ロシア宇宙主義についてのノート・調べものメモ

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wikipedia:ヘシカズム(ヘシュカスム)


以下はwikipedia:Hesychasmの訳


wikipedia:Hesychasm(ヘシカズム)


ヘシカズム(Hesychasm, ギリシャ語Ησυχασμός)[1]は、東方典礼カトリック教会と正教会の東方キリスト教の伝統における瞑想的な修道院の伝統であり、途切れることのないイイススの祈りを通して静寂(ヘシキア)が求められる。初期キリスト教の修道生活に根ざしているが、14世紀のアトス山でその決定的な形をとった。
語源

ヘシカズム(Hesychasm, ギリシャ語: ἡσυχασμός) は、「静止、休息、静寂、沈黙」を意味する ヘシキア(hesychia, ギリシャ語: ἡσυχία)[2]と 「静寂を保つ」を意味するヘシカゾ(hesychazo, ギリシャ語: ἡσυχάζω )に由来する。

起源と発展

東方正教進学者のひとり、ディオクレイア府主教カリストスは「ヘシカズム」という言葉の用法を5つに分類した[3][4]:
  1. 「孤独な生活」「隠遁生活」に相当する意味で、この用語は4世紀から使用されている
  2. 「イメージ、概念、言語を超えたレベルで神との合一を目指す、内なる祈りの実践」
  3. 「イイススの祈りを通じた、そのような合一のための静寂」
  4. 「イイススの祈りと組み合わせたある種の心身相関技法」 その技法の使用は、少なくとも13世紀までさかのぼれる
  5. 「聖グレゴリー・パラマスの神学」 パラミズム


キリスト教初期修道制

孤独な禁欲生活
キリスト教の修道生活は4世紀にキリスト教が合法化されたときに始まった[5]。ヘシカストという用語は、ポントスのエウァグリオスの著作と「砂漠の教父たちの言葉」がそれを証明しているが、4世紀以降にエジプトから発せられたキリスト教の禁欲的な著作では控えめに使用されている。エジプトでは、アンカレティズム (ギリシャ語: ἀναχώρησις、「引退、後退」) とアンカライト (ギリシャ語: ἀναχωρητής、「撤退または後退する人、すなわち隠者」) という用語がより頻繁に使用された。

ヘシカスト(hesychast)という用語は、6世紀にパレスチナで「スキトポリスのキリルの生涯」で使用された[6]。キリルが説明するヘシカストの多くは、彼自身の同時代人だった。キリルが書いていた聖人の何人か、特にエウテュミオスとサバスは、実際にはカッパドキア出身だった。皇帝ユスティニアヌス1世 (在位 527–565年) の法律 (小説) は、ヘシカストとアンカライトを同義語として扱い、それらを交換可能な用語にしている。

内なる祈り
「心の内なる静寂あるいは沈黙」[7] を目的とした内なる祈りの実践は、少なくとも4世紀にさかのぼる。ポントスのエウァグリオス (345-399)、ヨアンネス・クリマコス(シナイのヨアンネス, 579-649)、聖マクシモス (580-662)、新神学者シメオン (949-1022)、このヘシカスト精神の代表者である[7]。ヨアンネス・クリマコスは著書「天国への階梯」で、アガペで最高潮に達する瞑想またはヘシカストの実践のいくつかの段階について説明している。

イイススの祈りへの最初の言及は、フォティケーのディアドコス (400-486)にある。エヴァグリウスやマクシムスやシメオンはいずれも言及していない[8]。ヨハネス・カッシアヌス (380-435) は、ポントスのエウァグリオスの禁欲的な教えを西洋に伝え、聖ベネディクト騎士団の精神性とその後の西洋の神秘的な伝統の多くの基礎を形成し、「ああ神よ、お救いください。急いで手を差し伸べてください。」という祈りについてエジプトで定型句として提示した[注1]。


心身技法の追加

東方正教会の信仰に改宗し、アトス山の修道士となったローマ カトリック教徒の聖ニケフォロス(13世紀) は、修道士にネプシス(用心深さ)を実践するために、心を集中し、呼吸のリズムを整え、「目を体の中心に止めて、頭を胸に向けて曲げ、「呼吸に祈りを添える」ことを勧めた[8][9]。カリストスによれば、ヘシカストの祈りにおける心身技法のもっとも初期の証拠だが、「その起源ははるかに古い可能性があり」[10]、スーフィズムのジクル(スーフィー教団の宗教的勤行のなかで最も重要なものであり,特定の章句をくり返しとなえる ことより成る)の実践「神の名前の記憶と呼び出し」の影響を受けている可能性がある。逆に、インドのヨガの実践に影響を受けたかもしれず、スーフィーが初期キリスト教の修道生活に影響を受けたかもしれない[11][注2]。

