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言葉で表現する立場
文芸あるいは文学の立場というのは、ひとことで云いますと、言葉で表現する立場ということになるわけです。しかし文学者の根底には、話をする言葉というものは本当のことが云えないとか、なかなか通じないもんだという一種の絶望感みたいなものがありまして、そして書くというところにはいった人が多いとおもいます。ぼくなんかもそうで、話してわかることはあえて書く必要はない、そういう考え方を持っておりまして、幸か不幸か、書くほうへはいっていったわけです。
(「文芸批評の立場から人間理解の仕方」1973.11.17東京都立精神医
https://seesaawiki.jp/w/shomon/d/%b8%c0%cd%d5%a4%c... - 2006年12月10日更新
島尾敏雄の感受性の特異性
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わたしは、多少は、島尾敏雄と私的な会話を交わした経験がある。たとえばカメラというのは、たしかにうつしたのに、なにもうつっていないことがあるねえというとき、かれの感受性の特異さが、すぐにつたわってくる。それはフィルムを送りすぎたせいだとか、露出過度か過少のせいだとか、あえていう必要はない。かれの時間体験が、知らぬうちに、ひとつの空白を、とびこしていることがある。たれにもある経験だが、かれがそれに独特の意味をあたえているにすぎない。また、他人が、眼の前でみるみるうちに未知の人間との関係をつけてゆく、手さばき
https://seesaawiki.jp/w/shomon/d/%c5%e7%c8%f8%c9%d... - 2006年12月10日更新
戦争
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ほんとうに錆びてない槍を幻視したいなら、また戦争をみたいのなら、わたしたちのなんの変てつもなさそうな日常の周辺を視れば充分である。この平和な日常性に戦争を視る方法をもたないものが、どこで戦争をみつけることができよう。かれらは戦争を、銃撃パンパン、斬り込み、ゲリラの槍、とおもいこんでいるのだ。ようするにチャンバラ小説クラスの想像力しかないのだ。戦争を体験し、いまはマイホーム父親になりすましている五十以上の男たちに、戦争って何だと訊ねてみるとよい。荷物ばかり背負うこと歩いてばかりいること……というような平凡
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