諸葛亮孔明「梁甫吟」
諸葛亮孔明がまだ劉備に出会わないころのこと、南陽の隆中で隠栖していたときに、常にこの歌を詩っていたといわれます。
土井晩翠「天地有情」の「星落秋風五丈原」の一節にこうあります。
嗚呼南陽の舊草廬
二十餘年のいにしえの
夢はたいかに安かりし、
光を包み香をかくし
隴畝に民と交われば
王佐の才に富める身も
たゞ一曲の梁父吟
この最後の梁父吟というのがこの詩です。「三国志」の「蜀志」に「諸葛亮」好んで梁甫吟を為す」とあります。この詩は正確には孔明の作ったものではないでしょう(漢文の参考書には孔明の作としているものはあります)。だが、孔明が好んで詠っていたということで、おそらく孔明自身もこれと同じような詩を作っていたのではと私は推測します。そんなことで孔明の詩として紹介します。
梁甫吟(註1)諸葛孔明
歩出齊城門 歩して斉の城門を出で
遥望蕩陰里 遥かに望む蕩陰里(註2)
里中有三墓 里中に三墓有り
累累正相似 累累として正に相似たり
問是誰家塚 問う是れ誰が家の塚ぞと
田彊古冶氏 田彊古冶氏
力能排南山 力は能く南山を排し
文能絶地紀 文は能く地紀(註3)を絶つ
一朝被讒言 一朝讒言(註4)を被りて
二桃殺三士 二桃三士を殺す
誰能爲此謀 誰か能く此の謀を為せる
國相齊晏子 国相斉の晏子なり
(註1)梁甫(りょうほ) 梁父ともいう。斉の泰山の麓にある山。
(註2)蕩陰里(とういんり) 斉城の近くの村里名。
(註3)地紀 「地維」に同じく、地を維持するつな。絶(き)れると地が傾き覆る。古の伝説によると、天柱地維があって天地が保たれると考えた。
(註4)讒言 春秋時代の斉の名相晏平仲が景公に請うて、公孫接(こうそんしょう)・田開彊(でんかいきょう)・古冶子(こやし)の三子に二個の桃を与えさせた。晏子は三士に、「三士は何の功あってその桃を食うか」と詰る。公孫接は「大豕や虎も一打ちに捕らえる力があるためだ」と答え、田開彊は「伏兵を設けて再び敵を奔らせた功がある」という。古冶子は「われは君に従って黄河を渡った時、大亀が添え馬を咥えて河に入ったので亀を殺し馬の尾を握って水中から出た。その亀は河伯という黄河の神であった」という。二士は古冶子に及ばないのに桃を食うのは貪ることであると考え、貪欲の不名誉を受けて死なないのは勇気がないことになるというので自殺した。古冶子は二子が死んだのに自分が生きているのは不仁である、人をはずかしめて名声を得るのは不義である、こんな遺憾な行いをして死なないのは、勇がないことになると考えてまた自殺した。
このことは斉の国相晏子が、この三士が自分に対して起って礼をしなかったことを意に含んで陥れたのであった。これを「二桃三士を殺す」という。(晏子春秋)
歩いて斉の城門のそとに出て
遥かに蕩陰里を眺めると
里に三つの塚が見える
相重なって皆似ている
これは誰の墓であろうか
これこそ田開彊・古冶子・公孫接の墓である
彼らは、体力は南山を押し退けるほどに足り
学徳は地維を絶地天地を動かすほどの人たちだった
ところが一朝讒言を被って
二個の桃がこの三士を殺すことになった
誰がこの謀をしたのだろう
それは斉の国相晏子のやったことである
晏子は優れた人物といわれていたのですが、たいへんに心の狭い人間でこの三士が礼を失したというので、こうした策略を謀ったというわけです。それにひきかえ三士の心こそ誠に壮烈で、その死は惜しむべきであるというわけです。孔明は晏子の狭量を責めているわけです。
と以上のように私は思ってきました(かつそのような解釈の参考書が多い)。だがちかごろは、どうも孔明の心は違うのではないかと思い至りました。たった桃二つで、勇者3人をかたずけることのできた晏子をこそ誉めているのではないのかと思い至ったのです。孔明はとにかく自分も晏子のような人物になりたいと言っていましたから。そしてこの3人が当時の斉の国の為には邪魔な人物だったのかもしれません。孔明はさらに、この3人もそれを知ってわざわざ死んでいったのだといいたいのかなとまで思いました。
この歌を詩って孔明はこの南陽の隆中で隠栖生活をしていたわけです。このときの孔明のことを、「臥龍」とか「伏龍」とかいうわけです。それで二七歳のときに劉備玄徳の三顧の礼を受け、いよいよ世に出ていくことになります。
これはいわば孔明のころよく歌われていた民謡とか歌謡曲といえるのかもしれません。「槊を横たえ詩を賦す」という曹操の「短歌行」の悲壮慷慨の気とはかなり感じが違うといえるかと思います。これが、白面の天才青年軍師というよりは、生真面目な農村の秀才肌の青年といった姿が孔明の真の姿ではないのかなと、私が思うところなわけなのです。
そしてそんな姿の孔明こそ私は好きになれるのです。
(なお晏子については、宮城谷昌光「晏子」 も読んでみてください)
周の漢詩入門
周の三曹の詩
