はロシアよりも文明化していることになりますから。しかしあなたは、エチオピア人のキリスト教や日本人の文明が、私がたった今申しました、事物の秩序と打建てるものであり,人類の最終的な宿命であるとお考えになりますでしょうか。果してあなたは, このように神と人間の真理から愚かにも逸脱することが,天国を地上にもたらすことだとお考えでしょうか。

キリスト教の中には,はっきりと異った二つの面があります。一つは個人に対する、他は普遍的な知性に対するその働きかけです。それらはおのずと至高の理性の中では一つに溶け合っていて、必然的に同一の目的に着帰します。しかし神の叡知の永遠の思召が実現される期間というものは、われわれの限りある視界には入らぬものですから、われわれは人間の一生という与えられた期間内に示される神の御業と無限の中でのみ為される御業とを区別せねばなりませぬ。贖いの御業が最終的に成就される日には、すべての心、すべての精神が、たった一つの感情、たった一つの思想となり、民族や宗旨を隔てている壁は打ち倒されることでしょう。しかし今日重要なことは、各人がキリスト者全体の使命の秩序の中で如何なる位置を占めているのか、すなわち、全人間社会が目指す目的に協力するためには、自らの中に,また自らの身のまわりにどのような方法があるかを知ることです。

したがって,この目的が達せらるべき社会、すなわち神のさとし給うた思想が成熟し完成すべき社会においては、精神の働きの中に必ずや一連の思想が存在します。このような思想、精神的な環境というものは、当然に、ある生活形態や世界観を生み出します。それらは、ヨーロッパの人間についてと同様、われわれについても各人においてそれぞれ異なってはいても、同一の生活様式を創り出すもので、これこそあらゆる情熱、利害、苦難、想像力、理性の働きがあずかって力あった。十八世紀の大いなる知性の働きの結果なのです。

ヨーロッパのすべての民族は, 時代の中を手に手を携えて進んで来ました。今日彼らが自己流のやり方でどのようなことをしているとしても、所詮彼らは同じ途の上にあるのです。 これら民族一家の発展を知るためには、別に歴史を研究する必要もないでしょう。タッソーをお読みになるだけで、すべての人がエルサレムの域壁の下にひれ伏しているのをご覧になることでしょう。どうか思い出して下さい。十五世紀もの間彼設らは、ただ一つの言葉をもって神に呼びかけ、ただ一つの精神的権威、ただ一つの確信しか持 っていなかったのです。十五世紀もの間、毎年、同じ日、同じ時間に、同じ言葉でもって、すべての人々がそのいと深き御恩みの中の栄光を讃えんと,その声を一斉に神に向けたことをお考えになってみて下さい。物質界の調和よりも千倍も崇高な,何と驚くべき同調でしょう。ところでヨーロッパ人が住んでいるこの環境こそ、人類がその最終の目的に到達し得る唯一の場であり、 しかもそれは宗教のおよぼした影響の結果なのですから、次のことは明らかです。すなわちもしわれわれの信仰の弱さや教義の不完全さが、今日まで、われわれとして、キリスト教的社会思想が発展し形成されたこの全世界的運動の外に留めおいたり、さらにはわれわれをして、キリスト教の完全な成果というものを間接的に、それもおくれてしか役立たせることのできない民族の中に入れるとするならば、われわれはなんとしても自らの信仰を蘇らせ、真にキリスト教的な推進力を自らに与える必要があります。何故ならヨーロッパにおいては,すべてはキリスト教によって為されたのですから.私があなたに対して、わが国において全人類的教育を再び始めねばならないと申しました時、私の申し上げたかったことは以上のようなことだったのです。

近代社会のすべての歴史は(人々の)意見の上に形成されます。ですから真の教育もこの場において為されるのです。そもそもの最初から、この基礎の上にうち立てられた社会は、思想によってしか進まないものです。そこでは利害というものは思想の後に来るものなので、思想より先走ることは決してありません。常に人の意見が利害関係をうみ出すのであって、利害が人の意見を引き来すことは決してないのです。またそこではすべて政治的な革命も、精神的な革命原理の中でしか起りません。人々は真理を追求しつつ、自由と安寧とを一緒に見出したのです。近代社会とその文明の現象は、このようにして説明され得るものであって、それ以外の方法では全く理解できないものなのです。

宗教的迫害、殉教、キリスト教の布教、異端、宗教会議、これらこそはじめの幾世紀かを彩ったできごとでした。この時代全体の動きというものは、野蛮人の侵入をも含めて、近代精神の揺藍期の努力と結びついています。ついで第二の時期を彩るものとして、階級の形成、精神的権威の中央集権化、北方諸国におけるキリスト教の絶え間なき伝播があげられます。 これらについで、宗教的感情の最高度の昂揚、宗教的権威の強化がありました。古代の選良民族の歴史と同じように、近代人の歴史をも聖なる歴史と呼んで、これを完成させるものは、知性の面での哲学・文学の発展と、宗教における風俗・習慣の純化なのです。そして最後に再び宗教的反作用があって、人間精神に対して宗教が与えた新たな飛躍が社会の今日の様相を決定づけたのでした。このようにして、近代の諸民族にあっては唯一ともいえる主たる関心は、常に人々の考えの中にのみあったのです。物費的な、実利的な、個人的利害というものはすべてこの中に吸収されていたのでした。