14世紀初頭、シナイのグレゴリウス(1260年代-1346)は、ヨアンネス・クリマコの伝統に根ざした、規律ある精神的な祈りの形式を、クレタのアルセニウスから学んだ。1310年に、彼はアトス自治修道士共和国(Mount Athos)に行き、フィロテウ修道院(Philotheou Monastery)の近くのマグラスキート(Skete of Magoula)で修道士として1335年まで留まり[12]、そこで、ヘシカストの実践を紹介した。ヘシカズム及びヘシカストという言葉は、アトス自治修道士共和国では、ある種の心身技法に支援されたイイススの祈りを含む、精神的禁欲技法の実践および実践者について使われた。


ヘシカズム論争とパラミズム

1337年頃、ヘシカズムはセミナラのバルラアム(Barlaam of Seminara, 1290-1348)の興味を惹いた。彼は当時、コンスタンティノープルにあるコーラ修道院Monastery of St Saviour)に大修道院長の席を持っており、アトス自治修道士共和国を訪れた。アトスは、[東ローマ帝国皇帝]アンドロニコス3世パレオロゴス(1297-1341)の治世(1328-1341)と、シメオン第1修道士(Protos Symeon)の指導の下で、その名声と影響力の頂点にあった。アトス自治修道士共和国で、バルラアムはヘシカストたちと遭遇し、ヘシカストの実践の説明を聞き、アトスの修道士でもあるグレゴリオス・パラマス(1296-1359)のヘシカズム教師の著作を読んだ。西方スコラ神学の教育を受けたバルラアムは、ヘシカズムに憤慨させられ、口頭と著作の両方でヘシカズムと闘い始めた。西方スコラ学様式における神学の私立教師として、バルラアムはヘシカストが教えたよりも神の知識へのより知的で命題的なアプローチを提唱した。

バルラアムは、光の性質についてのヘシカストが享受した教義に異議を唱え、ヘシクストの実践の目標であるとされた敬虔は、異端的で冒涜的であると見なした。ヘシカストたちは、その経験は由来するものであり、タボル山(ガリラヤ湖南端の西方約20km)で、「山上の変容」(マタイ17:1-9, マルコ9:2-8, ルカ9:28-36)の際に、イエスの弟子たちにれた光と同一であると主張していた[13][14]。このバルラアムは、それは、目に見える神と目に見えない神という2つの永遠の実体を仮定しており、多神教であると考えた。

ヘシカスト側では、後にテサロニケ大主教となるグレゴリオス・パラマスが、バルラアムの攻撃からヘシカズムを擁護してほしいという、アトスの修道士たちの依頼に応じて、論争に加わった。聖グレゴリウス自身は、ギリシャ哲学について十分な教育を受けていた。聖グレゴリウスは、1340年代にコンスタンティノープルの3つの教会会議でヘシカズムを擁護し、その擁護に関する多くの著作も書いた。

これらの著作で、グレゴリオス・パラマスは、4世紀にカッパドキア教父たちの著作ですでに見出された、神のエネルギーあるいは働き(ギリシャ語; energeiai) と神の本質との間の区別を使った。聖グレゴリオスは、神のエネルギーや働きは創造されていないと教えた。パラミズム神学では、創造されていない光の経験を保証されたヘシカストを照らすのは、神の創造されていないエネルギーである。彼は、神の本質はその被造物によっては、死後世界であっても、決して知ることができないが、神が創造していないエネルギーや働きは現世と死後世界の両方で知ることができ、現世のヘシカストと死後世界に、神についての真の霊的知識伝えることができると教えた。パラミズム神学では、創造されていない光の経験を保証されたヘシカストを照らすのは、神の創造されていないエネルギーである。

