チューリッヒ (Zürich,Züri / Zurich / Zurigo)
基本情報
スイス連邦
チューリッヒ
面積87.88 km2
総人口376,008人
人口密度4,092人/km2
市長Corine Mauch (スイス社会民主党
詳しくはスイスの行政を参照



概要

チューリッヒ(ドイツ語: Zürich, )は、スイス最大の都市でチューリッヒ州?の州都である。スイス中央部にあり、チューリッヒ湖の北西端に位置している。チューリッヒ市の人口は約390,000人で、チューリッヒ都市圏地域には200万人近くが居住している。チューリッヒは鉄道、道路、航空など交通の要衝で、チューリッヒ空港やチューリッヒ中央駅共にスイスでは最大規模で交通量が多い。7,000年間継続的に人が居住しているが、チューリッヒはローマ人により創建された紀元前15年のトゥリクムTuricumと呼ばれていた時代に遡る。中世、チューリッヒは独立性と帝国直接身分(英語版)を得ており、1519年にはフルドリッヒ・ツヴィングリが導くスイスのドイツ語圏でのプロテスタント宗教改革の発祥とその中心であった。

チューリッヒは欧州有数の世界都市であり、2016年に発表された「世界の都市総合力ランキング」では、世界16位と評価された。また、世界の巨大な金融センターの一つに含まれる。2017年の調査によると、世界11位の金融センターであり、ヨーロッパの都市ではロンドンに次ぐ2位である。街には多くの金融機関や大手銀行、研究開発センターが立地している。これは、法人税率の低さが海外の企業が本社を設置する際に魅力的であるためである。ライフスタイルマガジン (Monocle) の2012年の生活の質の調査 "Quality of Life Survey" でチューリッヒはリストされた25都市中1位であった。いくつかの調査によれば、2006年から2008年にチューリッヒは世界で最も居住に適した都市 との評価があり、同様にヨーロッパでは最も裕福な都市とされた[9][10][11]。2014年、アメリカのシンクタンクが公表したビジネス・人材・文化・政治などを対象とした総合的な世界都市ランキングにおいて、世界第31位の都市と評価されており、同国では第1位である。治安・教育水準・各種インフラ等バランスよく整っている。なかでも金融においてはひときわ有名であり、数多くの金融機関・投資ファンド・投資家が存在している。特にチューリッヒに拠点を置く投機筋は「チューリッヒの小鬼」と呼ばれ国際市場に大きな影響力を持っている。国際サッカー連盟(FIFA)をはじめとして、多くの国際機関・国際団体の本部も存在する。多くの博物館や美術館がチューリッヒ市内には立地しており、その中にはスイス国立博物館やチューリッヒ美術館が含まれる。チューリッヒはまたドイツ語圏では最も重要な劇場の一つがある。

地理

チューリッヒは、アルプス山脈の北側 30キロメートル (19 mi)にあるチューリッヒ湖の北端に位置し、海抜は408 m (1,339 ft)である。森林に覆われた東西の丘陵地に周囲を囲まれている。旧市街はリマト川の両岸に開けている。リマト川はチューリッヒ湖から流れ出し、はじめは北側に向かって流れ、徐々に西に向きを変える。チューリッヒの地理的、歴史的な中心はリンデンホーフの丘で、この丘は小さな自然の丘でリマト川の西岸にあり、リマト川の起点であるチューリッヒ湖から700 m (2,300 ft)北の地点に位置する。今日一体化した市街地は、ある程度丘陵地の自然の水路境界を超え北東部のグラット谷(英語版)(Glattal)や北部のリマト谷(英語版)(Limmattal)へ伸びている。旧市街の範囲はシャンツェングラーベン運河で容易に分かる。この人工的な運河は17-18世紀のチューリッヒ要塞建築時に利用された。

