ロシア宇宙主義についてのノート・調べものメモ

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アントワーヌ・フェーヴルのエソテリシズムの6要件


Antoine Faivre (1992)によれば、エソテリシズムは以下の6条件をすべて持っている:
  1. コレスポンダンス(照応) (correspondences)
  2. 生きている自然 (living nature)
  3. 想像力と媒体 (imagination and mediations)
  4. 変成の体験 (experience of transmutation)
  5. 和協 (the praxis of the concordance)
  6. 伝授 (transmission)


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われわれが近代西洋の「エゾテリスム」と呼ぶのは、六つの基本的性格もしくは構成要素 --- これらはその膨大な歴史的・具体的文脈の内部でさまざまな割合で配分されているが --- によって同定できる思考形態のことである。そのうち四つはいわば「内在的」要素であり、それらが同時に存在することが、その資料がエゾテリスムに属すことの必要十分条件になっている。あとでみるように、その本性からしてこれらは互いに切り離すことはできない。たが、方法論としてはそれらをしっかり区別することが重要である。これらに残りの二つの副次的要素、基本的ではない要素が加わる。副次的要素は四つの基本的要素と共存していること非常に多い。

以下に四つの基本的要素を述べる。

(1)コレスポンダンス(照応)
可視世界、不可視世界のあらゆる部分のあいだに、象徴的・現実的(ここでは抽象のはいる余地は全然ない!)コレスポンダンスが存在するという(「上にあるものは、下にあるもののごとく、下にあるものは、上にあるもののごとし」)[1]。ミクロコスモスとマクロコスモスという古代観念、あるいはこう言ったほうがよければ、普遍的相互依存の原理をここに見出すこともできよう。これらのコレスポンダンスは一見しただけでは、大なり小なり覆い隠されており、解読しなければならない。世界は鏡張りの大劇場、解読すべき神聖文字の総体である。そこではすべてが記号であり、すべてが神秘を秘め、神秘の香りを漂わせている。あらゆるもが秘密を隠しもっているのだ。矛盾律、排中律、線状の因果律はここでは、第三項[2]を認める原理や同時性原理に取って代わられることになる。コレスポンダンスを二種類に分けて考えることができよう。第一は、可視、不可視の自然のなかに存在するコレスポンダンスである。たとえば七金属と七惑星とのあいだの、惑星と人体の各部、性格、社会とのあいだにあるコレスポンダンスである。これが占星術の基礎となっている。あるいは、自然界と天界および上天界の不可視の各セクションとのあいだに存在するコレスポンダンス等々。第二には、啓示聖典と、自然または字宙と、さらには歴史とのあいだにさえ存在するコレスポンダンスである。たとえばカラバ --- ユダヤ・カラバおよびキリスト教カバラ --- や各種の〈神型自然学〉に見られるようなコレスポンダンス。このような形の啓示的照応主義理論によれば、書(たとえば聖書)と自然が必然的に調和の関係にあり、どちらか一方を知れば他方を知る助けになる、このことを「見抜く」ことが重要なのである。要するに世界という舞台は言語現象である。ただし、コレスポンダンスや照応はそれだけで「エゾテリスム」を意味しはしない。これらは多くの哲学思想や宗教思想のなかにも存在し、それぞれが自分の類比や類似のネットワークをもち、大なり小なりその性質を規定しているのだから。コレスポンダンスの原理はまた、各種の占いにおいても、詩においても、妖術においても作用しているが、だからといって、これらがエゾテリスムの同義語であるわけはない。
[1] (訳注〕ヘルメス主義の古典「エメラルド板」にある有名な文句。
[2] (訳注〕A−BでもA+Bでもない第三の命題、これを認めないのが排中律。

