ロシア宇宙主義についてのノート・調べものメモ

ロシアの宇宙主義者たちノート, 参考資料

第三のローマ モスクワ


プスコフの司祭フィロフェイ (Philotheus)が、大公ワシーリイへの書簡で述べた「第三のローマ モスクワ」についての記述の日本語訳や日本語解説集:

[ F.L.シューマン 著, 宮地健次郎 訳, "冷戦 : 回顧と展望 (岩波新書)", 岩波書店, 1963 ]

第三のローマ: ビザンチン帝国がオスマン・トルコによって滅亡してから五二年後の一五〇五年に、プスコフの僧院の司祭フィロフェイはヴァシーリー三世ーイヴァ ン大帝(三世)の息子で、イヴァン雷帝(四世)の父、モスクワ大公国の大公で、全ロシアの専制君主ーに次のような言葉を捧げている。

「古代ローマの教会はアポリナスの異端の故に滅びた。第二のローマたるコンスタン チノープルの教会は、よそものの斧で打ち倒された。しかし、第三の新しいローマ、聖なる使徒伝承の教会は偉大な貴下の支配のもとに太陽よりも明るく全批界を照らしている。すべての正教会のキリスト教王国は貴下の王国に統合された。貴下は宇宙の唯一の絶対的支配者であり、キリスト教徒の唯一の王である。二つのローマは倒れた。だが、 第三のローマは立ちつづけ、第四のローマはあり得ない。 」
[ 猪木正道 著: "ロシヤ史入門", 創文社, 1952

第三ローマの観念

丁度ロシヤがタタールの支配を脆却しはじめた頃、トルコ人がコンスタ ンチノープルを占領して、ビザンチン帝国を崩壊させた。このことはロシヤ史にとつて運命的な 出来事となつた。それよりわずか+数年前、即ち一四一ニ九年にフィレンツェでローマとコンスタンチノープル間の教会合同が行われた。それ以来ロシャ教会はコンスタンチノープルの宗主権か ら離れていた。異教徒のコンスタンチノープル占領は、正教の信仰を裏切つて、ローマと合同し たコンスタンチノープルに対する神の怒りとして受けとられた。

イワン三世は今や自己を唯一つ、この世界に残つた正教の独立君主と考えることが出来た。正教教会の守護者としてのギリシャ皇帝の地位が、観念上モスクワに移ったわけだ。 モスクワは今や『第三のローマ』となった。プスコフの僧、フィロフェイはワシーリ三世に次のように書き送った。「第一のローマは異端の故に崩壊した。第二のローマはトルコ人の犠牲となって陥落した。 しかし第三のローマは太陽のように、全世界を照して今出現した。第一のローマと第二のローマ とは崩壊したが、第三のローマは歴史の終末まで継続するであろう。それは最後のローマである。モスクワには継承者はない」と。

モスクワ大公はギリシャ教会に対する守護者となることによって、精神的威光を加えたばかりでなく、コンスタンチノープルを不信心者の手から解放すべき政治的な請求権をも主張しうるものとされた。コンスタンチノーブルへの憧憬は、ロシヤ国民の間に久しく続く。十九世紀のパンスラヴイストは皆、この請求権を暗黙の前提としていた。

[ 三浦清美: "プスコフの歴史と文学" ]

フィロフェイ「悪い日と悪い時間についての書簡」

「神を愛し、キリストを愛する者よ、そなたは知るがよいでしょう。すべてのキリスト教帝国は終末にいたり、預言者の書に書いてあるとおり、我らが君主の唯一の教会に集まったことを。すなわち、これこそがローマ帝国であることを。二つのローマは没落しました。三つ目のローマは立ち、第四のローマは存在しないでありましょう。(44)使徒パウロは何度もその書簡でローマのことに言及し、注釈書で「ローマこそが全世界である:と語っております。キリスト教会にかんしては、福者ダビデの次のような言葉成就しました。すばわち、@これは永遠に私の憩いの地。ここに住むことを私は定める。」(45)

(44) 4つの多くについての思想は、『ダニエル書』2章37-40節によるものである。
(45) 『詩篇』132章14節。

フィロフェイ「大公ワシーリイへの書簡。十字の切り方の変更とソドムの淫蕩について。」

そのお方は,ローマとコンスタンティノープルの君主に代わり,輝きに満ちておられま す。なぜなら,古いローマの教会はアポナリウス異端の不信仰によって倒れ,第二のロー マ,コンスタンティノープルは,ハガルの末商が戦斧(せんぷ)と斧とで教会の扉を打ち こわし,いまや第三の新しいローマ,そなたの強力な帝国の聖なる使徒公会の教会が,宇 宙のすみずみにいたるまで,正しく栄えあるキリスト教の信仰において,天のしたのあら ゆる場所で,太陽よりも肱しく輝いているのです。

敬度なるツアーリよ,そなたの帝国は,キリスト教信仰の正しく栄えある諸教会が,唯 一のそなたの帝国において合流したものにほかならないことをお知りになるがよい。そな たこそが,すべての天のしたに暮らすキリスト教徒たちにとって,ただ一人のツァーリな のです。
...
自らの帝国を首尾よく統治することができれぱ,そなたは光の息子となり,いと高きエ ルサレムの住人となるでしょう。それは,以上において私がそなたに書いてきたことであり,いままた申し上げるとおりです。敬虐なるツアーリよ,守りを堅め,耳を傾けなさい。すべてのキリスト教帝国はそなたの帝国のなかでひとつに合流しました。二つのローマは艶れ,第三のローマは立ち,第四のローマは存在しません。偉大なる神学者の言葉とおり,そなたのキリスト教帝国は別の帝国に取って代わられることはありません。キリスト教帝国にたいしては,めでたきダビデの言葉が実現したのです。「これは永遠に私の憩いの地。 ここに住むことを私は定める。」(63) 聖ヒッポリュトス(64)は言いました。「我らが,ローマがペルシアの軍勢に包囲され,ペルシア人たちがスキタイ人とともに我らにたいして戦いを挑むのを見たとき,我らはそれがアンチキリストであることを理解するだろう。」

(63) 『詩篇』132章14節
(64) エイレナイオスに学び、ローマで活躍した教父、護教家。170年ころ生、235年没。「ヒッポリトス」『世界大百科事典』日立デジタル平凡社, 1998年

[ A.H.ラヂーシチェフ 著, 渋谷一郎 訳: "ペテルブルグからモスクワへの旅", 東洋経済新報社,1958

(3) 「古儀式派」(非改革旧信派) 十七世紀の中頃、ウクライナをモスクワの支配下に入れよう とする、アレクセィ皇帝の外交上の動きと、時を同じくして、モスクワ長老の権威を、西ロシヤ教会(在キーエフ)におよぼそうとする宗教上の政策が、長老ニコンによってとられた。かれは、モスクワ在来の祈祷書を改め、また十字を切るとき、ロシヤの古いならわしだった、イエスキリストの二元的性質を象徴する二本指ではなく、三位一体をあらわす三本指をもってすべしとの通達をした。これらはギリシャ教会の規準にそうもので、モスクワが第三のローマであることを深く信ずる正教徒の大衆は、 改革に反対して、聖職者の一部とともに、ロシヤ教会の分派を作った。この一派は、教会慣習を政府の政策 が要求するところと一致させることを拒んだわけだから、はげしい迫害をうけた。儀式の改革は、ニコンの失脚後もつづけられ、迫害は一七世紀の末にむかって強められたが、かえって一派の宗教的狂信をよびおこした。






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