1341年、論争はコンスタンティノープルで開催され、皇帝アンドロニコス3世が主宰する教会会議の前に出された。教会会議は、偽ディオニュシオス・ホ・アレオパギテース文書に関して、バルラアムを非難した。バルラアムは、撤回し、(イタリアの)カラブリアに帰り、その後、カトリック教会司教となった。

バルラアムの友人のひとりで、グレゴリオス・パラマスの友人でもあったグレゴリウス・アキンディノス(Gregory Akindynos, 1300-1348)が論争に参加し、この論争は、(東ローマ帝国パレオロゴス朝第7代皇帝)ヨハネス5世パレオロゴスと(東ローマ帝国パレオロゴス朝皇帝)ヨハネス6世カンタクゼノスの支持者間の内戦でも役割を果たした。この問題について他に3回の教会会議が開催され、その2番目の会議でバルラアムの支持者が短い勝利を手にした。しかし、1351年に皇帝ヨハネス6世カンタクゼノスが主宰した教会会議で、正教会の教義としてヘシカスト教義が確立された。


ロシアへの導入

パイシウス・ヴェリチコフスキー(Paisius Velichkovsky, 1722-1794)とその弟子たちは、ロシアとルーマニアでこの習慣を知らしめたが、サロフのセラフィム(1759-1833)の独立した実践によって示されているように、ヘシカズムはロシアでは以前から知られていた。

実践

内なる静寂の獲得

ヘシカストは、マタイによる福音書(6章6節)のイエスの指示「祈る時には、一人で部屋に閉じこもり、父なる神に祈りなさい。(go into your closet to pray)」を、感覚を無視して内に引きこもるべきであると解釈した。シナイのヨアンネス・クリマコス(579-649)は、次にように書いている:
Hesychasm is the enclosing of the bodiless primary cognitive faculty of the soul (Orthodoxy teaches of two cognitive faculties, the nous and logos) in the bodily house of the body.[15]

さて、信じがたいことであろうが、ヘシュカストとは、身体という住居の中にあっても非身体的な部分を確保しようと励む人のことなのである。

[ヨアンネス・クリマクス (手塚奈々子 訳) :"楽園の梯子", 第二十七講話(6), 中世思想原典集成3, 東京平凡社, 1994]


ヘシカストの実践段階

Theosis は、用心深さ(ギリシャ語: νῆψις, nepsis) の養成から生じる瞑想的な祈りに従事することによって得られる、このプロセスの標準的な禁欲の定式化にれば、次の 3 つの段階がある。
  • カタルシス(Katharsis, κάθαρσις) 浄化
  • テオリア (Theoria, θεωρία) 観照
  • テオーシス (Theosis, θέωσις) 神化 (神との合一と記載されることもある) [注3]

カタルシス(修行・浄化)

素面は、誘惑的な考えを拒否するこの精神的禁欲に役立つ。素面は集中力と注意力に重点を置いている。ヘシカストは、その内なる世界の意識とイイススの祈りの言葉に細心の注意を払い、その心を決してさまよわせないようにすることである。ヘシカストがイイススの祈りの実践を続けて、その実践が無意識のものになり、1日24時間、1週7日続くようになるとき、ヘシカストはネプシス、用心深い注意を養い、庵で冷静に見張っているときに入ってくる誘惑的な考え(泥棒)を拒絶する。シナイのヨアンネス・クリマコスは次にように書いている:
Take up your seat on a high place and watch, if only you know how, and then you will see in what manner, when, whence, how many and what kind of thieves come to enter and steal your clusters of grapes. When the watchman grows weary, he stands up and prays; and then he sits down again and courageously takes up his former task.[17]

高い所い坐して、できる限り見張っていなさい。そうすればあなたは、どのくらいの数の、またどんな性質の泥棒が入って来て葡萄の房を盗み出していくのか、(それが)どうやって、いつ、どこから(来るの)かを見るであろう。見張りに疲れたら、彼は立ち上がって、祈る。そして再び坐って前の仕事に勇敢に取り組む。

[ヨアンネス・クリマクス (手塚奈々子 訳) :"楽園の梯子", 第二十七講話(22-23), 中世思想原典集成3, 東京平凡社, 1994]

ヘシカストは、怠惰への誘惑を克服するために、エロス (ギリシャ語: eros, Ἔρως) すなわち「思慕」に、素面の実践を結びつける。ヘシカストはまた、誘惑的な考えに対して非常に方向性を持った制御された怒りを使う必要があるが、それらを完全に消し去るには、イイススの祈りによってイエス・キリストを呼び求める必要がある。