(2)生きている自然
コレスポンダンスという観念について見てきたように、コスモスは複雑で多層的であり、ヒエラルキー的に構成されている。となるとコスモスにおいて最も重要な位置を占めるのは「自然」である。あらゆる種類の潜在的な啓示に満ちている自然を繙いて、書物のように読み取らなければならない。ルネサンスの想像力においてきわめて重要であった〈マギア〉という語はまさしく、このような自然の観念と連動している。すなわち、本質的にどの部分においても生きており、多くの場合そのなかを循環している光もしくは隠れた熱に浸されている --- そのようなものとして自然を見、認識し、体験しなければならない。このように理解された「魔術」は。自然の事物を結びつける共感と反感のネットワークの認識であり、同時に、これらの認識を具体的に実践することである。たとえば、魔術師が護符に与える星辰の霊力、あらゆる形態の、とりわけ音楽のオルフェウス主義、攪乱された肉体的・心理的調和の回復を目的とする石や金属や植物の使用など。このような展望のなかに置いてみると、パラケルスス思想は、動物磁気からあらゆる形態の<マギア・ナトゥラリス>(自然魔術)--- 魔術と科学が交差する複雑な概念であるが --- をへて同種療法にいたる、数多くの支流をもつ大河を代表しているといえるだろう。それはいわゆる実践である以上に、「グノーシス」という意味で知識であり、エゾテリックな態度の基本となっているように見える。「世界をそも奥深いところで統べているものを知りたい、世界を動かす力と世界を構成する元素を知りたい」という欲望に身を焦がしていると、ゲーテがファウストに語らしめたような意味での知識である。これに聖パウロの教え(「ローマ人の信徒への手紙」八章19〜22節)[1]の解釈が加わることもよくあるが、ただしそれは錬金術やエゾテリックな性格を持った<自然哲学>のニュアンスをたっぷり含んだ解釈なのである。この解釈によれば、追放と空虚を強いられ苦しんでいる自然自身も、救済に与る時を待ち望んでいるという。こうして基礎づけられるのは、自然の学・救済論的要素を含んたグノーシス、「神-人-自然」のトライアングルを研究する神智学であり、神智学はこのトライアングルから、つねに新たで、相互補完的な演劇タイプのコレスポンダンスを産み出しているのである。
[1] (訳注〕「被造物たちは神の子たちの現われるのを切に待ち望んでいます。被造物は虚無に服していますが、それは自分の意志によるものではな(、服従させた方の意志によるものであり、同時に希望ももっています。つまり、被造物もいつか滅びへの隷属から解放されて、神の子供たちの栄光に輝く自由にあずかれるからです。被造物がすべて今日まで、共にうめき、共に産みのしみを味わっていることを、私たちは知っています。」

しかしながら二十世紀に入って、存在論的には二元論である形而上学、および十九世紀以来世界を科学に譲り渡すことで自然をんあおざりにしてきた神学の流れを汲む、一元論的唯心論の一形態が登場してきた[1]。そこでは自然(創造された世界)は軽視されたり、それどころか、東洋の教養、とりわけヒンドゥー思想の影響で、その現実性そのものすら否定されてしまう。自然にはせいぜいきわめて低い地位しか認めない思想、近代の産物である科学を含めて、近代を全否定する思想である。これは現代の諸傾向を観察する者にとっては興味深い現象であり、歴史家にとっては研究すべきひとつの支流である。
[1] (訳注〕これもルネ・ゲノンの思想を意識した発言である。

(3)想像力と媒体
この二つの概念は結びついており、互いに補完しあうものである。そもそもコレスポンダンスという観念は一種の想像力を前提としているのだ。この想像力には、儀礼、象徴的イメージ、曼陀羅、仲介霊などあらゆる種類の媒体を見分け、利用しようとする傾向がある。このようなコンテクストにおける天使学の重要性も、そして「イニシアトゥール〔イニシェーションを授ける者〕」という意味での「伝授者」や「グル」(第六の要素についての後述も参照)の重要性も生じてくるのである。たぶん、神秘主義とエゾテリスムを区別するのは、とりわけこの媒体という概念であろう。いささか単純化しすぎるきらいはあるが、古典的な意味での神秘家は、イメージや仲介者をできるかぎり抹消しようと望む、と考えることもできるだろう。神との合一の妨げになるからだ。これに対してエゾテリストは、もっぱら神的なものとの合一を目指すよりも、創造的想像の力により内部の視鴬に明かされた媒体にいっそう関心を抱くように思える。彼はヤコプの階段[1]の彼方に行くよりもむしろ、天使たちが(そしておそらくはその他の霊的存在も)上り下りする階段の上に留まっていることのほうを好むのだ。もちろん神秘家のなかに多くのエゾテリスムが含まれていることもよくあり(聖女ヒルデガルド)、多くのエゾテリストのなかに明らかな神的価向を見すこともよくある(ルイ=クロード・ド・サン・マルタン)。
[1] (訳注〕聖書に登場するヤコブが夢に見た梯子で天界と地上を結び、天使たちが上り下りしていた。『創世記』二八章11節。

