親鸞は橋が架っている
本当の思想というものが、もしあるとすれば、国家として嘘をついているとか、共同体として嘘をついているとか、組織として嘘をついているいるとか、あるいは、じぶんとして嘘をついている、じぶんの内面に嘘をついているとかいうことと、本当に正しいということとの間に橋が架かっていないといけないとおもうんです。親鸞は橋が架かっている。橋が架かっていない思想はぼくは信じない。正義なんて、ぼくは信じていない。正しいことを云うなんてやさしいんですよ。理念的に正しいことを云うことはやさしいんですよ。人間は、そんなの、ちょっと教養、知識があればできるんですよ。ぼくはそう確信します。しかし、そんなことたいしたことじゃないとおもいます。そうじゃなくて、嘘をついていることと、正しい理念というものと、両方に橋が架かっていることが大切なことで、それがなければ思想はゼロに等しいというのがぼくの考えです。日本の思想家の中で上代から現代まで全部含めていいのですが、親鸞だけが、程度はあるでしょうけれど、橋を架けているように思えて仕方ないので、ぼくは学生のときから好きでした。けっして信仰者じゃないです。
(「『最後の親鸞』以後」1977.8.5真宗大谷派関係学校宗教教育研究集会における講演於東本願寺池ノ平青少年センター 「春秋」1977.12春秋社に掲載 「信の構造吉本隆明全仏教論集成」1983.12.15春秋社に収録された)
隆明鈔--吉本隆明鈔集
(「『最後の親鸞』以後」1977.8.5真宗大谷派関係学校宗教教育研究集会における講演於東本願寺池ノ平青少年センター 「春秋」1977.12春秋社に掲載 「信の構造吉本隆明全仏教論集成」1983.12.15春秋社に収録された)
- ただ正しいことをいうよりも、嘘をついていることのほうが多いはずなのだから、正しいこととの間に橋を架けなければ、その思想はもはや存在する価値はない。だが、正しいことをいっていればそれですんでしまうというような思想がなんと多いことだろうか。親鸞のこの姿勢はすべてに見えてくるわけなのだが、それだからこそ、いまでも生きている親鸞の思想なのだと思う。
隆明鈔--吉本隆明鈔集
2006年12月10日(日) 12:46:24 Modified by shomon