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詩的乾坤
さいきん必要あって荻生徂徠の『国学弁』と『国学弁翼』とをよんだ。表紙の話で恐縮だが、この二冊を当世流に上・下巻などとせずに乾、坤としてあったのが気にいったので表題に借用することにした。かれら江戸期の思想家たちは、あるいはこういう小冊子でも天地を包括する思想のつもりだったのかもしれない。わたしの時評の題名は星めぐり季節はうつったが一年の文芸も詩的な乾坤のなかにあるといったつもりである。
(「詩的乾坤」1962.12「文芸」に掲載 「模写と鏡」1964.12春秋社に収録された)
:| ちょうど吉本さんは「言
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もっとも多く沈黙しているのは「死者」たちである
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安保闘争の戦士たちは多く沈黙している。もっとも多く沈黙しているのは「死者」たちである。もっとも多く喋り、しかも、もっとも情報的にしゃべっているものは何であるのか。そして、もっとも多く弁解しながら、もっとも多くたたかわないのは何であるのか。苛酷な思想闘争の現実のなかで、撓やかな鋼のようなこころで自らの思想を屹立しえないものは何なのか。敗退と挫折の認識が情況の本源の奪取への思想的なたたかいとならず、安価な反射運動と安価な内向運動へと外れてしまむ所以は何なのか。もちろん全情況の挫折を認識しないのほほん者は論外
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スターリニズム
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わたしがここでスターリニズムとよぶものは、スターリン固有の政治理念をさすものではなく、ソ連共産党を支配した官僚主義的な反対派圧殺や粛正をさすものでもない。そのレーニン主義的な「前衛」論が必然的なダイナミズムによって「前衛」主義にまで抽出される過程で、人民的な志向の核と必然的に矛盾するまで閉じられてゆく政治的な実体をさしている。はじめに、労働者階級の抽出された利害共同性を理念として成立した「前衛」論は、「前衛」主義にまで昇華する過程で、必然的な質的転換がおこり、ついに人民的利害と前衛的利害とのあいだに、あ
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ファシズム
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わたしのかんがえでは「ファシズム」は「スターリニズム」の変態である。スターリニズムに耐ええなかったものは、アナキズム、またはアナルコ・サンジカリズムをめぐり、ファシズムに循環する。そして、ファシズムはふたたびスターリニズムに円環する。この閉じられた円環をうごかすものは、情況そのものの可変性にほかならない。スターリニズムは、それ自体の構造において、情況の緊迫性にともない官僚主義に上昇するか、または、変質してファシズムにまで究極的には円環するほかはない。
(「丸山真男論」1962.1.15号から1963.2
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大衆はそれ自体として生きている
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大衆はそれ自体として生きている。天皇制によってでもなく、理念によってでもなく、それ自体として生きている。それから出発しない大衆のイメージはすべて仮構のイメージとなる。ほんとうは、大衆の日本的な存在様式の変遷如何として設定されなければならない問題を、支配ヒエラルキーが思想的に天皇制から、ブルジョワ民主主義に変わった(あるいは変わりつつある)から、大衆的な課題は、民主主義の擁護または確立にあるといった仮構のイメージで捉えることになる。これは現在の丸山学派や類縁関係にある市民主義知識人のおちいっている一般的な
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丸山真男の天皇制分析のもっとも著しい特徴
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丸山真男の天皇制分析のもっとも著しい特徴は、日本において近代国家の形成の過程で、国家主権の技術化、中性化がおこなわれず、国家が「国体」として真善美の内容価値を占有する実体として保存せられたという観点にある。これは「事実」として受取ればきわめて魅力的な考え方である。そして「理論」的には、利害の共同性の一般化、抽出がきわめてあいまいにしかおこなわれないという日本的な存在様式の特質のもんだいとなる。そこまで抽象化しなければ、戦乱のなかでの「一般兵隊」の残虐行為を「それ自体真善美の『極致』たる日本帝国は、本質的
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政治学は可能か
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「政治学」は可能か、という問いは、必然的に問うものを現実のほうへ還元させる。おなじように、現実の運動はたえず「政治学」の成立する契機をうみ出す。この相互関係は、情況によって変り、また、たえず存在する。「政治学」が、現実にたいして有効性をもとうとすれば、その径路は、たえず「体制」を通じて、という以外はない。ひとりの「政治学」者は、政治学は可能か、と問うことはできる。また問われねば「政治学」は成立しえない。これは「マルクス主義」政治学というものが、もともと成立しえない、あるいは、それ自体が、背理である理由であ
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