これらの媒体や象徴やイメージをグノーシスのために利用すること、自然の象形文字を洞察すること、コレスポンダンスの理論を実地に移すこと、神的世界と自然を仲介する霊的存在を発見して、見て、知ること、このすべてを可能にするのは想像力である。西洋における想像力の歴史、想像力の地位の歴史を編纂すれば、得るところは大きく、本書の主題であるエゾテリスムの重要性も明らかになることであろう。想像力といっても、カントにおけるような知覚と概念のあいだに固定された単純な心的能力でもなければ、「家のなかの狂女」〔マールプランシュの用語〕--- 自分自身の内部世界という罠にかかったまま世界を逃避する者が陥る錯誤と誤謬の種でもない。そうではなく、一種の魂の器官であり、これのおかげで人間は仲介となる世界、すなわちメゾコスモス --- アンリ・コルバンは〈想像的世界〉という呼称を提唱している --- との認識論的・視覚的関係をもっことができるのである。アラビア(アヴィセンナ、スフラワルディー、イプン・アラビー)がここでは西洋に決定的な影響を及ぼしたのかもしれない。しかし、アラビアという迂回路を通らなくても、パラケルスス思想はほとんど似たようなカテゴリーを再発見しているのである。それに記意と想像力が混同されるほど結びつけて考えられるようになったのは、とりわけ十五世紀末に再発見された『ヘルメス選集』の影響によるところが大きい。ヘルメス・トリスメギトスの教えの一部分は、世界をわれわれの<メンス>精神おうちに「内面化」することを目指している。ここから生じてきたのが、ルネサンスの前後に魔術の光のもとで培われた「記憶術」なのである。

このような意味での想像力 (imaginationはmagnet[磁気]、magia[魔術]、imago[イメージ]と類縁関係にある)は、自己と世界と神話を認識するための道具であり、炎の眼である。表皮を貫いて意味や「関係」を噴出させ、不可視のもの、すなわち肉眼たけでは到達できない〈想像的世界〉を可視にする、そしてそこから持ち帰った宝をわれわれの散文的な視覚を拡大するために役立てる、そのような炎の眼である。信条や信第よりもむしろ、視覚と確実性に力点が置かれている。このような想像力が幻視哲学の基礎となるのである。想像力はとくに神智学的な言説に浸透しており、聖書の数節についての瞑想をきっかけに作動し、展開してゆく。ユダヤ・カバラの「ゾーハル(光輝の書)」や十七世紀初頭にドイツで飛躍的発展をとけた西洋神智学の大流についても同しことがいえる。

(4)変成の体験
かりにここまで述べてきた三つの構成要素に止めておき、変成の体験を本質的構成要素に入れなければ、工ゾテリスムは思弁的精神の一形態以上のものではないということになってしまうだろう。ところが、最も日常的なレベルの話でも、「エゾテリスム」「グノーシス」「錬金術」などの語が連想させるものにおいて、イニンエーションがどれほど重要であるか誰でも知っているのた。「変容」はここでは適切な用語ではないだろう。この語は必すしもあるレベルから別のレベルへの移行を、主体の性質自体の変化を意味しないからである。われわれが念頭においている錬金術から惜用してきた「変成」のほうがより的確であると思う。この語を「変身」の意味にも受け取っておこう。鉛を銀に、銀を金に変えようとおもうなら、知識(グノーシス)と内的体験を、知的活動と活動的想像力をけっして分離してはならない。近代西洋のエゾテリスムをにおいて、一般的かつ近代的なを意味で「グノーシス」と呼ばれているものは、この照明をともなう知識であり、「第二の誕生」(ここでは、そしてとりわけ神智学では最重要な概念)を促す知識である。錬金術文献0重要な一部分、とくに十七世紀初頭以来のものは、工房での実験の記述よりもむしろ、例の変成を比喩的に紹介することを目的としているように思える。この変成の過程は、〈ニグレド〉(死、断頭、第一質科、老人)、〈アルベド)(白化の作業)、〈ルペド〉(赤化の作業)に識別されるが、これは伝統的な神秘体験の三つの段階、浄化、照明、合一に比することができるかもしれない。変成は自然のひとかけらの変成であると同時に実験者自身の変成でもありうると言われるとき、多くの場合、以上のような含みをもっているのである。

