ロシア宇宙主義についてのノート・調べものメモ

ツィオルコフスキー

ツィオルコフスキー: 無抵抗あるいは闘争 (1935)


Tsiolkovsky, Konstantin E. (1935), Non-resistance or struggle? (translated by Alexandra Gamanenko)

コンスタンチン・ツィオルコフスキー: 無抵抗あるいは闘争

我々は有害なバクテリアや、植物や、昆虫や、齧歯類や、捕食者と戦う。戦わないことは死を意味する。キミは本当に狼に身を投げ出すか、あるいはシラミに身をゆだねるか?答えは明らかだ。しかし、ある種の人々は狼より悪い。さて、キミは彼らの首を垂れて、奴隷あるいは食用肉になるか?我々は労働や自由を侵害するすべての暴力的な人々と闘っている。それ以外の場合はどうだろうか?力的な人々を放っておけば、すべてを奪われることになる。抑止のため、彼らを懲罰することもある。しかし、それはますます時代遅れになっている。なぜか?我々の親戚知人にも暴力的な者がいるかもしれない。さらには、自分自身もそうでないとあ言い切れない。社会は暴力的な人々から身を守ろうとするが、彼らへの復讐を望んでいるわけではない。暴力的な人々の自由は、彼らを無害化するために必要な範囲で制限される。叱責と訓練、人里離れた土地への追放、孤島への流刑、他人への接近禁止など。しかし、できる限り速やかに、誰も復讐のために殴られたり、屈辱を与えられたり、いたずらされたりしないようにする。判断指標は、我々の幸福と自由を守るために、暴力的な人々の危険を排除することである。あるいは、反社会的な人々の子孫の贖いや人間性の向上において。

ある階級が暴力的に他の階級を搾取するなら、階級闘争が続く。これは不可避である。ひとつの階級は、一人の人物より危険である。ひとつの階級はマジョリティを奴隷化する。個人もマジョリティも、羊や家畜と同レベルに墜ちることに同意することはあり得ない。家畜はかつては自由だったが、自分自身を征服され、敵を打倒できず、自由を失った。自らの権利を待折れなかった人々の階級にも同じことが起きる。我々の動物に対する態度は、最強階級が人々を動物と同じように扱えることを示している。

抑圧されたマジョリティは、暴力的な人物を判定するように、不法なマイノリティを判定しなければならない。トルストイが無抵抗を称揚したのは、ひとえに無数の友人たちによって無礼から守られていたからに他ならない。抵抗を支持する人々が守ってくれるので、人は無抵抗を支持できる。抵抗の支持者なしに、無抵抗ではありえない。

ときとして邪悪な者に立ち向かうに十分な力がないときもある。そのとはき、いずれにせよ、乱暴者の魔の手や、殺人者の凶刃や、強者の支配のもとに、墜ちるだろう。抗おうとも結果は同じだ。無抵抗はときには合理的だ。敵があまりに強くて、勝てないなら、敵に屈服するほうがいい。それで生命とエネルギーを失わずに済むだろう。やがて条件が変わり、勝てるようにばれば、自由を回復できるだろう。戦ったとしても、悲しい結末は明らかだ。なら苗z抗うのか?

他にも無抵抗が合理的な場合がある。強者がキミを攻撃するのは誤解によるものだったとしよう。無抵抗であれば、その強者の態度を緩和できるだろう。誤解が正されたとき、謝罪を求めるのは相手自身である。

人生はとても難しく、すべての場合に特別な解決策が必要となる。しかし、共通点が1つある。それは、悪との永遠の和解できない戦争である。ときとして悪は我々の中に生じると思われる。実際、我々自身が悪を被る。人がこの弱点に気づいたらなら、人は力を断念する。ここでの戦いは、双方にとっての誤解と苦痛を意味する。そして、多くの場合、ことはこのように起きる。




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