土井晩翠「天地有情」の「星落秋風五丈原」の一節にこうあります。
嗚呼南陽の舊草廬
二十餘年のいにしえの
夢はたいかに安かりし、
光を包み香をかくし
隴畝に民と交われば
王佐の才に富める身も
たゞ一曲の梁父吟
この最後の梁父吟というのがこの詩です。「三国志」の「蜀志」に「諸葛亮」好んで梁甫吟を為す」とあります。この詩は正確には孔明の作ったものではないでしょう(漢文の参考書には孔明の作としているものはあります)。だが、孔明が好んで詠っていたということで、おそらく孔明自身もこれと同じような詩を作っていたのではと私は推測します。そんなことで孔明の詩として紹介します。
梁甫吟(註1)諸葛孔明
歩出齊城門 歩して斉の城門を出で
遥望蕩陰里 遥かに望む蕩陰里(註2)
里中有三墓 里中に三墓有り
累累正相似 累累として正に相似たり
問是誰家塚 問う是れ誰が家の塚ぞと
田彊古冶氏 田彊古冶氏
力能排南山 力は能く南山を排し
文能絶地紀 文は能く地紀(註3)を絶つ
一朝被讒言 一朝讒言(註4)を被りて
二桃殺三士 二桃三士を殺す
誰能爲此謀 誰か能く此の謀を為せる
國相齊晏子 国相斉の晏子なり
(註1)梁甫(りょうほ) 梁父ともいう。斉の泰山の麓にある山。
(註2)蕩陰里(とういんり) 斉城の近くの村里名。
(註3)地紀 「地維」に同じく、地を維持するつな。絶(き)れると地が傾き覆る。古の伝説によると、天柱地維があって天地が保たれると考えた。
(註4)讒言 春秋時代の斉の名相晏平仲が景公に請うて、公孫接(こうそんしょう)・田開彊(でんかいきょう)・古冶子(こやし)の三子に二個の桃を与えさせた。晏子は三士に、「三士は何の功あってその桃を食うか」と詰る。公孫接は「大豕や虎も一打ちに捕らえる力があるためだ」と答え、田開彊は「伏兵を設けて再び敵を奔らせた功がある」という。古冶子は「われは君に従って黄河を渡った時、大亀が添え馬を咥えて河に入ったので亀を殺し馬の尾を握って水中から出た。その亀は河伯という黄河の神であった」という。二士は古冶子に及ばないのに桃を食うのは貪ることであると考え、貪欲の不名誉を受けて死なないのは勇気がないことになるというので自殺した。古冶子は二子が死んだのに自分が生きているのは不仁である、人をはずかしめて名声を得るのは不義である、こんな遺憾な行いをして死なないのは、勇がないことになると考えてまた自殺した。
このことは斉の国相晏子が、この三士が自分に対して起って礼をしなかったことを意に含んで陥れたのであった。これを「二桃三士を殺す」という。(晏子春秋)
歩いて斉の城門のそとに出て
遥かに蕩陰里を眺めると
里に三つの塚が見える
相重なって皆似ている
これは誰の墓であろうか
これこそ田開彊・古冶子・公孫接の墓である
彼らは、体力は南山を押し退けるほどに足り
学徳は地維を絶地天地を動かすほどの人たちだった
ところが一朝讒言を被って
二個の桃がこの三士を殺すことになった
誰がこの謀をしたのだろう
それは斉の国相晏子のやったことである
晏子は優れた人物といわれていたのですが、たいへんに心の狭い人間でこの三士が礼を失したというので、こうした策略を謀ったというわけです。それにひきかえ三士の心こそ誠に壮烈で、その死は惜しむべきであるというわけです。孔明は晏子の狭量を責めているわけです。
と以上のように私は思ってきました(かつそのような解釈の参考書が多い)。だがちかごろは、どうも孔明の心は違うのではないかと思い至りました。たった桃二つで、勇者3人をかたずけることのできた晏子をこそ誉めているのではないのかと思い至ったのです。孔明はとにかく自分も晏子のような人物になりたいと言っていましたから。そしてこの3人が当時の斉の国の為には邪魔な人物だったのかもしれません。孔明はさらに、この3人もそれを知ってわざわざ死んでいったのだといいたいのかなとまで思いました。
この歌を詩って孔明はこの南陽の隆中で隠栖生活をしていたわけです。このときの孔明のことを、「臥龍」とか「伏龍」とかいうわけです。それで二七歳のときに劉備玄徳の三顧の礼を受け、いよいよ世に出ていくことになります。
これはいわば孔明のころよく歌われていた民謡とか歌謡曲といえるのかもしれません。「槊を横たえ詩を賦す」という曹操の「短歌行」の悲壮慷慨の気とはかなり感じが違うといえるかと思います。これが、白面の天才青年軍師というよりは、生真面目な農村の秀才肌の青年といった姿が孔明の真の姿ではないのかなと、私が思うところなわけなのです。
そしてそんな姿の孔明こそ私は好きになれるのです。
(なお晏子については、宮城谷昌光「晏子」 も読んでみてください)
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2006年12月01日(金) 11:07:27 Modified by shomon