本書で提唱する近代西洋工ゾテリスムの方法論的アプローチは、以上の四つの基本的構成要素に依拠することになる。さらに、エゾテリスムの定義に不可欠ではないという意味で「相対的」な二つの要素がこれらに加わる。この二つを新たな必要条件とみなせば、あまりにも探究の範囲を狭めてしまうことになるだろう。にもかかわらす、非常にしばしば他の四つと共在しているという理由から、これら二つの「相対的」要素はその特性を考察するに値するのである。そのひとつは和協の実践と、もうひと0は伝授と名づけることができるであろう。

(5)和協の実践
このように名づけた要素は西洋エゾテリスム全体に特有のものではなく、とくに近代の0始まり(一五世紀末と十六世紀、前述の<永遠の哲学>についての記述を参照)を特徴づけるものであり、十九世紀末からは別な形で再登場し、こちらが支配的になる。これは異なった二つの伝統、さらにはすべての伝統のあいだで共通の分母を確立しようとする動きで、それによって良質の照明やグノーシスを得ることを期待しているのである。

なるほど「外的」ともいえる宗教和協の実践は存在している。あらゆる既成宗教に対する単なる認知や尊重に基づき、消極的もしくは積極的寛容の精神により、善意の人びとが集合することができるような一致点を求める動きである。しかし、いまわれわれが問題にしている和協は、まったく性質が異なっている。前者よりずっと創造的であろうとする和協であり、少なくとも集団と同等に個人の照明に関わっているし、さまざまな宗教的伝統のあいだの相違を消去して調和を見出すことだけではなく、とりわけ〈グノーシス>を獲得することをその意図とするのだ。このグノーシスはさまざまな伝統を同一の坩堝で溶解融合して、意欲の人[1]のために、隠れてはいるがなおも生命をもつ幹 --- 個々の伝統はその目に見える枝にすぎない --- の像を(写真の意味で)現像する[2]のである。この傾向は十九世紀にはっきりとした形を取るようになったが、それは東洋についてよりよい知識が得られるようになり、新たな学問分野である「比較宗教学」が影響を及ぼしたためである。おかげで伝統主義の信奉者、英語でいう<永遠主義者>(perennialist)たちは、人類のあらゆる宗教的伝統、あるいはエゾテリックな伝統を覆う「原初の伝統」が存在すると決めつけ、教えるにいたったのである。
[1] (訳注〕サン=マルタンの用語で、霊的存在へと復帰することを強く希求する人間。
[2] (訳注〕revelerは、ふつう「明かす」「啓示を与える」の意味で使われることが多い。

(6)伝授
伝授の重要性を強調すること、それが暗に意味しているのは、あらかじめ穿っておいた水路を通じ、道しるべのついた行程を尊重しつつ、エゾテリックな教えとは師から弟子へ伝授しうるし、またそのようにに伝授しなけれはならない、というこことである。「第二の誕生」はこのような代価を払0て得られることになる。このことには二つの概念が結び0いている。(a) その真正と「正統性」に疑いの余地があってはならない系統によって伝授されてきた知識こそ有効であるという概念。伝統はひとつの有機的全体と考えられ、その全体性を尊重しなけれはならないが、そのような伝統に結びつくことが重要である。(b) 一般的にいって師から弟子へと授けられるイニシエーションという概念。自分ひとりでイニシエーションを行なうことはできない。いかなる仕方であれ、秘儀伝授者や導師の助けを借りる必要がある。西洋の秘密結社もしくはそれに近いイニシエーション結社の創設と発展において、以上の条件がどれほど重要であったたかは周知のことであろう。

[アントワーヌ・フェーヴル(田中義廣 訳)『エゾテリスム思想』白水社(文庫クセジュ) 1995, pp.16-25] (Antoine Faivre, "Access to western Esotericism", 1992, pp.10-15)





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