ヘシカズムに関する文献の多くは、そのような誘惑的な考えの心理学的分析で占められている (例: St. Mark the Ascetic)。この心理学的分析は、ポントスのエウァグリオスの禁欲的な作品と、8つの情熱の教義に大きく依拠している。

テオリア (観照)
ヘシカストの本来の役割は、精神的禁欲に従事することである。カシカストは自らの知性(ギリシャ語ヌース)を心に持ち込み、イイススの祈りと素面を、心で知性とともに実践する。孤独と隠遁の中で、ヘカシストはイイススの祈り「主イイスス・ハリストス、神の子よ、我、罪人を憐れみ給え。」を繰り返す。ヘカシストはイイススの祈りを、「心を込めて」 – 意味を持って、意図を持って、「本当の意味で」 祈る。 ヘカシストは、イエスの祈りを、「表面的な」あるいは、あからさまな言葉だけの意味が二次的または重要ではない音節の列としては、決して扱わない。ヘカシストは、おそらくあからさまな言葉だけの意味を超えた「神秘的な」内的意味を持つ、イイススの祈りを単なる音節の列として繰り返すことは、無意味であり、危険だとさえ考えている。イエス・キリストの実際の真の祈りを強調することは、物理的な動作/声と意味が完全に不可分であるという東洋のマントラの理解を反映している。

心への精神の下降は、ヘシカズムの実践者によって文字通りに受け取られるのではなく、比喩的に考えられる[18]。文書で説明されている心身技法のいくつかは、精神が自然に下降するのが困難なときに、精神が心に下降するのを助ける。

この段階での目標は、心に思いを込めてイエスの祈りを実践することであり、その実践にはイメージがない(Pros Theodoulon参照)。素面(誘惑的考えに対する精神的禁欲)を実践することによって、ヘシカストは知性を心の中に持ち、イシススの祈りを絶え間なく実践し、イメージの自発的な開始によって意識がもはや妨げられないところに到達する。ヘシカストの知性は、イイススの祈りの永遠の繰り返しによってのみ中断されるある種の静寂と空虚を持つ。

この段階は精神の守護者と呼ばれる。これは、禁欲的精神的な実践の非常に高度な段階であり、特に心身技法を使用して、これを時期尚早に達成しようとすると、ヘシカストと成りえたはずの者に、非常に深刻な精神的および感情的な害を与える可能性がある。隠遁者フェオファン (St. Theophan the Recluse, 1815-1894)は、人々は神の霊を得られず、「自分の肺を台無しにする」ことになるため、体の姿勢や呼吸法は自分が若い頃は事実上禁止されていた、と述べたことがある。

精神の守護はヘシカストの実践目標である。その状態は、ヘクシストが死に至るまで、当然のように日々守っている状態である。

イイススの祈りの実践においては謙虚さが非常に強調されており、自尊心、傲慢、自負心を残したまま進めた場合に、ヘシクカトと成りえたはずの者に降りかかる災厄について文書で大きな警告が与えられている。また、ヘシカストトの文書では、ヘシクカストは正教会員であると想定されている

テオーシス (神成. 神化)
テオーシスは、精神の守護から、神の恩寵によって、観想へと引きあげられたものである。

ヘシカストは通常、神の感想を光、グレゴリオ・パラマス神学の「創造されていない光」として体験する。神の恩寵によってそのような経験を与えられたとき、ヘシカストは長期にわたりその経験にとどまることはなく(例外は、聖フィロテオス・コッキノス(Philotheus I of Constantinople, 1300c-1379)によって書かれた「佯狂者サヴァスの生涯(Life of St. Savas the Fool for Christ)」参照)、「地上に」帰還し、精神の守護の実践を続ける。

ヘシカストが経験する創造されていない光は、聖霊と同一視される。創造されていない光の経験は、「聖霊によって生きること」と結びついている。このような形での聖霊との遭遇に関する注目すべき記述は、新神学者シメオンの「グレゴリウス」(聖シメオン自身の偽名と考えられている)の啓示に関する記述や、サロフのセラフィムの生涯(1759–1833)の「モトビロフとの対話」や、より最近では、カフスカリビアのポルフィリオス長老 (Porphyrios (Bairaktaris) the Kafsokalyvite, 1906-1991) の回想(「Wounded by Love」, pp.27-31)の中に見られる。


