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オドエフスキー「4338年」第2の手紙

Vladimir Odoevsky: "The Year 4338: Petersburg Letters" (1835)
(Translated by John Kuti, 2013)

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第2の手紙

サンクトペテルブルク
4338年1月4日

ようやく、ロシア半球の中心、すなわち世界文明の中心にたどりついた。今、手紙を美しいビルから書いている。屋根にはホテルの名前「航空便到着者用ホテル」という巨大なクリスタルの文字が取り付けられている。こちらで、このようなものはどこにでもある。屋根全体がクリスタルになっている家や、クリスタルに覆われた白色タイルに所有者の名が色で書かれた屋根の、エレガントな家がある。夜になると、住宅の内側は照明されているので、輝く屋根の並びが、摩訶不思議な光景を形作る。北京の住宅とちがって、1階から行かなくても友人の家がわかる。飛行はとても静かだ。郵便飛行機械はすばらしいが、向かい風で常に遅延した。想像してみろ、ペキンからここまでたった8日間だ。すごち街だ。壮大で、巨大だ。上を飛べば、かつての神話の言う、ここにはかつて2つの都市があったことを信じられるだろう。そのひとつはモスクワと呼ばれ、もうひとつはペテルブルグと呼ばれた。伝説によれば、2つの街の間には、なにもない平原があった。この都市の一部はモスクワとして知られ、古代のクレムリンの荘厳な遺物のある。建築様式には特別なものがある。いずれにせよ、大きなニュースは期待しないでほしい。叔父がとても急いでいるので、他のものを見て回る暇がない。これだけは伝えておこう。ここでは空路は素晴らしく整備されている。夫忘れるところだった。ここから実質的には北半球に展開している蓄熱システムの始点を見るために、赤道までの短期飛行旅行をした。あれは驚くべきものだった。多くの世代の素晴らしい技術の成果だ。描写するなら、巨大な機械が熱を集め、蓄熱装置へと運ぶパイプに入れる。この偉大な国家の多くの都市のすべての蓄熱装置が、主蓄熱装置とつながっている。そして、個々の蓄熱装置から各ビルへや気密庭園へと温風が運ばれ、そのルートを流れる。このようにして、苛酷な気候のものとでも、寒さを感じることがない。ロシア人たちは、敵対的気象条件に対して、勝利を収めたのだ。ロシア人たちによれば、製造業者の地域社会は、街路を洗浄するために、寒気を直接にペキンに送ることを、我が国に提案している。しかし、しばらくのところ、その時間はない。誰もが、1年かそこいらで地球を破壊する彗星に対する仕事をしているからだ。まさしくそのための交渉のために、我々の皇帝が叔父をペテルブルグに派遣している。既に多くの外交交渉が行われている。まずもっての我々の任務は、脅威に地上で対処するためのすべての手段を超際することにある。そして第二に、彗星対策のための費用を分担する国家連合への中国の参加である。実際のところ、沈着冷静の限り、装置が機能した時について、こちらの科学者たちは冷静かつ自信を以って、彗星の地球落下を阻止できると主張している。あとは、彗星がどこに向かっているのか、事前に正確に知る必要がある。彼らは、望遠鏡で彗星が観測できる要因あれば、すぐに正確に計算できると保証している。次の手紙では、ここの政府が取ろうとしている彗星衝突阻止対策について書けるだろう。とても多くの知識と思考だ。ここの人々は驚くほどよく知っていて、さらに独創的である。

どこを見回してもわかるだろう。彗星対策の大胆な考えが大声で語られる、しかし、ここでは何であれ、同じくらい大規模だ。正直なところ、我が国が独自になしえた発展レベルについて、いささかうんざりしている。我々は若い国だが、ロシアは数千年の歴史がある。それだけが慰めだ。いろいろ考えると、偉大なるフン・ギン皇帝が500年前に生まれて、眠れる中国を覚醒させておらず、停滞させていたら、我々はどうなっていたかと思わざるを得ない。我々の古代の残滓と、子供じみた科学を一掃し、呪術を真の信仰に置き換えていなければ、そのようにして教養ある家族をもたらしていなかれば、我々はどうなっていただろう。求めるもののために、都市を競売に付し、我々のところに来て略奪していくような、野蛮な米国人と大して違わなかっただろう。我々は、それから防衛するために軍隊を維持しなければならなくなっている。我々中国人が空中旅行をするようになって二百年もなく、それも我々がロシア人に負けて、その技術を学んだ結果だというのは、考えるに怖ろしい。それはすべて中国人の偏狭さによるものだが、我々の詩人たちが、その偏屈さが誌的なものに見えるようだ。もちろん、我々中国人は反対側の極端に走っている。無分別な外国人の模倣だ。いまやなんでもロシア流だ。衣服も習慣も文学も。我々が身に着けていないのは、ロシア人の機転だ。しかし、いずれそれも身に着けるだろう。我々は遅れている。我々は名高き隣人より遅れている。なので、我々は若い間に学びに努めないといけない。まだ時間はある。次の電信発信で返事がほしい。

キミの父さんに、私が頼まれたとおり、最高の化学者の一人に、ここで最も歴史的な建物のいくつかのカメラ画像を作成するよう依頼したとを伝えてほしい。我々が「ロシア風の家」と呼んでいる家とは違うことに驚くだろう。



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訳メモ:

オルドエフスキーが4338年を執筆したのは1830〜1834年頃である。当時、米国は1776年の独立以降、1803年のルイジアナ買収を経て、西海岸までの現在の領土をおおよそ獲得した頃。米英戦争(1812-1815)を終えたものの、まだ米墨戦争(1846-1848)も南北戦争(1861-1865)の起きる前であり、まだ大国への基盤を整えつつある時代だった。

一方、当時の中国(清朝)はアヘン戦争(1840-1842)敗北前、大国とはみなされなくなる日清戦争(1894-1895)よりはるか以前。まだ清朝は「眠れる獅子」であり、その覚醒はこの作品では40世紀以降のようである。





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