純粋疎外
わたしがいまAはかくしてBと同一であるにちがいないと判断したとする。このばあいA(なる物体でも事象でもよい)はわたしの判断作用にたいして外的な対象性であるかのように存在することができる。古典哲学が理性的な判断をわたしが所有するというとき、あたかもAなる対象がわたしの判断にたいして対象的な客観であるかのような位相を意味している。しかし、Aなる理性的対象とわたしの判断作用の位相はここに固定されるものではない。この位相は、あたかもAなる対象性とわたしの判断作用とがきり離しえない緊迫した位相をもつこともできる。つまり、Aはかくかくの理由でBと同一であるにちがいないというわたしの判断が、この判断対象ときり離すことができず、わたしにとって先験的な理性であるかのように存在するという位相である。ここで純粋化された理性の概念が想定される。わたしたちは、このような純粋化の心的領域を、原生的疎外にたいして純粋疎外と呼ぶことにする。
(「心的現象論序説」1971.9.30北宋社)
隆明鈔--吉本隆明鈔集
(「心的現象論序説」1971.9.30北宋社)
- 「心的現象論」に入り込まなければならなくなっていく自分を大いに感じてしまう。原生的疎外にのみのときの赤ん坊ではなくなった私たちは、何故かそれでもさまざまなことで悩んでしまうわけだ。この悩んだり、考えたりすることが年をとるごとに大きくなっていってしまうところが、人間なのかもしれないなと思ってしまうのだ。
隆明鈔--吉本隆明鈔集
2006年12月09日(土) 14:47:15 Modified by shomon