Prelest

正教の伝統は、恍惚をそれ自体が目的として求めることに対して警告している。ヘシカズムは、正教会の教義と実践に組み込まれた伝統的な禁欲的実践の複合体であり、正教会員を浄化し、神が望むときに神との出会いに備えることを目的としている。その到達点は、清めと恵みによって、聖霊と救いを得ることである。ヘシカストの実践の過程で起こりうる恍惚状態やその他の異常な現象は、二次的なものであり、重要ではなく、非常に危険でさえあると見なされる。さらに、異常な「霊的」体験を求めること自体が、探求者の魂と心を台無しにして、大きな害をもたらす可能性がある。そのような「精神的な」経験を求めることは、精神的妄想 (Prelest, ロシア語: пре́лесть, ギリシャ語: plani)-- 素面の対義語 -- につながる可能性がある。この妄想では、人は自分自身を聖人であると信じており、その中で自分が天使やキリストなどを見ているという幻覚を持っている。この精神的妄想の状態は、表面的で利己的な方法で楽しいものだが、狂気や自殺につながる可能性があり、ヘシカスト教父たちによれば、救いを不可能にする。


典礼と聖礼

ヘシカストは、聖務日課(Divine Office)と聖体礼儀(Divine Liturgy) の典礼など、正教会の典礼と聖礼の生活に完全に参加する。しかし、隠遁者として生きているヘシカストは、聖体礼儀に参加することはほとんどなく(サロフのセラフィムの生涯を参照)、(アトスで示された実践である)イイススの祈りの手段以外での聖務日課を暗唱しないことがある。一般に、ヘシカストは、ヘシカズム実践のため、外部活動を制限する。

文書

フィロカリア(Philokalia)などヘシカストが用いる本は、4世紀〜15世紀に記された祈りと孤独な精神的禁欲に関する文書のコレクションであり、独立した多くの編集がある。楽園の梯子、新神学者シメオン(949–1022)の著作集、シリアのイサアク(7世紀)の著作集など、10世紀頃にエルサレム近くのマル・サバで、選択されギリシャ語に翻訳された。

東方正教のヘシカズム観

東方正教会のキリスト教聖職者は「東方教会で後に発展したイイススの祈りのヘシカズム的実践を警戒している。」[19] コプト正教会の聖職者であるMatta el-Meskeen神父は「ヘシカズムはその単純さから絶え間ない祈りの概念を取り除き、プログラム、規定、技術的および機械的基盤、学位、目的、結果を備えた、それ自体で謙虚な実践としての禁欲的な立場を神秘的な立場に移した。」」とコメントした[19]。

西方のヘシカズム観

西方の神学者たちは「西洋の神学者は、本質とエネルギーとの区別は、現実に基礎があるにもかかわらず、概念的な(心にある)ものではなく、現実のものである」という考えを否定する傾向がある。彼らの見方では、神における存在論的本質とエネルギーの区別を肯定することは、神の統一に関する第1ニカイア公会議[20]の教えと矛盾している[注4]。エイドリアン・フォーテスキュー (Adrian Fortescue, 1874-1923) はCatholic Encyclopedia (1909)で、「神の本質と働きの区別は、今ではめったに主張されないが、その点が正教とカトリックがもう一つの異なる原則であり続けている」と主張している[22]。フォーテスキューによれば、神は純粋な現実であるというスコラ学の理論は、パラミズムが西洋で大きな影響力を持つことを妨げた。そして、東方におけるヘシカズムの哲学的反対者たちが武器を借りたのは、まさにスコラ学からだった[22]。

いくつかの例では、これらの西方の神学者はヘシカズムを、静寂主義、カトリック教会によって非難された18世紀の神秘的なリバイバルである、キエティスム(Quietism, 静寂主義)と同一視した。これはおそらく、ヘシカズムの直訳がキエティスムであることによるものである。しかしながら、ディオクレイア府主教カリストスによれば、「『ヘシカズム』を『キエティスム(静寂主義)』と訳すことは、おそらく語源的には正当化できるが、歴史的にも神学的にも誤解を招くものである。17世紀の西方のキエティスムの特徴的な教義は、ギリシア正教のヘシカズムの特徴とは異なる」[23][24][25]。