歴史

初期の歴史

チューリッヒ湖周辺では新石器時代や青銅器時代の集落が発見されている。ローマ以前である、ラ・テーヌの集落もリンデンホーフの丘の近くで発見されている。ローマ・ガリアの時代、トゥリクム Turicum はガリア・ベルギカ(90年からはゲルマニア・スペリオル)とラエティアの国境としてリマト川を行き来する交易の税関であった。後に318年に皇帝コンスタンティヌス1世の改革により、ガリアとイタリア(ローマ帝国の行政区画の4つのうちの2つ)の間の国境はトゥリクムの東に位置しヴァレン湖とチューリッヒ湖の間のリント川を横切っており、城や駐屯部隊はトゥリクムの安全を見守っていた。初期に書かれた記録では街の歴史は2世紀からでリンデンホーフで発見された墓石が示している。

5世紀にゲルマン人の部族連合アラマンニ人がスイス高原に定住するようになった。ローマの城は7世紀までは残っていた。カロリング朝の城がカール大帝の孫であるルートヴィヒ2世によりローマの城跡に建てられ、835年に言及されている。 ルートヴィヒはまた、853年に娘のヒルデガルド(Hildegard)のために聖母聖堂を設立した。彼はベネディクト会の女子修道院とチューリッヒの土地、ウーリ、アルビスの森が授けられ、直接統治におくことにより修道院に庇護を与えた。1045年、ハインリヒ3世は修道院に対し、市場の保持や通行税の徴収、貨幣の鋳造などの権利を与え修道院は効果的に街の支配者となった。

チューリッヒは1218年に帝国直接身分(帝国自由都市、Reichsunmittelbar)となり、ツェーリンゲン家の主流の消滅と国家の地位と同等の地位を達成している。1230年代、38ヘクタールを囲む城壁が築かれレンヴェーク(Rennweg)の上の初期の石造の建物も築かれた。カロリングの城は荒れ果て始め、石切り場として使われていた。フリードリヒ2世は1234年に聖母聖堂の修道院院長の階級を公爵に格上げした。修道院院長は市長を任命し、彼女は街の市民に硬貨の鋳造をしばしば委任した。14世紀には修道院の政治的な力は徐々に衰え、小商人、手工業者などによる自治運動が高まり、1336年にルドルフ・ブルンによりギルドのシステム(Zunftordnung)が組織され、彼は最初の修道院長によって任命されない独立した市長となり平民も自治に参加する様になった。

14世紀初期の重要な出来事にはマネッセ写本の完成で、中世ドイツ詩の鍵となる資料の一つである。この有名な装飾写本は「世紀の最も美しく照らされたドイツ語の写本」として言い表され、写本はチューリッヒのマンネッセ家の依頼により、1304年から1340年の間に写本され、挿絵が施された。このような写本を作り上げるには高度に熟練した写本筆写者の何年もの作業を必要とし、非常に高く付く威信のかかったプロジェクトで、それは明らかにこの時代に増えたチューリッヒ市民の富と名誉を証明している。

スイス原初同盟


古チューリッヒ戦争の一場面
1351年5月1日、チューリッヒ市民(imperial immediacy)はルツェルンやシュヴィーツ、ウーリ、ウンターヴァルデンのスイス原初同盟(Eidgenossenschaft)のメンバーに忠誠を誓わなければならなかった。チューリッヒは同盟の5番目のメンバーとなり、この時点で同盟は事実上緩やかな独立国の連合であった。チューリッヒは1468年から1519年までカントンの議会の主宰を務めていた。この機関は中世からスイス連邦が成立する1848年まで同盟の立法と法の執行機関であった。チューリッヒは1440年に一時的に同盟から追放されたが、これは他のメンバー国とのトーゲンブルク(Toggenburg)の領土の争いによる戦争(古チューリッヒ戦争)によるものであった。1446年に和平合意が成された時にはどちらも意味のある勝利には達しておらず、チューリッヒは1450年に同盟に再加盟している。