私としても、かかるより高き完成を目指しての人間の本質の飛躍を、人が狂信とか迷信とか呼ぶことは知っております。しかし人が何とそれを呼ぼうと、全くもって唯一つの感情の所産たるこの社会的発展が、諸民族の性格の中に善悪を問わずどんなに深い刻印を押したかを一つお考えになってみて下さい。宗教戦争や,不寛容によって点火された火荊の薪の山に対して、皮相的な哲学がどんなにわめき呼ぼうと、好き勝手にさせておけばよろしいのであって、むしろわれわれは、もろもろの意見の混乱と、真理のための血なまぐさい争いの中に、一つの思想の世界を自らのために作りあげた民族の運命をただただ羨望するだけなのです。かかる思想の世界というものを、われわれは、現在望んでいるように自らの骨肉と化することができないのみか、それを想いみることすらできないでいるのです。

もう一言申しますならば、理性とか徳とか宗教とかが、必ずしもヨーロッパのすべての国に浸透しているわけでは決してありません。しかしヨーロッパにおいては,何世紀もの間すべてが,至上の権威をもって君臨して来た一つの力によって玄妙に支配されて来たのです。そこではすべてが社会の現在の状態を産み出した諸事実、諸思想の長い連繋の結果になっているのです。就中次のことはその証拠と申せましょう。容貌については最もはっきりと個性的で、制度については近代精神をこの上なく明察に刻みつけているイギリス人には、適切に申せば宗教の歴史しかなかったのでした。彼らの自由と繁栄がお蔭を蒙っている最近の改革も、へンリ一八世にまでさかのぼる、この革命をもたらした一連の諸事件と同じように,宗教的発展にほかならないものなのです。すべての時代を通して、純粋に政治的な利害というものは第二義的な動機にすぎず、時には全く消え失せるか、さもなくば思想の犠牲に供されたのでした。この手紙を書いている現在でも、この選ばれた国を動かしているのは未だに宗教的関心なのです。しかしもし人が理解する労をいとわないならば、一般的に申しまして、 ヨーロッパの諸国民の中で一体、その民族的自覚の中に、宗教思想の形をとったところの常に生命を賦与する原理たる、またその存在の全時期を通じてその社会的存在の魂でもある。 この特徴的な要素を見出さなかった国民が果してあったでしょうか。

キリスト教の働きというものは、決して人間精神におよぼす直接、即座の影響だけに限られるものではありません。それが生むべく運命づけられた偉大な成果は、無限の倫理的、知的、社会的結合の結果にほかならず、人間精神の完全な自由は必ずこの結合の中に可能な限りの広さを見出すはずです。したがって、今世紀の第一日から、というより正しくは救世主がその使徒たちに、全世界を巡りてすべての造られしものに福音を宣伝えよ」とおおせらたその瞬間から為されたすべてのことは、キリスト教に対するあらゆる攻撃をも含めて、キリスト教の働きというこの広い考えの中に完全に入ってしまうのです。キリストの予言が実現されることを信ずるためには、自覚していようといまいと、自発的たると否とを問わず、すべての人の心の中にキリストの力がまんべんなくおよんでいることを見れば足りるでしょう。ですから、今日のヨーロッパ社会の中には、たとえ不完全なもの、欠点あるもの、咎めるべきものが幾多あるにも拘らず、それでも神の王国がある程度は実現したといえるのではないでしょうか。なぜならば、ヨーロッパは自らの中に、その無限に発展する原理を含み、 また将来この地上において確固として立つベく必要なすべてを、萌芽とか要素の形で所有しているのですから。