カトリック教会はパラミズムを非難したことはなく、東方で起きた論争においてグレゴリー・パラマスの支持者だったニコラオス・カヴァシラス(1319c-1391)の典礼の朗読を使用している。聖務日課には、カヴァシラスの「ハリストス(キリスト)に在っての生命について (Life in Christ)」からの抜粋(聖書朗読の2年サイクルの第2年目の復活祭の第5週の火曜日、水曜日、木曜日)が含まれている[26]。

20世紀後半には、パラマスに対するカトリック神学者の態度に顕著な変化が見られた。そして、パラマスの復権は、列聖されていないにもかかわらず、彼を聖人と見なす西方教会を増やした[20][27][28]。西方の学者の中には、パラマスの教えとカトリック思想の間に矛盾はないと主張している者もいる[29]。カリストスによれば、カトリックと英国国教会の、西方の神学者の中には、パラマスの神学を、神の内に容認できない分裂を導入するものと見なしている者もいる。一方で、彼の神学を自分の考えに取り入れた者もいる[30][注5]。

  1. John Cassian is not represented in the Philokalia except by two brief extracts, but this is most likely due to his having written in Latin. His works (Coenobitical Institutions and the Conferences)
  2. Other authors have also speculated about Indian influences on Hesychasm via the Sufi's. Dupuche, Dunn & Cross (2003) states that Indian monks were present in Mesopotamia and Syria in the 8th and 9th centuries, while Nath yogins were in Central Asia nd Iran in the 11th century, influencing Sufi brotherhoods.
  3. Purification, and illumination of the noetic faculty, prepare for the vision of God. Without this it is impossible for man's selfish love to be transformed into selfless love. This transformation takes place during the higher level of the stage of illumination called theoria, literally meaning vision, in this case vision by means of unceasing and uninterrupted memory of God. Those who remain selfish and self-centered with a hardened heart, closed to God's love, will not see the glory of God in this life. However, they will see God's glory eventually, but as an eternal and consuming fire and outer darkness. From Franks, Romans, feudalism, and doctrine: Diagnosis and Therapy, Father John S. Romanides Diagnosis and Therapy[16]
  4. In the Catholic Encyclopedia of 1909, Simon Vailhé rejected Palamas's teachings that humans could achieve a corporal perception of the divinity, and his distinction between God's essence and his energies, as "monstrous errors" and "perilous theological theories." He further characterized the Eastern canonization of Palamas's teachings as a "resurrection of polytheism." Vailhe: "Palamas taught that by asceticism one could attain a corporal, i.e. a sense view, or perception, of the Divinity. He also held that in God there was a real distinction between the Divine Essence and Its attributes, and he identified grace as one of the Divine propria making it something uncreated and infinite. These monstrous errors were denounced by the Calabrian Barlaam, by Nicephorus Gregoras, and by Acthyndinus. The conflict began in 1338 and ended only in 1368, with the solemn canonization of Palamas and the official recognition of his heresies. He was declared the 'holy doctor' and 'one of the greatest among the Fathers of the Church', and his writings were proclaimed 'the infallible guide of the Christian Faith'. Thirty years of incessant controversy and discordant councils ended with a resurrection of polytheism".[21]
  5. For example, G. Philips asserts that the essence-energies distinction as presented by Palamas is "a typical example of a perfectly admissible theological pluralism" that is compatible with the Roman Catholic magisterium.[31] Pope John Paul II repeatedly emphasized his respect for Eastern theology as an enrichment for the whole Church, declaring that, even after the painful division between the Christian East and the See of Rome, that theology has opened up profound thought-provoking perspectives of interest to the entire Catholic Church. He spoke in particular of the hesychast controversy. The term "hesychasm", he said, refers to a practice of prayer marked by deep tranquillity of the spirit intent on contemplating God unceasingly by invoking the name of Jesus. While from a Catholic viewpoint there have been tensions concerning some developments of the practice, the pope said, there is no denying the goodness of the intention that inspired its defence, which was to stress that man is offered the concrete possibility of uniting himself in his inner heart with God in that profound union of grace known as theosis, divinization.[32][33][34]