1576年頃のチューリッヒの街を表した地図 Murerplan
フルドリッヒ・ツヴィングリ(1484-1531)は1520年代にグロスミュンスター(英語版) で主要な聖職者を務めていた時にスイスの宗教改革を始めた。チューリッヒ聖書はツヴィングリの編纂を基本とし、1531年に発行された。宗教改革の結果、国の状況やチューリッヒの市民生活は大きく変わり、その影響は他の多くのカントンにも広がって行った。いくつかのカントンではカトリックが残り、それが元になり深刻な争い(第一次カッペル戦争)からついには第二次カッペル戦争(ドイツ語版、英語版)が勃発している。16世紀から17世紀の間、チューリッヒの議会は孤立主義的な態度を取り、その結果、1624年に第二の壮大な城郭が築かれている。ヨーロッパ各地で激しさを増した三十年戦争は都市に城壁を築く動機付けとなった。要塞には多くの資源を必要とし、それはいかなる合意にも達すること無く支配領域から集められた。後に続いた反乱は容赦なく潰されている。

1648年、チューリッヒは都市自体を共和国として宣言し、以前の帝国自由都市の地位を捨て去った。

1798年のヘルヴェティア革命では旧体制の陥落が見られ、チューリッヒは土地とその経済的特権の支配を失い、街とカントンは所有権は1803-1805年の間、分離されていた。1839年には9月6日の地方の保守主義者の反乱であるチューリッヒのクーデター(英語版)(Züriputsch)の後、要求に屈しなければならなかった。17世紀に築かれた城壁のほとんどは、都市の覇権に対する地方の懸念をかつての城壁による包囲なしで消すためにほとんどは取り除かれた。チューリッヒ条約がオーストリア、フランス、サルデーニャの間で1859年に署名された。

近代


1900年のバーンホフ広場
チューリッヒは1839-1840年の連邦の首都で、1839年の保守政党の勝利はスイスのあちこちで大きな物議を引き起こした。しかし、1845年に急進派がチューリッヒで再び力を得るとチューリッヒは再び1845-1846年に連邦の首都となり、チューリッヒは分離同盟のカントンには反対でリードを奪った。分離同盟戦争に続いてスイス連邦が形成され、チューリッヒは1848年と1874年にスイス連邦の憲法に賛成票を投じている。非常に多くのチューリッヒへの移民の流入は1830年以降、街に労働者階級の生活の場を作ったがこれらの人々は市民権を持っておらず自治体には関わっていなかった。これまで高い税だけを支払っていた移民にも1860年に学校が開かれ、次に1875年に居住10年の住民に市民権が与えられている。広範囲な開発は19世紀に行われた。1847年からはスイスの領域では初の鉄道であるSpanisch-Brötli-Bahnがチューリッヒ中央駅に乗り入れ、これはスイスの鉄道網の発祥であった。現存する中央駅の駅舎は1871年に遡る。バーンホフ通りは1867年に敷かれて、チューリッヒ証券取引所は1877年に設立されている。工業化は街に移住をもたらし、この間人口は特にチューリッヒ郊外で急増し1893年には11の街の外側の地区がチューリッヒに編入された。第二次世界大戦ではチューリッヒは枢軸国からの空襲の被害を受けている。

市政

市評議会(Stadtrat) はチューリッヒ市の行政府を構成しており、都市参事会として運営されている。9人の議員で構成され、それぞれが各部門を統轄している。行政部門の長は市長の役割を担っており、現在の市長はコリーネ・マウフ(英語版)である。部門別の任務や調整、市議会により議決された法律の執行は市評議会により行われる。市評議会の選挙は登録された有権者により4年ごとに行われている。行政府の会議はリマト川河岸の市庁舎で行われる。市庁舎は1883年にルネサンス様式で建てられた。 一方、市議会(Gemeinderat)は立法府として機能しており、125名の議員で構成され4年ごとの選挙で選出されており市議会は市評議会と当局により執行される規則と法律を命じる。市議会の審議は公開されていて、市評議会のメンバーとは異なり市議会のメンバーは政治家ではないが彼らは出席に応じて報酬が支払われている。投票可能なチューリッヒのどの市民でも市議会のメンバーとして選ばれることは可能である。市議会の審議は市庁舎と反対側のタウンホールで行われている。

2010年現在、チューリッヒ市評議会はスイス社会民主党が4人(1人は市長)、スイス自由民主党が2人、緑の党が2人、スイスキリスト教民主党が1人で構成されている。

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