家族
家族は、おそらく人間が歴史にのこす最後のものである。
モダニストは家族を桎梏としておもいえがく。そして自由な男女の性愛が可能であると錯覚する。しかり、家族はたしかに桎梏である。しかし、この桎梏なるものは家族からくるのではなく、つねに家族外から、つまり経済社会構成から、つまり政治的国家からやってくるので、家族そのものの本質からくるのではない。そこで、ただ本質的にのみ語れば、家族は人間が性の現実的場面を喪わないかぎり存在することを続ける。自由な男女の性愛という概念は、自由な差別なき社会あるいは世界という概念とけっして等価ではないが、後者は前者の必須条件のひとつである。
(「解説−平岡正明『地獄系24』−」1970.8芳賀書店に掲載 「詩的乾坤」1974.9国文社に収録された)
人間の個体が性(セックス)として現われざるをえない場所である。つまり、人間が男あるいは女として現れざるをえない場所である。
(「南島論」1970.9.3筑摩総合大学講座於紀伊国屋ホール 1970.12「展望」に掲載「敗北の構造」1972.12.15弓立社に収録された)
隆明鈔--吉本隆明鈔集
モダニストは家族を桎梏としておもいえがく。そして自由な男女の性愛が可能であると錯覚する。しかり、家族はたしかに桎梏である。しかし、この桎梏なるものは家族からくるのではなく、つねに家族外から、つまり経済社会構成から、つまり政治的国家からやってくるので、家族そのものの本質からくるのではない。そこで、ただ本質的にのみ語れば、家族は人間が性の現実的場面を喪わないかぎり存在することを続ける。自由な男女の性愛という概念は、自由な差別なき社会あるいは世界という概念とけっして等価ではないが、後者は前者の必須条件のひとつである。
(「解説−平岡正明『地獄系24』−」1970.8芳賀書店に掲載 「詩的乾坤」1974.9国文社に収録された)
- 本当をいえばこの家族の桎梏の体験にはかなりな個人差があるわけなのだろう。だから私も簡単にはいえない。ただその桎梏のよってくるものはかなりはっきりしているように思える。しかし、その最後の先に人間がいくこともあるのだろうか。そのとき家族はどうなるのだろう。
人間の個体が性(セックス)として現われざるをえない場所である。つまり、人間が男あるいは女として現れざるをえない場所である。
(「南島論」1970.9.3筑摩総合大学講座於紀伊国屋ホール 1970.12「展望」に掲載「敗北の構造」1972.12.15弓立社に収録された)
- かなり分かりやすい定義だと思う。人類がこの後どうなっていこうとも、この家族そのものは変わりないということだろう。
隆明鈔--吉本隆明鈔集
2006年12月08日(金) 22:16:28 Modified by shomon