References
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  30. Kallistos Ware in Oxford Companion to Christian Thought (Oxford University Press 2000 ISBN 0-19-860024-0), p. 186.
  31. Christensen, Michael J.; Wittung, Jeffery A. (2007). Michael J. Christensen, Jeffery A. Wittung (editors), Partakers of the Divine Nature (Associated University Presses 2007 ISBN 0-8386-4111-3), p. 243. ISBN 9780838641118. Retrieved 2014-02-06.
  32. "Pope John Paul II and the East Pope John Paul II. "Eastern Theology Has Enriched the Whole Church" (11 August 1996). English translation". Rumkatkilise.org. Archived from the original on 12 April 2016. Retrieved 2014-02-06.
  33. "Original text (in Italian)". Vatican.va. Retrieved 2014-02-06.
  34. Pope John Paul II (11 August 1996). "Eastern Theology Has Enriched the Whole Church". CatholicCulture.org. Archived from the original on 26 September 2007. Retrieved 8 May 2022.

Sources
  • Dupuche, John R.; Dunn, Geoffrey D.; Cross, Lawrence (2003). "Sufism and hesychasm". In Bronwen, Neil (ed.). Prayer and spirituality in the early church vol. 3: liturgy and life. Pauls Publications in association with the Centre for Early Christian Studies.
  • Palmer, G. E. H.; Ware, Kallistos; Sherrard, Philip (1999). The Philokalia: The Complete Text. Vol. 4. Faber and Faber. ISBN 0-571-19382-X.
  • Parry, Ken (1999). The Blackwell Dictionary of Eastern Christianity. Malden, MA: Blackwell Publishing. ISBN 0631232036.
P-ayne, Daniel Paul (2006), The Revival of Political Hesychasm in Greek Orthodox Thought: A Study of the Hesychast Basis of the Thought of John S. Romanides and Christos Yannaras (PDF), Baylor
'Web-sources''
  • Encyclopedia Britannica, Hesychasm
  • Cassian, John. "10–11". Conferences. Fathers. New advent. Retrieved 2014-02-06.
  • Encyclopedia Britannica, Gregory of Sinai

Further reading
Early monasticism
19th-20th century
  • The Way of the Pilgrim
  • St Silouan the Athonite. (Contains an introduction by Archimandrite Sophrony (Sakharov), immediate disciple of St Silouan, together with the meditations of St Silouan (1866–1938).)
  • Works of Archimandrite Sophrony (Sakharov) (1896–1993).
  • Elder Joseph the Hesychast. (Life of a very influential Hesychast on Mt Athos who died in 1959.)
  • Monastic Wisdom. The Letters of Elder Joseph the Hesychast.
  • Wounded by Love. The Life and the Wisdom of Elder Porphyrios. (Reminiscences and reflections of Elder Porphyrios (1906–1991) of Mt Athos.)
  • Works by Elder Paisios (1924–1994) of Mount Athos. (A very well known Athonite Elder and Hesychast.)
  • Elder Ephraim of Katounakia. Translated by Tessy Vassiliadou-Christodoulou. (Life and teachings of Elder Ephraim (1912–1998) of Katounakia, Mt Athos, a disciple of Elder Joseph the Hesychast.)
  • Hieromonachos Charalampos Dionusiates, O didaskalos tes noeras proseuches (Hieromonk Charalambos of the Monastery of Dionysiou, The Teacher of Mental Prayer). (Life and teachings of Elder Charalambos (1910–2001), sometime Abbot of the Monastery of Dionysiou, Mt Athos, and a disciple of Elder Joseph the Hesychast. In Greek, available in English.)
  • Works of Archimandrite Aimilianos (1934–2019) of the Monastery of Simonos Petra, Mt Athos, especially Volumes I and II.
  • Counsels from the Holy Mountain. Selected from the Lessons and Homilies of Elder Ephraim. (Archimandrite Ephraim of the Monastery of St Anthony, Florence, Arizona. Formerly Abbot of the Monastery of Philotheou on Mt Athos, and a disciple of Elder Joseph the Hesychast. Not to be confused with Elder Ephraim of Katounakia.)

Secondary
  • Hesychasm: an annotated bibliography, Sergey S. Horujy, Moscow 2004.
  • Johnson, Christopher D. L. (2010). The Globalization of Hesychasm and the Jesus Prayer: Contesting Contemplation. London: Continuum. ISBN 978-1-4411-1886-8. OCLC 686775525.
  • Paths to the Heart: Sufism and the Christian East, edited by James Cutsinger

External links





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