奥様。この宗教の社会におよぼす影響についての考察を終る前に、かつて私があなたのご存知ない著作の中で、語ったことをここに書き写すことにしたいと思います。

私は次のように申しました。すなわち、どのような仕方であれ、たとえ争うためであっても、 人間の思想が関わるところ至るところに、キリスト教の働きを見ない限り、人はキリスト教についてのはっきりした考え方を持っていないということです。キリストの御名を口にする時、人は何をしていても、この御名によってのみ心をとらえられるのです。キリスト教の聖なる起源をはっきりと理解させるためには、その絶対普遍性にま さるものはありません。それはキリスト教をして可能な限りの方法で人々の魂の中に入り込ませ、それとわからぬ間に人々の精神をしっかと捕え、人が全力をあげてキリスト教と争っている時にすら、かつて見ざりし真理を人の知性に導入し、かつて惑じざりし感動を心にそれと感じさせ、気づかぬ間にわれわれを一般的秩序の中に据えるように感情をかき立てることによって、人の精神を支配し服させるものなのです。このようにキリスト教によって、 人間一人一人の役割は決められるとともに、すべては唯一の目的に向かって協力するのです。このようにキリスト教を見て来ますと、キリストの予言の一 つ一つが明白な真理になってきます。こうしてみますと、主の全能の御手が人間の自由を侵したり、その本来の力を無力化するどころか、人の能力を無限にまで高め強めながら、人びとをしてそれぞれの運命に導く、全能の御手の働きが、はっきりとわかってきます。ですから,たとえ新らしい制度のもとにあっても、すべての精神的な原理は以前と同様に働らき、思想のこの上なく創造的な力や、勘定のはげしい高揚、さらには力強い魂のヒロイズムや、おだやかな精神の恭順さなどといったすべてのものが、キリスト教の中にその占むべき位置と適応とを見出すこともおわかりになることと思います。キリ スト教思想というものは、あらゆる理性的な存在に理解されて、われわれの心臓の鼓動の一つ一つの動きとともに・・・それが何について脈打つものであれ・・・すべてを自らの伴侶にして、途上で出会う障害すら利用しつつ強大になって行くものです。かかる天啓の思想は天才にあっては、他の人間の到達できぬ高みまで達せしめ、謙恭な人の場合には、手探りながら歩調のとれた落着いた足取りで、前へと進ませるものなのです。さ らにまたそれは、瞑想的な人にあっては深遠にして絶対的な思想となり、想像力に満ちている魂においては天駈けるイメージによって富んだものとなり、愛するやさしい心では慈悲と愛とに変じ、そしてこのような思想に身を委ねた人においては、その人の知性をば情熱と力と明断さとをもって満たしながら、力強く前進するものなのです。如何に様々の資質が、 どんなに多くの力がこの思想によって動かされていることか、如何に多くの異なった才能がたった一つのものを創造しつつあることか、そして異なって作られたどんなに多くの心臓が, このたった一つの思想に脈打っているかをご覧になって下さい。しかも社会全般に対して働く,キリスト教の御業はこれよりももっと素晴らしいものです。新しい社会発展の絵巻物を拡げるならば、如何にキリスト教が人間の利害全体をばその本来の利害にかえたり、いたるところに物質的要求を精神的要求にかえることを見ることでしょう。また人はそこに、思想の領域におけるかつて如何なる時代,如何なる社会にもその例を見ないこの偉大な戦、すなわち、その国民の全生活が一つの大きな思想、無限の感情となった思想と思想の争いを見ることでしょう。個人生活も社会生活も家庭も祖国も、科学も詩も、理想も想像力も、思い出も希望も、喜びも苦悩も、すべてがキリスト教に、それのみに帰することをご覧になることでしょう。神ご自身によ ってこの世に印されたこの偉大な動きの中に、自分がなしとげた結果を身をもって味わうことのできた人びとはまこと幸せなるかなと申せましょう。しかし必ずしもすべての人びとが能動的に自覚をもって行動しているわけではありません。大衆というものは、自らを動かす力を自覚することも、自らが押しやられている目的をもかい間見ることすらなく、生命としてなき原子、愚かな群衆として盲目的に行動しているだけなのです。

今や奥様, ご自身のことに立ち戻るべきでございましょう。しかし私にとっては、この一般的な考察から離れることは難しいことだと申さねばなりません。私はこの高みより眼前に関かれた絵巻物の中から、すべての慰めを引き出しているのです。自分を取巻くいとうべき現実に悩まされつつも、もっと澄んだ空気を吸って、もっと晴れ晴れした空を跳めなければと思いながら、私はこの人類の未来の幸福についての甘い確信の中に身を避けているのです。しかし私はあなたのお時間を邪魔したとは思っておりません。私にはあなたに対してキリスト教世界をどこからどのように見るか、またこの世界でわれわれが一体何をしているかをお知らせする必要があったのです。わが国に対する私の語り口が厳しいものとお思いかも知れませんが、私はただ真実を語っただけですし、それもすべての真実を語りつくしたというわけですらないのです。それにキリスト教的理性は、人に如何なる種類の理性の曇りをも許さぬものですが、なかんづく、民族的偏見は何よりも人と人とを離反させる故に許さぬところなのです。

奥様。どうやら大変長い手紙になってしまいました.。ここらで二人とも一息入れる必要がありましょう。私は当初、申し上げたいことは二言三言でいい尽くせると思っておりましたが、思いかえしてみますと、このことについては優に一巻の書物をも著わせることに気づきました。どうかこの企てがあなたをお気に入るか申して下さいますように。しかしそれはそれとして、私どもはこの主題に取り掛ったばかりですから、あなたは第二の手紙をどうしてもお受取りにならねばなりません。さし当っては、この第一の手紙の冗慢さを、私が返事を長いことお待たせしたつぐないとお考え下されば幸甚です。あなたからのお手紙を受取ったその日にも,私は早速に筆を執ったのでございますが、当時私の心はいとうべくうんざりする心配ごとで一杯だったものですから、かくも 大切なことについてあなたにお手紙を書く前に,そのような雑用を先ず片付けてしまわねばならなかったのです。そしてその後で,全く判読できない私のなぐり書きを清書しなければなりませんでした。この次はこれ程長くお待たせすることはなかろうかと存じます。早速明日にも筆を執る所存でございます。

ネクロポリス 1829年12月1日





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