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ちびまる子ちゃん
さまざまな分析の仕方ができるでしょうが、子どものころ感じたり、やったりしたことの記憶の再現が、とびぬけて微細にみごとで、しかもたれもが忘れてしまっているのに、再現されるとあっとおもいあたるようなことが物語の内容になっているのです。そこが「ちびまる子ちゃん」という作品の特徴であり、たくさんの人に読まれている理由の第一だとおもわれます。(「今の社会とことば」1990.12.12講演於白梅学園短期大学 「大情況論」1992.3弓立社に収録された)
:| この漫画を読んでいると、やはり自分の子どものときあったこ
https://seesaawiki.jp/w/shomon/d/%a4%c1%a4%d3%a4%d... - 2006年12月10日更新
消費社会の核心
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第三次産業において、わたしたちは生産が物(商品、製品)の手ごたえ、感覚的な反射から距てられたところからうまれる不定さ、視覚的、触覚的な物の、映像化による非実在感などに由来する不安に対応する方法をもちあわせていないこと。ボードリヤールの見解と反対に、消費行動の選択に豊かさや多様さ、格差の縮まりまどが生じていること。そこに核心があるようにおもえる。もっといえばこういう消費社会の肯定的な表象の氾濫に対応する精神の倫理をわたしたちはまったく編みだしておらず、対応する方途を見うしなっているところに核心の由来がある
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消費は遅延された生産
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わたしたちが分析し解剖したいのは、消費社会と呼ぶのがふさわしい高度な産業社会の実体なのだが、この画像はふたたび動物一般の、社会に似ているようにおもえる。動物一般の社会は(ほとんど)意図的な生産をやらないで消費行動だけをやって、あとに残余としてとりあげている高度な消費社会でも、意図的な高度な生産をあたかも生産が(ほとんど)行われないかのように考察の彼方へ押しやり、消費行動だけが目に立つ重要な行為であるかのようにあつかおうとしている。これはラセン状に循環して次元のちがったところで動物一般の社会に復帰している
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生まれたことの意味
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「生まれたことの意味」ということですが、「生まれる」ときはどこに生まれてくるか選択性はないわけです。どんな環境、どんな場所で、いつ生まれたか、ということに個人はなんの責任もない。またそういう偶然がどういう考え方を育てていったかについても、また責任がないんですね。いまの若い人が社会についてあんまり考えないことを、「生まれたこと」に還元してしまえば、なんら責任のないことで、善でも悪でもないですね。つまり、そういうことは、誕生やその前後のこととしていえば、その人がいつの時代にどうやって生まれたか、そして考え方の
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団塊の世代の課題
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不服ならば、じぶんたちが、イメージでいいんですが、そのイメージのなかで経済的にも社会的にも政治的にも体制的にも反物語を創っていくべきだと思います。その課題を受けもつとすれば団塊の世代の人たちが中心にそれを背負わなければいけないとおもうのです。背負うべきだとはけっしていいません。背負うべきだと主体に感じたとき背負えばいいとおもいます。
(「一九七〇年代の光と影」1990.3.27講演於紀伊國屋ホール 「マリ・クレール」1990.7掲載 「大情況論」1992.1弓立社に収録された)
:| 私は当然団塊の世代
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相撲
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相撲はたぶんボクシングとともに、いちばん土俵やリング外のはげしい修練と集中心と足腰や身体の訓練が必要なスポーツにちがいない。土俵上の一瞬の立ちあいや、リング上の単調にみえる打ち合いの背後に、たゆまない修練が感じられるため、わたしたちはその膨大な修練の暗喩として一瞬の勝負や三分間の打ち合いをみているのだとおもう。
(川端要壽「春日野清隆と昭和大相撲」序文1990.2河出書房新社)
:| 東京下町の子どもであった吉本さんはよく遊びで相撲をやったのだと思う。その遊びである相撲と大相撲の違いは何なのか。これは多
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