女性にふられる体験
女性にふられるという体験は、男性にとって、ほんとうは神にちかい珍しい契機なのです。そういう場合に、むしろふった女性のほうは無意識のうちに、いちばん獣にちかいところにあるといえましょう。そこのところが女性にとってもっとも考えどころなんです。生涯のうちで若くていちばんきれいな時に、たくさんの男性にいい寄られたという体験を、みなさんお持ちかもしれませんが、そういうときがものを考える契機をつかむ時期です。
(「自己とはなにか」1971.5.30筑摩総合大学講座講演於紀伊国屋ホール 1971.8「鉱脈」第3号に掲載 「敗北の構造」1972.12弓立社に収録された)
隆明鈔--吉本隆明鈔集
(「自己とはなにか」1971.5.30筑摩総合大学講座講演於紀伊国屋ホール 1971.8「鉱脈」第3号に掲載 「敗北の構造」1972.12弓立社に収録された)
- これはまさしくよく見られる現象である。私は、こうした体験でその後の生涯をおもいちがえてしまった女性たちをたくさん知っている。いやこれは女性のみのことではなく、逆に男性の場合も同じなのだ。ここが大事な時、大切な契機なのだ。
- この講演集には副題がついている。「キルケゴールに関連して」というものだ。キルケゴールにはオルセン体験というのがあるという。オルセンという女性に結婚を申し込み、婚約して、そのあと自分から婚約を破棄するという体験である。これは、本当はキルケゴールがオルセンからふられたのだろうと吉本さんはいうのだ。
- 失恋とは誰でも苦しく、できたら避けたいものなのだが、こうした体験はかなり大事な契機を自分にもたらすのだ。若いときは、とくに女性は若さのみでいい寄られたりすることが多々あるわけで、またもちろん若い男性でも同じだと思うが、その時にかなりなことを自己のうちにもっていないと、その後の人生のコースを狂ってしまうように思う。私は、自分が高校生のときいかにもてたかという思い出だけで生きている女性を知っている。また大学のときに何人かの男性にいい寄られ、当然みんなをふってしまい、ただただその思い出だけでまた生きている女性を知っている。今になって急に思いつめたように「相談がある」というので会ってきいてみると、過去のそれらの思い出で生きているだけなのだ。私はただただ困惑してしまう。いったいどう話をすればいいのだろうか。本当の自分にではなく、ただ自分の若さのみがもてていたのだということが理解できればいいのだが、もう30代後半から40代になってしまっていると、もうそこのところは分かろうとしないのだ。
- 失恋をして、つきつめて自己を考えること、自己の卑小さを考えることはけっして無駄ではない。自分のこの想いを相手に届けることが出来なかった、そんな駄目な存在だったと考えることは、かなりとくをしたことなのだ。
- 私はもはや30代、40代の人にこれをいうことはできない。10代、20代の人にはよくいっている。とくに女性にはいうようにしている。いい寄られたときこそ、自己を相対化して、自己を対象化してみないといけないよ、と。美人は損だというのも案外ここらへんにあるように思っている。
隆明鈔--吉本隆明鈔集
2006年12月09日(土) 13:36:23 Modified by shomon